470.中島 四式戦闘機「疾風」(キ-84)[旧日本陸軍]

NAKAJIMA TYPE4 FIGHTER"HAYATE"(Ki-84)(FRANK)[JAPAN-ARMY]


初飛行:1943年4月
全幅:11.30m、 全長:9.74m、総重量:3,750Kg、最大速度624km/h/6,500m
発動機:空冷複列星型18気筒ハ45「誉」 2,000馬力/離昇出力
武装:機関砲20mm×2 機銃12.7mm×2 、乗員1名

 「誉」の名称で採用された中島製のエンジン「ハ-45」は、直径1,180mmの小型なのに2,000馬力の出力を持つ傑作空冷18気筒エンジンだった。疾風は最初からこのエンジンを装備するために設計された戦闘機である。

 1941年(昭和16年)陸軍からの要求は、キ−43隼に勝る運動性能とキ−44鍾馗を上回る上昇力とスピードであった。最高速度680Km/h、5,000mまでの上昇時間4分30秒以内、加えて隼並みの航続力が要求である。ハ-45の性能を考慮しても過酷な内容だった。

 九七戦、隼、鍾馗を次々に開発した"戦闘機王国・中島"の技術陣は小山悌技師長を主任に西村節朗(1932年入社)、飯野優(1936年入社)の各技師、若手の川端清之(1940年入社)や陸軍航空技研から出向していた近藤芳夫技師らの総力でこの難問に挑戦した。中島ではこのキ-84を世界最速戦闘機を目指し、試作機を1943年3月に完成し、テスト飛行では最大速度624Km/hに達する素晴らしい性能を示した。監督官として着任していた陸軍将校は「よくぞ、こんなに素晴らしい性能の飛行機を作ってくれた」と感涙にむせんだとのことであった。

 しかし、その後は発動機の不調で制式採用は遅れ増加試作は83機に及んだ。1944年四式戦闘機「疾風」と命名され優先量産に入り主生産工場は群馬県の太田製作所、続いて新設の宇都宮製作所でも生産された。

 この制式機は性能武装とも日本一の戦闘機であった。しかし戦局の悪化とともに各種の資材調達が厳しくなり、とくにハ-45発動機(海軍名「誉」)は中島武蔵製作所で生産されていたが、B-29の集中爆撃の標的となり、材質不良や工作精度の低下によるエンジン不調にみまわれ、また脚の故障などで現地の稼働率を低下させ、また補給もままならなかった。総生産機数は「零戦」、「隼」につぐ第3位の 3,499機に達し、傑作機の一つであることは揺るがない。そして戦後のアメリカ軍のテストでは140オクタン燃料を用い最高時速689Km/h(6,100m)をマークし、上昇力、運動性、防火防弾、火力ともに申し分ないといわれ"日本の最優秀戦闘機"と改めて確認された。 

 下の作品は「疾風」の後方に米軍の最高傑作機 ノースアメリカンP51 マスタングが描かれている。 P51は疾風の中国大陸での初陣の相手であり、本土防空戦では終戦まで死闘を繰り返した好敵手であった。

 上の作品の疾風は小池さんの最新作。中国大陸での勇姿を連想させる。 陰影をもった大地と空を背景に離陸する姿を描いたこの作品は特に素晴らしい。


疾風の現存実機写真(Click Here!)

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