uiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift JIS"> アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

鳥居柿

 

言葉でではなく、知的にではなく、実際にです

クリシュナムルティ 幾つかのトークとデスカッションが行われるので、私は思います、我々は―もしそれが可能なら―一緒に、考えることから始めねばならないと、一緒に、考えるのです。それが意味するのは、あなたが受け入れたし拒絶したりするのではないことです、あるいは、あなたが出自を同じくする精神になるのではないということです、そうではなく、むしろ、様々な問題や質問や生の労苦を徹底的に話し合う中で、そして、一緒に、論理的に考える中で、そして、一緒に、そのように論理的に考えることをコミュニケイトしながら、そうして、我々は、我々が進むにつれて、そのような論理的思考は、いかなる問題も解決しないことを見て取るのです―そのことは、極めて、非常に、明かになってきています、政治的にも、経済的にも、そして、社会的にも。論理的な思考は、我々の人間の問題を解決してきていません、何らかのロジックも同様です、しかし、我々は、一緒に考えて行く中で、一緒に、明らかにしようと思います、そして、そのように、お互いにコミュニケイトしながら、我々の生のそれら全てに対して、全く異なる取り組み方があるということを。そして、我々は、一緒に、発見しようと思います。どうか、このことについては、最初から、非常に、明確になりましょう。私はあなたのグルではありません。私は、最初から、それが明確に理解されることを願います。あなたは私の追随者ではないということです、なぜなら、誰かに追随する人たちは、真理を破壊するからです。我々はあなたを何かに改宗しようとしているのではありません、あなたを説得しようとしているのではありません。我々は、論理的に、一緒に、考えようとしています、一緒に、話し合おうとしています、探究しようとしています、検討しようとしています、従って、何らかの権威の這い入る余地はありません、いかなるスピリチュアルリーダーもいません、しかし、一緒に、非常に、注意深く、考えることによって、検討することによって、探究することによって、我々は論理的思考を超えた何かに出会うことになるでしょう―なぜなら、論理的思考は、我々が言ったように、我々の、政治的、経済的、社会的問題のいずれも解決してこなかったからです。論理的思考は、二人の人間の間の人間の問題も解決してきませんでした。そのことは、粉々になっている、極めて健全さを欠いてきている、極めて秩序の乱れた、そして、生きるうえで危険な場所になってきている世界の中で、益々、明かになります。そうすると、あらゆる論理的思考、ある点までは、我々は、一緒に、論理的に考えなければならないけれど、論理的に、健全に、全体的に、考えなければならないけれど、そうすると、恐らく、我々は、我々自身で、異なる精神の状態を、いかなる教条にも、いかなる信念にも、いかなる経験にも縛られない精神の異なる質を明らかにするでしょう、従って、自由に観察する精神で、そして、そのような観察や気づきを通して、現にある通り見て取るでしょう、そうすると、“現にある通り”を変質させるエネルギーが生じます。
 もし我々が年を取ると、老いると、我々は、安全性や幸福を、過去の思い出の中に、我々が知っている経験の中に、我々が手にしてきた愛の中に見出します、そして、我々はそれに固執します。過去が非常に重要になります。そして、もし我々が、若く、しなやかで、溌溂としているなら、我々は、その瞬間に満足して、過去や将来のことを考えたりしません。そして、徐々に、若さが無くなって、年齢を重ねていき、問題を抱え始めます―安全であることを願います、不安や不確かさが生じて、何ものにも、誰にも頼ることができなくなります、それでも、確かな安定性を求めて、そうであることを願い、しがみつく何かを手にすることを願います。あなたはそうしませんか? もしあなたが、本当に、真摯に、そして、正直なら、あなたは必ずそのようなことに気づくはずです。
