ある日の女。.... 渋谷塔一

(04/10/10-04/10/29)


10月29日

Kremerland
Gidon Kremer/
Kremerata Baltica
DG/474 801-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG1215(国内盤)
「クレーメル・ランド」・・・・何とも楽しげなタイトルですね。とは言え、ここには、例のネズミが住んでいるわけではありません。クレーメルと楽しい仲間たち「クレメラータ・バルティカ」の新譜です。
名ヴァイオリニスト。ギドン・クレーメル。麺類が大好きだ(ウドン・カレーメン)というのはウソですが、昔は気難しくて恐そうなイメージばかりが先行。彼の演奏したどの曲からも、触れるのも憚られるほどの鋭さが感じられたものです。そう、まるでポリーニの弾くウェーベルンのように。しかし、最近のクレーメル(ポリーニ)の変わり方と言ったら・・・・。あの、ピアソラブームの先陣を切った、かの「ピアソラへのオマージュ」を聴く喜びは、すっかり肩の力が抜け切った、鼻歌交じりのポリーニのベートーヴェンを聴く喜びと全く共通のものがあるような気がします。
このクレメラータ・バルティカですが、クレーメルの50歳の誕生日を迎えた記念として、彼自身のために創設された、いわば「手足」のようなもの。自らの芸術上の経験と創作活動の体験を奏者たちに受け継がせ、また新たな創造的なエネルギーを喚起させたいとの願いがこめられているのです。そんな彼等たち、新しいレパートリーと演奏技術の開拓に意欲的。かく言う私も、以前リリースされた、「アフター・モーツァルト」で、シルヴェストロフという作曲家を知ることができたのも大きな喜びでした。
で、今回のアルバムです。この「クレーメルランド」を旅することにより、また聴き手は新たな世界を知ることができるのです。とは言え、冒頭に置かれたリストの「ダンテを読んで」。これは確かに目新しくはありませんが、この不思議な国を判りやすく説明する、いわば導入編として必要不可欠なものなのです。編曲(トランスプリクション)にかけては、並ぶ者がいないほど偉大なリスト。引用、拡大、縮小、当てこすり、などなど真面目な人がみたら眉をひそめかねない独特の語法を編み出した人といえますが、「クレーメルランド」に収録された他の曲は、このチャレンジ精神を見事に現代に生かしたものばかり。「これからどんな曲が聴こえてきても驚かないで下さいね〜」と宣言するにはふさわしいではありませんか。
さてさて、そんなわけで心の準備ができたところで聴いてみましょう。シシーク(1947〜)の「モーツァルトの主題による幻想変奏曲」。ジャズあり、サンバあり、現代音楽風の和声あり。ありとあらゆる様式を詰め込んだかのような24分の大曲です。ここで、おなじみの愛らしいピアノ・ソナタのメロディがどのように変貌しているか!を聞き取るのは、まさに、どこぞの「ジャングル・クルーズ」を味わうのと同じくらいの楽しさです。
タンゴ奏者クレーメルをおちょくる(?)ヴスティンの「タンゴ」での名人芸、そして、音楽会を冒涜する現代の悪しきツール「ケイタイ」をおちょくるバクシの「応えのない電話」など、挑戦的でもあり、また深く考えされられる数々の作品を聴くにつれ、不思議な気持ちで一杯になり、もう一度最初から聴き返す・・・ことを何度も繰り返してしまいました。
こんな作品がDGからリリースされたのはとても不思議ですが、録音だけをみると、1999年から2001年にかけてですので、恐らく以前のレーベルからは何かの事情で発売されず、アルバムごとDGに移ったのかも知れません。これも「架空の国」にふさわしい顛末といえましょう。

