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エマ・カーネギー .... 渋谷塔一

(01/11/4-01/11/18)


11月18日

AIRS BAROQUES FRANÇAIS
Patricia Petibon(Sop)
Patrick Cohën-Akenine/
Les Folies Françoises
VIRGIN/VC 545481 2
可愛いですねぇ。ぬけるような白い肌、整った目鼻立ち、そして、縦ロールの入った栗色の髪に無造作にあしらわれたドライフラワーは、ただ事ではない妖気さえ漂わせています。お人形さんのように、部屋に飾っておきたい、まともな審美眼の持ち主のおやぢであれば、誰しもそのような衝動に駆られることでしょう。
この女性は、フランスのソプラノ、パトリシア・プティボン。名前からしてそそられますね。なんたってプティでボンなのですから(意味不明)。そんな彼女の名前が知られるようになったのは、ほんの5、6年前のことです。ウィリアム・クリスティに認められて、彼の主宰する「レ・ザール・フロリサン」と共演する傍ら、各地の音楽祭やオペラ劇場にも出演するようになりました。最近では、このコーナーでもご紹介した「ア」さんが指揮したハイドンの「アルミダ」のレコーディングにも、チェチリア・バルトリといっしょに参加していましたね。
オペラのほうでは、今まで「後宮」のブロントヒェンから「ナクソス」のツェルビネッタまで、あらゆる役に取り組んできていますが、本領を発揮するのは、なんといってもバロック以前のレパートリーです。このCDは、そんな彼女の魅力が存分に味わえる、フランス・バロックのアリア集です。
この時代の音楽を演奏する際の、最近のトレンドはオリジナル楽器。したがって、声楽の方面でも、ロマン派以降のベルカントとは異なった歌い方が要求されます。それを最初に確立したのが、有名なエマ・カークビー(カーネギーではありません)、まるでボーイソプラノのような澄んだ声は、オリジナル楽器の素朴な音と見事にマッチして、バロック・ソプラノ(などという言葉は、多分、ない)のスタンダードとなったのです。
プティボンも、基本的にはこの路線を継承していますが、彼女の場合、R・シュトラウスのオペラまで日常的に歌っているのですから、もう少し幅のある音色と表現力を持っています。アルバムの冒頭、ラモーの「プラテー」からのクラリーヌのアリアが“Soleil〜”と始まった時から、その最初の子音の響きの豊かさに驚かされました。さらに、同じ作品の中の「狂人のアリア」の、なんと存在感のあることでしょう。
このアルバムには、ほかにシャレパンティではなくシャルパンティエ、キューリではなくリュリといったフランスバロックを代表する作曲家の作品が収められていますが、最後に、ちょっと毛色の変わったものが入っています。それは、グランヴィルという人の、「Rien du tout」という、一種のソロカンタータ。同時代のクレランボーやモンテクレールといった人たちの真面目な作品のパロディになっていて、それを歌う歌手役が、お客さんが全然聴いてないので「もう歌ってあげないわ(これが、曲のタイトル)」といって終わるという、手の込んだものです。これを、プティボンは思い切り表情豊かに演じてくれるのです。ここでは、バックのオケもハメをはずして楽しんでいるのが、よく分かります。

