ヘルシー温麺。.... 渋谷塔一

(04/9/19-04/10/8)


10月8日

BRUCKNER
Symphony No.7
Philippe Herreweghe/
Orchestre des Champs-Élysées
HARMONIA MUNDI/HMC 901857
この間、テレビでN響の放送がありました。人気のさるイタリア人長老指揮者が、ドヴォルジャークの「新世界」を演奏していたのですが、これがとても面白いものでした。この曲には付きもののちょっと垢抜けない民族性などはすっかり消えていて、その代わりそこにあったのは底抜けに明るい「イタリアン」の世界だったのです。終楽章のトランペットのファンファーレも、まるでニニ・ロッソのような軽やかさ、ドヴォルジャークを聴いてこれだけ爽やかな気持ちになれたなんて、初めての経験でした。
今回、ヘレヴェッヘとシャンゼリゼ管という、ヘント生まれのベルギー人の指揮者と、殆どがフランス人のメンバーからなるオーケストラの組み合わせによる「ブル7」を聴いた時も、それと同じような感覚がわき起こってきました。以前、「ブルックナーは、圧倒的にドイツ圏の人による演奏が多い」と書きましたが、そんなドイツ人によって確固たるイメージが出来てしまっているこの曲に、ヘレヴェッヘたちはいとも爽やかな風を送り込んでくれていたのです。
第1楽章の冒頭の、いわゆる「ブルックナー開始」では、良くある、「どんよりと立ちこめる霧」といったイメージは全くありません。そこで広がったものは、まるで朝日の中で煌めく小川の水面のような、あちこちにキラキラ輝くものがちりばめられた光景でした。その中で歌われるテーマは、一時たりともその場に留まろうとはしない、ひたすら流れるような小気味よい時間軸に支配されています。こういったヘレヴェッヘの美意識は、オーケストラのすべてのパートに反映されています。金管楽器でさえ、どんなに強く吹かれても威圧感など全く感じられない良く溶け合う柔らかさに統一されているのですから。ご存じのように、このオーケストラはオリジナル楽器を使用しています。そのガット弦による弦楽器の美しさといったら、思わず「ガッツ!」と叫びたくなるほど。
このテイストがもっとも心を打つのは、第2楽章のようなゆっくりした部分でしょう。ワーグナー・チューバのコラールに続く弦楽器の「ミ・ファ#・ソ#」というフレーズ、楽譜にはすべての音に強力なアクセント記号が付けられていますが、彼らはそんなとげとげしさを忌み嫌うように、この部分から流れるようなカンタービレを届けてくれていました。第3楽章のトリオも同じこと、そこにあるのはひたすら透明な響きに支えられた極上の「歌」だったです。そして、第4楽章の付点音符のテーマには、まるで羽が生えているよう。たとえ、それがすべての楽器によるユニゾンになろうとも、その軽やかなキャラクターが損なわれることは決してありません。
最初に書いたイタリア人による「明るい」ドヴォルジャークのように、ここではドイツ人による重厚なブルックナーとはひと味違った爽やかなブルックナーを聴くことが出来ます。それをなしえたのは、自分達の固有の文化圏に誇りと自信を持っている演奏家の力でした。既存の伝統を絶対視して、ひたすらその伝統のクローンとなることに腐心しているどこぞの国の演奏家には、こんな素敵なことなんかできっこありません。

