◆◆◆ 津堂城山古墳・津堂八幡神社 ◆◆◆ | |||
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市内2番目の桜景観エリア 桜の本数でもエリアの規模でも、大井水みらいセ ンターに次いで2番目となるのが、この津堂城山古 墳エリアです。もっとも、広い古墳の中でも桜のあ る範囲は限られています。桜が植えられているのは 主として古墳の南西側の周濠跡で、大小130本ほど の数になります。墳丘部では、後円部西側にある津 堂八幡神社の周辺や前方部にある広場に、合わせて 30本近くがあります。総計で160本近くの数となり ます。 それに対して、反対側である古墳の北東側の周濠 跡や墳丘部には、今のところ1本もありません。こ れは、津堂城山古墳が史跡公園として整備される前 の状態や整備される過程などが、部分によって違っ ていたことによるものではないかと思います。 史跡・津堂城山古墳 津堂城山古墳は昭和33年(1958年)に国史跡に指定 され、その後追加指定も受けています。中世の室町 時代に城が築かれたことから、後に「城山」と呼ば れるようになっていました。 4世紀後半に河内平野に最初に登場した大型前方 後円墳だと考えられています。現在までの発掘調査 などによって、二重の周濠と堤を備えた巨大前方後 円墳であったことがわかっています。 現在は内堤・外濠・外堤の部分は民有地となって いて市街化していますが、外堤まで含む古墳全体の 規模は、全国1番の規模である堺市の大仙古墳(仁徳 天皇陵)、2番の羽曳野市・誉田御廟山古墳(応神天 皇陵)に次ぐものです。二重以上の堤や周濠を持つ形 もこれらの古墳と類似するものです。 ![]() |
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@ 古墳南西側周濠跡の桜景観(南東より) 2019(平成31)年4月 合成パノラマ | |||
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A 墳丘南西側裾部と周濠跡の桜景観(北西より) 2019(平成31)年4月 合成パノラマ | |||
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B 墳丘南西側裾部の桜景観(南より) 2019(平成31)年4月 合成パノラマ | |||
これらのことから津堂城山古墳も天皇陵(大王墓)であるとする説も以前からあります。もし、この古墳が天皇陵だということになると、 他の天皇陵のどれかと入れ替わることになります。そのことが及ぼす影響には計り知れないものがあります。天皇陵(大王墓)ではないとす る説も有力で、現在までのところ決着には至っていません。 そんな謎を秘めた津堂城山古墳ですが、明治時代の末期に偶然の出来事から石棺が発見されました。それまでの例にない大変立派で精巧 な造りの石棺で、大きさも最大級のものでした。副葬品にも立派なものが多くあり、皇族かそれに次ぐ高貴な人の陵墓ではないかと、大変 な騒ぎとなりました。それまで何の陵墓指定もされていなかった津堂城山古墳ですが、時の宮内省は急きょ対応を迫られ、古墳の後円部頂 だけを「藤井寺陵墓参考地」として指定したのでした。現在もその指定のままで、指定の範囲はフェンスで囲まれて立ち入り禁止区域とな っています。「陵墓参考地」とすることで、皇族の陵墓の可能性を一応は確保しておいた、ということでしょう。古墳全体を指定するには あまりにも墳丘や周濠の変形が甚だしいということも影響したと思われます。 津堂城山古墳は、様々な点で興味がそそられる古墳ですが、詳しくは他のページで取り上げています。また、藤井寺市公式サイトにも詳 しい内容の掲載があります。 ![]() 桜と季節の花 津堂城山古墳の桜は何ヵ所かの見所があります。メインは、やはり@Aの写真の桜でしょう。墳丘の南西側の裾部分に並ぶ約50本の桜 です。多くはソメイヨシノですが、違う品種も10本足らずあります。ここの桜の下にシートを広げて花見を楽しむ家族連れやグループの 姿がよく見られます。すぐ前には周濠跡の草地が広がっていて、その緑と桜の花色が良いコントラストとなっています。周濠跡は土で埋ま っていますが、この部分はくぼ地になっていて半ば湿地状態です。草地の外側には@の写真の左に見える道路に沿って桜並木が見えます。 この桜並木に沿って水路がありますが、最近その水路が暗渠化されて上に歩道が造られました。周濠跡との境にはフェンスも設置されてい ます。 2018(平成30)年9月4日、近畿地方を通過した台風21号が、大阪府内でも様々な被害をもたらしました。各地で桜の倒木や枝折れの被害が 伝えられましたが、津堂城山古墳でも被害が出ています。桜の木が最も多い墳丘の南西側裾部分では、古木のソメイヨシノが3本程度失わ れました。枝折れもあちこちで見られます。津堂八幡神社の周りでも、ヒマラヤスギの大木やイチョウの木で多くの枝折れが起きています。 次いで挙げられるのが、BやEの光景です。古墳の南側から近づいて来ると、まず目に入るのがこれらの桜です。