10月27日

TCHAIKOVSKY
Symphonies 4, 5 & 6
Valery Gergiev/
Wiener Philharmoniker
PHILIPS/475 631-5
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCP-1098/100(国内盤)
今月は音楽監督の小澤征爾と共に「ウィーン国立歌劇場」として来日、モーツァルトのオペラを演奏していたウィーン・フィルですが、来月にはゲルギエフと共に、コンサートのために来日するという、ファンにとっては夢のような日々が続きます。といっても、チケットが手に入るのはごく限られた人なのでしょうが。
その、ゲルギエフとの来日公演、メインはチャイコフスキーの後期の3つの交響曲、必ずどれか1曲はプログラムに入るという重要な扱いになっています。そこで、チケットが買えない人のために、ではありませんが、公演をより盛り上げるために、この3曲が収録されたアルバムが発売となりました。「5番」は1998年の録音ですでに出ていたものの再発ですが、「4番」は2002年、そして「6番」は2004年と、共に新録音です。すごいのは「6番」。実際に録音が行われたのは9月、つまり「先月」という、まさに「出来たてホヤホヤ」のCDなのですから。もちろん、宣伝活動はもっと以前から行われていたわけで、まだ実際に演奏も行われていないうちから、この時期に発売ということが大々的に知らされていたという、ものすごい展開でした。必ず製品として満足のいくものが出来るに違いない、という熱い確信がないことには、こんな「賭け」など怖くて出来ないことでしょう。というか、CDを出したくても出せないアーティストは山ほどいるという中で、録音する前から大々的に売り出してもらえることが約束されているのですから、これこそが「カリスマ指揮者」たる所以なのです。
ということで、期待と不安を一身に受けた形の「6番」ですが、さすがにかなりの高水準の仕上がりにはなっています。なによりも、最近のゲルギエフのクレバーさが良く伝わってくる演奏、感情のおもむくままにいたずらに盛り上げたりすることのない、いわば「醒めた」テイストが、実にはっきり分かる形で伝わってきます。ただ、その前に彼の「5番」を体験してしまっている私たちには、何か物足りないものが残るのも事実です。すでに高い評価を受けているこの「5番」は、改めて聴いてみるとやはりものすごい演奏です。すべてのメンバーが、心を一つにして同じものを目指しているという、まるで奇跡のようなことが実際に起こった現場に立ち会っている、という幸福感すら味わえることが出来るはずです。実際、これはザルツブルク音楽祭でのライブ録音、しかも放送用の音源ですから、基本的に編集は加えられていないはず、自然な流れがそのまま味わえます。この時がウィーン・フィルとのコンサートデビューのゲルギエフ、その意気込みは見事に形となったのです。「6番」の物足りなさは、それから数多くの共演を重ね、いくつもの名演を残したこのコンビだから、間違いなく良いものが出来るはずだという過信に由来しているのかもしれません。その意味では、「4番」も、何かオケと指揮者がしっくりいっていない居心地の悪さが終始感じられてしまいます。ちなみに、この2曲の新録、「ライブ録音」とはなっていますが、例によって数多くのテイクを貼り合わせていくというもの、その手法が自然な流れを妨げていないとは、誰にも言い切れません。