11月17日

ANGEL'S DREAM
高嶋ちさ子(Vn)
DENON/COCQ-83565
1121日発売予定)
ヒーリング・ミュージックというのは、何かとストレスの多い現代社会においては大きな役割を担っています。歌にもありますね。♪〜ただ、一度だけの、戯れだと、知っていたわ〜♪・・・あっ、これは「フィーリング」でした。失礼しましたっ!
それはさておき、このような音楽であれば、乾いた砂漠に水がしみこむように、日々の仕事に疲れたすさんだ心の中に入り込み、やさしく癒してくれるものです。しかし、そのような優れたヒーリング・アルバムを作るというのは、実はそれほど簡単なことではありません。なぜなら、音楽などの芸術に携わる人たちは、ともすれば自分自身の主張やメッセージをその中に込めたがるものだからです。もちろんこれは芸術の持つ一つの側面であることは否定できませんが、ことヒーリング・ミュージックに関しては、そのような感情の昂ぶりというものは、邪魔にこそなれ決して相応しいものではないのです。
このCDにおいて共同作業を行っている岩代太郎と高嶋ちさ子という二人の卓越したアーティストは、そういった"つぼ"を押さえることによって、見事なヒーリング・アルバムを作り上げることに成功しました。一例を挙げるとすれば、バッハの有名なカンタータの中のナンバー「主よ人の望みの喜びよ」で奏でられるヴァイオリンのオブリガート。原曲は、ゆったりとしたコラールを装飾するカウンターメロディになるのですが、プロデューサーの岩代は、ここで8分の9拍子という忙しい譜割りを、シンプルな4分の3拍子に変えることによって、バッハのオリジナルからは決して得られない、たゆとうごとき浮遊感を実現させているのです。
さらにヴァイオリンの高嶋は、どの曲においても決して自分自身の楽器を"主張"させることはなく、あたかもシンセサイザーのモジュールの一つであるかのように振舞わせています。ある時は音の雲の陰に隠れ、またある時は雲の切れ目から差し出る陽光のように姿を顕わすという変幻自在のスタンス。そのような姿勢がこのアルバムの完成度を高めることにどれほど貢献していることでしょう。彼女は、その慈しむようなヴァイオリンの音色によって、聴き手が身を任せているだけで心の棘が抜かれていくような思いを提供するという、まさにヒーリングのあるべき姿を演じきっているのです。
このアルバムには、岩代のオリジナル曲2曲にヴォーカルが参加しています。人の声の持つある種の力のせいでしょうか、これだけは、インスト曲に比べてやや訴えかけるものが感じられてしまいます。特に、EPOが参加した「Dreaming Angel」では、ヒーリングに有るまじき緊張を強いられる瞬間すら体験することが出来ます。ここに、製作者のぎりぎりの良心が感じられるのは、私が音楽に求めるものが決して安らぎだけではないというへそ曲がりだからなのでしょうね。

11月16日

HANDEL
Coronation Anthems
Stephen Cleobury/
Choir of King's College, Cambridge
The Academy of Ancient Music
EMI/CDC 557140 2
ヘンデルのことを「音楽の母」などと言っていたのは、一体いつのことだったのでしょう。そもそも、バッハに対して「音楽の父」などという、今から考えれば極端に音楽史を歪曲した呼称を贈ったあたりから、この国の音楽教育はふしぎな様相を呈するようになったのです。それにしても、何を根拠に「母」と言ったのか、当事者に聞いてみたい気もしますが。
ともかく、そんなわけで、ゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデルといえば、小学校で音楽の教育を受ける時に、まず覚えなければいけない名前だったのです。しかし、その割には、ヘンデルの創作上の実像というものは、最近まで殆ど一般には知られることがない状況が続いていました。それまでに彼の代表的な作品として挙げられていたのは、「水上の音楽」や「王宮の花火の音楽」、そして「メサイヤ」だけだったのです。「派手で大規模な曲の作曲家」というイメージが、ほぼ固定化していたかに見えたものでした。
最近になって、多少ヘンデルに対するイメージが変わってきたのは、さるオペラ歌手がウイスキーのコマーシャルで「オンブラ・マイ・フ」をヒットさせたあたりからでしょうか。それから数年、ほんの半年前に島田さんの部屋のLPプレーヤーから「涙の流れるままに」が聴こえてきた頃には、ヘンデルがオペラを書いていた作曲家でもあったということは、多くの人が知るようになっていたのです。それでもなおかつ、「セルセ」や「リナルド」を全曲聴いたことがある人に出会うのは、真冬にヘソデル服を着ているギャルに会うことよりも遥かに困難なことであることに変わりはありませんが。
このアルバムには、そんなヘンデルがイギリスの王室のために作ったアンセム、つまり、英語による宗教的な声楽曲が収められています。オペラと同様、このようなジャンルでのヘンデルの作品は、最近数多く録音されるようになってきました。これは、合唱愛好家にはたまらないこと。バッハと同じ年に生まれていても、バッハとは一味違ったソフトな魅力を持つヘンデルの声楽曲は、もっともっと聴かれてよいものです。
「戴冠式アンセム」は、さっきの「水上の音楽」でゴマをすったジョージ1世が亡くなった後を継いだジョージ2世の戴冠式のために作られたもの。4曲あるうちの最初の「Zodak the Priest」は、それ以後も戴冠式の度に使われたという名曲です。歌っているキングス・カレッジ聖歌隊は、いつものように、最近のイギリスの聖歌隊のレベルからははちょっと見劣りするところはありますが、まあ典礼的な雰囲気はよく出しています。
カップリングの「アン女王の誕生日のための頌歌」は、ソプラノ、アルト(カウンターテナー)、バスの3人のソリストが中心の曲。親しみやすいメロディのアリオーソのあとに、「この日、地上に平和をもたらした偉大なアンが生誕した」というリフレインが、さまざまに形を変えて歌われるのが、聴きどころです。これは、ソリストたち(グリットン、ブレイズ、ジョージ)のうまさに惹かれて、とても楽しく聴けました。

