古墳の名称と種別 |
番号 | 墳形 | 古 墳 名 | 種別 | 遺産 | 番号 | 墳形 | 古 墳 名 | 種別 | 遺産 | 番号 | 墳形 | 古 墳 名 | 種別 | 遺産 | ||
1 | ![]() |
誉田御廟山古墳 | ◇※◆ | 33 | 19 | ![]() |
鉢塚古墳 | ◇ | 24 | 71 | ■ | 島泉平塚古墳 | ◆ | |||
2 | ![]() |
仲津山古墳 | ◆ | 26 | 20 | ![]() |
唐櫃山古墳 | ◇ | 72 | ■ | 中山塚古墳 | ▲ | 29 | |||
3 | ![]() |
岡ミサンザイ古墳 | ◆ | 23 | 21 | ![]() |
蕃上山古墳 | 73 | ■ | 八島塚古墳 | ▲ | 30 | ||||
4 | ![]() |
市野山古墳 | ◆ | 25 | 22 | ![]() |
鞍塚古墳 | 74 | ■ | 鍋塚古墳 | ◇ | 27 | ||||
5 | ![]() |
墓山古墳 | ◇▲ | 38 | 23 | ![]() |
稲荷塚古墳 | ◇ | 75 | ■ | 東山古墳 | ◇ | 34 | |||
6 | ![]() |
津堂城山古墳 | ◇▲※ | 22 | 26 | ![]() |
小白髪山古墳 | ▲ | 76 | ■ | アリ古墳 | |||||
7 | ![]() |
前の山(軽里大塚)古墳 | ◆ | 45 | 32 | ● | 島泉丸山古墳 | ◆ | 77 | ■ | 西馬塚古墳 | ▲ | 41 | |||
8 | ![]() |
野中宮山古墳 | 33 | ● | 青山古墳 | ◇ | 43 | 78 | ■ | 栗塚古墳 | ▲ | 35 | ||||
9 | ![]() |
古室山古墳 | ◇ | 31 | 34 | ● | 誉田丸山古墳 | ▲ | 33 | 80 | ■ | 野中古墳 | ◇ | 39 | ||
10 | ![]() |
野中ボケ山古墳 | ◆ | 35 | ● | 高塚山古墳 | 81 | ■ | 助太山古墳 | ◇ | 28 | |||||
11 | ![]() |
高屋築山(城山)古墳 | ◆ | 36 | ● | 宮の南塚古墳 | ▲ | 83 | ■ | 割塚古墳 | ◇ | |||||
12 | ![]() |
白髪山古墳 | ◆ | 51 | ● | 藤の森古墳 | 85 | ■ | 東馬塚古墳 | ▲ | 34 | |||||
13 | ![]() |
二ツ塚古墳 | ▲ | 33 | 52 | ● | 蕃所山古墳 | ◇ | 87 | ■ | 珠金塚古墳 | |||||
14 | ![]() |
大鳥塚古墳 | ◇ | 32 | 55 | ● | 衣縫塚古墳 | ▲ | 88 | ■ | 隼人塚古墳 | ▲ | ||||
15 | ![]() |
はざみ山古墳 | ◇ | 37 | 57 | ● | 落塚古墳 | 89 | ■ | 野々上古墳 | ▲ | |||||
16 | ![]() |
峯ヶ塚古墳 | ◇ | 44 | 67 | ● | 塚穴古墳 | 92 | ■ | 松川塚古墳 | ◇ | |||||
17 | ![]() |
高屋八幡山古墳 | ◆ | 69 | ■ | 向墓山古墳 | ▲ | 40 | 97 | ■ | 赤面山古墳 | ◇ | ||||
18 | ![]() |
盾塚古墳 | 70 | ■ | 浄元寺山古墳 | ◇ | 42 | 120 | ? | サンド山古墳 | ▲ |
