先日、必要に迫られて久しぶりに大きい書店に行った。がっかりなことに、目的の本はなかった。一昔前
ならおそらく手に入ったと思うが、現在の店頭は、コミックやタレント本や資格関連、参考書、
華々しく宣伝している新刊本の類が充実している代わりに、私が欲する比較的地味な書籍は驚くほど品薄だ。
本に導かれ、本に癒された私は、今の時代に置いて行かれている。
しかし、この後用事のあった私は、この際だから時間つぶしにぐるっといろいろな書架を眺めてみるかと、書店内散歩をすることにした。
値段も見ずに何でも購入してきた時と違い、今は年金生活、本当に欲しい本しか買わない。それでなくても膨大な蔵書整理を敢行しているさなか、新たに買い足すなどとは愚の骨頂……と、負け惜しみを呟きつつ、きれいな装丁の本にちょっと手を伸ばしてみる。
地図の絵本、夢があるなぁ。
あ、これが昨今評判の『もうじきたべられるぼく』か。立ち読みで感動させていただく。
探している作家の本は全然なかったけど、夏目漱石はどこの文庫もきちんとそろえているんだなぁ。さすがだ。
あれ? と思わず立ち止まって体を向けたのは、詩の書架だった。
『誰も気づかなかった』の文字を見たからだった。長田弘の詩集。みすず書房。
20年ほども前に、愛高組新聞表紙に書いてくれた詩の題名。
今も私の机の前の棚に、当時切り抜いた詩が褐色に色を変えて貼られている。
初めて読んだときに、ほんとうにしみじみと心に入ってきた詩だった。自分の中にある、人に見せないものを詩人と共に語りあったような、そんな気分で、私は時にこの切り抜きの前で詩を眺めた。今も。
素っ気ないほど装飾性のない小さな詩集、それを私は手に取ってみた。没後五年、と帯紙にある。長田弘が亡くなったのは二〇一五年。この本は二〇二〇年に刊行されていたのだ。
開いてみると懐かしい感情がよみがえる。
私が特に愛着した一篇は、「誰も気づかなかった Ⅵ」だ。その頁を開いて、私は「あっ」と驚いた。愛高組新聞の紙面で、23行の詩はひとまとまりになっていた。しかし、詩集では、最初の1ページに2行、次のページに2行、その次のページに2行、4ページ目に4行、5ページ目に3行、6ページ目に5行、7ページ目に最後の5行、そうなっていた。
詩が愛高組にもたらされたとき、一続きのものだったのかもしれない。
当時、巻頭に詩を載せるという破格の体裁をとる愛高組新聞は、日教組の組織を再構築していくとの私たちの気概の表れだった。詩人たちから頂いた詩はどれも美しく新しかった。
あらためて、この詩をもう一度読む。
誰も気づかなかった Ⅵ
怒っている人だって笑うときがある。
けれどもその人は笑わなかった。
不機嫌な人だって笑うときがある。
けれどもその人は笑わなかった。
悲しい人だって笑うときがある。
けれどもその人は笑わなかった。
苦しんでいる人だって笑うときがある。
ペシミストだって笑うときがある。
頑なな人だって笑うときがある。
けれどもその人は笑わなかった。
眠れない人だって笑うときがある。
いつも黙っている人だって
笑うときがある。
日の光だって笑うのだ。
陽だまりの猫だって笑うのだ。
木々の枝々だって笑うのだ。
ハシブトガラスだって笑うのだ。
けれどもその人は笑わなかった。
その人が逝ったのは冬の寒い日だった。
そしてじぶんの葬儀の日に
そこにいないのがうれしいというように
その人ははじめて笑ったのである、
その遺影の中で。
(さ)