11月14日

In Memoriam CHOPIN
Cyprien Katsaris(Pf)
PIANO21/PIA21 003
19991017日、ショパンの没後150年の記念コンサートが、あのカーネギー・ホールで開催されました。そう、今や音楽家であれば誰でも演奏できるこのコンサート・ホールですが、その日に登場したのは、真のヴィルトゥオーゾ、かつ詩的な演奏でお馴染みの、あのシプリアン・カツァリス。このところメジャーレーベルからの新譜の発売を渋っていたので(シブリアン)、ちょっとファンとしては心配していたところ、なんと自分自身のレーベルを立ち上げていたのですね。これは、その「PIANO21」レーベルの第2弾アイテムです。
カツァリスの演奏は、どの曲も一度聴いたら忘れ得ぬものばかり。以前、教育テレビでの「ショパンを弾こう」での講師ぶりもユニークでしたが、番組中でも語られた彼のポリシー、「何気ないメロディから新しい対旋律を見つけ出す」作業は未だ健在。今回のリサイタルの曲目からも、それは至る所で見つけることが出来ました。
曲目は全てショパンです(当たり前か)。メモリアル・リサイタルという事もあってか、前半は、小品でまとめられていて、第1曲目から、普段あまり演奏されることの多くない「葬送行進曲」Op.72No.2です。彼にしては随分おとなしい(?)ですが、これは最初だけ。次に置かれた前奏曲第17番や、幻想即興曲などは、いかにも彼らしい即興的な演奏。前述の作業の結果である「耳にしたことのないフレーズ」が強調されるのには思わず苦笑して、ついつい楽譜を引っ張り出して、見知った音符を見直すこと数回。(驚いたことに全て音符に書かれているのですが。)
そうそう、後半も、まず最初に葬送行進曲。これはお馴染みのソナタ第2番の第3楽章ですが、さすがカツァリス、徹底的に不気味に弾いてくれるのです。で、次がこの夜のメインプログラム「ピアノソナタ第3番」。このところ、個人的興味もあって、この曲ばかり聴いている私ですが、先日聴いたある若手演奏家は、いかにも若者らしく直情的な演奏だったし、ショパンの見本とされているルービンシュタインのこの曲は以外と面白くない。そこ行くとやっぱりカツァリスは凄いですね。第1楽章も、無駄な力が一切入ってないし、2楽章は不思議な味わいがあります。第3楽章で徹底的に歌わせて、終楽章で盛り上げる。これがとても自然な流れで、その上で彼なりの主張が入っている。例えば終楽章、右手が3連符、左手が4連符。この微妙なリズムの食い違いの箇所は大抵のピアニストはうやむやに弾くのですが、彼は見事に左右を弾き分けています。ただし、コンクールでこんな演奏をしたら、絶対予選落ち・・・いやいやテクニックがあるから、3次予選くらいまでには残るかも。その位個性的、かつ面白い演奏です。
どうしてもキワモノ扱いされることの多いカツァリスです。確かに彼のショパンは、「あまりにも歪曲されていて聴くに耐えない」と言う人もいますが、やはりこういうショパンも必要なのです。リサイタルの最後に収録されている拍手の多さが、そのことを極めて雄弁に物語っているでしょう。

