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ケータイのメール消してしまった。ショックなのでとりあえずこれからは別な場所にも記録しておくことにする。
3年前に事故に遭って、病院で目覚める以前の記憶がどうもぼんやりしていて、ところどころ虫食いみたいに抜けている。特に直前1〜2年が綺麗さっぱり覚えてない。だから、何か分かったら手当たり次第にあちこち書いていたんだけど、そのうちの1つの手段がメールだった(自分で自分に出してた)。
でも消しちゃったよ。間違って。そういうわけでここに書いておくことにした。
現在の基本情報。
小田原実、今は29歳。どうもバツ1らしい。と言っても死別なんだけど。
由紀、というのが奥さんだったらしい。この間知った事実によれば7つ上の人。
でも、何となく、なんとなーくなんだけど、どうも俺がその人と結婚したのはなんか裏があるらしい。その辺聞きたくて探してて妹を見つけた。美佳さんって人。
めちゃくちゃ嫌われてました。こりゃ絶対何かあったなあ、と思うんだけど、本人こうなんで、美佳さんはしぶしぶながらも俺に事情を説明してくれるつもりはあるようだ。
とりあえず今はこんなとこかな。
5月8日
ケータイに須藤さんから着信履歴。昼休みにかけ直す。土曜日の昼間に会う約束をする。
あと、研修期間終了ってことで、今年入った新人の堀部とか派遣の子たちとかと飲みに行く約束をした。いや別に、理由なんかどうでもいいんだけど。何だかんだで月一の定例みたいになっちゃってるし。
昔こういう歌あったよな。11月だけが何もないけど、でも飲んじゃうとかそういうの。
5月10日
正確にはもう11日。
堀部ー。
こいつ酔うと抱きつく(…)。兄貴いるって言ってたから弟気質ってヤツなのかねえ。俺のことをやたらに褒め殺してるなあと思ったら、抱きつかれたまんま寝込まれてしまった。寝言でぶつぶつ兄貴の文句言ってた。
で、帰り際にやっと起きたはいいけど、まともに歩けもしないわすぐに座り込んじゃうわで、とても1人で帰せる状態じゃなかった。
こいつの自宅何処だか知らないし、一緒に住んでいるという兄貴の連絡先なんかもちろん知るわけない。
で連れて帰って来た。
まあ、なんっつーか、後輩の本音が聞けて面白くはあったんだが。
人足りないから即戦力にしなきゃならないって話があって、色々厳しいことも言ってたんで、嫌われているかとは思っていたんだが、どうも逆らしいし。
しかし、あんまり「好き」とか軽々しく口に出すのはやめて欲しい…。
まあこいつにとっては別に深い意味はないんだろうけど。
実は俺は高校ぐらいの頃から、自分がゲイなんじゃないかと年に何度か疑う瞬間があるのだ。付き合った相手は今のところは女性だけなんだけど(今の記憶の限りでは)、こういう風に過剰に慕われると…ちょっとヤバイ。
いや、だから、違うってば。酔ってんだから、こいつは。(←自分に言い聞かせている)
寝よう。明日…じゃなくてもう今日か、出かけなきゃならんし。
コミックカフェ(と最近は呼ぶそうだ、つまりはマンガ喫茶)でネットつなぎつつ頭冷やし中。
須藤さん(俺の奥さんだった人の妹さん)に会って、事故直前までの俺がどんな人間だったのか聞かせて貰って来たところだ。
正直言ってかなり動転してる。
由紀さんには子供がいたそうだ。それを承知で俺は結婚したらしいんだけど、どうも、結婚半年後ぐらいから俺はその息子を虐待していたらしい。
その時に既に彼は13歳だったそうだから、腕力なら充分抵抗出来ると思ったんだけど、話を聞く限りではその息子はあんまり体力のある方ではなかったようだ。
写真見せてもらった。女の子みたいに小柄でえらい可愛いタイプの少年だった。
もちろん母親である由紀さんにはそれがかなり辛くて、妹である美佳さんにも何度か話をしていたらしい。
最終的に彼女が取った決断は、児童相談所に駆け込んで俺と息子を引き離すことだった。それはもちろん、由紀さんにとっても、息子と離れなきゃならない事態を意味する。
以来、彼は施設で暮らすことを余儀なくされたようだ。
その後で夫婦の間でどんなことが起こったのかは、俺も覚えていないし、美佳さんも知らない。
それから1年ぐらいで俺たちは事故に遭い、そして今に至る、らしい。
年齢を逆算してみると、今のその子は18だ。もう独り立ちしているだろう。
何があったのか知りたいという気持ちはあるけど、でも、もしこの春から彼が新しい生活を始めているのだとしたら、俺は会うべきじゃないだろう。当然ながら。
書いたら少し落ち着いた。
そうだな。今ジタバタしたところで、どうにかなるわけじゃない…むしろ、彼のためにも捨て去る過去にすべきなんだろうと思う。
それにしても、俺にそういう素質があったなんて予想外だ。もしそうだとしたら、そっちの方が問題。
あんな無害そうな少年に対して、何で俺は手を上げてたんだ? 何がそんなにムカついたんだろう?
