uiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift JIS"> アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

鳥居柿

 

言葉でではなく、知的にではなく、実際にです

クリシュナムルティ) このような悪天候ですみません。これが最後のダイアログ、あるいは、議論、あるいは、人がそれを何と呼ぼうと、これが最後のそれです。私は思います、人はどれだけのことをこれら全てのトークや議論から手にしたのかと。人は深く理解したのか、そして、変わったのか、自分自身を変質したのかと、あるいは、我々は、依然として、道半ばなのかと。なぜなら、私は思うからです、我々はこの問いを自分自身に課す必要があると。我々は、先日、言いました、凡庸という言葉は、道半ばを意味するにすぎないと、そして、秀抜な何かはそうではないと。そして、私は思います、我々は道半ばを歩んでいるのか、あるいは、道半ばに留まっているのか、何かを恐れて、何かが不安で、何かが不確かで、何をどうすればよいのか知らないで、そして、そこに留まっているのかと。
 そのように、私は思います、もし人がこの問いを自分自身で検討しうるなら、それはかなり興味深く、そして、意義のあることであると。しかし、私がそれら全てを検討する前に、一緒に話し合う何かがありますか?
質問者) 我々は関係性と自己知の重要性を議論できますか?
 おーっ、はい。
 思考が止むとき、果たして何に気づくのでしょうか、そして、その気づきと聖なる何かとの関係性とは何でしょうか?
 何との? 聖なる何かとの。
 宜しいでしょうか?
 どうか、簡潔に話して下さい、十分ではなく、一分で。
 (フランス語)
 宜しいでしょうか、私はあなたの言うことを英語に訳す必要があります、なぜなら、多くの人たちはフランス語を理解しないからです。
 (フランス語)
 私は思います、その紳士は問うていると、もし私が彼を正しく理解しうるなら―そして、もし私が間違っているなら、ごめんなさい―彼は問うています、なぜあなたは話すのかと、あなたは、それらの人たちに対して、神である、等々ですと。違いますか? それが彼の言おうとしていることの本当の意味です。
 (フランス語)
 それほど多くの年月を費やして話してきて、一人も、あなたの代わりに、その壇上に登って話すことができないのはなぜでしょうか?
 代わりではありません、あなたと、です、あなたと、です。
 あるいは、私のそばに座りうる人です。あなたは登壇して、私のそばに座ります、あなた方は皆そのように行えます!
 もしそういう人がいるなら、もしそう人がいるなら。
 もし、話し手の言ったことを本当に理解した人がいるなら、なぜその人はここに座って、私の言わんとすることを助けないのでしょうか? そうすると、私はあなた方皆をここに招いて、ここに座って貰います...宜しいでしょうか、それはどういうことでしょうか? (笑) これは政治集会ではありません! (笑) どうか、腰を下ろしていただけますか?
 愛は死を乗り越えることができますか?
 愛は死を乗り越えることができるか。どうか、座って下さい。
 私は私自身の中にこのプロセスを手にしています、そして、私は自分自身を明らかにしたいと思います。どのようにして、私は、神を発明することなく、そうできるのでしょうか?
 どのようにして、私は、神を発明することなく、私自身を明らかにできるのか。あなたの質問は何でしょうか、最初の質問です。
 関係性と自己知の重要性です。
 我々はそれからスタートしましょうか?
 私がそれらの問いを探究しようとするとき、しばしば、私は孤立感を覚えます、それは、私自身の周りに築かれた、乗り越えることのできない壁のようなものなのです。
 分かります。
 そして、人はその壁の中に安楽に留まることができません。我々はまた...
 それを検討して下さい。私はそうしようと思います、彼の言ったその問いを取り上げることで、つまり、自己知に対する関係性です。宜しいでしょうか? 私は、我々はそれに留まると思います、なぜなら、そうでないと、我々は、沢山の...で途方に暮れるからです。そして、また、私は思います、我々は、我々が、昨日、話していたことを終了すると。
 一つあるいは二つのことを非常に明確にしましょう―私はあなたの神ではありません! (笑)
 有難い!
