知り合える人の数などしれている
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いくら文明が発達しても、人間の能力には限界があるものです。
古い知り合い達との会合は、楽しくもあり、自分を見直す機会ともなった。知り合いと友達、さらには親友との境界はどうやって決まるのだろうね。それともそういうけじめをつける行為は傲慢なんだろうか。人脈ともいう。いやな言葉だね。派閥とか、同志なんて言葉もある。愛人や恋人、配偶者は知り合いなのか?本当に知り合っているのかな。
仲間だと思っているのは自分の勝手だよね。相手はそうは思っていないかもしれない。単なる知り合いにすぎないかもしれない。だからって確かめたりするのは相手に無礼だよね。
「愛してる?」って聞きたがる人というのは傲慢なのか愚かなのか。
「あたしとあれとどっちが大事?」なんて聞いてくる人は下品だよ。
傲慢でも愚かでも下品でも、そういう人達と知りあった己もまた傲慢で愚かで下品なんだろうね。いなむしろ己がそうだから、そういう人達と出会うのかもしれない。あいつと出会わなかったら、こうはならなかったと言う前に、そういう連中と関わり合いたがっている自分を発見すべきだろうか。自分を磨けともいう。それも傲慢な考え方だと思う。人間に優劣をつけるなんて創造主に対して不遜だろう。仏の前ではすべての人間どもは愚かなんだから。
知り合いを求めてネットワークをさまよい、出会いの機会を得ようとする。生活空間を実世界から仮想世界へと広げていった。その結果、いったいどれくらいの人間と知り合えるだろうか。一生かけて知り合える人の数など知れている。浅く広く知り合える人を探すべきか、それとも深く狭く知り合える人を探すべきか。親を選べないなら、生まれる場所と時代を選べないなら、選択の幅を広げる為にも仮想世界は有用かもしれない。
でも、そうじゃないとしたら、己が選んで親や場所時代を選択しているとしたら、ネットワーク時代に生まれたいと希望していたとしたら、それは必須の行為だといえる。それをしないというのは、自分に対する反逆であり、創造主や仏への裏切となる。
人は一人では生きていけないという。それは物理的要因よりも精神的要因でよく言われる。本当だろうか。果たして人間の精神は一人一人独立したものなんだろうか。群体という生態をとる生き物がいる。茸のように巨大なシステムが単一の菌糸で成立している生き物もある。ネットワークが人間の基本だと仮定したなら、それこそ単一の生き物だと言えるけど、だからといって己という精神の独立は保証されているのだろうか。自分は自分だといえるだろうか。大きなネットワークの一部だとしたら、お互いに影響しあっているのじゃなくて、お互いに依存しあっているからだ。依存された精神なんて考えるのは「独立」「自由」が尊いと考える西洋的思考にはなじまない。
確実に急速にネットワーク社会は顕在化している。そろそろ東洋的思考に立ち返ってみてもいいのかな。インターネットが新しい人間関係を作ると考えるより、人間とはそもそもインターネット的存在だから、そういう仕掛けを文明の力で再発見したにすぎないと考える方が素直だと思えてしまう。そこにはオンもオフも関係ない人間の本質が隠されているように思う。耳を澄まし、目を見開いて、鼻を広げ、手足を伸ばして、感じてみよう。そうなにか感じないか。つながっている存在だということを。
1999年12月17日 11時09分30秒より...
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