10月6日

FRANCK,WIDOR,STRAUSS
Works for Flute
Emmanuel Pahud(Fl)
Eric Le Sage(Pf)
EMI/557813 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55676(国内盤 1027日発売予定)
ご存じ、ベルリン・フィルの首席フルート奏者のエマニュエル・パユですが、11月のオーケストラの来日に合わせて、日本全国でリサイタルを開催することになっています。というか、実は彼だけはすでに10月に日本にやってきて、丸々2ヶ月にわたって、北は北海道から南は九州まで、まさに「日本縦断ツアー」を敢行するというのですから、全国のパユファンにはたまらないことでしょう。イチゴ味ですし(それは「ジャムパン」)。10月はピアノのル・サージュ、11月はハープの安楽真理子と、パートナーが変わりますので、2種類のパユの味が楽しめるのも魅力です。安楽さんとは、すでにリサイタルとほぼ同じ曲目を収録したBeau Soirというアルバムを出していましたが、今回リリースされたのはピアノ伴奏のリサイタルで取り上げられている作品を中心にしたアルバムです。コンサートの「予習」として、またとない贈り物となることでしょう。
というのも、今回のリサイタルの曲目では、デュティユーとかプーランクなどの定番のレパートリーに混ざって、「リヒャルト・シュトラウス」や「ブラームス」といった、ちょっと耳慣れない作曲家の「フルートソナタ」が取り上げられているからなのです。もちろん、この二人の偉大なドイツの作曲家は、生前フルートのためのソナタを残すことはありませんでしたから、これらは別の楽器、シュトラウスはヴァイオリン、ブラームスはクラリネットのために作られたソナタをフルート用に編曲したものです。生憎、ブラームスは収録されては居ませんが、まずは、おそらくフルートで録音されたのは初めてになるであろうシュトラウスのヴァイオリン・ソナタを聴いてみましょう。
この曲は、シュトラウスが18歳の時の作品、殆ど習作といっても構わないものです。しかし、その中に込められた溌剌とした楽想には、まさに彼の後年の作品に見られるものと同じセンスが感じられます。パユがこの曲で描きたかったのは、まさにそのセンス、おそらくヴァイオリンであったらこれほどの変化は出せないだろうとさえ思わせられる、絶妙の音色のコントロールによって、後期ロマン派の華麗な薫りを伝えることに成功しています。
フランクのソナタも、やはり原曲はヴァイオリンのためのものです。ただ、この曲の場合はすでに多くのフルーティストが取り上げていますから、もはや、殆どフルートのためのレパートリーとして定着した感があります。しかし、パユが目指したのは、並み居るフルーティストが行ってきたような、フルートによるヴァイオリンの模倣では決してありませんでした。例えば、第3楽章の冒頭のレシタティーヴォ、フレーズの最後の高音がとてつもないピアニシモで聞こえてきた時、私たちはそこにヴァイオリンはもちろん、フルートさえも超越した澄み切った世界を感じるのです。
ヴィドールの「組曲」は、フルートのオリジナル。このフィナーレで味わえる爽快感こそが、「フルーティスト」パユの真骨頂ではないでしょうか。他の曲で見られるあまりに禁欲的なたたずまいに対する欲求不満も、これを聴くことによって少しは解消されることでしょう。