10月24日

BRUCKNER
Symphony No.IV/1(1874)
Dennis Russell Davies/
Bruckner Orchester Linz
ARTE NOVA/82876 60488 2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCE-38077(国内盤)
ブルックナーの交響曲第4番、いわゆる「ロマンティック」の新しい録音です。ここでは、非常に珍しい「第1稿」が採用されています。最近では「ウォーター・ボーイズもどき」で有名ですね(それは「仙台一高」・・・地域ネタですみません)。それはともかく、異稿フェチのブルックナーですが、交響曲第4番の場合だと、ノヴァーク版では「IV/1」、「IV/2」、「zuIV/2」の3種類のものが出版されています。ここで、彼の4番の「遍歴」をおさらいしてみますと、1874年に作られたのが「第1稿」、つまり「IV/1」、しかし、その出来に満足できなかった作曲家は1878年までに「第2稿」として、大幅な改訂を行います。特に第3楽章は、テーマも別のものになり、全く新しい曲になってしまいました。さらに、第4楽章だけは1880年に新たな改訂を行います。つまり、1878年に作られた第1〜第3楽章と、1880年に作られた第4楽章を合体させたものが、今で言う「第2稿」、つまり「IV/2」になるわけです(「1878/80年版」と言われています)。そして、1878年に作られた第4楽章だけは、別個に「zuIV/2」として出版されました(この録音も、2種類ほど出ていますね)。
現在、コンサートや録音では、殆ど「第2稿」が使われています。そもそも「第1稿」が出版されたのが1975年なのですから、もはやすっかり標準となっていた「第2稿」に食い入るには難しい面もあったのでしょうが、それ以上にこの「第1稿」には、演奏が非常に困難だという現実的な弱点もあるのです。例えば、第4楽章では1小節の中に音を5つ均等に収めるという「5連符」が多用されているのですが、他のパートが4拍子で演奏している中で、第1ヴァイオリンだけがこの5連符を延々と引き続けるというのは、かなり過酷なものがあります。そして、曲の最後では、弦楽器が4拍子なのに管楽器は5連符、その間を縫ってトランペットが復付点八分音符(つまり、三十二分音符の引っかけ)を演奏するというとんでもない「ポリリズム」が出現します。これをきちんと楽譜通りに再現するのは、殆ど不可能に近いものがあるはずです。現在90種類以上あるとされているこの「4番」の録音の中で、「第1稿」を採用しているものはわずか5種類しかないという現状は、このあたりの難関が反映されているのかもしれません。
今回、果敢にもこの「第1稿」に挑戦してくれたのは、この作曲家の名前を冠したリンツ・ブルックナー管でした。その名に恥じず、ブルックナーの作品については、すべての異稿を平等に扱うという伝統を持っているということで、この録音が実現したのでしょう。指揮は、このオーケストラの首席指揮者、デニス・ラッセル・デイヴィスです。彼は現代曲のオーソリティとしても知られていますが、同じく現代曲に定評のあるミヒャエル・ギーレンが、この稿の理想的とも言える演奏を残しているだけに、期待は高まります。
しかし、この、ジャケ写を掲載するのもはばかれるキモい風貌の指揮者は、そのギーレンほどはオーケストラを御する力はありませんでした。第2楽章での、普通の人のほぼ倍のテンポで始めるという前衛的な試みも、次第に普通のテンポに落ちていってしまうというだらしなさですし、期待された第4楽章もやっと5連符を合わせているとしか聞こえない生ぬるさ、ギーレンが放っていた鮮烈さなど、かけらも見あたりません。第2稿を聴き慣れた耳には、新鮮な驚きが随所に満ちているこの第1稿、しかし、このデイヴィスの演奏によってこれが本来のものであるかのような印象を持たれてしまうのは、非常に心外なものがあります。

10月22日

SCHUMANN
Lieder
Christian Gerhaher(Bar)
Gerold Huber(Pf)
RCA/82876 58995 2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCC-34114(国内盤)
近頃は不況と言われてますが、相変わらずCDのリリースは多く、特に歌物の充実ぶりには、まさに目を見張る思い。先日はゲルネのシューマンを大絶賛したばかりの私、今回のゲルハーエルについては、一体どうしたものか・・・と嬉しい悲鳴をあげていたりします。
さて、歌手の声域、つまりテノールとかバリトンというのは、とりあえず便宜上分けているだけのものなので、同じバリトンといえど、実際に聴くとかなりの違いがあるのは当たり前。そこで、よく言われるのが「軽い声」「重い声」。でも、これもちょっと違うんだよな。なんて考えてしまいます。まるで虹の色の境目のように、はっきりと区分けはできないのです。ゲルネの声が「低くて透明感があって、艶のある黒」ならば、このゲルハーエルの声は「高めで張りのある、渋い茶色」とでも言いましょうか。御存知の通り、彼はシューベルトの歌曲集で非常に高い評価を受けています。特に「冬の旅」。ここでの表現力の豊かさは今までにないものとされ、シューベルトの歌曲の新しい形とまで賞賛されました。
さて、「詩人の恋」です。恐らく、全ての声楽家が一度は歌いたいと願うはずの永遠の名作です。高齢者の恋愛を歌った曲(それは「ジジイの恋」)、ではなく、ハインリヒ・ハイネの詩集「叙情的間奏」から選んだ16編の詩に付けられた、いかにもシューマンそのものの苦悩と愛に満ちた音楽。例えば、第1曲目の「美しき五月に」。このたった1分半の短い音楽の中に、どれほどのシューマンらしさが詰まっていることでしょう!あちこちに張り巡らされた仕掛けを一つ一つ丁寧に紐解き、その奥に隠された真実を曝け出す。それは、シューマンの作品に接する時の難しさであり、また限りない喜びでもあるはずです。
そんなシューマンの作品に対し、ゲルハーエルはとても素直に向き合います。あえて小技を効かせることもなく、どの曲も丁寧に歌い本質を極めるかのよう。このやり方は「夢」や「希望」を歌った曲では、本当に目覚しい効果を上げています。しかし、「苦悩」を歌った曲、例えば第6曲の重々しい「ラインの聖なる流れの」や、第8曲「花がわかってくれるなら」などの震えるような不安な心を歌う曲については、少々もどかしさが残る気がします。もう少しぞくぞくするような恐ろしさがあって欲しい。ただ、「不安の正体」がおぼろげながら掴めるようになったら、既に若者の状態を卒業しているとも言えますから、これはこれで良いのかも。良き共演者、ゲロルト・フーバーのピアノの活躍ぶりも見事です。ピアノパートの書法の違いもありますが、シューベルトの時よりも雄弁で、支えつつも、時としてぶつかり合い、完全に歌とは別の世界を創り上げているのが見事です。
これから更なる活躍が期待されるゲルハーエル、どのような変遷を辿るか楽しみです。

