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 とても寒い日が続く。この文が人の目に触れる頃には寒さも和らいで世の中は春なのだろう。
 つれづれがつれづれ以外の何ものでもないこの頃、文章を書く心動きがいっこうに湧かない。組合の機関紙の隅に毎度駄文を提供するのは、申しわけない気持ちだ。
 衆議院議員選挙があり、イタリアではオリンピックが始まった。新聞もテレビもその関連の報道が続く。
 運動嫌いの私はオリンピックに興味がない。
 選挙は自民党の大勝で、何をか言わんや。
 こんなふうにつれづれを託っていると、家の横の道を選挙カーよろしく声をあげながら通って行く車があった。もちろん選挙は終わっているし、何かの街宣車が通ることなぞついぞない地域である。
 なんだよ、うるさいな。
 そう思ったら聞かなければいいのに、道に近い台所にいると嫌でも耳に入ってくる。先だっての選挙期間中、交差点のところどころで私が一番目にした人の宣伝カー(選挙終わったから選挙カーではないよね)だった。その人が喋っている。
 寒い日の暗くなってからも、雪の日も傘をさして一人でのぼり旗の脇で手を振る姿をよく見た。
 いつだったか(選挙の公示前のことだったと思う)新聞で、「へえ、良いことされたね」と思った記事を読んだこともある。乗り合わせた列車に急病人(?)が出て、よくある「医療従事者の方はいらっしゃいませんか?」の呼びかけに応じて救急救命に関わったという小さい記事が出ていた。
 ほかの候補者に比べれば、私の視界にぐんと露出は多かったし、おそらくいい人なんだろうなと思われたが、私はその人に票を投じていない。その人は選挙区で次点だったが、比例で復活して議席を得た。
 その人に投票しなかったのは、所属政党が嫌いだったからである。ある意味、絶対多数を得た党や「右」丸出しの党よりも気色悪ぅと思う。私にとっては、この「気色悪」というのはかなり明確な判断の基なのだ。人への好感度というのは基準にならない。だって、どの候補者も、知り合いでも何でもない人なのだから。
 宣伝カーの人は、これからしっかり働いて行くとか、生活を良くするためにガンバルとか、そういうことを言っていた。選挙終わってからも、ご苦労さんだな、と思った。その拍子に、次の言葉が耳に入って愕然とした。
「わたしは、自分の国は自分で守ります」
 まったく声の調子は変わらず、「生活を……」と言うのと同じ口調で、この人は言った。
 守るということは、いろいろな場合が想定できる。しかし、「国を守る」というのは恐ろしい。世界中どこを見たって、歴史上の何時を見たって、
「国」は「人」を守らない。
 国を守るとは戦争を否定しないということか。
 戦争に行く人を確保するために、徴兵制を辞さないということか。
 私は、この国の行く末に身震いを覚える。
 と同時に、わが日教組が掲げた「教え子を再び戦場に送るな」の一言を、大げさではなく、今だから言わなくてはならないのだと思った。 (さ)