( ’01/9/25 追加 )



( 穂刈新道・奥又白出合付近を行く 。     ’62/7/26 撮影 )



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大正池 河童橋 明神 徳沢・新村橋
横尾 屏風岩 涸沢 涸沢キャンプ



韋駄天登山の思い出
’59年夏、私達の山岳部では、初めて涸沢合宿を行うことになった。参加者40数名、涸沢にベースキャンプをおいて、四班に分かれて交替で入山することとし、私は第4班に組み込まれた。したがって入山時の荷物は、食糧燃料と個人装備で少なくて済んだ。その代わり下山時はキャンプ撤収で大荷物となったが。
さて、私達の山岳部の指導者で、第3班のリーダーのM先輩から 「一日早くれば滝谷へつれてってやるよ」とお誘いがあり、私一人だけ皆に先駆けて入山し、3、4班の交替日に2人で滝谷第2尾根を登攀することとした。

上高地から涸沢までは、登山案内書で 6.5時間。 当時の部報の記録を見ると私達がパーティーを組んで入山する時は、上高地を 7時〜9時頃歩き出して、涸沢到着は 15時〜18時。参加メンバーや、荷物の多寡にもよるが、途中の休憩を含めて 7.5 〜 9 時間かかっていた。
この年、私が単独で涸沢まで登った記録を山日記を開いてみると、夜行列車バスを乗り継ぎ、上高地発;7.40、涸沢BC着;12.10、 小休止だけだったけれど 4.5時間で到着している。これは私の密かな自慢です。

BCでテントキーパーの Oさんと駄弁りながら昼食。仲間たちは滝谷ドーム付近で岩登り訓練中とのこと、半日寝て過ごすのは勿体無いと、サブザックを担いでテントを出たのが 13.30。この年は残雪が多く、稜線まで続く雪渓を涸沢のコル目指して直登して行った。
雪渓を半分以上も登った頃、ピッケルも持たず棒切れを杖にして、危なっかしい足取りの 3人パーティーが降りてきた。見ればその中 2人は片足ずつにアイゼンを付けている。「この先、傾斜はまだきついんですか」「下まで同じような傾斜だよ」「でも下の方は平らに見えるけど」「上から見れば傾斜があっても下の方は平らに見えるよ」と言うと怪訝な表情。
「そんな恰好では危険だから戻りなさい」と言ったが、足がすくんで動けなくなっている。そうこうしている中に、一人が足を滑らして頭を下に滑り落ちて行った。このままガレ場に突っ込んだら大怪我で、下手をすればあの世行きだ。
これは ヤバイ!と下を見ると、はるか下の雪渓末端付近で雪上訓練中の数人のパーティーが見えた。「拾ってくれー!」と声を限りに叫んだ。豆粒のように見えた人影が駆け寄り、落ちてくる人に抱き着いて何とか止めてくれた。
残った二人は一層足がすくんでしまったが、私一人ではとても面倒見切れない。「あと二人行くから頼むよー」と大声で叫んで後は下の人達に任せることとした。

涸沢のコルから北穂方面にしばらく行くと、訓練を終わった仲間たちが降りてくるのに出会って、「アレ どこから来たの?」と言われたのが15時頃。そこからは皆と一緒に涸沢のコルに戻り、涸沢岳、穂高小屋、ザイテングラード 経由で、18.30 BCに帰着した。 普通の2日分を1日で稼いだ上、とんだことに出会った1日だった。
この時の山行では、もっと吃驚仰天の出来事があったが、それは「岩登り編」に書く予定です。

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