10月4日

TCHAIKOVSKY,KORNGOLD
Violin Concertos
Anne-Sophie Mutter(Vn)
André Previn/
Wiener Philharmoniker
London Symphony Orchestra
DG/474 515-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1206(国内盤)
「クラシックは不振である」などの言葉をよそに、大型CD店では、殆ど毎日何かしらの新譜が入荷するようです。確かに国内盤のリリースは限られていますが、世界各国から押し寄せる輸入盤の種類の多さは想像を絶するもの。もし、全部聴いていたら、恐らく一日が100時間あっても足りないでしょう。これが、「仕事で聴く」評論家や、CD店のStaffならば、まず「話題になりそうな盤」から手をつけるのでしょうが、ここ「おやぢの部屋」はあくまでも趣味のページ。同曲異演を聴いて、違いを洗い出すなどという作業は、「仕事で聴く人にお任せ」して、どちらかというと、誰も取り上げないようなアイテム(これは書き手の趣味の問題)ばかりに偏っていても文句は出ますまい。
だから、このムターのチャイコフスキーを手に取った時も、原稿にするつもりなどはさらさら無く、「ああ、ムターね。とりあえず聴いてみるか。トーストにも合うし(それはバター)。」くらいの気持ちでした。御存知の通り、ムターとプレヴィンはれっきとした夫婦です。前作はプレヴィンの自作。あつあつぶりが伝わるほのぼのとした佳演でした。もちろん、今回の指揮もプレヴィン。2人の甘く熱い世界が詰まっているのか・・・。なんて、ほんとに軽いノリで聴きだしたのです。
ところが、実際の音を聴いた途端、そんな軽々しい気持ちは一瞬にして吹っ飛んでしまいました。ウィーン・フィルのふくよかな音色に彩られた前奏に続く、ムターのソロ。これが実に妖艶で美しいのです。奔放でもあり、甘えているようでもあり。もちろん音色の美しいこと!確固たる信頼感に裏づけされた伸びやかな歌に耳が釘付けになりました。今までに何度も聴いているはずのこの曲なのに・・・と苦笑いしながらも、第1主題だけでも何度も聴きなおしてしまったほどです。ただし、中間部のオケの間奏(いかにもスラヴ的な熱い音楽)のリズムの刻みの甘さは、ウィーン・フィルの美点というか、欠点というか・・・。
で、カップリングがコルンゴルトというのにも泣かせるじゃありませんか。御存知の通り、プレヴィンとコルンゴルトは切っても切れない関係です。この曲が選ばれたのも、ある意味当然というか、彼にとっては、「理想的なヴァイオリニスト」を得ての渾身の録音となるわけです。これがまた絶品でした。この作品、コルンゴルトがアメリカに渡ってからのハリウッドで為し得た仕事と、彼の真の理想であった世紀末のウィーンの音とが融合したような、まさに彼の創作における総決算と言えるもの。時代に逆行した濃厚なロマンティシズムに支配されすぎて、流行歌の一歩手前で留まっているような曲です。チャップリンのライムライトを思わせるような、泣きのツボをくすぐるメロディが満載。危うく時代の波に飲み込まれてしまうところだったこの曲は、かのハイフェッツがLIVING STEREOに名演を遺してくれたおかげで、不滅の名作の地位を勝ち得ることができました。最近のコルンゴルト、いや、彼一人にとどまらない「頽廃音楽」の復興の動きに伴い、この曲を演奏するヴァイオリニストも増えましたが、このプレヴィン&ムター盤は、ハイフェッツとは全く違う新しいコルンゴルト像を構築したといえるでしょう。

10月1日

BEETHOVEN
Piano Concertos Nos. 2&3
Martha Argerich(Pf)
Claudio Abbado/
Mahler Chamber Orchestra
DG/477 5026
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1200(国内盤)
ルネサンス期に「フェラーラ公国」の要として、文化的な隆盛を極めたイタリア中部の都市フェラーラには、15世紀に起源を持つ「テアトロ・コムナーレ」という研究室みたいな名前のオペラハウスがあります(それは「ゼミナール」)。アルゲリッチの「初録音」となるベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番の録音は、ロッシーニやプッチーニの作品の初演の舞台でもあるこの由緒あるオペラハウスで行われました。バックを務めるのは、「旧友」アバド率いるマーラー・チェンバー・オーケストラです。ジャケットに写っている仲むつまじい二人の後にみえるのが、この劇場の馬蹄形の客席、伝統的なバルコニーのボックス席の様子がよく分かります。2004年の2月、アバドとMCOは「コジ・ファン・トゥッテ」を上演するためにフェラーラにやってきたのですが、その合間を縫ってアルゲリッチとのリハーサル、そして本番のコンサートが行われ、それがライブ録音されたという訳です(そういえば、この写真でピアノの上に乗っているのは、「コジ」のスコアではないでしょうか)。もちろん、すべてのリハーサルも録音されていて、そのテイクを用いて適宜編集の手は加わっていますから、ライブの熱気を伝えつつ、ミスは注意深く取り除くという、昨今のレコーディングの「魔術」は健在です。
オペラハウスでの聴衆を前にしたから、というわけでもないのでしょうが、ここで私たちが初めて耳にしたアルゲリッチの「3番」は、とことんドラマティックな仕上がりになりました。第1楽章のオーケストラによる導入は、いかにもアバドらしいみずみずしいもの、まるでオペラの序曲のような始まり方です。そこへ、ちょっとフライング気味にアルゲリッチが「登場」するやいなや、場面がまるで変わってしまうのがよく分かります。だいぶ前に収録された「トロヴァトーレ」の映像で、マンリーコ役のパヴァロッティが舞台に登場しただけで大喝采が巻き起こっていましたが、なぜかここでそんなことを思い出した程でした。それからは、アルゲリッチとアバドによる真剣勝負。お互い、相手に隙があったらすかさず前に出てこようとしているような仕掛け合い、その結果、ピアノとオーケストラは渾然一体となって、あたかもひとつの生き物のように迫ってきます。
第2楽章になると、アルゲリッチは一歩下がって、オーケストラの歌を前面に押し出してくれています。中間部でのフルートとファゴットの掛け合いの、なんと美しいことでしょう。そして、第3楽章では、再び対決が始まります。息もつかせぬ「技」の応酬、しかし、ピアニストの炎のようなフィニッシュには、さすがのアバドでもとてもついていくことは出来ません。圧倒的な歓声は、「大スター」アルゲリッチだけのためのものでした。
カップリングは、全く同じメンバーが、同じ場所で4年前に行ったコンサートの放送用音源。こちらは何回も録音している「2番」ですし、編集も最小限にとどまっているため、アルゲリッチのとっておきのグルーヴをより強く感じることが出来ます。こんなロンド、他の誰にも弾けませんって。