10月20日

IBERT,NIELSEN,RODRIGO
Flute Concertos
瀬尾和紀(Fl)
Patrick Gallois/
Sinfonia Finlandia Jyväskylä
ワーナーミュージック・ジャパン/WPCS-11792
現在、世界的な舞台で演奏活動を行っている日本人の若手フルーティストの中では、飛び抜けて卓越したテクニックと、大きな表現力を持っている瀬尾和紀の、3年ぶりのアルバムです。前作は「Erato」という名門レーベルでリリースされたものですが、その後の世界のCD業界の変貌というか混乱ぶりには、私などには殆どついて行けないほどのものがあります。この「Erato」も、現在では新しい録音は全く行われていない、もはや「死んだ」レーベルとなってしまっているのです。今回の瀬尾さんの新録も、録音はフィンランドの「FINLANDIA」というレーベルで行われたものなのですが、ご覧のようにその親会社のワーナーから発売という形になっています。
このジャケットで、コシノ・ジュンコの腰の下まで丈のあるステージ衣装に身を包んだ瀬尾さんの横に立っているのは、あの、かつてのアイドルフルーティスト、パトリック・ガロワです。瀬尾さんの師匠であるガロワは最近は「指揮者」としても活動の場を広げています。そのガロワが音楽監督として招聘されたのが、ここで演奏している「シンフォニア・フィンランディア・ユヴァスキュラ」。実は、このCDと同じメンバーは、今年の12月に来日して、全国を回るのですが、ガロワはそこでの瀬尾さんのコンチェルトのバックだけではなく、モーツァルトやベートーヴェン(!)の交響曲も指揮、本格的な「指揮者」として、日本の聴衆の前にお目見えすることになっているのです。
今回のアルバム、そのガロワが、自身が今までレパートリーにしてきたフルート協奏曲のバックを務めているという点で、興味は尽きません。そして、期待通り、ここでは単なるソロのバックに終わっていない、雄弁きわまりないオーケストラを聴くことが出来ます。例えばイベールの第2楽章、瀬尾さんのフルートにからみつくように熱く歌い上げるオーケストラは、まさに熟れて木から落ちる一歩手前の果実のような、芳醇な味を聴かせてくれています。フルートを吹く人以外にはあまり馴染みのないニールセンの協奏曲でも、今までにあった録音ではあまり感じることの出来なかった曲としての充実度を、このコンビは醸し出していました。このアルバムが録音されたのはフィンランド、そしてもちろんオーケストラもフィンランドのもの。同じ北欧圏のデンマークの作曲家ニールセンとは、深いところでつながっているものがあったのでしょうか。そして、充実度という点では、ロドリーゴの超難曲「パストラル協奏曲」を、これほど完璧に吹ききったソリストは、初演者ゴールウェイの他には知りません。いや、もしかしたら、この瀬尾さんの演奏はそのゴールウェイのものさえ凌駕しているかもしれませんよ。冒頭の、果てしなく続く高音の音列の見事さを聴くにつけ、その感は深まります。そして、第2楽章の、まさに瀬尾さんでなければなしえないような、独特の「歌」。なんでも、この曲を取り上げるのは今回が初めてだとか。なまじレパートリーとしての「丸み」がついていない分、鮮烈な表現はストレートに伝わってきます。

