ツァーリズム


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 簡単に言ってしまえば、ロシア皇帝を中心とした専制政治のことを指すと思います。
詳細は↓のとおり。(私のチャチ入り (^_^;))

ツァーリズム〔露〕
 ツァーリ(皇帝)を中心とする帝政ロシアの専制的政治体制のこと。初めて(ツァーリにして全ロシアの大公)と称したモスクワ国家のイヴァンV世(在位1462〜1505)はキプチャク・ハン国(金帳汗国)の衰えに乗じて貢税を中止してタタールの範を断ち切り,最後のビザンチン皇帝の姪と結婚して,モスクワ大公をビザンチン皇帝の後継者で正教会唯一の代表者とした。彼はローマ皇帝カエサル(Caesar)(←えっ!これ、ちょっとおかしいぞ? 注1 参考)に由来するツァーリという称号を外交関係で初めて用いた.イヴァンW世(雷帝)(在位1547〜84)はモスクワ府主教から影響を受け,1547年にツァーリを正式の称号とした.彼は行政組織を中央集権化し,士族(ドヴァリャンストヴォ)と都市民に依拠して最初の常備軍を創設した。
 いわゆる動乱時代を乗り越えてロマノフ朝の成立をみると(1613年、初代皇帝ミハイル即位),ツァーリは貴族会議や全国会議(ゼムスキー・サポール)の助言を得ながら,中央の行政官署(プリカース)で全国を支配した。各人の身分が厳しく規定され、各々の義務が1649年の会議法典で定められた。旧来の貴族勢力はしだしいに後退し、ツァーリを支持してさた士族層の台頭が著しくなった。農民のほとんどは移動の自由を奪われて、ツァーリズムを経済的に支える農奴制が発生した。総主教ニコンが主導し、アレクセイ皇帝(在位1645〜76)が支援した上からの教会改革の結果、ロシア正教会の正統性が確立したが、その過程で旧儀式派(いわゆるラスコール)が分離・対立し、ロシア正教会は全体として活力を失い始めた。ピョートル1世(大帝)(在位1682〜1725)は西欧に学んで人頭税や徴兵制の導入、参議会の設置など一連の改革を実施し、さらに重商主義政策を行なった。1711年にはすべての行政機関の上に立つ元老院が設けられ、ツァーリのみに責任を負う検事総長が監督した。教会領地からの収入は国家(具体的には宗筋院)に収納され、教会はこの時期には国家にまったく従属し,尊制体制が整えられた。1721年にピョートル1世は皇帝(インべラートル)を称するが、彼の死後、歴代の皇帝はツァーリを使用した。女帝エカテリーナU世(在位1762〜96)は1775年に地方行政法を発布して専制支配の全国網を整備した。士族層の保護政策がとられ、農奴たちは現実に統治している悪しきツァーリに不満をつのらせ、<帰りくる救い主ツァーリ>と見られたプガチョーフ(1742〜75)のもとに蜂起した(1773〜75年)。1812年のナポレオンのロシア侵入はロシア民族主義を高揚させたが、この機会に専制は神聖同盟で指導的役割を果たし、ヨーロッパにおけるロシア帝国の地位確立に努めた。以後,ツァーリズムはヨーロッパでの反動の主役を演ずる。皇帝官房<第3部>(秘密警察)を組織したニコライ1世(在位1825〜55)も正続主義を志向し,1848年にハンガリーで起きた民族運動の鎮圧を試みた。
 クリミア戦争(1853〜1956年)で英仏軍にロシア軍は敗退 し、ツァーリズムは体制的危機を経験した。アレクサンドルU世(在位1855〜81)は下からよりは<上から農奴制を廃止するほうがよい>と判断して農奴解放(1861年)をはじめとして、地方自治会(ゼムストヴォ)の導入、司法や軍制の改革など一連の大改革を実施してこの難局を切り抜けた。テロリストに暗殺されたアレクサンドルU世の後を縫いだアレクサンドルV世は自由主義的なロリス・メリコフの行政・財政改革案を退けて.K.ボベドノスツェフやд.トルストーイらの保守反動的な政治家の主張を受け入れた。1889年の地方行政長官(ゼムスキー・ナチャーリニク)に関する法令などで国内秩序の締めつけを行なった。 さらに彼はロシアにあらざるもの、非正続なもの、たとえぱ、ユダヤ教や分離派を迫害した。
 最後のツァーリとなったニコライU世(在位1894〜1917)はやはりポベドノスツェフの影響を受けて専制権力の維持を神が自己に与えた義務とみなした。熱心な正教徒であった皇后もまた同様であった。ツァーリは1905年革命時にはヴィッテ(1849〜I915)の起草した宣言書を発布して、国会(ドゥーマ)を開設し、政治的・市民的自由を認める自由主義的ポーズで革命運動の攻勢を乗り切った。その運動の波が引き出すとすぐに彼はヴィッテを罷免し、ゴレムイキン(1839〜1917)に次いでストルイビン(1862〜1911)を首相に据えて選挙法の改悪などで旧秩序の回彼を目指した。ツァーリズムの新たな支柱を得るため、農民運動の拠点と化していた農村共同体を解体して、独立自営農民を創出することが企てられ(ストルィビン農業改革)、ロシア民族主義の高揚のため各種のロシア化政策がとられた。しかし、これまでツァーリズムを側面から支えてきたブルジョアジーのなかから、1912年にモスクワの綿工業資本家が進歩党を結成して離反した。また従来、民衆レベルでツァーリズムを支える大きな力であったツァーリ信仰についてはまず1905年1月9日のいわゆる<血の日曜日>事件で<統治する解放者ツァーリ>のイメージが大きく崩れ去り、第1次世界大戦中に公然となった修道僧ラスプーチン(1864/ 65〜1916)と皇后との親密な関係が民衆の<父なるツァーリ>像を決定的に傷つけた。民衆の心はツァーリから離れ、1917年2月革命でツァーリズムは崩壊した。
 近年のツァーリズムをめぐる研究動向で差し当たり注目されるのは、ソヴェト(ソビエト?のことか?誤字か?わかりません。)史学界で絶対主義の特殊ロシア的なタイプを強調する傾向のあることと、和田春樹が1880年代のロシア資本主義成立期以降のツァーリズムをそれ以前とは区別して近代ツァーリズムとして整理しようとしている点である。

(現代マルクス=レーニン主義事典(下) (株)社会思想社 出版より抜粋 )

注1
 カエサルをローマー皇帝と解するのはちょっとおかしいぞ。かれは、確かに独裁制を強いたがその独裁制は長続きせず、共和制支持者に暗殺されたというのが、定説だと思うが。オクタビアヌスがアウグストゥスと称して皇帝になったのが最初だと思う。
 ツァーリズム解説本には「ローマ皇帝カエサル」と書いてあったのでそのまま、そのように記述したが、この部分は信じないように。
(そもそもこのツァーリズム解説本は”ツァーリズム”ではなく”ツァリーズム”と書いてありました。 う〜ん本当にこんな言い方するのかな?)
 このように、人が書いた本というのは、すべてを信じるのは危険ですといういい例ですね。たとえ、大先生と世間に評される人でもミスは付き物ですから。(大先生でない足軽の私のページも大いに疑うべし。(^_^;))
 遠慮なく疑って学問を発展させましょう。





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