教えるという仕事をしていて、最近特に思うことがある。
与えられたテーマについて自身で一度推論を立ててみて、それをもとに小グループで討論するということをやってみた。(解はAかBかというところが考えどころだ)
「こう考えるとこういう結論になる」と、いろいろな意見を出して、どのグループも盛り上がり、グループとして一つの
解をまとめて記述するという段階になって、そのまとめかたにも苦労して、侃々諤々。
私は、極力言葉を控えて各グループを回ってみた。しかし、どこに行っても、「コレ間違ってますか?」「これはいいですか?」と引き留められる。自分たちの考えの根拠を示して、それ以外の考えを否定する証明をすればいいと言うと、「はい」と言うものの、「ではコレは正しいと思うのですが、どうですか?」などと言ってくる。
正解を欲しがる。
真面目に一生懸命やっているのだけれど、どの人もどのグループも、私に〇をもらえる「答」を欲しがるのだ。
私の出した命題は「真」「偽」をつける必要のないもので、その解に至った「考え方」をいかにきちんと整理して書けるかというところが大切だった。語彙力論理力がいまだ未熟な発展途上状態なのだから、みんな悩んでいる。でも、その迷いや悩みこそ勉強なんだよと言っているのだが……。
「でも、いい評価が欲しいじゃないですか」
と言う。
蛙鳴蝉噪おおいに結構。自由に、うんと突飛な、「えー……そう来るか!」という展開を私は期待しているから、まとまろう、まとめよう、と急ぐ相手がどうにもはがゆい。
正解を欲しがる、というのは最近の学生の試験勉強にも良く表れている。テストでは、まず設問を読んでから、本文の該当箇所を読み解答するのだそうだ。先生の中には、あえてそういうやり方をせよと教える人も多いのだそうだ。時間と労力の節約? 因みに、私のやり方は真逆だ。本文をしっかり読み込めば、設問の答えは当たり前に出てくる。
無駄を省くという考え方は現代の主流なのだろう。
最近こんな内容の文章を読んだ。……自分は現実の生活の中で分数の割り算を使ったことがない。それは数学上の必要な計算ではあっても、それを全国民が習得していないと社会生活に支障をきたすというものではない。それがなぜ小学校で必修なのだろうか……(この文の筆者は教えることを否定しているのではない。逆数の概念を習得してから理解させればよいと言っている。しかし、小学生に原理も分からせずただ答だけ出せばよいという教え方をするのは間違っていると、現行の学校教育に疑問を投げかけているのだ)
これを読んで、私は、ごもっともだがいかにも機能的な考え方だなと思った。小学生、そんな時分に、「数」の様々な形や変化を見てワクワクする、理屈を習得していなくても、答えが合理的に理解できなくても、もしかしたら、何か心が動くことがあるかもしれない。そういう心の動きを押し出すきっかけになるかもしれないこと、それは、不合理に見えても、必要なものではないだろうか。
(注:少し古い文章なので、もしかすると現在の実態と違うかもしれない。)
(さ)