読書記録2001年6月
『はじめての現象学』
竹田青嗣(海鳥社)/哲学・現象学/★★★★★
タイトルどおり、はじめてでも理解できる内容だった。とはいえ私がどこまで理解できたかは怪しい。
「西洋哲学の「原理」について」
「世界を正しく認識することは可能か」
「初めての現象学」
「現象学はそれまでの世界理論をどう変更したのか」
「「意味」と「価値」の現象学へ」
「<真>と<信>の根拠」
の全六章。
今回もまたほとんどメモ書きになる。
前半はフッサールの哲学、現象学のわかりやすい解説。
「主観−客観」について。
主観客観が一致しなければ一切が無根拠であやふや、しかし一致すると自由がない。そんな「客観」をどう考えるか…。まず「実在物」と「ことがら」を区別。「実在物」の客観性は共通の五官など(同一種)で認識するとき、「ことがら」の客観性は共通の感受性、美意識、価値観で認識するとき、同一性、普遍性を保てる。だから「完全な認識」や「完全な客観」は実体として存在するものではないので、それ自体を捉えることはできない。
完全な客観がないなら主観からスタート。まず自分自身の確信成立の条件と根拠を、そして相互主体間の共通了解の可能性があるとすればどのような条件で根拠づけられるのか、その価値や意味の原理を求める。
還元…客観的要素をエポケー(判断停止)して、自分自身の確信成立の条件を確かめる。
「ノエシス(一面を見ながら全体を捉えようとする心的作用)−ノエマ(確信として現れる全体像)」
「内在(疑う余地のないもの。信じること疑うことを可能にする根拠)−超越(限りなく疑える。臆見を含む全体の確信)」
この構造によって、どんな確信もドクサ(臆見)を含む。
確信成立の条件…不可疑性を持った直観による対象の現出、そして他者の了解(これも自分自身の確信)。
本質直観…知覚直観に対する意味直観と、本質看取を区別。
後者…内省、エポケーし、ドクサを排除した自分自身の了解内容(意味本質)を取り出す→想像変容し、他者へも妥当しうる形に→共通の意味本質を取り出す。これで得られるのは万人にとっての真理などではなく、共通了解の形(ルールのようなもの)。
後半は現象学の方法を最も適切に用いたと筆者が評価するハイデガーの実存論の解説と、それらを踏まえた筆者自身のエロス論。
ハイデガーの問題点について…現象学的に導き出した実存の本質をまっすぐ本来性へつなげた結果、日常を超えたロマン主義的な結論を出してしまった、と誤りを指摘。
エロス論は真善美などの価値、意味の発生の根拠、原理について。
感想。
まずフッサールについて、平易な言葉での解説に感謝。ホントよかった。
ハイデガーの誤りについては、私にはちょっぴり残念な話だが、言われてみれば確かにそうかもしれない。
エロス論…理解できたとは言い難いが…これはかなり的を射ている気がする。著者は自我の形成→自己中心性を乗り越え、共通了解を生み出そうとする動機、をみっつ挙げる。他者との関係が避けられない、コストの要因(損得)、自我のエロスより関係のエロスが大。このエロス論は面白い。自己中心的だと思っていた個々の価値観はすでに関係のエロスを含んでいる、また、いわゆる道徳は、外から強制されて従うものではなく内から起こる関係のエロスであり、そのエロスを自分自身で体験しないうちは理解できない、ということらしい。そしてその生きた具体的経験こそが自分自身の価値観の根拠であり、他者と理解し合う道だと。これは常に更新されていく、と。
橋爪大三郎著『はじめての構造主義』を読んでスッキリしなかったのは…真理の徹底的な相対化ということになると、異なった価値観を持つ他者との対話以前に、自分がどうあるべきか、なんて考えることが可能だろうか?ということ。自分自身のどこに根拠を求めたら良いのか?この本でそれが少し晴れた気がする。著者の『現象学入門』も読んでみたい。
『ムーミン谷の仲間たち』
トーベ・ヤンソン,訳:山室静(講談社)/児童文学/★★★★
おなじみの童話。それぞれ主人公の違う、ショートストーリー九編。私はTVアニメは幼い頃観ていたが、原作を読んだことがなかった。
一話目「春のしらべ」の主人公はスナフキン。