ニュースとかでそういう事件があるのは知ってたけど、今まで自分に関係があると思ったことがなかった。
ショック。ちょっと関連するホームページとか読んでみたりしてる。
頭が重い。
まだ自分の中で自分の過去が整理出来てない。
そういう意味で離されたんなら、父親ですと名乗ったところで彼の行方を探すのは無理なんだろうな。事情を知る人ならなおさら会わせてくれるはずがない。
もしかしたら、あの数年間だけばっさり記憶が抜け落ちているのは、そのせいなのか。
俺自身が、それを思い出したくないから。だからそこにだけやたらと頑丈な鍵をかけてあるのか。
何があったんだ。知りたい。俺は何をした?「息子」になったあの少年に。
そのことが頭から離れなくて、堀部に仕事の質問されても間違ったことを言ってばかりいた。帰り際になって、金曜日のことを蚊の鳴くような声で謝られて、ちょっと反省。
どうも、あのせいで俺が邪険にしているとでも思われたらしい。
…参ったな。本当に気にしてはいないんだけど。
ここ最近、記憶についての記録(変な表現だな)を残すようになって気づいたことがある。
「あーほら喉元まで出てるのに、あれ何だっけ、あれ、ほら!」とか言いたくなるようなもどかしさを、この頃感じるのだ。
俺は多分何かを思い出そうとしているのだが、それが何なのかはよく分からない、というか。
このむずむずした感触を説明するのは難しいな…。
タンスの裏に落っこちた鍵が、取れそうで届かなくてイライラしているというか。
でもその鍵を拾ったところで、それをどう使うつもりで取ろうとしているのかは忘れてる。
拾ったら思い出せるかも。
そんな感じ。
律義な後輩くん、何だか距離を置かれている気配。先週の飲み会で褒め殺されてしまったのに、何なんだよその態度。火曜日からは仕事だってマジメにやってんだけどな、俺。
うーん。メシにでも誘ってみた方がいいんだろうか。
今日は堀部がうわの空の日か。
まあ事務屋部隊にとっては締め日が近いわけでもないし、そんなに影響のない日ではあるんだが、それにしても妙だったな。
やっぱじっくり話せるトコ行くか。やりづら過ぎる。色々と。
5月18日
どうも堀部のうわの空の原因は兄だったらしい。
あまり詳しくは話してくれないのだが、迷惑でなければ家に行ってもいいかと言われたんで、泊めてやった。
ずっとごろごろ寝返ってばかりで落ち着きがなくて、俺の方もなんだか気になって眠りが浅かった。
家に帰りたがらないので、そのまま適当に街をブラついてた。
久し振りにビリヤードなんてやったよ…。
なんとか言い含めて夕方には帰したけど、何なんだろうな。
…嫌な憶測だと、兄貴に何かされてんじゃないかと思うんだが…。
まあ、よその兄弟喧嘩に首突っ込むわけにも行かないしなあ。
うーん。杞憂だといいんだが。
5月20日
とりあえずOJTモードから徐々に離れて来てる。たまに唸ってるけど、わからんことは素直に聞いて来るヤツだから、ま、大丈夫だろ。多分な。
代休消化しろってうるさいから、月末の前に1日ぐらいサボるのもいいか。そろそろ。
まあ仕事のことはともかく…。
………いや、ヤメとこ。よその家の事情だ。あいつが、俺を必要としてるなら、いつでも肩ぐらいは貸すけど、それ以上は……。
ヤバイな、この感触。
正確にはもう25日。
こいつは学習機能がついてないのか(苦笑)。いや、酔いたかっただけなのかも知れないが。
部屋では本格的にくっつかれて、かなり対応に苦慮したよ、全く…。
でっかい子供だな…まるで。
何かトラウマでもあるのかね、堀部のやつは。
まあ、酔っ払いながらもちゃんと謝ってたし、頼りにされること自体は悪い気はしてないんだけど。
でもこういう形で甘えられるのは…ちょっと複雑な気分になる。
人生のうちで何度目なんだろう、男に対してこういう気分になるのは。
堀部、お前ホントにそれでいいのか?
