中島飛行機株式会社その軌跡

Nakajima Aircraft Industries ltd.

以下、発足から終焉まで4部作になっています。
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(1)発足から基盤の確立(1917〜1932年)

 ライト兄弟が動力飛行に成功したのは1903年。それから7年後、日本でも徳川大尉による初のファルマン機の飛行が代々木練兵場で行われた。そして1911年(明治44年)には、日本人設計の初の国産機「会式1号機」が所沢飛行場(現在の所沢航空記念公園)にて成功した。
 1917年(大正6年)、民営航空機工業の確立を志して海軍機関大尉を退役した中島知久平(当時33歳)は群馬県太田町(現太田市)に近い利根川沿いに養蚕小屋を改造した粗末な建物の「飛行機研究所」を開設した。設立当初はたったの9名。そして、もうその翌年にはアメリカ製エンジンを搭載した中島式一型1号機を完成させた。しかし初飛行にて離陸直後に敢えなく大破、2号機も続けて失敗。3号機でやっと17分の飛行に成功したものの着陸時に溝に落ちて大破といった惨憺たるものであった。当時、太田の町では「札はだぶつく、お米は上がる、何でも上がる。上がらないそい中島飛行機」という落首が流行ったという。そして苦難の創生期の中で中島式四型6号機が完成し、ようやくにして尾島町の空を見事に飛んだのである。

1919年、第一回懸賞郵便飛行競技が東京〜大阪間で行われ、輸入機に対抗して、中島式四型機が3時間18分で飛び、賞金9,500円を獲得すると同時に、その優秀性を世に知らしめる契機となった。これらを技術面、経営面から指導したのが栗原甚吾であった。栗原は派手な人ではなく、どちらかといえばハニカミヤで、根っからの技術屋で勉強もよくやり、時代を的確にとらえる頭脳をもっていた。このころ栗原は呑龍工場長、太田製作所長を歴任し、後の中島飛行機発展の指導的役割を果たしていた。研究所の運営に当たって栗原は何と言っても、いかに優秀な人材を集めるのに腐心していた。

(発祥期の詳細については別資料を参照ください)

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-「飛行機研究所」'1918年(現太田市)------中島出世作:四型6号機 '1919年---

 1920年、軍は第1次大戦での欧米の航空機技術の飛躍的進歩に注目し、フランスから航空教育団を招聘し、また機体および発動機のライセンス生産を本格的にに当たり始めた。中島飛行機は中島乙未平をフランスに長期出張させ、航空関係の情報、技術収集に当たらせた。これが契機となり、軍からの大量発注を受け、その後に中島飛行機が大発展する契機となった。1922年にはブレゲー14型をモデルにした、我が国初の準金属製・中島式B-6型機を完成した。当時画期的な軽金属ジュラルミンを使ったことから「軽銀号」と名付けられ、上野で開かれた平和記念東京博覧会に出品し人気を博した。(下の写真がB-6:エンジンはロールスロイス水冷V12気筒360馬力)

 1922年(大正12年)佐久間一郎は、かねてから懸案である航空発動機専門工場を建設するため、東京近郊の土地を調査していたが、豊多摩郡井荻町上井草(荻窪)に目処がつき、翌年3,800坪を購入して直ちに建設に着手した。そして1924年東京製作所(右の写真)が完成し、直ちに水冷ローレンスのライセンス生産に入り、発動機は東京、機体は太田の分離体制が出来上がった。

 大正から昭和へ、外国技術の吸収により大いに発展してきた。1927年(昭和2年)、陸軍の次期戦闘機の競作が、三菱内燃機、川崎造船所、石川島飛行機製作所とともに中島飛行機製作所に命じられ、1928年にNC型と呼ぶ高翼単葉支柱式を完成した。三菱、川崎がドイツ流の水冷式発動機つきの無骨な直線整形の機体であったのに対し、中島はフランスのニューポール・ドラジュ系を思わせる空冷式発動機つきの流線整形のスマートな機体で、高翼単葉の見るからに軽快な性能を感じさせた。以降、中島の機体は総てに流麗なデザインを伝統として設計されており、技術者の中で「技術をきわめた物(機体)は奇麗でなくては本物ではない」という暗黙の共通認識があったという。(下の写真はNC型7号機

 そのNC型の発動機を中島ジュピター7型に換装しタウネンド式カウリングをつけたり、機体の各部を改修し苦労を重ねた上、制式採用されたのが、陸軍九一式戦闘機である。
 また海軍では1928年ボーイング69B戦闘機、33年同100D戦闘機を輸入し研究していたが、中島では自発的にそれらを凌ぐべく、社内呼称NY海軍戦闘機として開発を進めていた。NYのNは中島、Yは設計主務者の吉田孝雄技師のYである。こうして完成した機体は動力に英国のブリストルブルドッグ系のジュピター7型を使っていたので「吉田ブルドッグ」とよばれていたが、期待に反し採用とはならなかった。

 そこで中島は設計主務者を栗原甚吾技師に変え、発動機を新しく開発した中島「寿」に換装して各部の改良と軽量化に努め「NY改」を1932年に完成し、その結果、格段の性能向上が認められ、九○式艦上戦闘機が制式採用となった。いわゆる「報国号」として羽田で献納命名式が行われた際、横須賀航空隊の僚機が参加して、編隊によるアクロバット飛行が公開された。なかでも源田、岡村、野村のベテラン・トリオによる飛行が有名で「源田サーカス」として知られた。これらにより中島は更に名声をあげ、一気に陸海軍の戦闘機を独占することとなった。

九○式二型艦上戦闘機

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---中島P-1郵便機 '1934 ---羽田で開催された航空ページェント '1937-

 <当時の中島飛行機太田製作所の編成>

    1.所 長   中島知久平
    2.支配人   浜田雄彦
    3.製作部長  栗原甚吾
    4.設計室   小山 悌、奥井貞次郎、三宅 忍、山本良三、吉田孝雄、明川 清
    5.製図工場  大和田繁次郎、中村勝次
    6.第一工場  大町昌男、杉本一郎、長門春松
    7.第二工場  佐々木新次、佐々木源三、小谷式三郎、小林弥之助
    8.第三工場  増田新作、糸井勝之助、岡田
    9.第四工場  安藤千代松、川瀬市太郎、中村善作
    10.第五工場  浜田 昇、森田
    11.検査場   天野素六、稲葉久太郎
    12.実験室   松林敏雄、川端禎一
    (注;佐久間一郎は1925年から東京発動機工場の支配人となっている)

続く(全4ページ)



・出典及び参考文献:「富士重工業30年史」「銀翼遥か(太田市)」「飛翔の詩(中島会)」
          「日本傑作機物語(昭和34年酣燈社)」 
          「富士重工業広報部」の協力 等によります。

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