11月12日

AFTER MOZART
Gidon Kremer(Vn)
Kremerata Baltica
NONESUCH/79633-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/AMCY-19010(国内盤)
ギドン・クレメルというヴァイオリニスト、顔は無細工ですし、演奏のスタイルもどちらかといえばドンくさい方で、決してスマートとはいえません。しかし、人を外見で判断するのは間違っています。この方は、実はとんでもないユーモアのセンスの持ち主なのです。それがどの程度のものかというのは、この、モーツァルト親子と、そのモーツァルトをネタにした現代作曲家の弦楽合奏のための作品を交互に3曲ずつ並べたアルバムを聴けば一目瞭然。
モーツァルトの最初の曲は「セレナータ・ノットゥルナ」。最近流行のオリジナル楽器系のやや角張った演奏にはちょっといらいらさせられますが、そのあたりはまあ我慢してみて下さい。第3楽章のロンドが始まるとそんな不満はいっぺんに吹き飛んでしまいますよ。この時代のロンド楽章では、「アインガンク」という、一種のカデンツのような演奏家の自由に任された部分があるのですが、ここでクレメルたちは突拍子もないことをやっているのです。まともなロンド主題をはさんで、モーツァルトの様式とは全く異なるアイディアの、殆どジャズのインプロヴィゼーションに近いようなパフォーマンスが、楽器の組み合わせを代えて何回も何回も繰り返されます。打楽器のソロに続いてコントラバスが4ビートのピチカートを始めたりするのですから、これは楽しいですよ。演奏者もとことんのっとるな。
次は、永遠のヒット曲「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」。これはなかなか颯爽とした快演・・・と思って聴いていると、いきなり合奏からソロのアンサンブルに変わります。そう、これは、「コンチェルト・グロッソ風アイネク」だったのです。ご丁寧にチェンバロまで入って、だから、前の曲とは反対に、過去のスタイルにシフトした演奏ということにでもなりますか。
ここまで聴けば、父モーツァルトの「おもちゃの交響曲」がどんなものになっているかは、おおよその察しはつくのではないでしょうか。期待にたがわず、というか、カッコー笛やラッパといった特定の「おもちゃ」たちが挿入されることに慣れてしまった耳にとっては全く期待はずれの音が聴こえてきて、見事にパニックに陥ることになるのです。なんせ、携帯着メロまであるのですからね。2楽章の最後の方で「音」が入っていないと思っていたら、終わってから慌てて入れているというオチがあったり、3楽章の最後などは、どさくさ紛れに本体の方までしっちゃかめっちゃかになるという、凄まじいもの、すっかりクレメルの術中にはまっていました。
これだけインパクトの強い本家モーツァルト達にはさまれてしまうと、せっかくの目玉であるアレクサンダー・ラスカトフとかヴァレンティン・シルヴェストロフとかアルフレット・シュニトケといった現代作曲家の作品の影が薄くなってしまうのは、やむを得ません。風の音のサンプリングををバックに、淡々とモーツァルトのコラージュが流れてゆくというシルヴェストロフの「メッセンジャー」という曲などは、とても印象的なものなのに。