のんびりと自分の世界に入っているスナフキンがはい虫に邪魔されてムッとくるとこ、わかるよ。多少気持ちを切り替えたはいえ、そういう気分のままはい中の相手をし、名前を乞われて付けてあげる。スナフキンにとってはどうってことないことでも、はい虫にとっては生まれて今までで一番の大事件だ。その瞬間からこのはい虫は実存的に生き始めるんだ。小学校低中学年の子にこれがわかるのか?といらぬお節介。きっとわかるだろう。
この後の、スナフキンの行動や心の変化がまたイイ。若干の不自由があるからこそ自由が、出会いや交流…語り合える人がいるからこそ、孤独が大きな喜びなんだ。この逆も言える。そして他者のそれを大切にしないと、自分自身も得られない。
この後の物語も全て、読んでいてとにかく楽しかった。どう表現したらいいだろう、読んでいて心が小躍りするというか、嬉しくなってくるというか。ただ楽しいだけでなく、深いところを突いてくる。
「しずかなのがすきなヘムレンさん」は、今の自分に向けられた物語のようで、むぅ、と唸って考えさせられてしまった。
平凡な生活に不満で、デカイ夢にばかり憧れたり語ったりするような方には「ニョロニョロのひみつ」を勧めたい。
「この世のおわりにおびえるフィリフヨンカ」は現代の一般女性にピッタリかもしれない。充実した生活を送っている気もするけど…たまにふと空見上げてしまう、心の奥になにかが引っ掛かる、そんな方に。
「スニフとセドリックのこと」もいいだろうか?でもこれはブランドやステータスに囚われがちな方に是非。
童話なのだが、むしろこれは大人に読んで欲しいな。大人と子供では当然読みとるものが違うだろう。10歳未満の現代っ子は、これを読んでどんなことを感じるのだろう?非常に興味がある。
あとがきと重なってしまうが…このムーミンの世界では、皆が個性豊かに、自由に、幸せに生活している。誰かを幸せにしてやろう、なんてキバッて意識する人はいない。むしろそれを過剰に意識したムーミンは、透明人間の少女に悪影響を与えてしまう。この微妙なところ、著者は凄いと思う。実際そうだ。それぞれが自由気ままに生きながら、結果的に相手を幸せにしてしまう、幸せにしてもらう、こんな素晴らしいことが成り立っている世界…皆、とっても良い自然体なんだな。これは万人が楽しめる童話でしょう。まさに名作。
それにしても…言うことといい考えることといい、スナフキンはカッコイイなぁ。「世界でいちばんさいごのりゅう」では、カッチョよすぎだぞ。
『わすれられないおくりもの』
スーザン・バーレイ,訳:小川仁央(評論社)/絵本・人生/★★★
幼児向けの絵本。みんなから慕われていた、物知りな老アナグマが死んでしまう…皆はこの悲しい出来事をどう受け入れ、プラスへもっていくのか。そういう物語。
アナグマの死を特に悲しんだモグラの変化…まぁそういうことだと思う。
絵は東京電力のイメージキャラクター?あの原作はこれらしい。原作があったとは知らなかった。ほのぼのタッチだが非常に精緻。老アナグマが、カエルとモグラがかけっこするのを眺める様子、この絵が一番印象に残った。このときのアナグマの明暗の気持ち、スゲーよくわかる。
良い絵本や児童書は、大きくなっても楽しめるものだなぁ。
『スーホの白い馬』
再話:大塚勇三,絵:赤羽末吉(福音館書店)/絵本・伝承/★★★
モンゴル…馬頭琴の由来の民話、絵本。ある日スーホは白い子馬を拾い、大切に育て、殿様主催の競馬大会に出場するが…。
小学校の国語教科書にあって、その中で最も強烈に印象に残っている物語だ。当時…ちくしょう、なんでだよ、ヒドイじゃないか、と凄く悔しくて悲しくなった、ただそれだけの記憶がある。時を経てもう一度読んで…やはりその気持ちはわき起こるが、白馬がもたらしてくれたことを落ち着いて考えられる。競馬大会でスーホと白馬がブッチギリになる挿し絵が最も印象的だ。それ以前の白馬との出来事も…。悲しいことばかりに囚われていては…白馬はそんなこと望んでいないんだよね。
いのちとはなんなのか、身近ないのちを失ったときどう向き合えばいいか、など…ペットレス症候群なんて方も、これ読めば気の持ちようも変わるのでは?