10月18日

Amor
R. STRAUSS
Opera Scenes & Lieder
Nathalie Dessay(Sop)
Antonio Pappano/
Orchestra of the Royal Opera House, Covent Garden
VIRGIN/545705 2
「もし、〜たら・・・」と想像するのはとても楽しいことです。それは日常生活のことでもいいですね。例えば、もし、こっそり買った宝くじが1等に当選しちゃって4億円が転がり込んできたら・・・・う〜ん。これは月並みです。ここは、「おやぢの部屋」らしく、「もし、大作曲家が現代に生きていたら・・・・」なんて考えてみましょうか。
で、そこでR・シュトラウスです。流行に敏感な彼ですから、いろいろな分野で活躍しているに違いありません。指揮もするし、作曲もするし、映画音楽なんかも書いているかもしれません。そうそう、著作権に厳しい彼のこと、いつぞやの(もう過去のもの)CCCD問題や、輸入盤問題などについてのコメントを聞きたいものです。もちろんiPodについても何か言及していることでしょう。その件について、歌曲集なども書いているかもしれません。そして、ソプラノ好きだった彼のことですから、グルベローヴァやデセイのためにも歌曲やアリアを作曲しているでしょう。しかし、グルベローヴァとは気が合いそうだけど、デセイは気難しそうだから、シュトラウスは苦労するだろうな。なんて、本当に想像はとめどもなく広がります。
そんな想像を喚起したのが、このデセイの新アルバムです。R・シュトラウスの歌曲とアリア集ですが、これが本当に素晴らしい。御存知の通り、デセイは「ナクソス島のアリアドネ」のツェルビネッタを当たり役としていて、今回のリブレットにも、彼女のキュートなツェルビネッタ姿が3ヴァージョン掲載されています。もちろん、アルバムの冒頭には「偉大なる女王様」。シノーポリの全曲盤の時よりもさらに熟した感のある、コケティッシュな歌にため息をついてしまいます。最近話題の、グルベローヴァ、82年ウィーンライヴの同曲と比べると、彼女の声の資質がよく判るのも面白いところでした。グルベローヴァのひたすら開放的で張りのある高音に比べ、デセイの声は、まさにガラスの破片のような脆さを内包しているように思います。気位の高そうなデセイに比べると、グルベローヴァは関西系のおばちゃんのノリに聴こえるのです。(これは、どちらがいいとかの問題ではありません)
そして、まさに彼女のために書かれたかのような「ブレンターノ歌曲集」。これは、完璧なコロラトゥーラの技術が求められる曲集で、至るところでツェルビネッタのくすくす笑いの声が聞こえてくるような錯覚すら覚えます。そよ風のような「アモール」(愛の神なんて訳さないでほしいです・・・)、「私は花束を編みたかった」など、デセイの声を得てこそ、輝く歌ばかり。
そして、豪華なゲストを迎えた「アラベッラ」と「ばらの騎士」の情景。これについて語るスペースがなくなりましたが、私が注目しているメゾのコッホが歌っていたりと、とにかくすごい仕上がりです。もし、このキャストで全曲が上演されたら、なんと凄いことでせい