 どうか、再度、あなた方に思い起こしてもらっても宜しいでしょうか、これはエンターテインメントではありません、つまり、これは、あなたが、日曜の朝、やって来て、誰か、東洋人が、何か言っているのをこう言って聞くことではありません、“やれやれ、彼は何について話しているのか、彼は神秘家か、それとも、彼はあれやこれか”と―お分かりでしょうか、それら全ての戯言です。そして、また、宜しければ、私は、注意深く、指摘したいと思います、これは真剣な集まりであると。少なくとも、私にとって、我々が話していることは、非常に、非常に、真剣なことです。人はこのことに、五十年以上、費やしてきました、そして、もしあなたがあなた自身のためにも、そして、世界のためにも責任を負わないなら、そして、単に、表面的なことに満足して、一日を生きて、明日のために、何らかの関心をもたないなら、それは哀れなことでしょう。そのように、これはエンターテインメントではありません、つまり、これは、あなたが受け入れたり否定したりするイデオロギー的な何かではありません、そうではなく、一緒に、正に考えるプロセスの中で、人は真剣になります、正に、観察する、理性的に論理的に客観的に考えるプロセスの中で、あなたは、否応なく、非常に、非常に、真剣になります。そして、それが、この目的です、もし私にその言葉を使わせてもらうなら、それがこれらの集まりの目的です、つまり、何らかの観念を他のそれと交換することではありません、あるいは、あるグルを拒絶して、別のグルを受け入れることではありません、あるいは、新規の経験を見つけようとすることではありません、そして、もし、あなたがそのような経験を見つけることができなくて、失望することではありません。我々は、一緒に、真剣に、それら我々の日常的な生の問題を、あらゆるその悲惨、混乱、不確かさを抱えたそれらの問題を検討しようとしています。ですから、どうか、責任を持って下さい、安易に取り組まないで下さい。

 ......ロシア=ウクライナ戦争とは何でしょうか?......

 そこで、我々は問うています、人間が追い求めているのは何かと―あなたは、人間として、あらゆる人間性の正に総体です―お分かりでしょうか? あなたはあらゆる人間性の総体です、人が、インドに、ロシアに、中国に、あるいは、アメリカや此処に住んでいようと、どこに住んでいようと。あなたはあらゆる人間の代表です。そして、あなたがそのことに気づくとき、そのことは途轍もなく重要になって、そして、その責任を負います。しかし、ほとんどの我々は、そのことを認めたくありません、なぜなら、我々は責任を負いたくないからです。そのように、もし、再び、言わせていただくなら、我々は、一緒に、人間として、我々が追い求めているのは何かを、あなたが欲するものは何かを、深く、明らかにしようとしています。あなたは私の質問が分かりますか? 我々の周りの世界は非常に不確かです、それは、益々、健全さを欠いて、危険に、暴力的になっています。あなたは何が起こっているのか知っています。人々は、面白おかしく、いとも簡単に、殺されています。あなたはそれら全てのことを何らかのメディアを通じて見てきています、あなたはそれら全てのことを知っています。政治は、我々の問題を解決してきていません、この人間の暴力に終止符を打ってきていません、いかなる宗教も同様です。それどころか、宗教は、何百万人の人々の殺戮について、途轍もなく責任を負ってきています。あなたはそれら全てのことを知っています、私は人間の歴史を検討する必要はありません、あなたはそのことを非常によく知っています、もしあなたがそれら全てを見聞すれば。
 そのように、人が観察するとき、思考、論理的思考、ロジック―それらは必要ではあるけれども―は我々人間の問題を解決してきていません。そして、もしそれらがそうしてきていないなら、そうすると、それら全ての解決とは何でしょうか? そのように、その問いを発するとき、それら全ての解決とは何でしょうか?―人は、否応なく、このことに至ります、“本当に、私は世界であると認識している、人間としての、私とは何なのか、私が本質的に望むものは何なのか”と―なぜなら、私は世界を代表しているからです―お分かりでしょうか? あらゆる人間に責任があります、あらゆる人間が人類の総体です、なぜなら、もしあなたがインドへ行くと、人々はあなたのように考えます、人々は心配です、人々は悲惨です、不幸です、悲しみにくれます、貧しいです、退廃しています、そのことは世界中に存在します、同じ現象が存在します。