『読書について』
アルトゥール・ショウペンハウエル,訳:斎藤忍随(岩波書店)/エッセイ・哲学/★★★
著者は十九世紀ドイツの哲学者。
「思索」
「著作と文体」
「読書について」
の三編の小論。あとがきによれば『パレルガ・ウント・パラリーポメナ』から抜粋したものだそうだ。
「著作と文体」は、主に出版側への批判。
執筆するからには確固とした自分自身の思想を持て!精神の貧しさを露呈する、気取った言い回しで曖昧に語らず、明瞭な言葉でスパッと語ってみせろ!その際文法や語句など、言語を改悪するような言葉の乱れは我慢ならん、思想表現には、先人が完成させた、伝統的なドイツ語が最も適切なはずだ!
と、書き手に対してはこういう主張をしている…う〜ん、
こんな駄文を並べるだけのHPをやっている私には、耳の痛い話である。ものを書く資格なし。
その他、毒に満ちた出版界への批判的主張は、現代出版界、他マス・メディアへ当てはめてもピッタリくるようなものが数多い。しかしその中でフィヒテやヘーゲル、シェリングまで似非哲学者呼ばわりしているのはなんとも…。
「思索」「読書について」は、主に読者に対しての警句。
思想を持たない人間が読書をしても無駄だ!人にばかり考えてもらわないで自分の頭で考えろ!新刊書はほぼ全て悪書であり、時を経ても残る古典こそが良書である!流行に流されてお喋りのための読書はするな!と、こういうことらしい。ここでもグサリとくる警句は多かった。
ショウペンハウエルについてなにも知らずに読んだのだが、これはそうとうなひねくれ者だ。それになにやら傲慢に感じる。もしかすると彼は、凡人には読書も思索も無意味である、まして著作活動などもってのほか、と言いたいのかもしれない。例え私がこの教訓を実践して思想を持ち得たとしても、それは周囲の見えていない、ただの主観的な思い込みで終わる気がする。まぁ、いつものことだが読み違えている可能性が高い。
ここで重要なのは…知識に溺れるな、読書しても鵜呑みにするな、意識して自分自身の頭で思考しろ、思索しろ、こうことだろう。読書に限らず、得る情報の大部分がなんらかの媒体を通っているのだし、これは常に意識しよう。
『カルトか宗教か』
竹下節子(文藝春秋)/社会・宗教/★★★
カルトとはなんなのか、それに対してどう向き合えば良いのか。フランスのカルトへの取り組みを例に考察される。
「カルトとは何か?」
「カモフラージュするカルト」
「キリスト教国のカルト事情」
「カルトの見分け方」
「現代カルトの見分け方」
「健康カルトについて」
「終末論とカルト」
の七章。
まず、カルトの多様な形態に驚いた。行き過ぎた環境保護、自己啓発、癒し、健康法などなど…宗教に限らず、カルトはいたるところに紙一重で蔓延している。ひとくくりにはできないが、私なりに軽くまとめてみる。
ある教えによって、一般常識で本人や社会に害がないかなどの正常な判断力や、思想や宗教を相対化し眺めて疑問を持つ余裕など、これらの自己を保持する能力を奪われないか。その教えの信奉者は、自称唯一絶対の真理によって、思考停止状態になっていないか。そういう状態に陥って、真理を騙る組織に利用されてはいないか。組織やその教えなくしては、自己の保持が不能になるほど依存するようなら危険。
教えゆえにカルトではなく、組織そのものによって規定される。そもそも宗教や疑似宗教は、理性を超えたものを説くのだから、理性では検証不能。組織形態やその活動を含め、冷静に全体を眺めてみること。
さて感想。
万人に共通な唯一絶対普遍の真理を様々な目的に応じて提供してもらえれば、それはさぞかし安心だろうが、残念ながらそんな都合のイイものありはしない。結局重要なのは、自分の頭で考えて選択決定することだ。私のような頭の悪い人間は、教義や理論のみに囚われると危ないから、全てをひっくるめてトータルで判断する。
人は合理的なものを求める反面、非合理なものも求め、自由を求めながら束縛も求める。拠り所を求める。これはごく自然なことで、責めることはできないだろう。カルトに対しての過剰な拒絶や否定は、彼らを頑なにさせるだけ、とあった。カルトとも良識ある対話か。『トンデモ本の世界』の感想で、バカ話は笑ってしまえばいいんだ、などと書いた(あれで紹介されるものは実際失笑ものだ)が、真剣に魂の救いを求めてカルトへ全てを委ねてしまった人に対してその態度は失礼だし、著者の言うとおり逆効果だろう。ここは一線引いた方が良い。