 有難い! そして、私はあなたのリーダー、あるいは、あなたのグルではありません。どうか、宜しいでしょうか、後生ですから、我々の言っていることのいずれにも耳を傾けて下さい。我々はあなたに何らかの印象を植え付けようとしているのではありません、あなたに何らかの影響を施そうとしているのではありません、あなたに何をすべきかを語っているのではありません―その類のいずれでもありません。しかし、私は思います、人間がお互いにコミュニケイトし合うことが非常に重要であると。コミュニケイトとは、我々が共に同じことに興味を抱き、同じレベルで、同じ熱気で、向き合うことを意味します、そうでないと、あなたはコミュニケイトできません。もしあなたがこの自己の問いに、その自己と他の人との関係性に興味を抱かないなら―それは非常に重要です、社会学的にも、心理学的にも重要です―私は、それについてのいかなる話も明確にならないと思います。もし人がそれらのことを非常に注意深く検討したいと思わないなら、私は、我々がお互いに話し合うのを止めた方が良いと思います。

      ......他人とは何でしょうか?......

 最初に、昨日、我々は非常に重要なことについて話していました、それは、少なくとも、私にはそう思われます。我々は言っていました、お互いの関係の中で、愛とは何であるのかと。それが、昨日、我々が話していたことでした―男と女との間に存在するその愛です、母親の彼女の赤ん坊に抱くその愛です、人の国家を思う愛などです。我々はその問いを検討しようとしていました、つまり、もし余すことのない理解、あるいは、自己知がないなら、愛は生まれうるでしょうかと。違いますか? 我々はその問いを検討していました。そして、その問いも、今朝、答えらえます、彼がその問いを発するとき、つまり、自己知を手にしている、あるいは、自分自身を理解している人間たちの間の関係性とは何か、ということです。それが問われた最初の質問です。
 あなた方はみな、朝のあれやこれやの慌ただしさの後で、今、穏やかでしょうか? 私は、もし宜しければ、あなたと、この問いを検討したいと思います、これはダイアログです、つまり、これは、我々の、言語的そして非言語的コミュニケーションです。なぜなら、我々のほとんどは、人が世界中を見渡す限り、本当の理解、あるいは、愛と称されるこの途方もない言葉のその深みを手にしていないからです。私は思います、それを非常に穏やかに検討することは価値のあることであると、何らかの意見を提示するのではありません―私の意見に対するあなたの意見です、あるいは、愛が何であるのかのあなたの観念などです―検討するのです―お分かりでしょうか?―それは何らかの意見を表明することとは全く異なります。
 それでは、我々はその質問を検討できますか、それは自己知に関することです。我々は言いました、自己知、自分自身を知ることは、外の世界を知ることから始めねばならないと、世界中で起こっていることを知ることです―政治的に、宗教的に、経済的に、社会的に、人種的に、階級格差、全体主義国家、左翼、右翼そして中道、それら全てを人は観察するのでなければなりません。それは、もし人が何らかの偏った見方をするならば、不可能です。それは非常にシンプルで、非常に明白です。もし私が私のナショナリティに固執するなら、私の信念に、私の人種に固執するなら、私は、恐らく、世界を検討、探究、観察できません。そのように、それぞれの人間の外側で起こっていることの観察を通じて(列車の騒音)おーっ、何と! 我々の周りで進行していることの観察抜きに、社会的、倫理的、宗教的など、それらの観察抜きに、単に人自身を探究することは健全さを欠くことになります、なぜなら、非常に明瞭に観察されるべき対象が生じているからです、現に進行しているそれです。そこから、あなたは始めるのです。外側から内側へ向かうのです、内側から外側へ、ではありません。あなたはあなた自身を途轍もなく欺くことができます、もしあなたがあなた自身から始めるなら。一方、もし人が外側から始めるなら、そうすると、人自身の中に深く入り込みます、そうすると、あなたは外側と内側との間に違いがないことを見て取るでしょう。それは、海水の働きと同じかもしれません、海水の満ち引きです、絶え間なく、満ち引きを繰り返す海水です。

  ......意識の“満ち潮=引き潮”とは何でしょうか?......