これは…幸運と言うべきなのか、悪運と言うべきなのか…。
でも、変だな。俺は何で「知ってる」んだろう。
確かに俺は初めてじゃない気がする。
でも、おかげですごくイヤな(でもつじつまはピッタリの)可能性に突き当たった。
だとしたら…「息子」を探すのはもうやめよう。ダメだ。会うべきじゃない。彼にそれを思い出させるべきじゃないんだ。
今の俺は堀部に対して同じことをしないと言い切れるんだろうか…?
やっぱり知るべきなんだろうか。「虐待」の具体的な内容を。
そうすればもしかしたら思い出せるのかも知れない。思い出して、向き合わないと。何故俺がそんなことを仕出かしたのか、自覚しないと。
そうしないとまた繰り返す。そして、かつての「息子」がそうであったように、堀部もまた俺の前から姿を消すことになるのかも知れない。それは----避けたい。
知るべきなんだ、俺は。自分のひどさを。
昼休みに須藤さんに電話してみる。
かなり驚かれたが、全部を知りたい、そしてもう2度と繰り返さないように自覚したいんだ、と話したら承知してくれる。
準備期間が欲しいと言われる。それは納得。
明日の昼休みに再連絡くれるそうだ。
何だかヤバイ感じ。俺、あいつに完全に毒されてるかも。
なんなんだよ。妙に晴れやかになりやがって。表立っては別に接触して来るわけじゃない分だけ、余計に表情の変化が…なんか…気になって仕方ない。
うーん…。まあ、この世界でだって、体から始まって精神に侵食して来る関係も、あるとは思うけどなー。否定はしないけどなー。
このそわそわ感、高校生のガキにでもなった気分だ。
無自覚の無邪気が一番タチ悪いな。男でも女でも。
本題。
須藤さんから電話、口にメシ詰め込んでた時に鳴ったから焦った…。
30日に夕飯ご一緒する約束をする。
予想通りだった。
多分、自分の「記憶」としては一番知りたくなかったことなのだと思う。
向き合わないといけないことだと判っていても、自分にあまり自覚がないだけ、他人事みたいにしか思えないのが、怖い。
拒絶されてまで人を犯す度胸なんてあったのか? 俺に。
しかも相手は男で、…一応は、俺が愛していた(はずの)人の子供で。
そんなことが何故出来たんだろう。
最後にはその息子も「堕落」していた、という表現を美佳さんは使う。
施設に引き取られる直前には、彼もまた「父親」と離れることを泣いて嫌がっていたらしく。
でもまあ…虐待する親と虐待される子供の関係は、それだけで需要供給サイクルが成立してしまっているケースもあるわけで。子供の方も、そうされることで親が自分を必要としてくれているのだと思い込んでしまう場合もあるらしい。特にこういう事例は。
多分、その不幸な例外が俺たちだったんだろう。
でもそれは「親子」としては異常で。異常だからこそ引き離されて。
結局大人であった俺はズルい道を選べたわけだ。自分の汚い征服欲の行く先なんて、きっといくらでもあったんだ。俺は男で。付き合ってくれる女性がいて。
でも、息子は。
「息子」は、「愛されている」という誤解の上に成立していた自己を強奪されてしまった。
もう…。
こんなちっぽけな俺でなんか償っても償えない…。
でももう何も出来ないのか…?