常に適度の批判精神を持ち、冷静に、余裕を持って物事を考える努力をしよう。
『これ一冊で「哲学」がわかる!』
白取春彦(三笠書房)/哲学・哲学史/★★★
自分の頭で考えることの大切さが説かれた後、西洋の哲学史を教えてくれる。用いる言葉もわかりやすく、読者に優しい入門書。『ソフィーの世界』『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』の後にこれを読むとピッタリしれない、それくらいの感じ。だから私は楽しく読めた、のだが口述するように不満もあった。
一部は著者の哲学についての考え方。
好奇心を持つこと、根本から論理的にものを考える重要性が説かれる。これをおざなりにすると著者の言うとおり、思い込みで傲慢になったり、フラフラその場その場の状況で漂うだけだ。哲学は「おまえの見ている世界なんて思い込みだぜと驚かすようなことばかり」という部分…これ、そうなんだよなぁ…。
著者は「ごく大雑把に言えば、哲学は役に立たない」と言うが、そんなことはないと思うが…国家のあり方、例えば直接民主主義や人権、三権分立は、元を辿れば社会契約説と啓蒙主義からきているのだろう(この本では触れられないし、全然知らないからよくわからない。そもそもあれは哲学と呼んでいいのだろうか)し、先端医療などでは直接求められるものがあるだろうし、実存思想は自分自身や個を考える上で非常に重要な気がするし、その他色々…。著者の言いたいことを読みとれていないのか。まぁ役に立つかどうかはともかく、大いに意味があるのは確かだ。
二部は西洋哲学史について。ギリシア哲学、中世の神学、大陸合理論、ドイツ観念論、実存主義、分析哲学、現象学、構造主義、の代表的な哲学者とその思想紹介。
けっこう批判精神に富んだ解説だ。それはとっても良いことだが…無神論的実存主義のサルトル、ニーチェに対しては、著者自身がもろに否定的な見解を持ち、そういう態度で紹介している印象を受ける。批判的指摘は確かに正しいだろうが、これでは二人の人物像と哲学の影の面しか、初めて哲学に触れる読者の印象には残らないのでは?ニーチェは私も以前あまり好きではなかったのだがやはり偉大な哲学者だ、彼以前に現代のニヒリズムの到来を予言した人物がいたろうか、その他ニーチェの凄いところも教えて欲しかった。サルトルについてももう少し…。思想紹介以上に、この人物紹介の仕方はアンマリでは?二人の真摯な姿勢にも少しは触れて欲しかった。
キルケゴールの実生活のエピソードは残念な話だが、逆に親近感を覚えてしまった。…当然のことだが、哲学者の言動不一致、人間性の問題によって、その哲学自体の評価は左右されないだろう。
ウィトゲンシュタインについては全く知らず、興味深く読んだ。これは強烈。土屋賢二さんが最も影響を受けた哲学者、ということに納得。あと、フッサールの主観客観の考え方…現象学はやはり面白そうだ。フッサールの哲学は恐ろしく難解な代物だそうだが、いずれもう少し触れてみたい。
この本を読んだ動機…たぶん哲学にはあまり興味がない友人が読んだというので興味を持ったから。彼は、響くものはなにもなかった、と言っていた。私は…アウグスティヌス(リビドー、クピディタス→カリタス)、カント(感性界に縛られず、道徳律に従う→自由)、レヴィ=ストロースの異文化への眼、そしてやはり実存哲学のキルケゴール、ヤスパース、ハイデッガー(実存論)、サルトル、などには…奇妙な点があろうとも…浅い浅い理解しかできていないが、感銘を受けるがなぁ…。感銘を受けるだけで、実生活で活かせないのが情けない。
あとがきまで読み終えて…著者はカトリックに相当影響を受けているのでは、と勝手に想像した。
『悪党諸君』
永六輔(青林工藝舎)/エッセイ・人生/★★★
あちこちの刑務所での講演と、元受刑者二人、弁護士一人、それぞれとの対談。
講演は…まぁ更正への説教なのだが、さすがは永六輔さん。人生長い、罪を償って出所したら、より幸せに、善く老いなさい、こういうことだろう、この、幸せ、善く、について語るのだがこれが実に見事。ウマイ。ここで堅苦しくつまらない、細かいことは問題ではない。キワドイ笑いも交えながら、相手に合わせてわかりやすい、受け入れられる言葉で語る。説教と言うより励ましの言葉だ。
