第二次世界大戦前のイタリアは数々の世界記録を樹立した航空先進国だった。水上機の国際スピード競技シュナイダーカップレースではイギリス、アメリカとデッドヒートを展開していた。 レースはイギリスの3連勝で終わったが、接戦を演じたイタリアは、レース本番には間に合わなかったがマッキMC72で709km/hrの世界速度記録を樹立した。 この記録は水上機部門では今日も破られていない。
わが国の「航研機」が樹立した周回長距離世界記録を1年後に書き換えてしまったのもイタリアのサボイア・マルケッティSM82PD改だった。 だがイタリアは航空機産業の規模の拡充では日本に追い抜かれ、日本同様、信頼性のある大出力エンジンの開発で欧米列強に遅れをとっていた。
シュナイダーカップレースでスピットファイヤーの設計者レジョナルト・R・ミッチエルと覇を争ったマリオ・カストルデイは、日本の「飛燕」と同様、ドイツのダイムラーペンツDB601を国産化したエンジンを使って、この画のマッキMC202フォルコーレ(稲妻)を送り出した。 エンジン冷却器の配置、アスヘクト比は6.7の主翼と、非常に似通ったスタイルで、総重量もほぼ等しい両機だが、MC202フォルゴーレの翼面積は84%と小さく、燃料タンク容量も428リットルと80%弱しかない。 このため外形は「飛燕」に似ているが、戦闘機としての性格はドイツのメッサーシュミットMe109Fに近い。 5,000mでの最大速度は10km/hrほど速いが航続距離は短く、旋回性でも劣ることになった。
画はマルタ島の上空を飛ぶイタリア最高のエ−ス、Furio Niclot Dogilio の愛機。彼はこの方面の戦闘で戦死した。 |