せめて恨まれていれば少しは癒されるのに。それすら確認させては貰えないのか?
自分が怖い…俺の中には、自分でも扱い切れない武器が隠れてる。
いっそのこと表に出て来て欲しいのに。扱い方を考えなければ、いつそれが誰に向かうか判らない武器。
思い出したい。全部思い出してしまいたい。自分がそうなるに至った気持ちや行動の過程、そうすれば何かは出来そうな気がするのに。暴走しないための何か。
そうしなければ、思い出さなければ、このまま爆弾抱えてなきゃならないとすれば、
あいつを傷つけてしまいそうで、それが怖い----。
自分で必死にブレーキをかけ続けている、ことを自覚してしまった。
こんな風に誰かに言い寄られて、それで、少しずつ加減を考えながら手を伸ばして、段階を経て、触れて、深入りして、…そんな感じで付き合いが始まったことがある女性は、何人かいたことを、ふっと思い出した。
これも連想って言うんだろうな。
ただその時は、相手は女性だったわけで。相手も、距離が近くなればいずれそうなる可能性を想定出来ないほど子供じゃないわけだし、だんだん近づいてそうなる分には、健全な男女の恋愛過程なわけで、何の問題もない。
でもその相手が、戸籍上自分の「息子」だったとしたら。そして、その「だんだん近づく」過程をすっ飛ばして俺が一方的に暴走したんだとしたら、それは大問題だ。
…うまく言えないんだけど、
相手が女の子である場合、歩いて距離が近づいた、とか、体の何処かに手が触れた、とか、そこら辺から既に下心に対する警戒心(あるいは期待?)があるわけだけど、同性の場合は多少乱暴なスキンシップがあったとしても、誰も下心を疑わないよな。
だから、そのスキンシップが下心込みだということに気づいた時には、既にもうのっぴきならない所まで深入りするような行動になっちゃった後だったりする、ってことはないんだろうか。
だから、何の下地もなかった相手にとっては、それは暴走にしか見えなかった、とか。
堀部の場合はあまりに単刀直入なので逆に助かったんだな。
こいつの真意があからさまだったから、俺も迷わないでいられた。
でも、やっぱりちょっとブレーキはかけてる。これが無意識の自分からのSOSだとしたら、信じるべきだと思うから。まだ見ぬ俺は、それで手痛い失敗をしたんじゃないかと思えて来たから。
考えてみりゃ、これが「ブレーキ」だった自覚してる時点で、既に暴走しかけてるよな、俺も。
絶対に傷つけたくない。同じことを繰り返したくない。
立ち直らなきゃ。
ちくしょう。鍵は何処に落ちてやがるんだ?
6月7日
…5月はGWがあった分だけ、まだデータが少ないから助かった…。何とか5月度の処理が片付いた。毎月のこととは言え、第1週はぐったりするなあ…。
事務屋さん死屍累々な雰囲気。毎度のことだけど。
今週は遊びに来たいとか言い出さなかったな。さすがにあいつも目が回ったかな。
いくつかの書類をやっつけて月次の仕事は一区切り。後は名刺作れだの封筒作れだの雑用てんこ盛り。ま、それも仕事だけど。
例によってメールで飲みに行く話が回って来た。
同僚の女性が、また新人くん潰れるんですかね? 堀部さんも大変ですよねーなどとくすくす笑いながら話していた。
ははは。今月ので潰れるんならそれは確信犯だろうな(なんて改めて書いてみるとちょっと照れくさいが)。
考えてみたら、俺たちの関係って何なんだろう。
世間で言う「付き合ってる」ことになるのか?
