1.初級ルート( 前穂北尾根、北穂東稜、奥穂南稜 )

これらのルートは、一般縦走路の中で特に険しいと言われているルート(西穂〜奥穂高〜北穂高〜キレット など)と比べて、険しさはあまり変わらない。決定的に違うのは、縦走路にあるような 指導標、ペンキ印、鎖や梯子などが無いことである。
初級ルートといえども一旦ルートを間違えると、大変な危険が待っているので、事前の調査に加え、ルートファインディングには細心の注意が必要である。

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前穂 北尾根 ( ’58/9/20 〜 21)

上高地 新村橋 奥又白谷 奥又白池 池より 五六のコルへ 涸沢の朝・1
涸沢の朝・2 五六のコルより 奥穂 五峰へ 五峰より 四峰へ
前穂東壁 三峰へ 山頂到着 山頂にて 奥穂


北穂 東稜 (’59/8/4 )

ゴルジュ下 北穂沢を登る 東稜上よりの眺望 東稜を登る 北穂山頂にて

奥穂 南稜 ( ’60/7/27 )

川原で朝食 南稜を見上げる 草付きの登り 岩稜の登り 岩稜の登り


予期せぬ出来事

その ( ’59/8/4 )

北穂東稜に向うべく、ゴルジュを抜けて北穂沢の雪渓を登り出したところで、先頭を歩いていた I さんが
「これ何」と言って立ち止まった。雪の中から わかん の先が突き出している。どうしてこんなところに?
と思って、周りの雪をピッケルで突ついてみると、わかん にはオーバーシューズをはいた足が付いていて
吃驚仰天。「遭難遺体だ !」
これはほっとくわけにはいかないし、北穂山頂で、南稜経由の縦走組と待ち合わせる約束になっているし、
はて どうしたものか?。 丁度具合よく、南稜コースを下山中の登山者が見えた。急いで北穂沢を横切り、
一般コースに出て、要点を書いたメモを涸沢ヒュッテに届けてもらうよう依頼した。
東稜の難場を過ぎ、コルで一休みしていると下の雪渓に10人前後の人影が豆粒のように見えた。大声を
あげてコールを交わし、「もっと左」 「もっと上」 と発見場所を知らせ、「見つかった!、アリガトー」 「あとを
頼みます」 と言うことで、頂上に向った。
夕刻、我々のテントにT山岳会のリーダーがお礼に訪れ、正月に入山した会員 2人が行方不明で、丁度
捜索の為に入山中だったとのこと。
その数日後、もう 1人の方も付近の雪の中から発見された由、下山中雪崩に巻き込まれたらしいという
ことだった。


その ( ’60/7/27 )

涸沢の交替合宿で、後群に入ったのを幸い、M、T 氏と3人で本隊より1日早く出発、上高地〜岳沢〜
奥穂南稜〜奥穂経由で涸沢に入り、翌日の本隊入山日には、前穂東壁を狙うことになった。

岳沢ヒュッテを過ぎ、重太郎新道と別れて滝沢に入り、枝沢と詰めている時、はるか後ろの方から単独
登山者が後を追ってくるのが、ちらちら見えていた。一寸不審に思ったものの、急な草付きの登りで足元
に気を取られてすぐに忘れた。
南稜の末端の尾根上に出て休んでいると単独行氏が登ってきたがどうも服装から見て素人っぽい。
「皆さん これからどこへいくんですか?」と聞いてきた。様子を聞いてみると、今晩は 岳沢ヒュッテに宿泊
予定で、小屋に荷物を置いて近くを散歩するつもりで出てきた。前を3人組が行くので後を付いてきたが、
路がだんだん無くなって、引き返そうと思った時には、傾斜がきつくなって、怖くてとても降りられなくなって
しまったとのこと。
「これから先は岩登りのルート、一般登山道ではないよ」と言ったが、「とても怖くて戻れません。助けて
下さい。」と震えながら懇願された。我々3人思わず顔を見合わせたが、ここで突き放すわけにはいかない
し、登山道まで降ろしてやっていては、こちらの方が目的地まで行き着けない。危なかったらザイルで結ん
で引っ張りあげてやろうと言うことで同行させることになった。
途中 1,2ヶ所ザイルを出してやったことはあったが、特に危険なこともなく夕闇が迫る頃、ご一行様は
無事涸沢に到着することが出来た。彼氏今晩の宿泊費は何とか間に合うということで、お金は貸してやら
ずに済んだが、とんだ無料ガイドの1日だった。

蛇足ながら、翌日五六のコルを越して奥又白本谷をインゼル近くまで登ったが、ガスが濃くてルートが全く
見えず、前穂東壁の登攀を諦めて引き返し、翌年に持ち越しとなった。(曇り時々小雨)。


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