9月29日

"Musical Soirée at Ainola"
SIBELIUS
Works for Violin and Piano
Pekka Kuusisto(Vn)
Heini Kärkkäinen(Pf)
ONDINE/ODE 1046-2
シベリウスが交響曲第2番やヴァイオリン協奏曲といったヒット曲を作り上げた頃、彼自身はヘルシンキでかなりストレスの多い生活を強いられていました。後に伝記作家に「私には、ヘルシンキを出て行くことが重要なことだった。私の芸術には、もっと違った環境が必要だった。ヘルシンキでは私の中の歌は死んでしまっていた。」と語っているように、芸術的にも、そして経済的にもかなり追いつめられた状況にあったのです。そんな彼のために、アイノ夫人と友人たちは、ヘルシンキ郊外にあるヤルヴェンパーという自然に囲まれたひなびたロケーションの中に、有名な建築家ラルス・ソンクに設計を依頼して、1件の山荘を作ります。1904年に、最愛のアイノ夫人の名を取って「アイノラ」と名付けられたこの山荘に移ってきたシベリウスは、それ以来残りの半生をここで過ごすことになりました。この山荘で生活することにより、彼は枯渇しかけていた芸術への情熱を取り戻し、それ以前とは作風さえも変わって、数多くの名作を世に送ることになるのです。
1915年には、彼の50歳のバースデー・プレゼントとして、144人の音楽愛好家の寄付によって購入されたというスタインウェイのコンサートグランドがアイノラ山荘に運び込まれました。もちろんシベリウス自身の作曲にも使われる他に、ここを訪れたヴィルヘルム・ケンプや、エミール・ギレリスといった大ピアニストもこの楽器を演奏したということです。現在、このアイノラ山荘は観光名所として、そのピアノともどもしっかりと管理が行き届いた状態になっています。そして、このアルバムのように、実際にそのピアノを使って録音を行うことも可能なのです。
そう、「アイノラでの夕べの音楽会」と題されたこのアルバムは、その、シベリウス自身が愛用したピアノが置かれているまさにその場所で、彼のヴァイオリンとピアノのための小品を録音するという、実に心なごむ企画によって生まれました。その90年の時を経たスタインウェイは、永年、大きなコンサートホールで無理矢理大きな音を響かされるという「苦行」とは無縁だった生活からか、実になごやかな音を披露してくれています。尖ったところがすべて擦り切れて丸まってしまったようなその音からは、91歳で大往生を遂げたこの作曲家の姿を見る思いです。
しかし、フィンランドの若き巨匠クーシスト君は、そんな、いささか精彩に欠ける伴奏など眼中にないかのように、極めて挑戦的な音楽を仕掛けてくれました。収録されているのは、いずれも2、3分で終わってしまうようなかわいらしい小品ばかり、その中から、彼は思いがけないほどの驚きを引き出しているのです。最初に収められている作品81の「5つの小品」、その第1曲目「マズルカ」では、殆ど音楽が崩壊しそうなほどのとてつもないテンポ・ルバート、「ワルツ」ではまさにあり得ないほどのピアニシモによって歌われる優雅さを装ったメロディ。こんなベタな「舞曲」に込められたシベリウスのアイロニーを、これほど見事に形にして見せた演奏を、他に知りません。