......あなたの中に“沈黙の月”は出ているでしょうか?......

 宜しいでしょうか、人自身を観察するためには、我々は言いました、人は自由に見るのでなければならないと。自由は、何らかの偏った見方、信念、教条、結論からの自由を意味します、そうやって、人はあなた自身を観察することができます、そうでないと、あなたはあなたの見たいと思うものを見るでしょう、あるいは、あなたの見るものを否定するでしょう。違いますか? そのように、観察するためには、自由があるのでなければなりません。それはシンプルなことです。それでは、我々は、我々が話しているとき、そのようにできますか? 我々は、自己の、“私”の途方もなく複雑な構造と性質を理解したいと思って、その自己のそのような構造と性質を、いかなる結論もやり過ごして、観察できますか? もしあなたがこう言うなら、それは非常に難しいことです、人はそうできませんと、そうすると、あなたはあなた自身をブロックしています。違いますか? それはシンプルなことです。一方、もし人が本当にそのことに関わるなら、なぜなら、現にある通りの人は、その社会は、その宗教は、それら全てがその結果だからです。もし、あなたが嫉妬深く、貪欲で、権力や地位を追い求めているなら、あなたは、現にある通りのあなた―貪欲、権力、地位などその他の全て―を生み出す社会を作り出しています。
 いかなる歪みもやり過ごして、人自身を観察することは可能でしょうか? 我々は言います―どうか、このことに、一歩一歩、付いてきて下さい―我々は言います、それは可能であると、いかなる方向性も生じないときにのみ、いかなる動機も抱かないときにのみ可能であると。なぜなら、動機は方向性を指し示すからです、そして、観察を歪めるからです。違いますか? それは明白です。そうすると、あなたはこう言うでしょう、どのように私は私自身を動機とは無縁に観察できるのかと、なぜなら、私は様々な動機に満ちているからと―それは、本質的に、様々な賞罰に関わる動機ですと。違いますか? それでは、人は人自身を、そのような人の賞罰の追求と忌避の途轍もない伝統とは無縁に、ただ自由に観察することができますか? 宜しいでしょうか? 我々が話しているとき、そのようにしましょう。
 そして、観察するとき、最も根本的な問題の一つは、人間の中の関係性―男、女、夫、妻、母親と赤子など―とは何か、ということです。なぜなら、もし我々の関係性が正しくないなら―私はその“正しい”という言葉を英語的な―実際の、正直な、正確な―意味で使っています―そうすると、我々は何らかの社会を作り出します、とてもバラバラになっている社会か―それはとてもぞっとします―それとも、全体主義的な社会です。我々はそれを作り出しています、そして、それを受け入れています。我々はそのことを検討しますが、しばらく、そのことからは離れます。
 そのように、関係性を理解することは非常に重要です。違いますか? 関係性の意味することは、その言葉の意味は、関連することです、実際に関連することです、触れ合うことです、共感することです、共鳴することです、お互いを、完全に、部分的ではなく、理解する感受性のことです。そのように、ほとんどの人間がそのような関係性の中に全くいないとき、それらの人間たちの関係性は争いに基づくそれです、そのような争いはどのようにして生じるのでしょうか? あなたは付いてきていますか? どうか、このことは重要です、もしあなたがこのことを一緒に検討するなら...なぜなら、我々の生に関わることだからです、我々の生を無駄にしないようにしましょう、我々にはこの生のみがあるだけです―それで十分です、将来の生がどうであろうと、それは問題ではありません、現にある通りの我々のことです、もし我々が現にある通りの我々を変えないなら、我々は何らかの異なる形でそれを継続していくでしょう―私は、それは検討しません。
 そのように、関係性のこの問いを理解することは非常に重要です、なぜなら、それが自己知の一部だからです、人自身を知る一部だからです。関係性を通じて、それは外側です、あなたは、そうすると、関係性の理解から始めて、内面に歩を進めることができます。そのように、関係性を理解することは重要です。つまり、それはこうです、我々は果たして何かと関連しているのか、ということです―自然、人間同士、個人的に親密な関係性、性的なそれ、母親と赤子など―関係性です。宜しいでしょうか、そのような関係性は何に基づいているのでしょうか? どうか、あなた自身でそれを追って下さい。あなたにはあなたの夫がいます、あなたにはあなたの女友達あるいは男友達がいます、母親と赤子など、それら全ては我々の生の一部です、ですから、どうか、このことに付いてきて下さい、もし宜しければ、あなたの生の中で、一度、真剣になって下さい! 