そのように、あなたはあらゆる他の人間と同様です、あなたがそれを好もうと好むまいと。そのように、あなたの欲するものが何なのかを明らかにしながら、我々は進むことができます。 そのように、最初から、どうか、一緒に、取組みましょう。あなたは私に耳を傾けているのではありません。あなたは、あなたがあなた自身に耳を傾けているかのように、話し手に耳を傾けています。従って、一緒に、論理的に考えるためには、人はいかなる結論からも、いかなる信念からも、精神を条件付けて、我々が、一緒に、論理的に考えられなくなるいかなる教条ともスタートしないのでなければなりません。なぜなら、私はヒンドゥー教徒でも、キリスト教徒でも、仏教徒でも、それらのいかなる類でもないからです。話し手は、いかなる結論からも、いかなる信念からも、いかなる経験からもスタートしていません、従って、自由に観察する、学ぶ、行動する、行う精神からスタートしています。そして、私は思います、そのような精神が慈しむ精神であると、なぜなら、慈しみは、いかなる原因とも結果とも無縁だからです。どうか、このことを理解して下さい。このことは非常に重要です、なぜなら、我々はそのことを非常に深く検討しようとしているからです、つまり、そのような慈しみは、精神が自由であるとき、生まれるからです。そして、そのような慈しみには、原因も、従って、結果も存在しません。しかし、そのような慈しみが生じるとき、それは、根本的な、心理的な革命をもたらします。それが、我々の、始めから最後まで、話していることです。
 そのように、我々は我々自身に問うことから始めます、つまり、我々が追い求めているのは何か、ということです。我々が、我々一人ひとりが願っているのは何でしょうか? どうか、このことは非常に真剣な問いです、それは容易に答えられるかのごとく、それを振り払わないで下さい、それはそうではありません。あなたが望むものは何でしょうか? 物理的な安楽でしょうか? 物理的な安定性でしょうか? それとも、深いところで、我々のあらゆる活動の中が、我々のあらゆる関係性の中が、余すことなく安全であるであることの、安定していることの、確かであることの、安全であることの、永久的であることの欲求あるいは願望があるのでしょうか―それが我々の追い求めていることでしょうか? 我々は何らかの経験に固執します、そして、それが、我々に、何らかの安定的な質を、我々に永久的で安寧な感覚をもたらす、ある種のアイデンティティを付与します。その中に、安全性があるのでしょうか? どうでしょうか? 何らかの信念の中に、安全性があるのでしょうか? 何らかの教条と、結論と、国家と、あるいは、何らかの観念と一体化することで、それが安全性をもたらしますか? そして、それが、世界中で、多くのグルが族生して、安全性を吹聴する理由です、“私に従いなさい、そうすれば、あなたは、いかに行動するのかを、どのようにすれば安全でいられるのかを知るでしょう”と。それが、あなたの追い求めていることでしょうか? どうか、あなた自身で、それを検討して下さい、明かにして下さい。
 宜しいでしょうか、もし、私が、深く、仏教、あるいは、禅、あるいは、何らかの瞑想法に傾倒していて、それらを確信し、それらに固執するなら、そして、あなたがそれとは全く異なる何かを考えるなら、我々二人の間のコミュニケーションはどこに存在しますか? お分かりでしょうか? それが世界中で起こっていることです、つまり、あなたは共産主義者であったり、あるいは、ヨーロッパ型の共産主義者であったり、あるいは、資本主義者であったり、あるいは、カトリック教徒であったりします―お分かりでしょうか?―分断、分断、分断です。なぜなら、一人ひとりの人間がそれぞれ独自の教条、それぞれ独自の条件付けに固執するからです。違いますか? あなたはそのようにしていますか? 的を射ていて、御免なさい! そうすると、もしあなたがそのようにしているなら、あなたは、あるところまでは、論理的に思考するかもしれませんが、何らかのロジックを駆使するかもしれませんが、従って、あなたは、それを打ち破って、全く異なる次元へは行けません。お分かりでしょうか?