9月27日

Voice of Light
Dawn Upshaw(Sop)
Gilbert Kalish(Pf)
NONESUCH/7559-79812-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11796(国内盤 1020日発売予定)
グレツキの交響曲第3番が、「悲歌のシンフォニー」として世界的にブレイクしたのは、いつのことだったでしょうか。その、ヒットチャート入りしたCDで指揮をしていたデイヴィッド・ジンマンのことは殆ど忘れ去られてしまっても、ソプラノソロのドーン・アップショーの名前だけは、いまだに語りぐさになっています。ただ、このような異常なヒットの常として、本人が望まないようなイメージが一人歩きを始めてしまうことは、避けられません。「フジコ」といえば「カンパネラ」、「小澤」といえば「ニューイヤー」でしょうか(ちょっとちがう・・・)。
もちろん、アップショーの場合はそのような雑音に惑わされることはなく、オペラでも、リートでも精力的なレパートリーへの挑戦を続けています。メシアンの最晩年の作品、「アッシジの聖フランチェスカ」などという、気の遠くなるような長大なオペラにも出演しています。この、ピーター・セラーズの演出による舞台(92年、指揮はサロネン。98年にケント・ナガノで再演されたものがCDとしてリリース)を経験した彼女は、ここでメシアンの音楽の新たな魅力を感じたといいます。そして、97年には「『ミ』の詩」や「ハラウィ」などの曲集から5曲を選んで録音を行いました。今回のアルバムは、それに最近録音されたドビュッシーやフォーレ、さらには彼女に献呈されたオスヴァルド・ゴリホフの曲を加えて、リリースされたものです。はからずも、タイトルにあるような「光」が、全体を貫くコンセプトとなっているのでしょう。見栄えにも気配りが(それは「ショーアップ」)。
メシアン、ドビュッシー、フォーレといったフランス歌曲にほのかに投影された「光と影」、それを表現するためには、フランス語の持つ独特のイントネーションを無視することは出来ません。歌詞の中にすでに存在している抑揚にメロディーや和声がぴったり寄り添うことによって、言いようのない妙味が現れてくるものなのでしょう。その点で、アップショーのフランス語のディクションはあまりにもお粗末です。したがって、特にフォーレではこの曲本来の魅力を聴き取るにはかなりの困難を伴うことを覚悟しなければいけません。もちろん、肝心のメシアンでもこのハンディは消しがたいものがあります。しかし、それにもかかわらず、このメシアンに惹かれるものがあるのは、おそらく彼の作品の持つグローバルな資質のせいなのかもしれません。確かに、このメシアンの演奏には、言葉を越えた充実感、もしかしたら、今まであった録音をはるかに凌駕する高いテンションが内包されています。
アルゼンチン生まれのゴリホフの場合は、彼女にとって言葉はなんの障害にもなりません。後に、あの「マルコ受難曲」という、まさに「ラテン・パッション」とも言うべき破天荒な構成を持つ曲の中に、否認を悔いるペテロのアリアとしてそのまま転用されることになる「色のない月」という曲には、真の共感をもって迫ってくるものがあります。

