中島試作戦闘機NC:陸軍九一式戦闘機

全幅:11.00m 、全長:7.27m、 自重:1,075kg、総重量:1,530kg、

最大速度:300km/h、上昇時間:3,000m/3'20"、航続時間:2時間

発動機:中島 空冷9気筒「中島ジュピター」7型 排気量:28.7L、公称出力:450馬力、

武装:7.7mm機銃×2、乗員:1名

初飛行:1928年6月 (上記は1型諸元)

 昭和2年(1927年)陸軍は甲式四型戦闘機(ニューポール29C−1の中島国産機)に代わる次期戦闘機の開発に初めて国産各社に競争試作制度を採り入れるべく、中島、三菱、川崎に競作の発令を行った。これは陸軍航空本部長井上幾太郎大将の発案で、それまでの飛行機は欧米のイミテーションかノックダウンに過ぎず、何とか国産の航空技術の向上を企図した英断であった。

 ただし国産開発が条件ではあったが海外の技術者の招聘による開発は否定しなかったことから、三菱と川崎はドイツ技術者の指導の元、水冷エンジン付き複葉の試作機に取り組み、一方、中島はマリー、ロバンの両フランス人技術者を招聘して指揮者として、大和田繁次郎、小山悌の両技師が協力して、昭和3年6月までに空冷エンジンを採用したいかにもフランスの香りのするパラソル型単葉のスマートなデザインの試作1、2号機(最初のものをNC型と呼んだ)を完成させた。このコンペティションは国内航空工業を一躍世界に誇る水準に向けて歩み出す大きなきっかけとなったのである。

 この開発に参加した小山悌(やすし)は後に中島飛行機の技師長となり中島の最高傑作機「97式戦闘機」を初め「隼」「鐘馗」「疾風」を生み出し、三菱の堀越技師に対し中島の小山と並び称された。大正14年仙台の東北帝国大学工学部を卒業し、しばらく大学の助手をした後、その12月には東京の中野にあった陸軍電信隊に予備将校を育てる制度であった「1年志願兵」として入隊している。彼は1年過ぎれば再び仙台の学府に戻るつもりであったが、そのとき運命を左右する人物に出会う事になった。

 その出会いの第一印象として「ずいぶん頭のでっかい、恰幅のいい人だなぁ」と思ったその人こそ中島飛行機製作所社長の中島知久平であった。知久平は小山の顔を見るなり「どうだ、中島に来て飛行機をやらないか」と言い、小山は「何故かその一言に断りがたいものを感じた」とのことで「即断承諾」してしまった。そして兵役を終えて大正15年12月太田に向かったのであった。しかし太田の中島飛行機の実情を見るにつけ、本当にこれで良かったのかと後悔の念を禁じえなかったそうである。

 しかしそんな小山の気持ちとは裏腹に入社早々の彼に極めて重大な任務が与えられたのであった。それが、この91戦の開発であった。戦闘機の何たるも知らなかった若者が、フランスからの技師の助手になったことにマリーも驚いたに違いない。しかし彼は学生時代に独仏英語を完璧に身につけていたことから、マリーが書く図面(プライドが非常に高く図面を人には書かせなかったという)を日本語に翻訳し、また製作工場へのマニュアル制作など、この体験を通じ航空技術を完璧にまで自分のものにしていった。更には制式機となるまでの改良を自らの手で行うことになっていった。

 他の2社は水冷エンジンの旧態然とした無骨な四角い胴体のデザイン(なお2社ともにパラソル型の単葉機であったのは偶然だろうか?)だっただけに、丸みを基調とした試作NC機は一際目を引いた。これら3社の機体はそれぞれ相当意欲的な設計であった。まず書類審査(実は石川島飛行機:後の立川飛行機 も競作に参加したが書類審査段階で脱落)と静的強度審査が行われ、川崎がこの段階で脱落している。この強度試験は主翼を裏表逆に置き、主翼面に均等に砂袋を置いていくもので、実際の飛行時に掛かる荷重の13倍が基準であった。