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「古市古墳群の空中写真」「古墳の名称と種別」「70年ほど前の空中写真」について ※ 誉田御廟山古墳の国史跡は、古墳西側の外濠・外堤跡の遺構のみが指定されています。また、津堂城山古墳の陵墓参考地は、 後円部頂の部分だけが指定されています。 ※1 空中写真には番号表示以外の小古墳も写っていますが、画面上での視認が困難なものについては省略しいています。古墳群の 全古墳については別ページ「古市古墳群の分布と一覧」を参照してください。 ![]() ※2 各古墳に付けられている番号は、別ページ「古市古墳群の分布と一覧」の一覧表の番号と一致しています。また、この番号は 上下の空中写真とも共有されています。 ※3 一覧表のグレー番号及び1947年空中写真の白抜き番号は、消滅して現存しない古墳です。 ※4 墳丘の形は、 ![]() 現状は異なる形状に変わっているものがあります。 ※5 「遺産」欄の番号は、文化庁サイト「世界遺産−百舌鳥・古市古墳群−古代日本の墳墓群−」掲載の構成資産番号です。33は 誉田御廟山古墳(33-1)・誉田丸山古墳(33-2)・二ツ塚古墳(33-3)を一体と見なして1件に扱われている番号です。 古市古墳群全体では26基の古墳が24件の構成資産として示されており、従って番号は22〜45です。 ※6 120番サンド山古墳は「応神天皇陵へ号陪冢」に指定されていますが、詳しい調査はされておらず、本来の墳形は不明です。 ![]() ![]() |
70年ほど前の空中写真 | ( 1947年 ) | |
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〔1947(昭和22)年9月23日米軍撮影 国土地理院〕より 文字入れ等一部加工 ※ 写真中の市名と境界は現在のものを示す |
60年ほど前の鳥瞰写真 | ( 1960年頃 ) | |
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末永雅雄著『古墳の航空大観』(学生社 1975年)より 左右見開き写真を合成し上下トリミングの上、文字入れ加工。 |
1947年写真から13,4年後の写真です。古墳の研究にいち早く航空写真を取り入れた故・末永雅雄氏の有名な著書『古墳の航空大観』の 写真をお借りしました。古市古墳群の中心部を南西から俯瞰した写真ですが、この範囲の左側(西側)には、大型前方後円墳の岡ミサンザイ 古墳と津堂城山古墳があります。 高度経済成長期に入って行く昭和35,6年頃の撮影と思われます。1947年写真と比べて見ると、古市古墳群のエリア内でもあちこちに新 しい住宅地のできている様子が見て取れます。この後、この地域一帯は急激な人口増加を迎えることとなります。地域が変貌していく時期 のちょうど最中の様子を伝えてくれる貴重な1枚です。 |
色別標高図で見る古市古墳群の鳥瞰図 |
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国土地理院サイト「地理院地図 Globe」で『色別標高図』を鳥瞰図化 色補正及び文字入れ等一部加工 |
上の図は国土地理院サイトの「地理院地図 Globe」で、古市古墳群の『色別標高図』を鳥瞰図化(色補正・文字加工あり)したものです。 南から北方を俯瞰的に見た様子ですが、立体感がよく表れるように、色の濃さやコントラストを強調してあります。斜めから見ることで 土地の凹凸の様子がわかりやすくなっています。南から北へ向けて、ゆるやかな傾斜地形となっていることもわかりやすくなりました。 国土地理院は、2016年春に「地理院地図Globe」というサイトの試験公開を始めました。これは、「『誰でも・簡単に・日本全国どこで も』地理院地図を地球儀のように、シームレスに3次元でみることができる。」という優れものです。標準地図や空中写真、色別標高図な どを3D化して鳥瞰的に表示することができます。これを利用して藤井寺市とその周辺を鳥瞰図化してみました。 古市古墳群の大型前方後円墳が、台地性の地形をうまく利用して築かれていることをこの3D化図が示してくれています。また、石川水 系の水路からは水を引けない丘陵部分に、ため池が現在でも多いことがよくわかります。かつてはもっとたくさんのため池がありました。 Google Earthの衛星写真も3D化することができますが、藤井寺市のようにほぼ平坦な地形では、この程度の高低差は写真ではよくわか りません。そんな時に、この『色別標高図』の3D化図は大いに役立ってくれます。この図は別ページ「藤井寺市の地形」と共有です。 |