 この関係性は何に基づいているのでしょうか? それはこういう二つの当のものでしょうか、深くそれぞれ自身に関心をもつ二人の人間でしょうか、それぞれの野望に深く囚われたそれらでしょうか、それら自身の心配事、それら自身の不安、不確かさ、混乱の中にあるそれらでしょうか、それら二人が出会うのでしょうか―少年と少女などです。そうすると、性のあらゆる問題が生じます、そして、そのような関係性の中で、それぞれが内面的に分離しているので―違いますか?―争いが生じます。それは明らかです。違いますか? 我々はこのことを進められますか?
 そのように、争いは不可避になります、我々の一人ひとりが自分自身のことで頭が一杯のとき。違いますか? それが現にある通りの我々です。そして、我々は、このことを検討する中で、途轍もなく正直になる必要があります、そうでないと、このゲームは興ずるに値しません。宜しいでしょうか、問題はこうです、この関係性は、努力とは無縁に、人間同士のその絶え間ない争いとは無縁に、存在しうるのでしょうか、そして、そうすると、その中にいかなる争いも生じないそのような関係性とは何でしょうか? あなたは付いてきていますか? それでは、なぜそのような争いが存在するのでしょうか、それが最初です。それは、そのような争いが存在するのは、それぞれがそれぞれ自身のことで頭の中が一杯であるせいのように思われます、その人自身から、その人は活動します―違いますか?―その人自身から、その人は行動します、その人自身から、その人はこう言います、“私はあなたを愛しています”と、しかし、その中心は“私”です、自己です。違いますか? それは明白です、違いますか? 我々は非常に明らかなことを表現しています。
 そこで、質問はこうです、そのような中心が理解されて、消滅することは可能かと。そうでないなら、生は―それは関係性です―否応なく、出来事と争いの連続であるに違いありません。それは明白です。そこで、我々は問うています、この中心が理解され、見守られ、その性質、その構造が見て取られて、そして、それが消滅することがありうるのかと―言葉でではなく、実際に、それが消滅することがありうるのかと。違いますか? それが我々の問いです。従って、人は自己の性質と構造を自由に観察するのでなければなりません。違いますか? あなたは付いてきていますか? 進めても宜しいでしょうか?
 それでは、様々な質問が寄せられています、私は何でしょうか、私は誰でしょうか、心理学者たちの言うことを受け入れます、そして、新進の心理学者のその観念があります、そして、何らかの最新の考え方です、あなたは言います、“神かけて、私はそれを受け入れます”と。我々は言っています、いかなるものも受け入れるなと―お分かりでしょうか?―なぜなら、そうすると、あなたは単にその心理学者の言うことをコピーしているだけです。違いますか? そのように、人自身の観察の中には、いかなる権威も存在しません―フロイト、ユング、そして、それら全ての類です。それを払い除けて下さい、そして、始めて下さい。なぜなら、そうすると、あなたの発見することはオリジナルな何かであり、二番煎じではありません。違いますか?
