キ-115「剣」誕生秘話(6)


試作仕様書について

 その後、気がついたことであるが考えてみると、私は「キ-115」(つるぎ)の試作仕様書を見た覚えがない。試作仕様書とは、新らしく飛行機を試作する際、軍から出される試作命令書に添付されている書類で、その飛行機の用途、装備、要求性能などが記されている。したがって、極秘書類として関係技師の間を手渡しで回覧されるのが常であった。キ-115という試作番号をつけている以上、試作仕様書があったことは確かであろう。太田の設計部が解散になって以来、われわれのところには、ほとんど書類が流れてこなくなっていた。設計本部がなくなっていては、届け先がないので、取扱いに注意を要する書類のことでもあり。上層部のだれかに温存されてしまったのだと思う。当時の情勢から考えれば、そんなことがあっても不思議ではなかった。

 仕様書は、その冒頭に必らずその飛行機の目的が明示されている。例えば疾風の仕様書の冒頭には、「本機は今次大戦における主力戦闘機とする」という意味のことが記されていたと覚えている。キ-115では、それがどのように記されていたのであろうか。われわれにとっては単なる「小型攻撃機」に過ぎなかったのであるが。「特攻機」という言葉は用兵上の用語で、航空技術上の用語には無く、一般人にとってはむしろ触れるべからざる言葉であった。用兵上では、隼も零戦も疾風も、特攻機として使われたこともある。

計画説明書の発見

 太田の設計部では、新らしく飛行機を設計すると、設計の内容を具体的に説明した「計画説明書」という資料を作る慣わしがあった。航空機が発達し、技術の専門化が進むにつれ、一人の技師がその飛行機に関する設計上の細部まですべてを頭に入れておくことは困難である。その結果、一つは軍側に対する説明書として、もう一つには各専門部署の担当技師が、全体の関連を頭に入れておくための虎の巻として作るものである。したがって、担当技師がそれぞれの担当部分について、数表やグラフを用いてかなり詳しく説明したものであり、その飛行機を知るためには、これさえあればすべてがわかるという重要書類で、極秘扱いとしてきわめて少数しかコピーされなかった。

 計画説明書を作るようになったのは、疾風が始まりで、以下〃富嶽〃〃キ-87〃と続き、〃キ-115〃で終わっている。しかし、これらの資料は終戦と同時にすべて焼却されてしまったと思う。戦後、米軍が進駐してくると、まっ先に要求したのは航空機に関する資料であった。われわれは、止むなく記憶に基いて、もう一度同じような資料を作るしかなかった。

 しかし、記憶にまだ新らしいことであったので、主として具体的な事項を選んで十数ページの資料にまとめて提出した。キ-115の方は、簡単な飛行機であるからそれで済んだが、キ-87の方はそれでは済まなかった。それから2カ月ほど経ったころ、丸の内の明治生命ビルに本部をおく米軍の「戦略空軍本部」に数回呼び出されて、いろいろと質問を受けた。先に提出した計画説明書では不十分だったのであろう。あげくの果てに、飛べるように修理せよといわれた。点検してみなけれぱ、修理できるかどうかわからないというと、たちまちジープに乗せられて調布飛行場に連れていかれた。

見れば、キ-87は飛行場のどまん中にでんと据えられている。2ヶ月も野曝しにされていたということで、一部には発錆も見られ全分解して点検修理しなければ、飛行はむずかしい状態であった。その旨伝えると、それなら修理して飛べるようにしろという。工員が分散してしまっているから、それはいまからでは無理だと答えると、それならアメリカに持って帰るから、分解して梱包しろという。それまではできないといえない。工場周辺に留まっていた組立工十数名に集まってもらい、一週間あまりかかってやっと分解、梱包を済ませた。

 キ-87の主翼は、左右一体造りで、これをそっくり木箱に入れると、長さ14mほどの長大な箱になる。横須賀から空母に積んでいくというが、高速道路など無かった当時、日本では街並みが狭いからこんな大きな荷物は通れないといったら、その時は家を壊してでも通るという。翌日、日本では見たこともない大型トレーラーを数台もってきて、さっさと積んで持っていった。まことに手早い処置である。この件に関する米軍の担当者というか責任者は、ヴラッカス大尉とクアズ中尉であった。私は、初めてアメリカ軍将校に接したが、たいへん紳士的な人たちであると思った。

 戦後、私は3回ほど引越しをしている。そのたびに古い書類などあらかた整理して散逸してしまった。ところが、最近古い書類箱の底に前述の米軍に提出したキ‐115の計画説明書の控えがへばりついているのを発見した。計画説明書を十分の一程度に圧縮したものである。

 次に、その中から同機の性格を示唆していると思われる部分を二、三拾ってみる。まず、「型式機種」としては「単発単座爆撃機」となっている。また、「任務」の項には「船舶の爆撃に任ず」となっていて、軍艦とは書いてない。構造説明の中で、「降着装置」の項には「主脚は工作困難な引込式を排し、かつ性能の低下を来たさないように投下式とし、着陸は胴体着陸とし人命の全きを期す」と記してあり、操縦者が帰還することとエンジンの回収を前提としていた。また、装備の説明の中で「爆弾装備」の項には、「500kg爆弾一個は胴体中央下部に懸吊され、手動投下式爆弾懸吊機は基準翼中央の二個の小骨に挟んで取りつけられる」となっており、爆弾を投下することを前提としている。また、行動半径は500kmとなっており、この航続力は攻撃後帰還するに十分な能力を備えることを前提とした数値である。原文をできるだけ要約したこの資料には、この飛行機が帰還することを前提として造られたものであることを示唆する部分はこの程度しかない。

 しかし、原文の冒頭の「目的」の項には、過日防空隊の若い将校の「赤トンボ」まで特攻機として使われているという話を思い浮べながら、次のような一文を私自身で書いたことをいまでもはっきり覚えている。「…速度の遅い旧式機では操縦者の生還は期し難い……せめてそれに代わる飛行機として本機を造る……」と。実際に、赤トンボでは短刀一本を腰に差してライフル銃を構えた相手に向かって突撃していくようなものである。すでに、わが国は物資窮乏の極にあり、兵隊には銃すら満足に行き渡らない状態となり、先ごめ単発銑など江戸時代の武器まで、ひそかに掻き集められていたという。そんな中にあって、仮にも「つるぎ」は高速で飛ぶ飛行機である。当時の日本としては最高のぜいたく品であったといえるのではなかろうか。

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