| H...堀切(その1) 本丸の紹介あたりから (えっ?(゚_。)?(。_゚)初めからですって!)だんだんアブノーマルな城郭写真を掲載してきましたが、さらにその傾向は続きます。(^_^;) そのまま!(;_;)あう〜 坂戸城には多数の堀切があり、ここはその一部です。 |
一般の方は「これのどにが遺構なのか?」とお思いになることが予想されますが、これが城郭観察中級者?(゚_。)?(。_゚)以上の方になりますと非常に魅力的な堀切の遺構に感じられます。 今回のバーチャル?城郭見学会では堀切の写真をかなり掲載します。 ですから、一般の方で、これから城郭観察中級者?以上を目指す方は、堀切の写真を 「ああ。こういう尾根上に突然くぼんだところを、いちおう堀切と推定するのか」という視点でご閲覧ください。そうすると今後の城郭観察で今までと違った視野が開けてくると思います。 ただ、あまりにもアブノーマルな城郭写真なので、以後この城の見学会で載せる堀切写真はもう少し小さめの画像を載せるようにつとめます。(^_^;) |
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こういうのが堀切跡というものなんですよ。びっくりしましたか?(@o@) |
| I...堀切 (その2) ここも堀切跡です。 堀切は比較的古い時代(南北朝の頃)から用いられた技術とされています。 |
「越後以来穴沢家先祖留書」によると 「(略)...天上ヨリ五段ニ削リ 縁数丈ニ切リ落トシ 木戸塀五重ニ結ヒ 役所役所ニ小屋櫓共ニ根深ニ建..(略)..越前様ハ新六殿(長尾房長 公)ト奉申」 と書いてあるところから、長尾房長公のころから坂戸城は五段の郭から構成され、木戸と塀・小屋と櫓を持ち、堀を切ったものと考えられます。 だから坂戸城の堀切は長尾房長公のころに作られたと推定できます。 しかし、「太平記」には1352年新田義宗公が 「栽田山(ウエダヤマ...坂戸城周辺は上田庄と呼ばれていたそうです。)ト信濃路ニ厳ク関ヲ居ラレタリ」 とする記事がかかれてあり、このことから南北朝時代にはすでに今でいう坂戸山にはなんらかの要害が設けられている可能性があります。よってもしかしたら、坂戸城の堀切の一部は南北朝時代に設けられた可能性も否定できないと思います。 |