 そのように、我々はこう問うています、つまり、あらゆる人間が、実際に、全人間が、何かにしがみつくと、何らかの観念の形に執着すると、何らかの信念を作り上げてきた思考の形に、“現にある通り”のものに対する何らかの反応である何らかの経験に執着すると、そして、我々はそれにしがみつくのを知っていると。そのように、一般的に、世界中で、そのような現象が生じています。違いますか? もし、あなたが、深く、共産主義に―あるいは、むしろ、マルクス主義やレーニン主義に―傾倒しているなら、そうすると、あなたは隘路に嵌ります。違いますか? あなたは他の何も検討しなくなるなどのことが起こるでしょう。そうすると、それは安全性をもたらしますか? 思考は―どうか、このことに付いてきて下さい―思考は、あらゆるそれらの信念、教条、経験、分断を作り出してきたそれは、安全性をもたらしますか? あなたは私の質問が分かりますか? なぜなら、あなたは思考と共に機能するからです、あなたのあらゆる活動は思考に基づいています、水平的であろうと、垂直的であろうと―あなたが大いなる高さにまで高揚しようと、それは、依然として、思考の垂直的な活動です。あるいは、もし、あなたが、単に、社会的な革命などをもたらすことに満足しているなら、あなたのそれは、依然として、思考の水平的な活動です。違いますか? そのように、思考は、根本的に、基本的に、心理的な安全性をもたらしますか? あなたは私の要点を把握していますか? 私は私のグルの許へ行けます―私にはいかなるグルもいません、何と、しかし、私はあるグルの許へ行くかもしれません、つまり、グルの許へ行く行為は、思考に基づいています、思考は願います、彼が、私に、この不確かな世界の中で、何らかの種類の安全性を私に与えてくれると、彼が私を何らかの種類の幸福へと、何らかの種類の悟りへと導いてくれると。それら全ては思考の活動です。違いますか? そして、私は問うています、思考は安全性をもたらすのかと―心理的に。宜しいでしょうか? それでも、思考にはその適切な居場所があります、しかし、思考が、それは心理的な安全性をもたらすことができると想定するとき、そうすると、それは幻想の中を生きています。あなたは私の...どうでしょうか? なぜなら、宜しいでしょうか、もしあなたが、イエスや何かその他の全てを信じるなら、それは思考の活動です、違いますか? そして、思考はあらゆる種類のロマンチックな幻想を作り出すことができます。違いますか? そして、精神が、心理的に、教会の教条の中に、あるいは、非教会、あるいは、それが何であれ、その中に、何かを追い求めるなら、それは思考の構造です。そして、思考は、本質的に―何(笑)―過去の活動です、現在を通じて―違いますか―修正されている何かです。どうか、それを検討して下さい、あなたはそれを見て取るでしょう。思考は記憶の反応です。違いますか? 記憶は経験の結果です、知識として蓄積されたそれです、それは全て過去です。違いますか? 違う? 私に反駁する人がいます、何と!
 そのように、思考、それは、記憶、知識、経験の反応です、頭脳の中に、知識、記憶として蓄積されたそれらの反応です、そのような反応は、いつも、過去からの働きかけです。あなたは...宜しいでしょうか、過去の中に安全性があるでしょうか? あなたは付いてきていますか? どうか、あなたの論理的思考、ロジック、あなたの全てのエネルギーを使って明らかにして下さい。安全性は過去の中にありますか、それは伝統です―伝統は一日のそれかもしれません、あるいは、何千年ものそれかもしれません、それでも、それは伝統であり、それは過去です―そして、思考のどのような活動も、それは過去の本質ですが、それは安全性をもたらしえますか? あなたは私の要点を把握しましたか? それを検討して下さい、宜しいでしょうか、それをよく考えて下さい。我々の様々な宗教は過去に基づいています―様々な組織宗教、それらの儀式、教条、そして、それらと共に行われる全ての騒動は、意味を欠いたそれらは、本質的に、何らかの伝統であり、それは過去の何かです。そして、その思考は追い求めています―何が起こっているのかを見て下さい―それがそれ自身で作り出してきたものの中に安全性を追い求めています。違いますか? 私はあなたがそのことを見て取るのかどうか知りません。