11月11日

RCA RED SEAL CENTURY
The Vocalists
Various Artists
RCA/09026-63860-2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCC37099/100(国内盤)
早いものでもう11月も10日ほど過ぎてしまいました。つい先頃、秋の気配を感じたと思う間もなく季節はもう冬の佇まいです。街には「クリスマスケーキ予約受付中」の気の早い張り紙がしてあったりで、「そろそろ今年の総括にかかるか」と、すっかり今年を締めくくる気分でいるおやぢです。
そういえば、今春来日したメトロポリタン・オペラの公演は、いつにもまして話題性の高いものでした。フレミングの初来日、相変わらず元気なドミンゴ、某首相を含め、多くの人々の心に心地良い陶酔感を残したのが、まるで昨日の事のようですね。
さて、メトといえば、昔から大歌手の宝庫でした。18831022日(日本では、この年鹿鳴館が創建されていたのです!)にグノーの「ファウスト」で柿落としされて以来、様々な演目、歌手たちによって、その歴史は創られてきたのです。伝説的な存在とも言えるカルーソー、その相手役として有名なポンセルなど、当時のオペラ歌手は、今で言えばプロ野球選手やハリウッド映画俳優なみの人気を博していたと言います。しかし、どんなに「昔は良かった」と言っても、実演が聴けるわけではなし、正直、「昔の歌手はすごかった」というコレクター・マニアの話はあまり信じていませんでした。
今回のアルバムは、そのメトで活躍した歌手の録音を精力的に行って来たRCAレーベルの音源より、選りすぐりの演奏を集めた2枚組です。もちろんそれぞれの歌手についても興味は尽きませんが、まず録音年代を見てびっくりです。1枚目が1903年(!)から1927年まで。2枚目がそれ以降という振り分けです。何しろ、今までの私の貧弱な経験では、1930年以前の録音の復刻などというものは、大抵は聴けたものではありませんでした。盛大なノイズの中からかろうじて浮かび上がる薄っぺらなオケの音をバックに、これまた貧弱な歌手の声。どんなにリマスターが良いと言っても、まあ、せいぜいノイズが押さえられている・・・。その程度と考えていましたね。
しかしこのCDを聴いてみて心底驚きました。まず、1903年のプランソンのアリア、これはピアノ伴奏とは言え、捉えられた声があまりにも瑞々しく美しいのです。イームス、カルヴェ、カルーソーと曲が進むに連れ、録音された年代のことなどすっかり忘れて、歌手達の美声と妙技に酔いしれたものです。こうして蘇った音を聴いてみると、当時の歌手は確かに個性的だったことがよく分かります。全てに、今の歌手からは聴かれない強烈な個性を感じることができるのです。1枚目を聴き終えて、「さて今何年?」とライナーを見直し愕然。まだ1927年!でしたっけ。当然2枚目も驚きの連続でした。1958年のステレオ録音の素晴らしさも特筆すべき点でしょう。まさに奇跡ともいうべきRCAレッド・シール100年の軌跡です。
「メトの歌手たちの歴史・・・こんな大歌手と契約してたんだぞ」というデモンストレーションを行いつつ、「RCAの技術の進歩」もしっかり自慢しているのですね。凄いです!

11月9日

BRUCKNER
Symphony No.8
Günter Wand/BPO
RCA/74321 82866 2(輸入盤)