9月25日

GROFÉ/TOMITA
Grand Canyon
冨田勲(Syn)
BMG
ファンハウス/BVCC-37412
この前ご紹介した冨田勲の紙ジャケット復刻仕様アルバムの残り4タイトルがリリースされて、今回発売分の9タイトルすべてが揃いました。発表順ではなく、前回に含まれていた「ダフニスとクロエ」の前の2タイトルと、あとの2タイトルというラインナップです。
「ダフニス以前」は、「宇宙幻想」と「バミューダ・トライアングル」。その前の「惑星」からの流れで、いかにもSF的な仕上がり、「バミューダ」あたりになってくると、ちょっと音楽として聴くにはどうかな、というぐらい、「編曲」というよりは「創作」の度合いが大きくなってしまって、ちょっとついて行けない人も出てきてしまったのでしょう。虫は付かないでしょうが(それは「ムシューダ」)。その次の「ダフニス」で以前からの路線に立ち戻り、それに沿ってグローフェの「大峡谷」を、まずきちんと編曲したものが、このアルバムの位置づけといえるでしょう。
冨田がシンセサイザーを使い始めた頃は、まだ、この新しい楽器を使いこなせる人はそう多くはありませんでした。しかし、彼のようなパイオニア達に刺激されて、音楽、特にポップスの現場では、またたく間にこの楽器が普及していきます。そうなってくると、プレーヤーとメーカーの間の相互関係から、楽器自体が急速に進歩を遂げることになります。楽器がコンピュータと結びつくのもこの頃です。当時は「マイクロ・コンピュータ=マイコン」と呼ばれていたものを、初めて音楽専用に商品化した、ローランドの「MC-8」という、今で言うシークエンサー・ソフトが内蔵された「マイコン」(ただし、メーカーは「マイクロ・コンポーザー」と言っていました)の登場によって、現場での操作性は格段の進歩を遂げることになります。冨田も、前作の「バミューダ」で全面的にこれを取り入れますが、今まで鍵盤でいちいち入力していたものがテンキーに置き換わっていとも簡単に出来てしまうといったあたりのことが、「復刻」されたライナーでは活き活きと述べられています。
この「大峡谷」では、その「MC-8」によってすべての音源を制御する手法が確立され、いろいろな楽器を、それぞれ個別のシンセサイザーに割り当てて、あたかも「MC-8」によって指揮をされているオーケストラ、という体裁を構築することが出来ました。その頃には、「Prophet 5」、「Emulator」なども加わって、膨大な量になったシンセサイザー(+サンプラー)たちは、ここではまさに本物のシンフォニーオーケストラさながらの壮大な音楽を奏でる集団となっていたのです。
しかし、まさにこのアルバムがリリースされた直後、この世界には「デジタル・シンセサイザー」と「MIDI」というものが登場するという「大革命」が起こります。「マイコン」が「パソコン」と呼び名を代える頃、冨田がパッチコードを張り巡らして気の遠くなるような手間をかけて作ったのと同じものが、素人でも簡単に短時間で出来てしまうという恐るべき時代が来てしまったのです。このシリーズの最後のアルバム「ドーン・コーラス」では、もはや冨田には、宇宙から届いた波形を音源に使うなどという苦し紛れの手法を編み出す以外には、彼の独自性を主張する道は残されてはいませんでした。

