キ-115「剣」誕生秘話(5)

設計開始へゴー

 こんなある日、耳よりなニュースが飛び込んできた。当時、設計部には現役の将校で軍服のまま技師の資格で配属されている技術将校が四、五名いた。その中の一人が、隼用の旧型エンジン・ハ-115(空冷式星型14気筒1,050馬力)が400台あまり軍需省の倉庫に埃を被って眠っているという情報を持ってきた。

 いまや資材も底を尽きかけ、エンジン工場も疎開で生産量もガタ落ちになっていた。このエンジンを遊ばせておく手はない。これを活用するにふさわしい道は、われわれの小型攻撃機をおいてほかにあるとは思えない。

 すでに、国内では疎開が始まり、情報伝達や交通の流れも円滑さを欠き始めていた。互いに分かれ分かれになった集団は、ある程度自主的に行動するしかない。ことにわれわれの場合、太田の本隊は無くなり後続部隊のくる当てもない。ここは、いよいよ自主的判断によって、最適の行動をとるべきである。考えている段階はもはや過ぎた。目標もすでに決まった。後は走り出すばかりである。私は迷わず「ゴ−」のサインを出した。

 いままで述べてきたことから明らかなとおり、小型攻撃機の構想はすでにわれわれの頭の中にほぼ形造られていた。キ-87の設計の方は大筋ではほぼ終わっていた。新らしい仕事を流すにはよいチャンスである。戦闘機の設計には手慣れた連中の集まりで、3面図とエンジンそれに荷重倍数さえ与えれば、設計するのにそれほど時間はかからないはずだ。米軍の上陸作戦がいつあるのかわかるはずもないが、とにかくそれに間に合わせることが重要である。人手も時間も使えるものはなんでも使わなければならない。前にも述べたが、設計部には50人ほどの動労学徒が配属されていた。われわれは、研究所周辺の空家を借りて住んでいたが、動労学徒の青少年たちの多くは都内に住んでいた。頻繁にやってくる空襲のたびに、食器とふとんを担いで防空壕に飛びこんだなどと話し合っている。中には家が被災した子もいたであろう。最寄りの国鉄武蔵境駅から研究所まで交通機関はなく、歩いて40分近くかかったと思うが、皆遅れもせず通ってくれた。設計室に漂よう緊張した空気を感じとってか、彼等もまた必死になって図面作りを手伝ってくれた。こうした思わぬプラスアルファの要素も手伝って、設計は思いのほか早く進んだ。戦後、この青少年たちに会う機会もないが、いまでも各学校それぞれの制服姿が目に浮かんでくる。

試作機の完成

 図面が流れ出せば製造部は動き出す。製造部にとって、この素朴な小型機を造ることは、きわめて容易なことであった。1号機が完成したのは、2月の末ごろであったと記憶している。試作機が完成すると、お祝いの式をするのが当時の慣わしであった。軍民関係者が集まって、神主さんに安全祈願の祝詞をあげてもらうのである。その際、ちょっとしたハプニングがあった。神主さんの唱える祝詞の中に、「…往きて還らざる天く翔ける奇しき器」という一句があった。一瞬ハッとした。だれがそんなことをいったのだろう。私の後方には設計部員が並んでおり、かすかなどよめきを感じた。祝詞が終わった瞬間、私はわれ知らず歩きだしていた。祭壇の両側には10数名の将校がこちらを向いて椅子にかけて並んでいる。これと向い合って会杜の人たちが、数100人並んでいた。私は、祭壇前まで行ってくるりと振り向くと、「神主さんの唱える神聖な祝詞を訂正することは失礼と思いますが、祝詞の中に〃往きて還らざる奇しき器〃という言葉かありましたが、本機は特攻機として造ったものではありません。その点だけはどうしても訂正させていただきます。」と、一息に述べて引き下がってきた。それは、ほんの1分足らずのできごとで、式典はそのままなにごともなく終了した。

 その後も、このことはわれわれの間で、ごく当り前のこととして、雑談の話題にものぼることはなかった。それにしても、神主さんはなにと思ってあんな勝手なことをいったのだろう。その理由は後になってわかった。この神主さんは徴用されて、われわれの工場で働いていた人であった。工場では、いままで隼や疾風を造っていた工員たちが、この小さな装備らしい装備も持たない飛行機を見て特攻機を連想し、雑談の折りなどそんな話か出ていたのであろう。そういった私語を小耳にはさんだ神主さんか、早速これを祝詞の中にとり入れたものらしい。そういわれてみると、この神主さんは私も工場の中でしばしぱ見かけた顔であった。

 やがて、式も終わって飛行場に引き出された。初飛行に当っては普通まず地上滑走を繰り返し、操縦系統の作動、舵の利きやブレーキの調子など確かめるものである。軍の方からも、きょうは地上滑走だけに止どめておくようにとあらかじめ注意されていた。私もその旨会社のパイロットに伝えておいた。ところが、いよいよ滑走を始めたと思うと、そのままふわりと飛びあがってしまった。まずいことになったと思ったが、いまさらどうしようもない。降りてきたパイロットに聞くと、特に異常もないので飛びあがってしまったという。軍の方も、飛べればそれはそれでよろしいということで、特にお叱りもなかった。当時は、だれもがなんとなく気が急いていたから、早過ぎる分には悪いことはなかったのであろう。

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