BMG
ファンハウス/BVCC-34041/2(国内盤)
ちょうど1年前、昨年の11月に、88歳のギュンター・ヴァントは手兵北ドイツ放送交響楽団と来日して、ブルックナーの9番を演奏してくれました。その模様はNHK−TVで放映され、全国のヴァントファン、ブルックナーファンは感涙に咽んだのでした。その少しあと、今年の1月に、もはや89歳になっていたヴァントが、ベルリン・フィルと録音したのがこのCDです。朝比奈亡き後は文字通り世界の指揮界の最長老となったヴァントの、まさに「至芸」を堪能することに致しましょう。
TELDEC/8573-81037-2
実は、手元には、同じベルリン・フィルがあのニコラウス・アーノンクールを迎えて、同じブルックナーの8番を録音したCDがあります。ほんの半年ほど前にリリースされたばかりのもの(録音は昨年の4月)、生前の朝比奈も得意としていたこの曲を、別の指揮者が同じオケを振るとどのぐらい違うのかという点も踏まえて、聴いてみましょう。
ヴァントの持ち味は、なんといっても自然な音楽の流れです。アーノンクールと比較すると、それがなおさら強く感じられてしまいます。例えば、第1楽章の2+3という、いわゆる「ブルックナー・リズム」の扱いにしても、アーノンクールがことさら三連符を均等にしようと一音一音はっきり弾かせているのに対して、ヴァントは5つの音符をひとかたまりにして、こともなげに演奏しています。スケルツォのテーマでも、「ア」さんはブツブツ切って荒々しさを表現していますが、「ヴァ」さんはとても優雅な歌わせ方という具合に、全く対照的です。だから、第3楽章のような息の長いフレーズでは、どう聴いても「ア」さんは「ヴァ」さんの敵ではありません。ブルックナーの音楽を通して天上の世界を垣間見たいと思っている人にとっては、「ア」さんのやり方は邪道以外のなにものでもないでしょう。「ヴァ」さんではっきり聴き取れたワーグナー・チューバの敬虔なメッセージは、ついに「ア」さんから得られることはありませんでした。
録音の違いもあるのでしょうが、オケ全体の鳴り方も「ヴァ」さんのほうがたっぷりとした響きで迫ってきます。これは、もしかしたら木管の首席奏者の違いによるものかもしれません。「ヴァ」さんのジャケ写には、フルートにパユ、オーボエにマイヤーが写っていて、実際この二人ならではの芯のある音が聴けますが、「ア」さんの時は、確実ではありませんが、音を聴く限りこのパートはベテランのブラウとシェレンベルガー、ちょっと響きが沈んでいます。
ところで、今回はたまたま国内盤で聴いてみたのですが、この国のブルックナーマニアのための配慮には驚かされました。インデックスによる主題のガイドや、あの金子先生によるヴァントの9種類の音源の聴き比べなど、その力仕事振りには心底頭が下がります。何もそこまでしなくてもいんでっくすと思いますが、世のブルックナーおたくはにとっては、この金子先生などはまさに神様なのでしょう。しかし、真のブルックナーファンであれば、このような名演を前にしたときには、そんな余計なものは相手にしないで、ひたすら演奏に浸りきっていたいと思うものなのです。
ちなみに、もっとえらい神様、朝比奈翁はまだ御存命でした。