交流が転機になることもある、ということで…可笑しい講演、対談から、著者の人を思いやり大切にする姿勢、それに応える受刑者、元受刑者の気持ちがとても伝わってきた。
悪いことした人間は社会から追放して隔離すればいい、こういうのが一番ダメな態度なのだろう。もちろん簡単に許されるべきではない、しかし罪を犯したことが一度もない人間はいない。一般人も同じなんだ。やり直すきっかけがあるべきだし、模索すべきだ。とは言うものの、これはなにかと難しい問題だ…。
犯罪に対してはメディアで過激な主張が飛び交う昨今だが、ここで示されたようなエピソードも頭へ置いて聞くことにしよう。
『トンデモ本の世界』
編:と学会(洋泉社)/書評・人物評/★★★★
世に多く出回るトンデモない本をお笑い本として楽しんじゃおう、という本。UFO、宇宙人、疑似科学、オカルト、陰謀、予言、超古代史などなど…これは笑える。
「と学会推薦図書目録」
「平成トンデモ人物列伝」
「さらなるトンデモ世界へ」
の全三章。
この本で「と学会」に笑いものにされる数々の本は笑われてしょうがないと思う。実際読んでないのになぜわかる、と言う人がいるかもしれないが、引用文を読むだけでも明らかだ。それに「と学会」の方々のツッコミを読めば、もう火を見るより明らかだ。オリジナルを読む必要などない。哲学や伝統宗教もある意味常軌を逸しているが、これらはそんな次元ではない。真摯な思考が皆無だし、真摯な疑問に対し真摯な回答で応じない。まず妄想に満ち満ちた絶対の真実ありきで、それに合わせて都合のイイ前提を立て、滅茶苦茶な、理論とは呼べない理論を構築する。誠実でない。これで紹介されるどの本も検証に堪え得ない。この手の本がこれほど多く出版されていることにも驚いたし、また相当数売れていることにも驚いた。
私も大いに疑問を感じた竹内久美子著『そんなバカな!』(これ、ベストセラーだったそうだが理解に苦しむ。しかしそう言う自分も読んでしまった…)を含む彼女の他の著書もトンデモ扱いされていた。考えてみればあれを読んで不愉快になったなんてバカだった。なぜゲラゲラ笑い飛ばせなかったのだろう。どうも私はなんでも信じたがる傾向がある(ようだ)し、オカシイと思ってもどこがオカシイか指摘できる能力がないので、こういう強力な身方がいると心強い。
今までコレ系の話というと、不安を煽ってそこにつけこむとか、なにかの目的の手段とされるのだろう、と思っていた。が、そうではなく、突飛な理論をうち立てて他者をバカにし、認められずに被害妄想に陥りながらも自己満足を得る…これが目的そのものである場合も多いようだ。なんて虚しいアイデンティティ補償だろう。あ、それで出版物を出し、金儲けをしているのだから、やはり手段か?
まぁなにが真であるかは当人がそれぞれ勝手に決めればいい。それが真偽を論じる以前の問題の場合、傍目には笑いものだが、突っ走って下さい。
トンデモ本をお笑い本として読むこの本、とてもためになった。あと、無知はやはり恐いと改めて認識した。
『われ大いに笑う、ゆえにわれ笑う』
土屋賢二(文藝春秋)/ユーモアエッセイ/★★★
哲学的お笑いエッセイ。理屈っぽいのは嫌いな方は笑えない。
このシリーズはずいぶん読んできたので多少マンネリ気味な気もしないではないが、まえがきの一行目から笑ってしまった。まえがきから著者紹介まで、こんなに笑えるユーモアエッセイはない。他のこの手の本を読んだことがないからそう思うのだが。仏頂面で読み通すのは至難の業だろう。電車では読まない方が良いと思う。土屋さんのエッセイ、未読はあと一冊になってしまった。それを読み終えてしまったらどうしよう…寂しいな。
『お言葉ですが…』高島俊男(文藝春秋)/エッセイ・日本語/★★
日本語の乱れに嘆く著者の、皮肉に満ちた魂の叫び。言葉は変化する、わかっているが堪えられない…そういうエッセイ集。
日本語を深く知る人はこんなにも苦々しく思うことがあるのか。とにかく細かい。知らなかったことだらけだ。とても覚えきれない。あまりの細かさと毒に途中で疲れてしまった。
ひとつひとつの日本語が本来どのように使われていたのかを知らずにいいかげんに使うのは、誰かに対して、ではなく日本語に対して恥ずべき失礼なことなのだろう。コダワリすぎると生きた言葉を受け入れられず、あまりに知らないと私のようになる。難しいものだ。