週末、例の飲み会の後でまた遊び来たいというメールが堀部から入った。話したいことがある、そうだ。
仕事している時にちらっと見たら、一瞬慌てた後に目をそらされた。
うーん。
俺なんかまずいことやったかな。
堀部のやつが俺に言いたかった話は「はっきりして欲しい」ということだった。
勢いで寝ただけなのかどうかってことを。
俺はそんなつもりではなかった。ただ、----
例の過去が、影になる。俺はこいつに、「息子」と同じことをしてしまう危険はないのかどうか。
正直に話したつもりだ。その辺のことを全て。
そしてその時だった。真剣に俺を見上げていた堀部を見ていた時に…
「何か」が見つかったような…気がしたんだ。
記憶の中に封印されたいたものが連想されてふっと出て来た感じで。
もやもやしていた一部が晴れた…ような。
堀部は気にしないと言ってはくれた。でも、実際に気にしているのはこっちなんだ。だから、考える時間をくれないかと聞いてみた。承知してくれる。
こいつは…優しいな。想いを抱えていながら、俺をちゃんと気遣おうとしてくれている。
ごめん。
古い手帳を全て保管しておいて良かった。
堀部が帰った後、片っ端から手帳をひっくり返していた。
1つの住所に行き当たる。
なんか…頭の中がざわざわする。
行かなきゃ。
6月16日
その場所は、多分、俺が初めて訪れた時から変わっていないのだろうな、と思う。
その住所は孤児院だった。
手帳に走り書きされたメモで、それが何であるかは書いてはいなかった。
ぼーっと立っていた。胸の中のざわざわの正体が、つかめそうでつかめない。
もやもやとしていた。でも、はっきりと、そこに「何か」があるのだけはわかった。
出て来た職員らしき人が、俺を見て、何か思い当たるふしがあるかの如く眉をひそめた気がした。
被害妄想だろうか。
いや、でも、当時を知る人がもしいたら、俺という存在は嫌がられるだけだろう。承知している。
心ががくがく揺れている。
美佳さんが言うことが本当なら、会うべきじゃないと思う気持ちと、会って何かしら裁かれたいと、憎まれたいと思う気持ちが錯綜している。
会うべきじゃないと思うのは理性。会いたいと思うのは感情。
そうだな。俺は確かに会いたがっている。
自分の記憶ですら自分を裁いてはくれない。
苦しい。
…ったく、こいつは…、
いや。もう何も言わないでおこう。そういう性格なんだな。
先週以来、じわじわと判って来たことがある。
こいつの存在は、俺が探している「鍵」に何かしら影響を与えているような気がするんだ。
こいつと会って、口説かれる(苦笑)たびに、俺の記憶の中で何かがちょっと身じろぎする。
見えない化け物の息遣いだけ感じているみたいで、不気味さもあるんだけど、でも今の俺はその化け物を怖がるよりも正体が知りたい。そっちの方が優先度が高い。
悪いことをしているかも知れない。
俺は、半分ぐらいは、その化け物への興味のためにこいつと付き合ってるんじゃないかと思えて来た。
記憶の底の方から声がする。
堀部が何か言うたびにその声が重なる。
俺は思い出していたんだ。
でも、それを認めてしまうのを怖がっていただけなんだ。
声がする。
あいつもこんな声だった。
泣くような嬌声。でも絶対に止めて欲しいとは言わなかった。
そうだよな、修一。
少しずつ思い出したことを片っ端から書き始めている。
最初は母親、つまり俺の妻だった人経由だったような気がするけど、その辺はまだよく覚えていない。
記憶の開始点はあいつの笑顔だったから。修一の。多分12歳か13歳か。中学に入りたての頃。
あいつにとって俺は最初から父親ではなかったんだ。それは由紀さんと結婚するより前から。
----あー、そうだ。文字にすると出て来るって何なんだ?
この記憶が間違っていなければ、だが、俺が由紀さんと結婚したのは、元はと言えば修一に言われたのが先じゃなかったか?
違うか? 当時の俺。お前、彼女のことなんか好きでもなんでもなかっただろ?