10月16日

RIHM,SCIARRINO,MOODY,METCALF
Choral Works
Singer Pur
The Hilliard Ensemble
OEHMS/OC 354
私にとっては初めて聞く名前、ドイツの団体ですから「ジンガー・プア」と発音するのでしょうが、それだと貧乏くさいロボットみたいですね(「マジンガー・プアー」って)。それよりも、ジャケットの印刷で、共演しているヒリアード・アンサンブルのスペルのミスプリントのほうが気になります。
「レーゲンスブルク大聖堂合唱団」という、数多くの録音を残している有名な少年合唱団がありますが、ここの5人のOBによって1991年に結成されたヴォーカルアンサンブルが、この「ジンガー・プア」です。ただ、トレブルパートはカウンターテナーではなく、普通の女声が担当しているのが、ユニークというか、安直、というか、評価の分かれるところでしょう。というのも、このアルバムで参加しているソプラノの方は、完璧にアンサンブルに溶け込まない「目立つ」声をしているからです。そういうサウンド・ポリシーなのかもしれませんが、ちょっと私にはなじめない響きでした。
この団体は、ルネッサンスのポリフォニーからジャズとのコラボレーションまで、幅広いレパートリーを誇っていますが、特に現代の作曲家に委嘱して、新しい曲を世に送るということを積極的に行っています。そんな成果が現れたのがこのアルバム、ヴォルフガング・リーム(ドイツ)、サルヴァトーレ・シャリーノ(イタリア)、イヴァン・ムーディ(イギリス)、ジョーン・メトカーフ(アメリカ)という、4カ国の中堅作曲家の新作を聴くことが出来ます。別に意図したわけではないのでしょうが、ここにはまさにそれぞれのお国柄がものの見事に現れていて、とても興味深い仕上りになりました。
しかし、ドイツ人のリームを最初に持ってきたのは、ちょっと構成上は問題があるかもしれません。前に「ルカ受難曲」の時に書いたように、彼の持つ、伝統を継承しているかにみえて、実は完全に行き詰まっている様式は、聴いていて辛くなるばかり、辛抱の足りないリスナーは、この時点でこのアルバムを見捨てることでしょう。しかし、次のシャリアーノまでたどり着けば、このイタリア人は古来からこの国の音楽家が持っている感覚的な美しさをきちんと継承していることに気付かされて、安心できます。古くからの「レスポンソリウム」という形にのっとって、プレーン・チャントに応える単旋律の「応唱」の、なんと魅力的なことでしょう。微分音やグリッサンドを駆使したその不思議な旋律からは、何か普遍的な音楽の喜びを感じることが出来ます。
「合唱」という見地からは、イギリスのムーディの作品が最も共感が得られるものではないでしょうか。ホモフォニックな「ハモり」を重視した、この国の多くの「癒し系」にも通じる心地よさがあります。そして、アメリカ人のメトカーフの作品には、伝統に縛られない自由な発想が見られます。ここではヒリアード・アンサンブルが参加、しかし、全員がいっしょに歌うのは最後の曲だけ、という、一見無駄な構成も、曲全体の多様性を産むための工夫なのでしょう。