 人類は、思考を通じて、神という観念を作り出してきました。私は神が存在するのかしないのかを議論していません、我々はそのことをもっと後で検討します。究極的な安全性を願う思考は神と称するものを作り出してきました。そして、人間はその観念にしがみつきます。先日、話し手はある国のパスポートを取ろうとしました、ある国の一部のそれです、そして、質問されたものの一つはこうでした、“あなたは神を信じますか”と。それは社会的に期待される、安全な何かです、そうすると、あなたはそれらギャングの仲間入りです! そのように、思考はそれを作り出してきました、そして、思考は、それが作り出してきた中に、安全性を追い求めます。その成り行きを見てみて下さい。それが作り出してきたそれ、その中に、それは安全性を追い求めます。そして、そのような安全性は過去の中です。違いますか? 思考は過去なので、それは未来に何かを思い描いて、神の未来があり、私は神の領域へ入って行こうとしていると言うかもしれません、しかし、それは、思考の活動がそれらを作り上げてきました。そして、思考は過去の本質です。私はあなたがそれら全てを見て取るのかどうか知りません! そのように、あなたは安全性を過去の中に追い求めています、あなたが作り出してきたものの中に追い求めています。そこで、人は問います、過去の中に安全性はあるのかと。あなたは付いてきていますか? そのことを、一歩一歩、検討して下さい、あなたはあなた自身で明らかにするでしょう。安全性は過去の中にありますか? それとも、このように認識しますか、安全性は過去の中にはないと、思考は、そうすると、何らかの観念を思い描いていると、何らかの理想的な状態、あるいは、理想的な精神を、そして、その中に、その未来の中に、安全性を見つけることを思い描いていると。それは、依然として、過去の活動です。違いますか?
 それでは、安全性は、果たして、思考の活動の中にあるのでしょうか? 宜しいでしょうか、私はそれを説明してきました。あなたはそれを理解しましたか? これまで、我々は、一緒に、論理的に考えてきました。違いますか? そして、我々は問うています、我々が、大切に、聖なる何かなどとして思い描いている正にその中に、安全性があるのかと、それらは全て思考の活動であり、それは過去の本質であるのかと、思考の中に、余すことのない安全性があるのかと。違いますか? お分かりでしょうか? もしそこにはないなら、そうすると、それはどういうことでしょうか? あなたは私の問いかけが分かりますか? 私は、これまで、私の生涯を通じて―仮に―人間として、彼の生涯を通じて、彼は思考に依存してきました、思考が、聖なるもの、聖ではないもの、倫理的なもの、非倫理的なものなどそれら全てとして作り上げてきたものに依存してきました、そして、それに対して、人間として、彼はそれら全てをこの上なく本質的な何かとして保持しています。あなたがやって来て、こう言います、宜しいでしょうか、それら全ては過去の活動ですと―彼と、論理的に、ロジックなどを駆使して考えた後で、あなたはそう言います。そして、彼は言います、何がいけないのでしょうかと、過去を保持して何が悪いのでしょうかと、なぜなら、思考は過去です、彼はそれを認めます、そして、私はそれに固執します、それのどこが悪いのでしょうかと。宜しいでしょうか、つまり、私は、あなたと、人間として、そして、他の人とも、私の関係性の中で、何らかの経験をしてきています、私はあなたと何らかの経験をしてきています、そして、そのような経験に私は固執します、それは記憶です―違いますか?―それは過去です。そうすると、我々の関係性に何が起こりますか? 私は過去の中を生きています。違いますか? そして、明かに、何らかの関係性は現在の中のみです。違いますか? 違う? もし私が過去の中を生きているなら、そして、あなたが過去の中を生きているなら、我々の関係性はどこにありますか? 
 そのように、幾人かの思慮深い人たちはそのことを認めます、そのことを検討してきました、そうすると、その人たちの問題はこうです、もし思考やその他の全て、たとえそれがいかに気高くても、下劣でも、様々な教会、様々な寺院、様々なモスク、それら全て、それが作り出してきたものはいずれも過去の産物です、そして、人間の精神が過去の中を生きているとき、そして、過去に固執するとき、そうすると、それは生きることが、あるいは、真理が何であるのかに気づくことができない、ということです。違いますか? 宜しいでしょうか、あなたはそれを認めもします。そうすると、もし思考の中に安全性がないなら―そして、何らかの安全性はあるのでなければなりません、そうでないと、あなたは途方に暮れます―もし思考の中に安全性がないなら、そうすると、どうなりますか? あなたは、この問題に、今、熱気を帯びて、全身で、危急の何かとして、向き合いますか? それとも、あなたは、ただ、それについて考えているだけでしょうか? 我々はお互いにどこか通じ合っていますか?