 そのように、人自身を関係性の中で観察することが可能なだけです―人がいかに他の人に反応するのか、人はいかに他の人を見るのか、お互いの言語的そして非言語的コミュニケーションとは何か、です。そのように、人が現にある通りの人を、実際に、理論的にではなく、主観的にではなく、見て取るのは、関係性の中だけです、関係性の中で、あなたの反応を見て取るのです。宜しいでしょうか、様々な反応は、あなたが記憶してきたことの表現です。あなたは付いてきていますか? あなたは何らかの出来事を、何らかの表現を、言語的なそれらや何らかの態度を記憶してきています、それは蓄積されています、あなたはそれらを蓄積してきています、頭脳はそれらを蓄積してきています。そして、あなたが蓄積してきたものが記憶になります、そして、その記憶から、あなたは観察します。それは極めて明白です。違いますか? あなたはあなたの他の人との関係性を過去の記憶で観察します、従って、あなたは観察していません。違いますか? それでは、全く蓄積しないことは可能でしょうか? どうか、これは、本当に、非常に、非常に、複雑な問いです。もしあなたがあなたの精神、叡智、あなたの明瞭に考える能力を注がなければ、あなたはこのことを捉えられません。そして、あなたは真剣になるのでなければなりません、なぜなら、このことは最も根本的な問いの一つだからです、つまり、頭脳、それはいつも蓄積しています、それは意識的あるいは無意識的に吸収しています、それは蓄積しています、そして、その蓄積はテープのようで、それは何度も何度も何度も繰り返し再生されています。違いますか? そこで、我々は問うています、そのテープ、その機械装置、蓄積するその活動が止むことは可能かと。あなたは私の...理解しますか? 我々はお互いに通じ合っていますか? 誰か私に言って下さい、お願いです! 我々は一緒に歩んでいますか?
 はい。
 どうか、私はあなたの神ではありません。(笑) あなたは私の追随者ではありません、私はあなたのグルではありません、我々は、生の中で、途轍もなく重要な何かへと歩みを共にしています。もしあなたがそのようにしていないなら、耳を貸さないで下さい、他の何かを考えて下さい。しかし、もしあなたが気を付けているなら、余すことなくそれに気を付けて下さい。
 そのように、頭脳、その機能は蓄積することです。それは蓄積します、なぜなら、その蓄積の中に、何らかの安全性が生じるからです。違いますか? それは何らかの安全を感じます、なぜなら、それは言うからです、“私は知っている、私は記憶している”と、そして、その記憶の中で、私が下した様々な結論の中で、私は安全であると。違いますか? そのように、頭脳は安全性を要求します、赤子のように、それは正に初めから安全性を手にするのでなければなりません、そうでないと、それは神経症的になります、あらゆる種類のことがその赤子に生じます。宜しいでしょうか、頭脳は安全性を追い求めています、なぜなら、安全性を手にすることは、それが効率よく機能しうることを意味するからです。もし、それが不確かで、不明瞭なら、そうすると、その効率性が失われます。それは明白です、違いますか? 私は何か非常に奇妙なことを言っていません、ですから、どうか、お願いします。私は、少し後で、非常に奇妙な何かを言おうと思います、ですから、今は、そのことを検討して下さい!
 そのように、頭脳は安全性を求めます。そのときにのみ、それは効率よく、健全に、合理的に機能しえます。もし何らかの不確かさが生じるなら、そうすると、その活動は神経症的になります。違いますか? それは明白です。そのように、それは蓄積しなければなりません。そのように、関係性の中で、絶えず、蓄積や記憶が生じているとき、そうすると、関係性は何らかの争いごとになります、なぜなら、あなたは、あなたの何らかの出来事、何らかの軋轢、収集蓄積されてきている何かを記憶しています、そして、一方の人も同じことをしています、そのように、それぞれの中心が強化されます。違いますか? “私”が私の中で強化されます、そして、あなたの中でも同様です。そうすると、その問いはこうです、本質的に重要なもののみを蓄積することは可能かと。重要なことです―本質的に、ではありません、その言葉を取り消して下さい―絶対的に重要なことです。なぜなら、頭脳が安全性を求めるように、それは絶対的に必要なものの中に安全性を見出すからです。違いますか? それは衣食住の中に安全性を手にするのでなければなりません―それは絶対的なことです―そして、技術的知識などの中に安全性を手にするのでなければなりません。しかし、他の何らかの要素を蓄積する必要性とは何でしょうか? あなたは私の言っていることが分かりますか? どうか、そのことを私と一緒に検討して下さい、もし宜しければ。何らかの意見や判断を差し挟まないで下さい、我々は探究しています。頭脳は、何千年と、蓄積することに慣れています―何らかの民族です、私は私が属する民族と共に生きていて、私は安全です、私は、私の属する民族の外では、安全ではありません、私の階級、私のグループの外では、私の信念が通じないところでは、私は不確かです、何らかの恐れが生じます。そのように、頭脳は、何千年と、その蓄積する性質を発達させてきました、なぜなら、その中に、何らかの安全性が生じるからです。違いますか? そこで、我々は問うています、心理的に働いているその蓄積の中に、安全性があるのかと。あなたは私の言っていることが分かりますか?