由紀さんに夫になってくれと言われたんじゃなくて、修一に父親になって欲しいと言われたんじゃなかったっけ。それも、子供の無邪気さとは程遠い表情で。
6月26日
朝方、通勤途中で見かけた中吊り広告から飛躍的な連想が浮かんでしまってちょっと焦る。
入り口さえあればあとは全部つながって行くのか。
やっぱり俺は忘れていたんじゃないな。思い出したくなかっただけだ。
精神的に余裕がない状態では辛かろうとかいう、記憶の神様の思し召しなんだろうか。
出会った時は親子じゃなかった。あんな年頃で夜中にフラついてて、たとえ中堅地方都市とはいえ、あの時間にあんな場所にいたらヘンなやつに引っかかると思って、----いや違うな、それを言い訳にして大人のフリで近づいたんだ。
あいつはあの当時から週末はそんな風にふらふらしていたと言っていたような気がする。
してくれたら言うこと聞いてちゃんとおとなしく帰る、とかいうことを言ったような。
理由なんてどうでも良かったのかも知れない。あの時、一目で俺は、あいつをどうにかしたいと思っていたんだと思う。そうじゃなかったら、当たり前みたいに寝たりは出来なかった。相手は中学生なのに。
俺は穢れてる。俺こそが。
6月27日
作為的に俺は由紀さんと出会わされた。あいつによって。
それが判った時、少しだけあいつが怖くなると同時に、お互いにもう引けなくなった、と感じていたんじゃないかと思う。
父親になってくれるよね、と無邪気に息子の顔で笑いながら、その数時間後には、由紀さんと同じ屋根の下(由紀さん宅の一軒家)で声を殺してセックスに溺れてたなんてこともあった。
引きずられている、というのは言い訳で、俺自身ものめり込んでいる自分を止められなかった。
欲しいと思ったら絶対に離してはくれなかった。強引で淫乱な悪魔。
時々顔を出した「大人の理性」ですら、あいつは力ワザでねじ伏せにかかる。濡れた目で視線を捉えて、ぐずぐずに溶けた甘ったるい声でねだって、全身にキスを浴びせて、無理にでも勃たされて。
冷静でいられる間に叱ろうとしても、そうしてくれるだけで自分の存在に意味を感じられるから、と泣きそうな顔で頼まれる。見捨てないで。そばにいて。どんなひどいことされてもいいから、だから嫌いにならないで----。そんな風にすがりついて来たのしか思い出せない。
生々しさと現実感の薄さが同居してる記憶。
頼む。もう嘘はつかなくていい。
全部思い出させてくれ。ホントのことをすべて。
6月28日
あの時にそれを言いたいのはこっちだったのかも知れない。
そばにいて欲しかった。
親子になってしまったことを後悔した。
他人のままでいれば、「性的虐待」などというレッテルを貼られることは、多分なかった。
青少年健全育成条例とかいうやつに引っかかる可能性はあったかも知れないけど、再接触の可能性を考えれば、そっちの方がまだマシだ。
虐待した親とされた子の再会を許すことはないだろう。
でも他人ならとやかく言われることはなかったかも知れない。
定時退社して孤児院へ行って来た。
もうそこにはいないと言われた。
行く先は教えてくれなかった。
規則だからの一点張り。
さらに粘って来た。
地べたに土下座までした俺を不憫に思ったらしく、職員の1人がこっそり住所を渡してくれる。
何だか歯切れの悪い言い方で「行かない方がいい」みたいなことを言われる。
行かないなんてこと出来るわけがない。
でも、そのまま向かってはみたものの、そこは既に空き家だった。
売家の看板が出ている。
前の住人のものらしい郵便受けの文字をメモして来た。
何処かで見たことあるような…。
もやもやしていたものを、全部堀部にぶつけてしまっている。
これはこいつに対する手ひどい裏切りだと自覚していても、既に濁流になってしまった想いが止められない。
あいつと引き離されて、気が狂いそうなほどあいつが欲しくて、同時に自分の中にある汚れきった欲望に吐き気がした。