             ......

 なぜあなたは、思考の中に、安全性がないと言うのでしょうか―もしあなたがそう言うなら。あなたは私の質問を理解しますか? 我々は、我々のダイアログの中で、ある点までやって来ました―ダイアログは二人の人間の間の会話です。我々は、我々のダイアログの中で、ある点までやって来ました、つまり、我々は認めます、我々は見て取ります、あるいは、我々は考えます、我々は理解すると、思考です、それが作り出してきたあらゆるもので、この上なく途方もない技術的なもので―様々なミサイル、あなたは様々なミサイルについて聞いたことがありますか?(笑)―そして、ロシア人の行ってきたこと等々、この上なく技術的なこと、この上なく途方もないこと、そして、技術的に、人間が地球を破壊していること、湖を、川を汚染していること―違いますか?―それら全てが起こっています―そして、思考は、いわゆる宗教的構造も、教皇たちも、反教皇たちも、お分かりでしょうか、そのようなことが進行しています。そして、我々は言います、“はい、私はそれを目にします、そして、私は論理的に認めます、その中には、安全性はないと、なぜなら、そのことが問われると、恐れが生じるからです、従って、安全性はない”と。違いますか? そこで、我々がこう言うとき、“あなたはそれを見て取りますか”と、その“見て取る”という言葉で、我々は何を意味しますか? あなたはそれを理解しますか? それは、論理的な理解、言葉による理解、線的な理解でしょうか―お分かりですか―、あるいは、それがとても根本的なので、その正に理解が、あなたの努力とは無縁に、その正に理解が、思考の全活動を打ち破るのでしょうか? あなたは私の話していることを理解しますか? 私はそれを説明していますか? それとも、私はそれを再び検討しましょうか?
 私は、あなたに、あなたの言っていることに非常に注意深く耳を傾けます。これまで、論理的に、細部にこだわりすぎずに、あなたはそのことを検討してきました。私はあなたに耳を傾けてきました、思考は過去であると、思考は過去の本質であると、そして、思考はそれら全ての世界を作り上げてきたと、技術的な世界やいわゆる宗教的世界、倫理的世界などそれら全てを、そして、我々は、その中に、心理的な安全性を見つけようとしていますと。そのような安全性は思考の産物です。違いますか? そして、あなたは問います、そのような構造の中に、あるいは、思考の正にプロセスの中に、思考の活動の中に、安全性があるのかと。違いますか? あなたは、はい、と言うかもしれません。あるいは、あなたは言うかもしれません、それはないと。もしあなたが、ある、と言うなら、そうすると、それは明らかです、あなたは、論理的に、最後まで、考えていないと、なぜなら、人々は一つの条件付け―カトリック教徒、プロテスタント教徒、共産主義者、レーニン主義者など―から抜け出して、別の条件付けへ移るからです、それは同じことです。それはカトリック教徒が仏教徒あるいはヒンドゥー教徒になるようなものです、人々はそのようになることを試みますが、それはとても馬鹿げています、そして、人々は人々の孤立した領域の中に留まります。違いますか? 従って、二人の間にいかなるコミュニケーションも生まれません。そして、コミュニケーションが生まれないとき、分断が生じます。そして、分断が生じるとき、争いが生じるに違いありません。それは不可避です。違いますか? そして、もしあなたがこう言うなら、“どうやら、それが生というものです、争いは必要です、暴力は必要です、残虐性、戦争、あらゆる醜さ、拷問は必要です”と、そうすると、それらは問題ないのです、あなたにとって。お分かりでしょうか? もしあなたが、はい、と言うなら、それはそれで終わりです。