 (聞こえず)
 待って下さい、待って下さい、待って下さい。ちょっと待って下さい。私はそのことを検討しようと思います、私はそのことを検討しようと思います。
 (聞こえず)
 宜しいでしょうか、私は言いました、どうか、十分間、最後まで私に耳を傾けて下さい、それから、あなたはあなたの好きなだけ私に飛び掛かることができます、しかし、どうか、私の言わんとすることに、初めに、耳を傾けて下さい。なぜなら、あなたは平静ではないからです、私は何かを進めようとしています、私に最後まで言わせて下さい。私は短気になっていません、あるいは、あなたの話すことを遮っていません、あなたはあなたの機会を、後で、手にします。
 我々は問うています、関係性の中の、あらゆる心理的傷、あらゆる心理的恐れ、そして、様々な執着を蓄積する中に、安全性が生じるのかと―お分かりでしょうか? そこで、その一つを取り上げます、つまり、関係性の中で、心理的に、我々は傷つきます―違いますか?―傷つきます、子供の時から傷を負います。そして、その傷の結果が、暴力、他の人たちを傷つけたいという思い、あるいは、それ以上傷つきたくないという引きこもり、従って、自分自身を孤立させること、そして、孤立しているので、神経症的に行動するなどです。そのように、私はその一つを、とりあえず、見ています、つまり、我々は、我々の関係性の中で、お互いを傷つけ合います。より親密になればなるほど、我々はより傷つきます。そして、全く傷つかないことは可能でしょうか? それは、傷を負うかもしれない他の人の言ったことを蓄積しないことでしょうか? あなたはこのことに付いてきていますか? そのことを、我々が話しているとき、あなた自身の中で行って下さい。我々は、お互いの親密な関係性の中で、軽率にものを言います、我々は酷く乱暴なことを言います、お分かりでしょうか、何らかの摩擦が生じます。そして、その摩擦の中で、大いに傷つきます。そこで、我々は問うています、そのような、お互いの関係性の中で、蓄積しないことは、従って、傷つかないことは可能かと。分かりましたか? 宜しいでしょうか? 
 我々は言っています、それは可能だと。そして、私はそれを検討します。それは不可能だと言わないで下さい、そうして、あなた自身をブロックしないで下さい。宜しいでしょうか? 我々はそれを検討しようと思います。言わないで下さい、それは不可能、あるいは、それは可能だと。我々は一緒に歩んでいます、川の流れのように、歩んでいます、流れています、そして、何らかの障害があると、我々はそれをやり過ごして、進んでいきます。
 そのように、我々は言います、関係性の中で、蓄積しないことは可能だと、なぜなら、愛は記憶ではないからです。違いますか? 愛はあなたがこう言う何かではありません、“ダーリン、あなたは、一昨日、私にとても良くしてくれました”と。そのように、愛は過去の何かではありません、思考によって培われた何かではありません、それは、関係性の中で、争いが生じるときに、恐らく、生じうる何かではありません。そのように、我々は、いかなる争いも生じない関係性の中での愛とは何かを明らかにしようとしています。我々は言っています、それは、関係性の中で、あなた自身の理解が始まるときにのみ可能であると。関係性の中で、傷が生じます、多くの、多くの傷が生じます。そして、それらの傷は決して完全に癒されません、なぜなら、それらが、絶えず、起こっているからです。それでは、関係性の中で、傷つかないことは可能でしょうか? どうか、これは途轍もない問いかけです、お分かりでしょうか? 我々は言っています、それは可能であると。そして、それは、何かを悟るときにのみ可能です、何かを悟るときとは、関係性の中の、いかなる形の蓄積も、心理的に傷つくという観察を意味します、そして、あるレベルでの蓄積は重要であっても、心理的なレベルでは、そうではないという観察を意味します。あなたがそれを見て取るとき―お分かりでしょうか?―あなたがそれを観察するとき、あなたがそれを知るとき、そうすると、あなたは蓄積しません。例えば、我々の関係性の中で、私があなたのことを愚か者と呼びます、あるいは、あなたは、今朝、ひどい状態です、私が新聞を読みたいと思うと、あなたがやって来て、それを取り上げます。私は苛つきます。