11月7日

VERDI
Arias
Barbara Frittoli(Sop)
Colin Davis/LSO
ERATO/8573-85823-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11192(国内盤1219日発売予定)
おやぢお待ちかねの美貌のソプラノ、バルバラ・フリットリ「ヴェルディ・アリア集」です。
アルバムの最初に収録されているのは、「椿姫」の有名なアリア、「ああ、そはかの人か〜花から花へ」です。そう、ヴェルディアリア集だったら、とにかくこの曲が入ってないと格好がつきませんね。しかし彼女の声は、正直言ってこの曲には向いていないようです。前半の、ヴィオレッタが我が身を嘆く部分はとても良いのですが、後半のカバレッタ・・・。ここはちょっと重すぎです。この部分は完璧なコロラトゥーラの技術を必要とするのですが、この点に於いては、少しばかりの無理を感じました。「リゴレット」のジルダのアリアが歌われていなくて良かった・・・。そう言えばおわかりいただけるかも。
やはり彼女の本領は、もう少し別のところにあるような気がします。同じ運命に翻弄されるにしても、もっと凛とした雰囲気を漂わせた気高く強い女、ここらへんがベストだと思うのです。
話は変わりますが、2001年のスカラ座のシーズンの初日を飾ったのが、ムーティの指揮によるヴェルディの「トロヴァトーレ」でした。この模様は、先日NHK衛星でも放映されましたから、ごらんになった方も多いのではないでしょうか。
世界的テノール不足が嘆かれる昨今、とりあえずムーティのお気に入りである、サルヴァトーレ・リチートラのマンリーコ。(しかし、いささか急場凌ぎの感が拭えませんでした)呪詛に凝り固まった老婆を演じるには、若干初々しすぎたヴィオレータ・ウルマーナ。などなど、ちょっとした不満はあったものの、ウーゴ・デ・アーナ演出の、青を基調とした舞台美術の美しさに惚れ惚れしたり、スカラ座オーケストラの滑らかな響きを充分堪能したりと、極めて水準の高い公演を楽しめた事は間違いありません。
その中で、各評論家が絶賛したのが、このフリットリの歌うレオノーラ。今回のアルバムにももちろんレオノーラのアリアは収録されています。例えば有名な第1幕のアリア。「静かな夜だった〜Tecea la notte placida」。言葉一つ一つに感情を込め、なおかつ格調高い表現。しっとりとした朱子織の布のような深い陰影をもった声。CDで歌だけ聴いても確かに素晴らしい!しかし彼女が絶賛されたのは多分別の理由でしょう。
私はたまたま前述のテレビ放映分を見たのですが、彼女の舞台姿に大感激でした。このアリアは、レオノーラがマンリーコを愛する気持ちを侍女イネスに語る場面。戸惑いつつも、自分の気持ちを貫く決意を固めるという曲なのですが、彼女はその心の動きを全て「手」で表現したのです。イネスの忠告「そんな人はおやめなさい」という言葉に対して、彼女は「どうしましょう」と歌いながらも、きっぱりと手の動きで拒絶したっわけです。単なる演出なのかも知れませんが、その一瞬は深く私の網膜に焼き付きました。
もちろん歌が歌えなくては話になりませんが、演技の表現力と言う面では、同世代のソプラノ歌手の中でも抜きん出た存在であろう事は間違いありません。オペラはやはり総合芸術。歌だけ聴いても判断できないものなのですね。

11月5日

MOZART
Requiem
Bernhard Klee/
Bundesjugendorchester
Akademischer Chor Riga
Ossietzky Chor Berlin
IPPNW/CD-14
先日のニューフィルの定期演奏会のビデオをマスターから借りて拝見させていただいたところですが、凄い!速めのテンポでグイグイ先に進んでいく「第九」は、ちょっと、年末のお祭騒ぎでは聴くことの出来ない、緊張感あふれるものでした。さらに、余白に入っていた、指揮者の末廣誠さんの打ち上げでの挨拶にも、心を打たれました。「テロや戦争が繰り返されるたびに、音楽や文化が社会に対して何の機能も果たしていないことを痛感させられる」という悲痛な思い、そんな時に「第九」を演奏することの意味などを、切々と述べておられましたね。
実は、つい先日、森村誠一のベストセラー「悪魔の飽食」を、池辺晋一郎が合唱曲に作り上げたものを聞く機会があったのですが、その時には、もっと直接的に、殆ど自制心を欠いたほどの「平和」へのメッセージの大安売りを間近に見ることが出来ました。
音楽に、そんな世界を変える力などあるわけはないと悲観しきっている私ですから、この2例のような音楽の可能性をひたすら信じている人たちを目の当たりにすると、日頃の自堕落振りを省みて、落ち込むことしばし。かってにやってろ、とまでは言いませんが、とりあえず、なに不自由なく音楽をたっぷり享受できる平和な世の中であって欲しいと、願うのみです。
そんな中、これは、1995年8月にドイツのハノーヴァーで行われた、広島や長崎に原爆が落とされてから50年たったことを思い起こすための演奏会「広島コンサート」のライブ録音です。これは、前にご紹介したヘンゲルブロックのコンサートと同じ、IPPNWが主催したもの。当日の曲目は、モーツァルトのレクイエムを前半と後半に分け、前半が終わったところで、ルイジ・ノーノの「生と愛の歌-広島の橋の上で」という、おそらく広島の犠牲者に捧げられた曲が演奏されています。
ただし、このCDに収録されているのは、レクイエムのみ。時間の関係なのでしょうが、コンサートの趣旨を伝えるのなら、このノーノ作品もぜひ入れて欲しかったと思います。そう思うのにはもうひとつ理由があって、この曲では日本の晋友会合唱団が参加しているからなのです。このシリーズの別のCDに入っていればよいのですが。
とにかく、そんなコンサートですから、ここで聴けるレクイエムは、ちょっと「何かを訴えたい」という気持ちが先走っているような、多少肩のこる演奏になってしまっています。ソリストたちの張り切りようは尋常ではありませんし、ベルンハルト・クレーが指揮する合唱もオーケストラも、ちょっと表現過多。そう感じてしまうのは、私が、モーツァルトあたりの場合には、剥き出しの主張よりは、あるがままの姿のほうがより訴えるものがあるのでは、と信じている、自堕落な日和見主義者だからなのかもしれません。