しかし、もしあなたがこう言うなら、思考は答えではないと、そうすると、“私は理解します、思考はその問題を解決しません”と言うことは、あなたにとって、それはどういう意味でしょうか? あなたがこう言うとき、“私は理解します、思考は過去の本質であり、従って、それが何を行おうと、それは、依然として、過去の中です”と―宜しいでしょうか?―それが何を行おうと、従って、その中には、安全性は存在しません。我々はそのことを検討してきました。そして、我々は問うています、あなたがこう言うとき、“私はあなたの言っていることを理解します”と、その“理解する”という言葉は、あなたにとって、何を意味しますか? そのことを私は話しているのです。“私は理解する”と言うのは、あなたにとって、それは何を意味しますか? それは、あなたにとって、英語で言われた言葉を理解するという意味でしょうか? 違いますか? なぜなら、あなたと私は、恐らく、同じ言語を話しているからです。もし私がフランス語で話すなら、そして、あなたがあなたは理解すると言うなら、それはそれらの言葉の理解でしょうか、それらの言葉の意味、その言葉の説明でしょうか、従って、あなたは非常に表面的なレベルで理解しているのでしょうか? 違いますか? それとも、あなたがこう言うとき、“私は理解します”と、あなたは、あなたが実際に見て取ることを、思考が何であるのかの真理を観察することを意味するのでしょうか? お分かりでしょうか? あなたは、実際に、感じます、味わいます、あなたの言わば血の中で観察します、思考は、それが何を作り出そうとも、安全性を手にすることはないと、そうすると、あなたと話し手は通じ合えます。しかし、もしあなたがこう言うなら、“いずれにしても、表面的な何かに留まりましょう”と、我々は表面的な何かに留まりますが、そうすると、理解は生じえません。あなたは私の要点を見て取りますか? 私は私自身を明確にしていますか? 
 宜しいでしょうか、私がこう言うとき、“私はあなたを愛しています”と、あなたは私が本当にあなたを愛しているのかどうか非常に深く理解します、違いますか? 即座に、情動的な反応が生じます。そして、非常に複雑な問題、思考のそれでは、あなたがあなたは理解すると言うとき、同様に、それに対する余すことのない反応が生じますか? 誰かがこう言うとき、“私はあなたを愛しています”と―あなたは付いてきていますか?(笑)―天国は開いています! そして、同様に、我々は問うています、あなたがこう言うとき、“私はあなたの言っていることを理解します”と、同じように、エネルギーの、余すことのないエネルギーの爆発が生じますか? あるいは、あなたは、依然として、こう言います、“なるほど、私にもっと説明して下さい、もっとよくそれについて考えてみましょう、私に幾日か下さい、来週、もう一年、あなたに耳を傾けるようにさせて下さい、そうすると、私は理解し始めるでしょう”と―それがあなたの立ち位置でしょうか? もしそうなら、そうすると、あなたは決して理解しないでしょう、なぜなら、あなたはあなたが向き合う直々の挑戦を引き延ばしているからです。それは、家が燃えているようなものです、そして、あなたはこう言うのです、“いずれにしても、どうか、私は立ち去ります、あなたが行って見てきて下さい”と―お分かりですか、あなたの家が燃えている様子です。私はあなたがそれら全てを見て取るのかどうか知りません。
 そのように、あなたは即座に反応せざるをえません。私がこう言うとき、“私はあなたを愛しています”と、あなたは即座に反応します、違いますか? つまり、もしあなたがこう言うなら、私はあなたの愛が好きですと。(笑) そのように、あなたは即座に反応します。同様に、あなたがこう見て取るとき、思考は安全性を全くもたらさないと、それが作り出すものが何であれ、その対象であれ、その人物であれ、その観念であれ、それが何であれ、その中には、安全性はないと、あなたがそのことを全体的に見て取るとき、そうすると、何が起こりますか? あなたは私の質問が分かりますか? 