 川崎機はこの時主翼が折れてしまった。一方NC機は独自の考えから16倍に設定していた。 そして昭和3年6月 埼玉県所沢の陸軍飛行場(現在の航空公園・航空発祥記念館の地)にて飛行審査が行われた。その飛行で三菱機が急降下試験で空中分解を起こし不合格となった。操縦に当った中尾操縦士は時速約400キロでの急降下テストに入り、中層の雲の中に突っ込んだが、雲底から出てきたときは胴体だけが落ちてくる有様であった。間一髪というところで、その胴体から白いものがゆらゆらと開き、ゆっくりと降下を始めた。実はこれが国内で初のパラシュートによる脱出であった。中尾操縦士は何と前日初めて使用法を教わったばかりであったという。これで三菱機も不合格となり、中島機は一応合格とはされたが、更に実践的な審査が継続される事となった。(この三菱の試作戦闘機の愛称を「隼」といったのが面白い)

 審査は所沢から立川に移され、血気盛んな陸軍の現役パイロットの洗礼を受ける事となった。マリーのこの機の設計意図はフランスの伝統を引き継ぎ「邀撃戦闘機」としたことから主翼強度は16倍以上の荷重に耐えるものであったが、空力的にも優れていたことから格闘性も抜群であり、舵の効きも非常に鋭敏でちょっとした手足の動きに反応し、操縦桿はまるでゆで卵を持つかのように操作することが良いとされていた。この操縦性の良さは多くのパイロットに絶賛をもって迎えられ、全てのアクロバット飛行をこなす事が出来た。

 ところがこの頑強な試作戦闘機ではあったが思わぬ事故に遭遇した。昭和4年、明野での原田中尉によるテスト飛行でのことである。初日は垂直降下以外のあらゆる飛行で高い評価を得て「間違い無い」という確信を得たのであったが、翌日この残る垂直降下テストに臨んだ。高度2500メートルから、バンクを振ってテスト開始の合図を地上に送った後、猛然と垂直降下を始めた。ところが高度1500メートル付近でパッと主翼が飛ぶのが地上からも見え、胴体だけとなったそのまま高速で落下を始めた。機上の原田中尉は必死でコクピットから這い出そうとするも、風圧で思うようにならず、もがき続け最後にエイッとばかりに胴体を蹴って脱出に成功、九死に一生を得たのであった。そのあとからヒラリヒラリと主翼が完全な姿で舞い降りてきたのである。

 「NC機が空中分解により墜落!」の報は急遽中島に打電され、受けた小山たちは愕然とした。早速マリー技師に事故の詳細を伝えたが「ノン」と答えるだけで「機体に欠陥があるわけがない。操縦ミスである」といってとりあわず、ここでも気ぐらいの高さが出ていた。ここまで順調にきた試作NCはこの事故により周囲の状況が急激に悪いものにさせた。特に三菱側はこれを知って反撃の狼煙をあげ、中島も当然不合格であるから、新しい三菱の案(カーチスP6ホーク戦闘機)で切り込むべく、デモフライトなどを積極的に展開した。

 事故後、陸軍との連絡会議では「現在の日本の航空技術力では陸軍の要求する戦闘機の製造は不可能でなのではないか」という意見も出され重苦しい会議となっていた。この会議に出席していた中島知久平は、これに社運をかけて改修に取り組む計画を提示し、「要求通りのものが出来なかったら会社を閉鎖する決意である。ですから是非とも増加試作を続けさせて欲しい」と懇願した。

 陸軍もこれに応え、また将来性を期待し、ジュピターエンジンの国産化計画と合わせ増加試作の命令を出した。この結論には陸軍航空本部長井上幾太郎大将の深い理解を得て「事故は審査終了後のものである。事故原因を徹底的に究明し対策するに問題は無い」と裁定をくだしたことによるものである。