それを求めてくれる人がいたから保っていた平衡。
今の俺もそうだというだけだ。
こいつを失ったら、その時にまた俺は記憶喪失という確信犯で自分の人生をやり直す気でいるんだろうか。
最低だ。最低だ。最低だ。こんな男。
また同じ過ちを繰り返すことになるのは怖い。
あれほど切望していた記憶こそが、俺の抱えていた爆弾そのものだったんだな。
堀部が理解してくれているとはとても思えないけど、それでもあいつを振り切って家に戻って来た。
もう触れるのが怖い。あいつにも、自分の記憶にも、自分の気持ちにも。
こんなやつなんか忘れてくれ。あいつの目は真っ直ぐ過ぎて痛い。
俺なんかのそばにいるべきじゃないんだ。
こんな俺なんかの。
7月6日
逃げてると思われても仕方ないけど、これ以上個人的に接触を持つのが怖くてメールにした。
もう個人的に会うのはやめようと。堀部に。
これからも会社の仕事のことで相談があるなら話を聞く、とも。
返信は返って来てない。3時間も携帯眺めてた。
まだ読んでないだけかも知れない。もう寝る。
7月8日
堀部が休んでいる。
総務の子の話では、お兄さんが電話して来て、風呂でコケてちょっと怪我して入院したという話だ。
命には別状なく、数日で退院するらしい。
雑務な仕事が少し残っていてまだ忙しいんだが…まあ、怪我じゃ仕方ない。
ちょっと気になって堀部の携帯に電話してみたらお兄さんらしき人が出た。
電話帳登録されていたらしく、名前を全部名乗る前に「いつも匠がお世話になってます」とか丁寧に言われてしまった。
でもその後に出て来た言葉で今ちょっと動揺してる。
お兄さん、俺が週末に入り浸っていた相手であることを知っていた。
関係も。
だからこそ話すんですが、という前置きで、風呂でコケたというのが嘘だと話してくれた。
本当は----手首切ったそうだ。
7月9日
周りには何も話さず、仕事を早々に片づけて病院に飛んで行った。
本人は寝てるそうなので、病室の外で少し話した。
命に別状ないのは本当だそうで。
お兄さんは淡々としてる。「いつものこと」らしい。
ただ、会社行ってからはその癖は治まっていたとか。曰く「いい先輩に出会えたみたいで」。
なのにどうして突然こんなことになったのか、小田原さんならご存知なんじゃないかと思ったんですが、なんて、冷静な顔で下手に出て尋ねられて言葉に詰まる。
多分、彼の中でもう答えは出てたんだとは思うから、俺は詳しい事情は全部取っ払って例のメールを見せた。個人的に会うのはやめようと告げたメール。
そしたら、試すようなことしてすいませんと謝られた。
堀部のやつ、部屋のベッドに携帯放置していたらしい。俺のこのメール開いたままで。
血を流して倒れている弟を見つけたお兄さんは、事情が事情なので、悪いとは思いながら画面見てしまったと。
----つまり(状況から判断すれば)、あいつは俺のこのメールを読んで衝動的に手首切ったとしか思えないわけで。
おかしくなりそうだ。
7月10日
罪悪感で仕事が手につかない。
連絡のためにお兄さんとメールアドレスを交換したんだが(仕事中にこの件で電話されてもさすがに取れないので)、退院したとメッセージが入っていた。
明日は会社に行くと本人は言っているらしい。
傷痕が消えるまで包帯巻いてくので、派手にぶつけた時に手首をひねったことにするから話を合わせておいて欲しいそうだ。
その連絡とは別便で、お兄さんからの「お願い」が。
堀部が実は元・孤児で、そのせいか自分を思ってくれる人がいると思うと過剰に頼り過ぎる傾向があると。だから、もし堀部を本気で切りたいなら、情け容赦なく、喧嘩ごしでもいいから、きっちりと説明してやってあげてほしい、と。
逃げるなということか。
会社では一言も個人的な話はしなかった。
あんなことをしつつも、メールの件については理解してくれたのだと思うことにする。
「説明」の必要はないかも知れない。
よく解釈し過ぎてるか?