10月14日

DEBUSSY,FAURÉ,POULENC
Ian Bostridge(Ten)
Julius Drake(Pf)
Belcea Quartet
EMI/557609 2
少し前、ボストリッジの「冬の旅」を入手したのですが、結局のところ、このページで紹介するには至りませんでした。元々私は自他ともに認める彼のファンなのですが、だからこそ、あの「冬の旅」は私の手に負えなかったことを白状いたしましょう。もちろん、それはいつものボストリッジのように、素晴らしい歌声でした。あの独特の高音、そして細やかな表現。脆さと強靭さを兼ね備えた不思議な声。いつもの彼らしく、極めて個性的な「冬の旅」。そして、シューベルト作品ではおなじみのパートナー、アンスネスのピアノも最高。本当に説得力ある冬の風景・・・なのですが、どうしても私は馴染めなかったのです。
そう言えば、先日来日した際、かの内田光子との共演でこの「冬の旅」を歌い、その模様はテレビでも放送されたので、彼がどのようにこの曲に向き合ったかを御存知の人も多いと思います。まるで独り芝居のような、オーヴァーアクションを伴う歌唱は、やはり賛否両論を巻き起こしたようですね。私はどちらかと言うと、この曲に関しては禁欲的な表現を求めるタイプ。本当に上質な酒には何も混ぜ物をしないように、この曲は丁寧に歌ってくれるだけでいい。と考えています。だからこそ、今の時点ではボストリッジの歌の過剰とも思える感情表現は「上手いけどくどい」としか思えませんでした。
しかし、今回のフランス歌曲はまた別です。ドビュッシー、フォーレ、プーランクという、まさにフランスを代表する歌曲たち。「冬の旅」が強いお酒ならば、こちらは海洋深層水であったり、清冽な湧き水であったり。まさに柔軟な解釈を求めたい作品といえましょう。ここでは、それにボストリッジの特質が見事にマッチしていたのです。
もちろん一番感心したのがプーランク。何しろ、一筋縄ではいかない曲ばかりです。もちろん、ただ楽譜どおりに歌ったのでは全く面白くないといっても間違いないでしょう。究極のエスプリとでも言いましょうか。ボストリッジはそんなプーランクの持つ多面的な音楽性をこれでもかとばかりに強調して聴かせてくれます。そして、白眉はフォーレの「優しき歌」。この曲はフォーレの作風の変化が手にとるようにわかる曲で、中期から後期、そう、あの七色の和声への橋渡しのような音に彩られた作品です。彼が選択したのは、弦楽合奏とピアノによる伴奏版。第1曲目「後光に包まれた聖女さま」の冒頭の柔らかな響きは、およそピアノだけでは得られない美しいものです。そして、もちろんボストリッジの柔らかな声!フランス語の発音がちょっとだけ硬いような気もしますが、それを補って余りあるほどの柔軟な響きは、聴き手を陶然とさせることが当然であるかのような振る舞いを見せています。
歌い手が歌を選ぶより、歌が歌い手を選ぶのかもしれない・・・と思った瞬間でした。

10月12日

The Art of the Hilliard Ensemble
Paul Hillier/
The Hilliard Ensemble
CENTO/CHIL-1001-04
CDというものは、それを製作したメーカーが販売するものだ、という常識は、現実にはかなり崩れてきているのではないでしょうか。最近では販売店が企画をして、メーカーに作らせるというケースも良く見られます。以前から新星堂とか山野楽器などがそういうことをやっていましたが、今回、この2店にタワーレコードが加わった3社による合同のレーベル「Cento Classics」というものが立ち上げられました。これは、EMIに眠っている知られざる音源を掘り起こそうという企画なのだそうですが、その第1弾のリリースとなったものが、この「ザ・ヒリヤード・アンサンブルの芸術」です。
元の録音は、1980年代の中頃、ドイツのEMIELECTROLAの古楽レーベル「REFLEXE」から出たものです。1974年に結成され、現在でも幅広い分野で活躍を続けているこのヴォーカル・アンサンブルの、まさに絶頂期の録音、国内盤CDも殆ど同時期にほぼすべてのものが発売になって、日本の合唱や古楽のフィールドに大きな衝撃を与えたのはまだ記憶に新しいところです。最近でも、輸入盤でこの「REFLEXE」シリーズがまとめて廉価版で発売されたばかりなので、別に入手が難しい訳ではないのですが、「ぜひ国内盤(もちろん、最初に出たものは現在はすべて廃盤になっています)で、解説が付いているものが欲しい」という要望に応えて、厳選された4アイテム(ダンスタブル、デュファイ、オケゲム、ジョスカン)をセットで発売したということです。確かに、初出の国内盤には詳細な解説が付いていましたから、それを復刻するだけでも充分価値のある仕事には違いありません。しかも、今回の「解説」は、わざわざこのために新たに書き下ろされたというではありませんか。やはり、古いものをそのまま使わず、新規に発注するというあたりが、ひとつのこだわりなのでしょう。と思いつつ、新旧の解説を比べてみました。4枚のうち3枚は、今回新たに「書き下ろした」今谷さんという方が初出盤でも執筆しているのですが、これが、多少最近の研究成果が反映されてはいるものの、基本的には「丸写し」でした。ですから、オリジナルは1枚目のダンスタブルだけということになるのですが、これも初出の佐々木さんという方が書かれた解説のほうが、特に、歌詞の対訳については数段魅力的なものなのです。最初のものを一部修正して再掲すれば済むものを、なぜこんな無駄なことをしたのか、もしかしたら東芝EMIの手元には、初出の時の原稿が残っていないのではないか、などという的はずれな疑問もわいてしまいます。そういえば、このダンスタブルのアルバムを「初CD化」と勘違いして、堂々と雑誌の対談や広告のコピーで披露していた担当者がいたというのも、メーカー自体が自社で発売した製品についての知識に欠けていれば、納得できることではありますが。
しかし、この20年間のマスタリングの技術の進歩は著しいものがあります。このアルバムも、初出盤に比べたら全く見違えるようなみずみずしい音に生まれ変わっていました。永年、ヒリヤードの音は少し硬質だと思っていたのは(確かに硬い玉・・・それは「ビリヤード」)、実はマスタリングのせいだと分かっただけでも、わざわざ買い直しただけのことはあります。しかし、今回明らかになったメーカーの自社製品に対する愛着のなさには、ちょっと考えさせられてしまいます。

