1933年(昭8)日本航空輸送株式会社(*)では郵便専用機により夜間郵便飛行を計画し、中島に対し8機を発注した。 中島では、海軍の九○式二号水上偵察機3型を基準にして日本航空の要請に応えて単座の郵便機に改修した。
その内容は主に夜間飛行のためのもので、下翼両端に離着陸用の大型の照明灯を装着、ラジオ・ビーコンや無線電話、落下傘付き照明弾等の装備であった。また発動機は九○水偵では「寿」2型改を搭載していたが、日本航空は運行中のスーパーユニバーサルが装備してる中島ジュピター6型を希望したので換装した。
イラストは解放式の操縦席となっているが、後に密閉式に改修されている。全部で8機製作されたが、郵便物の増加と共に、順次AT-2等の大きな機体が使われるようになり、比較的短命に終わっている。
- 注(*):
- 1928年(昭3)日本政府は朝鮮半島や大陸への航空路線を確たるものとするため「日本航空輸送株式会社」を設立し、それまで民間で自由に行われていたものを、官営で一元的運営を図った。東京と大連を結ぶ路線を開設しました。 更に1938年(昭13)には東南アジアへ路線の進出など国威向上をも狙って「大日本航空株式会社」に改組した。
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