仕事も一段落したのをいいことに、ちょっとだけ会社のパソコンで調べ物。
…の最中に、ふと思い当たってあれを検索に放り込んでみた。
そしたら思いもよらない情報が引っかかった。
…雉川修一って。
会社終わってからコミックカフェ(つまりはマンガ喫茶)で関連記事を読み漁った。
間違いない。その経歴を辿る限り、全部「記憶」と一致してる。
脱税で騒がれたあの会社の次期社長候補として養子に取られていて、18になって留学した先で惨殺されたらしい。去年だ。
嘘だろ。
あいつ…死んだのか?
ずっと部屋でぼんやりしていた。
あいつがもうこの世の中にいないんだと思ったら妙に気が抜けた。
もう誰もいない。
俺を裁いてくれる人間がいなくなってしまった。
苦しい。
帰省したと思われてたようだ。まあ、それでもいいけど。
行く先は特に告げなかったし。
行ってどうなるものでもないけど、行くことでけじめは付いた気がする。
ただ惨殺されたとしか記事になってなかったけど、行ってみたらそういうことかと妙に納得が。
ナンパされかかった…男に(笑)。
そういう街なんだ、あの辺りは。
そういう街でそういう暮らしをしてて、そういうのを差別する輩に目をつけられて、というのがどうも真相らしい。日本人だし、体力なさそうだし、向こうにヘイト・クライムという類の犯罪が在ることすらあいつは知らなかったんだろうな。
ある意味で無垢過ぎるヤツだったし。
あいつの中で俺への気持ちがどう処理されていたのか、ふと考えることがある。
なぜ「父親」を望んだのか、ってこと。
あのままでも良かったはずなのに。街で会って、普通に「付き合う」ことも出来たはずなのに。どうして24時間一緒にいる関係でなければならなかったんだろう。
何となく辿り着いた結論。それは、あいつが求めていたのがやはり父親そのものだったってことだ。庇護してくれる大きな存在。そんな漠然とした何か。
ただ、愛情という言葉を表現する手段をあいつは他に知らなかった。多分、信頼という言葉にだってセックスがついて回ってた。
あいつにとってセックスは、犬や猫が飼い主に腹を見せるのと同じような意味しかなかったんだろう。恐らく。
そうすることが、自分を見せることだと思っていた。それしか方法を知らなかった。
聞かなかったし、聞けなかっただろうけど、多分俺の前の父親があいつをそんな風にしたんだろうと思う。
あいつは歪まされていただけだ。それに引きずられた俺ももちろん同罪なのだろうけれど。
給湯室であいつが手首切ってた。
ただ偶然果物ナイフに掠っただけだからと笑ってたらしいけど、俺には分かってしまった。
目で縋られたからだ。
アドレス変えたの気づかれた、かな。
しかし女子社員たち…真っ先に俺呼びに来るって何だかなあ。もちろん気づかれてる訳じゃないだろうけど。
新アドレス教えて欲しいと言われた。
それ言うだけで泣きそうに勇気が必要だってのは分かるけど、でもそれだけで泣かれるのは俺としては非常に不本意だ。
なるほど。お兄さんの言っていた言葉が嫌な形でじんわりと実感。
すっぱり切れ、ってことか。
悪い。堀部。やっぱ俺にとってお前はただの鍵だった。
拾って、使い道を思い出して、使ってみたら、それでおしまい。
付き合いたいと言われた時からずっと引っかかってたことは多分それなんだろう。
俺は対等な人間としてこいつに向き合うつもりが最初からなかったんだと思う。
あいつにとってそれがいかに残酷なのかは分かってるけど、このまま引きずり続ける方がもっと残酷だろうから、なるべく冷たく、ウンザリした感じで、断っておいた。
堀部の方から微妙に避けられてる気配。
これで良かったんだと思う。
あいつほど粘って来なかったのは、年齢のせいかな。
もちろんそれでいいんだけど。
多分、その先にあるのはまた同じ繰り返しのような気がするし。
俺の中に抱えられた爆弾はきっと、なくなることはないんだと思うから。
--- End of side B..... to be continued to side A, and another story(?).
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