9月23日

Chopin Recital
フジコ・ヘミング(Pf)
Yuri Simonov/
The Moscow Philharmonic Orchestra
ユニバーサル・ミュージック/UCCD-1117
先日ご紹介したユンディのショパンは本当に素晴らしいものでした。特にスケルツォは申し分なし。病弱で繊細であったショパンには珍しくエネルギッシュな4曲を、ユンディは余裕を持って弾きこなしていました。もちろん、テクニック的にも綻びなど全くありません。「すごいなぁ」、「すばらしいなぁ」・・・ただただ感嘆の声をあげながら喜んで聴いたのでした。
このように、ずっとユンディの華麗な指捌きにはまっていた私ですが、実は頭の隅から離れない1枚があったのです。それはおなじみ「フジコ」の新譜です。読売、朝日などの全国紙にも、全面広告が掲載されていましたね。このアルバム、相変わらず徹頭徹尾フジコ節が横溢しています。歌わせたいところはテンポを遅くしてこってり歌うこと、どんなに軽やかに弾いてもらいたいところでも、指が回らないのか、もたつきは隠せません。季節的にも早すぎ(それは「餅つき」)。
しかし、この中に収録されている即興曲第3番。これを聴いたとたん、私の中での彼女の悪口は一瞬にして影を潜めてしまいました。決して長くはなかったショパンの生涯を彩るピアノ曲の数々。そのどれもが名曲であることは疑う余地もありません。この即興曲第3番、演奏される機会はあまり多くありませんが、聴けば聴くほどに美しさが胸に迫る隠れた名作といえましょう。実はこの曲は演奏はとても難しいのです。右手の指、それぞれが完全に独立していないと弾きこなすのは無理でしょう。縦のつながりばかりが強調される和音の連打から、メロディを紡ぎださなくてはいけないのですから。ご想像の通り、フジコの演奏はとても拙いものです。音色にはムラがあるし、メロディもいたるところで停滞しています。この曲は先ほどのユンディのアルバムにも収録されていますが、あまりにもさらっと弾きこなすユンディと並べて聞いたら、「えっ?同じ曲?」と思う人もいるかもしれません。
確かに、音のムラのなさ、そこから生まれる音色の美しさではユンディに軍配があがるでしょう。しかし、味わいに関してはフジコの勝ち・・・・と思えてしまうのです。いつも感じる拙さが、今回の演奏に関しては、「一つ一つの音に祈りと願いをこめて丁寧に弾く」と聞き取れたのですから。で、何度でも聴いていたいのは彼女の演奏。ユンディは一度聴いて「うん。すごいね」で終りでした。
友人に、この話をしたところ、「え〜。耳が悪くなったとちゃう?」とまで言われましたが、恐らく、人によって求めているものが違うのですね。私はいつも、フジコの演奏は貶すのみでしたが、今回に限り、お気に入りにいれさせていただきました。某CDメーカーのように敗北宣言???ですね。

9月21日

CHOPIN
Scherzi,Impromptus
Yundi Li(Pf)
DG/00289 474 516-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-9539(国内盤 9月29日発売予定)
昨今のアジアブームは留まるところを知りませんが、もし、あの韓国スターの人気が衰えることがあっても、ユンディの人気が衰退することはないでしょうね。何しろ、マフラーなら誰でも巻けますが、ショパンを完璧に弾きこなすことが出来る人は、そんなに何人もいるわけではありませんから。もちろん、女性には必需品(それは「パンティ」)。さて、そんなユンディの最新アルバムは、お待ちかねショパン。曲はスケルツォと即興曲という、ちょっと通好みの選曲です。このスケルツォの素晴らしさは、聴く前から想像ができるというものです。彼の揺ぎ無いテクニックの素晴らしさは、もう何度も書いていますし、曲を見通す才能も持って生まれたものといえましょうから。ですから、一番最初に聴いてみたかったのが、「即興曲第1番」。まるで、洗濯機の水流に翻弄される木の葉になったような、無窮動の愛らしい作品、ユンディなら音色も美しいし、テクニックも抜群。きっと心の中をくまなくかき回してくれるに違いありません。
ここで、ちょっと違う話になりますが、マスターも書いていた通り、CCCDの最後の砦であったエイベックスが、ついにCCCDを止めたと。「さすがのエイベックスも、リスナーの声に負けたのか・・・」と思っていたら違うのですね。なんでも、今大流行のiPodにデータを落とすためには、CCCDだと具合が悪いのだそう。(ここら辺はマスターが詳しく説明してくださるでしょう)聞く所によると、ベートーヴェンの交響曲全集が10個分まるまる入るほどのデータが取り込めるという新時代アイテムです。私などはやはりクラシックは、自宅の書斎でフカフカのソファに座って、ブランデー片手にくつろぎながら聴きたいものだ、と思う方ですが、これからは「音楽を持ち歩く」というコンセプトもこのジャンルでは広がっていくのかもしれません。
そんな、外で音楽を聴く場合として考えられるのが、そうですね・・・。海外出張のお伴、軽いウォーキングや登山、そして通勤途中。こんなものでしょうか。どれも私にはあまり縁のない場面で、どうしてもというなら通勤途中にちょこっと聴くくらい。何しろ、家から職場まで15分。(地下鉄5分、JR5分、徒歩5分)マーラーの交響曲などを聴きとおすには、間違いなく3日覚悟になりますね。もちろんiPodも必要なさそうです。
で、この「即興曲」を、家まで待ちきれず、帰りのJRで聴いてみようとCDウォークマンにセット。ちょうど電車が発車する時にスイッチを押してみました。ほとんど終電に近い混雑する電車内に、まるで一陣の風が通り抜けるような爽快な感覚が溜まりません。中間部の畳み掛けるような物憂げな旋律を通りすぎ、また最初の揺れ動くようなメロディが戻ってきます。タッチ、音色、そして、細やかな表現・・・まさにため息ものの美しさ。磨きぬかれた真珠が耳元を転げ落ちていくかのような錯覚にすら陥ります。そして、終わる事を躊躇うかのように、何度も繰り返し奏されるコラールの最後の和音が消えた時、ちょうど電車は目的の駅に滑り込んだのでした。この私の中での4分1秒のドラマ、仕事も生活も全て忘れることのできた貴重な瞬間として、自らの記憶の中に大切にしまわれることになりました。