これら桜の景観は、周 濠跡部に広がる草地の若葉の緑と桜の色との見事なコントラストが、訪れた人々の目に強いインパクトを与えて映ります。 Cは墳丘の北西端にある津堂八幡神社周辺を見た様子です。手前側は周濠跡の北西部分に造られた「城山古墳津堂草花園」と名付けられ た広い花壇の一部で、春秋の花が植えられます。Cの左手に続く草花園の場所がDの景観です。最近は、連作障害の影響なのか、菜の花に 以前ほどの元気が見られないのが惜しまれます。秋にはコスモスの花に変わり、季節の彩りとなって訪れる市民を楽しませてくれます。 Eは墳丘南西側の裾部に連なる桜の一群です。墳丘法面から周濠跡にかけて並んでいます。樹齢的には勢いのある時期だと思われますが、 上記の通り、2018年の台風で何本かの桜が被害を受けてしまいました。全体の桜景観も変化するほどの影響を残しました。 Fは墳丘の一部を利用して造られた「津堂児童遊園」の端に見られる景観です。写真BEで見える並んだ桜を反対側の墳丘前方部の上か ら見た様子です。墳丘裾の斜面に植えられている桜が大きくなったので、上側にある児童遊園のグラウンドからもよく見えます。平面の場 所で花見ができるので、ベビーカーを使う家族連れなどには利用しやすい所です。Fの桜を墳丘下側の近くで見た様子が写真Bです。場所 が広いので、思いっきり伸ばした桜の枝ぶりが見事です。大きな枝の下でシートを広げ、存分に桜を楽しむグループや家族連れも多く見ら れます。 |
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C 津堂八幡神社周辺の桜(北西より) | D 南西側の周濠跡草花園(北より) | |
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E 南西側の墳丘裾(北西より) | F 方部南側・児童遊園南西側(北西より) | |
C〜Fは2019(平成31)年4月撮影 |
よみがえった津堂城山古墳 かつて周濠跡は湿地状態で放置されている部分が多く、一部は水が溜まって浅い池や沼地のような状態でした。削られて変形していた墳 丘部は、半分近くが耕作地となっていました。つまり、古墳としての保存や保護の手だては何も施されてはいなかったのです。津堂城山古 |
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墳の持つ学術的価値もまるで忘れ去られてしまったかのようでした。 昭和40年代以降、高松塚の壁画発見が契機となって古墳の保護・保存 への関心が高まってきました。藤井寺市でも津堂城山古墳や古室山古墳 などを古墳公園化する計画が動き出し、特に津堂城山古墳については、 発掘調査も含めて総合的な保存対策が図られてきました。古墳の現存部 分を公有地化すると共に、周濠部分を中心として発掘調査と整備が進め られました。それらの事業の中で造られたのが「津堂草花園」です。墳 丘の反対側にある北東側の周濠跡には池や湿地であったことを活かして 「城山古墳小山花菖蒲園」が造られました。初夏にはいろいろなハナシ ョウブやスイレンを楽しむことができます。 草花園の北側、後円部周濠跡の北側隣接地に、「史跡城山古墳ガイダ ンス棟『まほらしろやま』」が市によって造られています。津堂城山古 墳をガイドする展示室があり、古墳から出土した大型埴輪や土器などの 展示もあります。建物にはトイレも設けられており、自販機も設置され ています。 ガイダンス棟の前庭には、津堂城山古墳の竪穴式石槨の天井板だった 石の実物が展示されています。明治時代末期に掘り出されて、神社の記 念碑などに転用されていたものです。2017年春からは、この前庭に津堂 城山古墳で発見された長持形石棺のレプリカが展示されています。 このレプリカは、記録されていた石棺のデータに基づいて忠実に複製 |
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G 整備される前の津堂城山古墳の様子 1975(昭和50)年 | ||
墳丘部分のかなりの範囲が耕作地となっている。北東側の周濠跡では一部が 池となって残っている。北から南西部にかけての周濠跡は湿地のような状態で、 数ヶ所の水たまりが見られる。現在見られるたくさんの桜の姿は、この頃はまだ なかったようである。 〈1975(昭和50)年1月31日 国土地理院〉より 一部加工 |
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されています。大きさや形状はもちろん、材料の石材も実物と同じ竜山石(たつやまいし)が使用されています。総重量は約16tにもなる巨大な石 棺です。「津堂城山古墳」ページに写真があります。 このガイダンス棟は、古墳を巡り花見を終えてひと休みするのに、ちょうどよい場所となっています。きれいに整備され桜や菜の花が広 がる光景からは、3、40年前の荒れ放題だった古墳の姿はちょっと想像しにくいでしょう。考古学的にはまだまだ解明すべき課題はたくさ んありますが、とにかくひと息ついたと言えるような津堂城山古墳の存在は、貴重な文化財として大切にしていきたいものです。 ![]() |