古墳の消滅と利用 古市古墳群では、古墳群に属する古墳の多くが消滅してしまっています。現代に入ってから地域開発のために破壊されてしまったもの も多いのですが、近代以前に消滅して埋没古墳となっていたものもたくさんあります。最近の発掘調査によって新たに埋没古墳の見つか る例も続いています。今後もその数は増えていくことが予想されます。 過去に古墳が消滅してしまった原因は様々でしょうが、ずっと昔に古墳(墓)の管理体制が崩れてしまい、中小古墳の多くが民有地や村 の入会地などになってしまったことが大きな原因の1つだと思われます。現在天皇などの陵墓とされる古墳でさえも、村の入会地的な扱 いをされていたものがあるぐらいです。民有地となったものは、現代の都市化時期になって土地売買の対象となり、住宅地や工場・施設 などに変わっていきました。特に現在ほど古墳保護・保存の意義が論じられることの少なかった昭和30・40年代の高度経済成長期には、 短期間にいくつもの古墳が消滅していきました。上の2つの写真を比べてもらえばわかりますが、藤井寺市域でもこの時期に消えていっ た古墳が少なくありません。あるものは道路建設で、あるものは府営住宅建設で、またあるものは上水道のポンプ場建設でと、国や自治 体の公共事業や公共施設建設のために消滅した古墳もかなりありました。事前にそれなりの発掘調査が行われ、詳細な調査記録と出土遺 物が残され保存されていますが、古墳そのものの姿は今では写真の中にしか見ることはできません。 一方、古墳の形状などは変化してしまっているものの、古墳自体の存在は維持しつつ、墳丘や周濠跡を現代社会のために積極的に利用 するという例もあります。古墳の保護・保存の観点からすれば、これは“やらないよりまし”保護で次善の策なのですが、とにもかくに も古墳の物理的存在は継続されて消滅は免れています。“古墳の利用”が、消極的ながら結果として“古墳の保存”を実現したとも言え るのではないでしょうか。この例について見ると、古市古墳群の中でも市域面積の少ない藤井寺市に多く見られます。公共施設用地の確 保に苦労した藤井寺市では、古墳を公共施設にうまく利用した例がいくつもあります。以下に例を挙げてみます。 ◆古室山古墳 ― 古墳全体をまるごと公園化する事業が進められています。かつてはほとんど全体が民有地だったため、古墳内には民家 や工場が並んでおり、墳丘には畑や果樹園も耕作されていました。現在では多くの部分が公有地化されて墳丘も整備され、市民の良き憩 いの場となっています。墳丘上まで自由に出入りできる中規模の前方後円墳で、貴重な存在です。 ◆野中宮山古墳 ― 墳丘前方部の多くは昔から土地利用されてきました。古くには寺院にも利用されたようですが、その後は明治期から 小学校や分校の校地として利用されました。最近まで市立幼稚園の分園が存在していました。後円部頂には野中神社が鎮座しており、旧 野中村の氏神として地区の人々に大切にされてきました。周濠の南側部分は埋め立てられて、1986年に宮山児童公園が開設されました。 ◆鉢塚古墳 ― かつては周濠と隣の苅田池が1つの池になっていましたが、昭和40年代中頃に周濠の北側と東側が埋め立てられ、最近ま で市立幼稚園用地に利用されていました。 ◆津堂城山古墳 ― 中世に城が築かれたことで墳丘の形状が大きく変形してしまっています。後円部中腹には津堂八幡神社が祀られてい ます。少年野球の練習などに利用されるグランドもあります。この古墳も全体が古墳公園として整備されてきました。ガイダンス棟も建 設されました。周濠跡地の多くが草花園として利用されており、季節の花で彩られます。市内では桜の名所の1つでもあります。 ◆市野山古墳 ― 一部残っていた外濠の跡を埋め立てて、市立第5保育所が建てられました。この残存外濠は、市野山古墳が二重濠を持 つ古墳であったことを示す貴重な遺構でもありました。 |