10月10日

BIZET
L'Arlésienne
STRAUSS
Le Bourgeois Gentilhomme
Christopher Hogwood/
Kammerorchesterbasel
ARTE NOVA/82876 61103-2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCE-38081(国内盤)
最近、名演奏家のメジャーレーベル離れがどんどん進んでいます。自分でレーベルを立ち上げたり、マイナーレーベルと契約を結んだり。思わぬところで、大物の名前を見つけたりするのも楽しみになりました。で、以前「ホグウッドがARTE NOVAからCDを出す」と聴いた時は本当にびっくりしました。内容は「バーゼル室内管と20世紀の音楽を録音していく」というもの。なんと意欲的なシリーズなんだろう!と思わず感激したものでした。最初のシリーズは「擬古典派の作品」として4枚制作され、オネゲルやストラビンスキー、カセッラ、マリピエロなどの珍しい曲を収録。国内盤としてもリリース、手頃な値段もあってか、かなりの人気作となりました。そもそもバーゼル室内管というのは、1926年に創立されたスイスのオーケストラ。製薬系財閥の令嬢と結婚した音楽好きのパウル・ザッハーが、その財力に物を言わせ設立したオーケストラで、もちろん自らが指揮者として君臨。当時活躍中の若手作曲家に作品を依頼し、初演したのです。何とも羨ましい話ですね・・・・
そんなホグウッド&バーゼル室内管の新シリーズは、「劇場のための音楽集」ですと。第1作は、ビゼーの「アルルの女」とR・シュトラウスの「町人貴族」の2曲入り。もちろん私はシュトラウス狙いで、この「町人貴族」とても楽しませていただきました。この曲の成立の背景などについてはご存じの方もいらっしゃることでしょう。行き付けのCD屋さんのオペラのコーナーに、さりげなくサヴァリッシュの「ナクソス島のアリアドネ」と、このCDが並べて置いてあったのには思わずにんまりさせられてしまいました。恐らくわざとコメントをつけてなかったのでしょうね。演奏はとにかく楽しいもの、なかでも、最初から最後まで大活躍するピアノを演奏しているのは、この楽団唯一の日本人。驚く程の名演です。
そして、ホグウッドにとって2度目の録音になるビゼーは、通常聴かれる「組曲」ではなく、オリジナルの舞台音楽版からの抜粋。だからどんなに耳をすましても、あの、「フルートとハープによるメヌエット」は聴こえてきません。(あれは、もともと「美しきパースの娘」からの曲)とにかく溌剌とした演奏で、まさに生きた舞台が目に浮かぶようです。ここでの注目したいのは、サックスの音色です。アドルフ・サックスが特許をとったのは1845年という新しい楽器ですから、オリジナルのスコアに登場するのもそれ以降、ビゼーやラヴェルからですね。現在ではジャズや吹奏楽のイメージの強いサックスですが、ホグウッドは、この楽器の音色が「キャバレー風」になるのがイヤだったそうで、セッカクだからと、この録音ではミヒャエル・ニーゼマン制作の19世紀もののピリオド楽器が使われています。鄙びた音色がとても魅力的です。
こんな中身の濃い演奏がぎっしり詰まって、1枚およそ800円。これは確かにすばらしい!

おとといのおやぢに会える、か。


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