9月19日

Piano Four Hands/Two Pianos in the XX Century
Paola Biondi(Pf)
Debora Brunialti(Pf)
DYNAMIC/CDS 439
このジャケット、「プリティ・ウーマン」のジュリア・ロバーツと、「ピアノ・レッスン」のホリー・ハンターが若い頃一緒に撮ったのか、と思わせるほどのツーショットですが、実はこれはれっきとしたクラシック、しかも「現代音楽」のCDなのです。ロバーツ役がパオラ・ビオンディ、ハンター役がデボラ・ブルナルティという、ニコラ・パガニーニ音楽院での同級生による美人ピアノ・デュオ、この道の先達であるコンタルスキー兄弟やラヴェック姉妹との出会いを経て、世界中でのキャリアを築いて来ています。もちろんロシアでも(それは「キャビア」)。そのラヴェック姉妹よりはるかに魅力的な美貌、ぜひとも生のステージの映像を拝見したいものです。
というような「ジャケ買い」の衝動に駆られて、このアルバムを購入した訳では、決してありません。「20世紀の4手(2台)ピアノ」というタイトルにひかれてラインナップを見てみたら、リゲティの「3つの小品」が入っていたからなのです。古くは、それこそコンタルスキー兄弟の録音などで親しんできた「記念碑」、「自画像」、「動き」という3曲から成るこの作品、作られた70年代の作曲界の情勢を反映して、かなりミニマルな側面が垣間見られる仕上がりになっていて、私のお気に入りでした。2曲目は正確なタイトルが「ライヒとライリーと一緒の自画像(そして、ショパンもそばに)」というものですから、作曲家の目指したところは明白でしょう。
リアリティあふれる卓越した録音のせいでしょうか、この二人が弾くピアノの音はとても生々しい響きに満ちています。そして、そこから聞こえてきたのは、思い切りみずみずしいリゲティでした。「記念碑」の最初の単音のパルスからして、とても挑戦的な一打に伴われて、今まで聴いたことのなかったようなショッキングなものでしたし、それにまとわりつくかのような細かいシークエンスの「もやもや感」といったら、背筋がぞくぞくするほどです。「動き」での、そんなシークエンスが徐々にテンポを挙げて最高音から最低音までを激しく動き回る様も、とことんエキサイティング。最近では例の「リゲティ全集」を良く聴いていたものですが、今回の演奏を聴いてしまうと、そのエマールのものがいかに表面的な音の羅列に終わっているかが、はっきり分かってしまいます。エマールというピアニスト、最近のベートーヴェンやドビュッシーで感じた不満は、彼の本来のフィールドに於いても実はつきまとっていたのだということが、はからずも露呈されてしまったという訳です。
このアルバムの前半を占めるのが、リゲティと同じ世代のルーマニアの作曲家、ジェルジ・クルタークの作品。「ゲーム」という膨大な曲集から適宜抜き出したものの中に、彼がバッハのコラールを編曲したものを交える、というセッティングです。セリエル風、クラスター風の切りつめられた音楽の中にたたずむバッハが、なんともシュールです。そして、同じ「20世紀」と言っても、最後に収録されているスクリャービンやルトスワフスキの居心地の良さ。ここでも彼女らの積極的な音楽は健在です。

おとといのおやぢに会える、か。


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