11月4日

Live at Carnegie Hall
フジコ・ヘミング(Pf)
ビクター・エンタテインメント/VICC-60261
2年前、突然それはやってきました。訳知り顔のクラシックファンの間で、密かに囁かれる一人のピアニストの名前。それは「フジコ」。CD屋さんの店頭でも「フジコのCDありませんか?」この質問が何度も繰り返されたと言います。「フジコって誰ですか?」逆にお客様に問い掛けるツワモノの店員も出る始末。それもそのはず、フジコの名前は、NHKテレビを見た人のみが知っていたという、極めて特殊な暗号のようなものだったのです。(そりゃそうだ、CD屋の店員なんてテレビなんて見ないんだから・・・)
そうこうしているうちに、「何でフジコのCDがないんだ!」と店頭でお客様が暴動を起したり、「あんな素晴らしい演奏がCDできけないなんて」と店頭で泣き崩れる奥様が出たり・・・。とこれは余りにも大袈裟ですが、「フジコを聴きたい」という世論の高まりに応える形で、やっとビクターからCDが発売。それからの大ブレイクは推して知るべし。すっかり「フジコ」の名前は人々の生活に定着するものになりました。話題性だけでここまで購買客を広げる様は、かの「目の不自由なテノール」(注1)のCDに匹敵するものがあります。
もちろん演奏の良し悪しは二の次。かくいう私も、彼女のアルバムは全て聴いてますし、演奏会にしても、後悔、じゃなかった公開リハーサルを聴きにも行きましたが、決して誉めたものではなかったと申し上げておきましょう。
今回のアルバムは、彼女のカーネギーホールのデビューリサイタルの録音。カーネギーホールと言うと、世界の桧舞台と言うイメージがありますが、かのフローレンス・ジェンキンス(注2)だってここで歌っているのですから、どうやら出演基準は演奏の上手い下手ではないようです。
決定的にピアノパートの煌きが不足して鮮度の落ちきったようなシューベルトの「鱒」。「舞曲」と呼ぶにはブラームスに失礼な、ハンガリー舞曲第5番、「難しいパッセージはテンポを落として何回もさらいなさい!」と昔、師に言われた言葉が頭に去来した「西風の見たもの」などなど、貶す材料には事欠かないこの1枚ですが、これを見方を変えたらどうでしょう?
唐突ですが、スーパーの1画を占める「生産者の名前の入った自然野菜」のコーナーを思い浮かべて見ましょうか。決して形は良くないけれど、そして少し高いけど、無農薬で安心して食卓に乗せることが可能な愛すべき野菜たち。人々は「小林さんの畑のレタス」を買うのと同じ気持ちで、「フジコのカンパネラ」を買うのかも知れません。そこには、「私は健康に気遣っている」と言うデモンストレーションが込められていたり、「本当に感動できるものを買っているんだ」と言う自己満足が込められていたり。
これだけ多様化している社会ですから、そういうものあり。だと思えるようになりました。でも、やはり私は「カンパネラ」を聴くならアムランがいいな。これが本音です。
注1)もちろんボチェッリ。最近も目立つところで歌ってましたね。
注2)史上最大のオンチオバサン。
   最近国内盤として彼女のCDが復刻されたのは嬉しい限りです。

おとといのおやぢに会える、か。


(since 03/4/25)

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