 もし私が見て取るなら、観察するなら、論理的に、考え尽くしているなら、そして、深く、私の血の中で、単に、知的にではなく、全体的に、理解しているなら、あらゆるナショナリテイは危険な何かであると―それは、私が共産主義、あるいはブレジネフ(笑)を受け入れることを意味しません―危険な何かであると、なぜなら、それは人々を分断するからです、私はそのことを完全に見て取ります、私の全ての血にかけて、私の全存在をかけて、見て取ります、そうすると、問題は生じません、私はそれをやり過ごしました。しかし、もし私が私のナショナリテイの中に安全性を見て取って、それに固執するなら、どれほど、あなたがその非合理性を指摘しようと、私は、依然として、それを保持します。そうすると、我々は非合理的な人々を相手にしているのでしょうか―違いますか?―神経症的な人々を、あるいは、理性的で、幾分か、健全な人々を。あなたは、幾分か、健全であるに違いありません―幾分か、なぜなら、あなたは此処にいるからです。違いますか? 私は言いません、あなたが全く健全であると、恐らく、あなたは、これらトークの後で、そうなるでしょう! (笑)
質問者 ...
クリシュナムルティ ...? 人は願います! (笑) 御免なさい。
 そのように、人がこう言うとき、“私は理解します”と、それは言葉によるものなのか、それとも、それは真実そうなのか、ということです。あなたはその真理を見て取ります、従って、あなたはそれから自由です。そのように、その真理を見て取ることが叡智の本質です。違いますか? 私はあなたがそのことを見て取るのかどうか知りません。叡智は、論理的思考、ロジック、非常に注意深い弁証法的な説明ではありません、それは叡智ではありません。それは、単なる、様々な形をした思考の表明にすぎません。そして、思考は決して叡智ではありません。もしそうなら、我々の世界は違ったものになるでしょう。そのように、真理の気づきが叡智です。そして、そのような叡智の中に、完全な安全性があります、なぜなら、そのような叡智は、あなたのものでも、私のものでもないからです、そのような叡智は何らかの条件付けを受けません、我々はそれら全てのことを終了しています、なぜなら、我々は言いました、思考は、その正に活動の中で、条件付けを作り出すと。あなたがそのような活動を理解するとき、その正に理解が叡智です。そして、そのような叡智の中に、安全性があります、そこから、行動を起こします。あなたはこのことの何かを理解しましたか? あなたはそのような何かでしょうか? あなたはそのような叡智を手にしていますか? “手にしている”のではありません―そのような叡智が、あなたの中に、子供のように生まれますか? もしそうでないなら、あなたがそこに座って、この哀れな男に耳を傾けている意義とは何でしょうか!
 そのように、我々は、この問題について、様々な仕方で、様々な領域で話しています、恐れ、快楽、悲しみ、死、瞑想などその他の全てで、しかし、その本質はこうです、思考は過去の活動であり、従って、時間の活動です、従って、それは計られるものです。そして、計られるものは、決して、計り知れない何か―真理―を見つけることはできません。そして、そのことが起こりうるのは、あなたの精神が、実際に、その真理を―思考が作り出してきたものは何であれ、その中には、安全性はないと―見て取るときのみです、そして、そのような観察が正に叡智です。そして、そのような叡智が生まれるとき、そうすると、全てが終了します。そうすると、あなたはこの世界の外にいます、あなたはその中を生きていて、何かを行おうとしているけれども、その中では、あなたは完全なアウトサイダーです。そして、この六回のトークと幾つかの集まりなどでの、我々の問いかけはこうです、あなたと話し手との間のこのダイアログの中で、この途轍もない叡智を目覚めさせることは可能かと。それが話し手の行うことです、この叡智を目覚めさせることです。そして、もしあなたがそれを望まないなら、そこに座らないで下さい―それを望むとは、あなたが食べ物を欲するというような意味です、あなたがセックスを望むとき、それは途轍もないことです。同じように、あなたは、あなたの全てのエネルギーを注いで、あなたの全存在をかけて、この叡智が、我々一人ひとりの中に存在するのかどうかを明らかにする必要があります。宜しいでしょうか?        ―1977年 7月10日 ザーネン
                     1977年 7月31日 ザーネン
                     1976年 7月28日 ザーネン