(なお、中島知久平は、この約束を果たすために小山や大和田にNC型機の改良を命じたのは勿論であったが、更にもう一つの手を打った。それは正に社内コンペのようなもので、弟の乙未平に、そのころ評価が急速に高まっていたイギリスのブリストル社に行き、ブルドッグ戦闘機のライセンスと技術者フリーズ技師の招聘を命じた。NC型の改良に失敗したことを考え次ぎの手を打っていたのである。実際にはNC型が制式採用される事となり、このブルドッグ戦闘機は試作2機を製作しただけで中止された。小山技師はNC機の改良に目処をつけた後は、このフリーズ技師のチームにも参画し自らの技術力を更に高めていった)

 最初のNC型はニューポール・ドランジュ系の高翼単葉機で支柱形状や垂直安定板のカーブ具合もニューポールに極似していた。先の事故の原因は主翼構造ではなく、支柱構造にあった。当時のニューポール機での実績では戦闘時の火災からパイロットを救うことが最大の課題で、そのため車輪支柱の胴体取り付け部位にあったガソリンタンクは万が一の場合には落下させうる構造としていたため、主翼支柱を支える骨格をここに設けることを避けた。そのため2本あるうち前の主翼支柱は直接車輪軸と連結してあり、後ろ側の支柱とは形状が異なっていた。これが原因と分かったのである。

 そこで増加試作5号機からは両外翼支柱が胴体直結となり、その前後の支柱間に補強支柱を設け張り線を張った。また各舵の形状も改良され、垂直尾翼(ラダー)の面積を増やし、ニューポールのうちわ型からキリッとした形状になった。エンジンは中島ジュピター6型420馬力から7型450馬力に換装し、ここに後の量産型の原型が出来あがった。しかしその後も強度不足、安定性不良で改修に次ぐ改修であった。

 先に述べたように、中島ではこのプロジェクトに社運を賭けて臨み、遂に6年の秋、制式採用となった。そして翌昭和7年2月初期生産型の1機が「愛国3号」として一般公開され、また折からの満州事変にあたって急速に量産され、国民にも広くしたしまれた機体であった。

(愛国号とは国民の献金により献納された機体で、胴体の両側に献金者を示す名称が愛国の文字と共に書かれていた。右の写真は福岡市の献金による愛国号である。なお陸軍機は同様の趣旨で「報国号」と呼ばれた。その献金の額は当時のお金で1機30,000円だったという)

 初期の1型(上のイラスト)は増加試作6号にタウネンド式カウリング(鉢巻のようなもので空力とエンジン冷却に効果があった)を装備した仕様であり、中島ジュピターエンジンと木製プロペラであった。この1型は昭和9年3月まで320機が生産された。また中島だけではなく石川島飛行機でも約100機が生産された。その後、性能向上を図った後期の2型(下のイラスト)は自社設計エンジンの「寿」を搭載、金属製プロペラとし、ジュピターの左回転のくせが右回転に変更となって実用性は更に高まったが生産は20機余りで終えて、次期95式戦闘機に世代交代となっていった。

 下の写真は、埼玉県所沢の航空公園にある「航空発祥記念館」の格納庫に保存されている、唯一現存する91式戦闘機の胴体である。残念ながらエンジンや主翼はないが、当時の機体色であった「明るい青灰色」がそのまま残っており、筆者も感激した次第である。

 先に述べたように、この91戦の審査はこの所沢で行われ、制式化された後の昭和11年3月 陸軍大空中分列式にて、所沢所属の指揮官徳川好敏大佐(日本初の公式飛行アンリファルマン操縦者)が自ら91式2型戦闘機を操縦し、約150機の偵察機や爆撃機の大編隊の先頭を飛行している。この格納庫は春と秋の航空際には一般公開されているので是非ご覧下さい。

 

 91戦現存機体写真(所沢 航空発祥記念館所蔵)

エンジンマウント関係はほぼ残っている。ジュピターエンジンが無いのが惜しまれる。パラソル型の主翼を支える中央支柱が特徴をあらわしている。(写真下)

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垂直安定板の羽布はそのままであり原色の灰色塗料色は貴重な存在である。尾橇もほぼ原型を留めていた。尾翼形状からして試作型ではなく後期量産型のようである。

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