 そのように、その瞬間、あなたが愚か者と呼ばれた瞬間、あるいは、あなたが何と呼ばれようと、その瞬間、気を付けていることです。お分かりでしょうか? 気を付けることが意味するのは、我々が、先日、言ったように、三つのタイプのそれが...それは、精神集中、気づき、そして、気を付けることです。精神集中が意味するのは、あなたの全エネルギーである点に集中することです―違いますか?―従って、何かを排除します、他の形の思考が這い入ってくるのに、絶えず、抵抗します。我々は言いました、いかなる選択もしない気づきは、いかなる選択とも無縁に観察することであると―我々はそのことを検討しました。それでは、気を付けるということは、あなたが完全に気を付けるとき、私はあなたが、今、そうしていることを願いますが、完全に気を付けているとき、いかなる中心も生じないということです。違いますか? あなたはそのことに気づきましたか? そうすると、誰かがあなたを、関係性の中で、愚か者と呼ぶとき、あなたがそのように気を付けているとき、それは蓄積しません。違いますか? どのようにして私はそのように気を付けているのかと聞かないで下さい。それは愚かな質問です。いかなる実践法も、いかなるメソッドも、いかなるシステムもありません。しかし、あなたがその本当の重要性を見て取るとき、その事実の真理を見て取るとき、いかなる形の心理的蓄積も、否応なく、争いや傷やその他の全てに行き着くことを見て取るとき、あなたがその真理を見て取るとき、あなたは蓄積しません。従って、誰かがあなたを愚か者と呼ぶ瞬間、あなたが気を付けていると、蓄積することは生じません。あなたはそうしていますか? あなたはそうしますか、将来にではなく、実際に、あなたの男友達あるいはあなたの夫、妻、あるいは、それが誰であれ、そのそばに座って、その全メカニズムを見て取りますか、その単なる一部ではなく、そのことの全構造を見て取りますか? 
 我々は言いました、蓄積は何らかの安全性を獲得する手段であると。違いますか? それは、安全性を、それが関係性の中で築き上げてきた様々なイメージの中に、イメージの中に、追い求めてきました。違いますか? そのイメージは、完全に気を付けているとき、消滅します。
 宜しいでしょうか、ちょっと待って下さい、その紳士が問いました、分断するのは何ですかと、蓄積されるものと蓄積されないものです。違いますか? 宜しいでしょうか、あなたが関係性の性質と構造を見て取るとき、何が起こりますか―宜しいでしょうか?―実際に、あなたの心で、あなたの精神で、あなたの血で、それを観察するとき、そのような観察から何が起こりますか? 気を付けているだけではなく、叡智が生まれます、違いますか? 違いますか? なぜなら、あなたは真実の何かを見て取ったからです。それは、正に、あなたが気を付けていないときに、傷が生じて、あなたが気を付けているときには、イメージが形成されないということです。もしあなたがその真理を見て取るなら、その気づきが叡智です。あなたはそのことに閃きます。違いますか? あなたは頭脳の蓄積する性質が何であるのかに閃きます、そして、そのような閃きは、あなたが自由に観察するときにのみ起こりうるだけです。つまり、閃きは、あなたの偏った見方、あなたの希望、あなたの恐れではなく、空虚になるときにのみ、生じえます。違いますか? その叡智は言います、ここは蓄積が必要なところですと。違いますか? 従って、叡智の中に、頭脳にとっての安全性が生じます。お分かりでしょうか?
