原型(オリジン)に対する複製体の意。「レプリ人」と書いて複製人間の略、ではないのでくれぐれも注意。
ここでは基本的にピサ・ソールの物質復元装置とパスキューマシンを含むそれに順ずる一連のシステムによって複製された存在一般を指し、生命体に限らず、建造物などの施設、AIロボット、果ては天体なども含まれる。複製に当たっては複製体の質量に相当する暗黒物質が必要とされ、構成された物体の維持エネルギィは基本的に物質復元装置から放射される物質再生波動によって供給される。しかし生物のレプリジンの場合運動などの活動用エネルギィの調達や内臓諸器官の自律機能維持のため食事などの栄養供給を必要とし、それによる新陳代謝も起こる。つまりオリジナルの生物と外見上も、生態も変化が極めて少ないために、余程厳重な検査をしない限り、レプリジンであると判別する事は難しい。しかし一方で生物、特に動物のレプリジンは維持が難しいらしく、システムが不完全な状態で復元されたり、生体構造に致命的な損傷を受けると、その身体構造を維持できなくなり短時間で暗黒物質に還元してしまう。
いまひとつ、生体レプリジンにおける重要な問題がある。即ち知的生命体の複製に関する問題である。「プログラム」にも相当する事だが、レプリジンはオリジンと同じ能力、同じ記憶、同じ思考、つまり確固とした人格を有して複製される。複製されるまでオリジンとレプリジンは物理的にも精神的にも全く同一の存在であるのだが、複製が完了した段階で、彼らは全く別個の自我を持った存在として自立することとなる。故に自身と同じ本質を有した存在が別個にあることを自覚した段階(マモル少年「たち」で言えば、対面の瞬間。パピヨンで言えば、推測によって結論付けた瞬間)で、「それぞれに」精神的な変化を遂げるが、多くの場合レプリジンであることを自覚した方にこそより大きな変化がもたらされる。自身が存在として本質的にオリジナルではないという認識は、知的生命体にとってアイデンティティ・クライシスを引き起こしかねないほどの重大性を有しているが、これをいかに受容するかの選択をレプリジンは否応なく迫られるのである。同じ生物でも確固とした自我を有しない場合には決して起きない変化であろう。ありのままに受け入れるか、事実に反発し自らオリジンに成り代わろうとするか、あるいは諦観に陥るか。選択肢はそれこそ千差万別である。しかしどのような形であれ、この問題を受容した段階、正確に言えば認識した段階でオリジンとレプリジンはもう全くの別人といっても良い。なぜならその段階でもうオリジンとレプリジンには全く異なる記憶が蓄積されているからである。言い換えるなら、複製の瞬間、彼らの人生は異なる可能性に向かって分岐したのである。分かたれた人生をいかに生きるかは、最早彼ら自身の選択に委ねられる他ない。つまりは我々と同じである。天海勇氏ではないが「授かり方がちょっと他の子と違っただけ」なのだ。故にレプリジンであることを理由に、彼らを一概に「偽者」と呼ぶことは出来ない。彼らを「偽物」と断じるには、何をもって「本物」とするかという、出口のない議論に陥らざるを得ないからだ。存在にはその存在ありのままを示す「本質」があり、物質復元装置がそれをありのままに複製するのだとしても、しかしそれとて永久不変ではあり得ない。物理的、精神的変化は絶え間なく、その「本質」を変化させ続けているのである。
しかしそれも、自身がレプリジンであるという確固たる認識があってこその事であり、オリジン不在のまま、レプリジンが自身をオリジンと認識し続けるような事態−ケミカルボルトで洗脳されたマモル少年のレプリジンやパルス・アベルのような−は多かれ少なかれ悲劇をもたらす。自身をオリジンと信じる期間が長ければ長いほど「オリジンとしての記憶」は蓄積され、重くなっていく。それが根底から覆されたときの精神的負荷は計り知れない。「レプリジン」たる自身との内的葛藤こそ、レプリジンにあまねく架せられた業なのかもしれない。