 はい。
 言葉でではなく、あなたの血の中です。それは途轍もなく危険な何かを目の当たりにするようなもので、そこで終了です、あなたはそれと取り組みません。同じように、あなたが途方もない事実を目の当たりにするとき、様々な傷、あらゆるそれらの争いが人間たちの間に存在するのは...であるから―私はそれら全てを言ってきました。
 (聞こえず)
 あなたは何を言っているのでしょうか? 私はそれを理解できません。誰かそれを理解しましたか? どうか、誰かそれを繰り返して下さい、もしあなたがそれを正しく聞いたのなら。
 彼は関係性の中の意志について知りたがっています。
 あーっ、関係性の中の意志。私はこれをしなければならない、そして、あなたは他の何かをしたいと思う。違いますか? 私は、団体組織の、企業の最高経営責任者になりたいと思う、そして、あなたは他の何かを行いたいと思う。違いますか? 欲望、それは意志の本質です、私をある方向に押し動かします、そして、あなたを他の方向へ押し動かします。違いますか? それは関係性の中の要因の一つです。違いますか? しかし、それは非常にシンプルです。
 それは全くシンプルではありません。
 宜しいでしょうか、それは非常にシンプルです、あなたがこの叡智を手にしたとき。意志の働きを理解するのは途方もなくシンプルです、それは欲望の働きです。どうか、それがどういうことかに閃いて下さい―お分かりでしょうか?―言葉での議論ではなく、こう言うことではなく、それは途轍もなく難しい、あるいは、難しくない、そうではなく、意志のあらゆる活動が何であるのかに閃いて下さい、それは欲望です。私は―私は知りません―ゴルフをしたいと欲します、一流のゴルファーになりたいと欲します。私の妻は社会的なリーダーになりたいと欲します。そして、我々の間に争いが生じます。違いますか? 私はこれを欲します、そして、彼女はそれを欲します。宜しいでしょうか、どのようにあなたはその争いを避けますか? その争いを避けるためには、あらゆる争いを拭い去るためには、あなたは欲望を理解するのでなければなりません―違いますか?―なぜ分離した欲望が生じるのかです。私はあなたがこのことを見て取ったのかどうか知りません。あなたはこのことに付いてきていますか? なぜあなたは何らかの欲望をもつのか、そして、他の人は全く異なる欲望をもつのか。何らかの目的を有する―何らかの地位であり、何らかの観念であり、何かです―欲望です。違いますか? あなたはそのための欲望を手にします、そして、彼女は全く正反対の欲望を手にします。もしその二つの欲望が手に手を取り合えば、我々が共に同じことを願うなら、我々は考えます、完全なハーモニーが生じると。しかし、二つの間に矛盾が生じると、そうすると、トラブルになります。そして、その紳士は言います、それが争いの主な要因の一つですと。
 宜しいでしょうか、欲望は異なりますか? 欲望の目的は様々かもしれません。私は車が欲しいかもしれません、あなたは赤ん坊が欲しいかもしれません。そこで、争いが生じます。しかし、我々は言っています、欲望それ自体は異なりますかと。分かりましたか? 欲望の目的は様々かもしれません。我々はそのことから離れます。しかし、欲望それ自体は異なりますか? それとも、それは本質的に欲望でしょうか? もし我々が欲望の性質と構造が何であるのかを理解するなら、その本質を理解するなら、そうすると、何が起こるのでしょうか? 宜しいでしょうか、我々はそのことを検討します。(笑)
 いいえ、なぜなら、私は他の何かに進みたいと思うからです。我々は耐えます。欲望は愛でしょうか? 我々は違うと言いました。宜しいでしょうか? 我々はそのことでは非常に明白です、我々が愛について話したとき。そして、欲望の性質と構造、我々はそのことを、以前、ここでの集まりで、非常に注意深く検討しました。それは、知覚、見ること、触れること、感覚のことです。そうすると、思考がそれに取って代わり、それを欲望に変えて、欲望の意志の働きで成し遂げられるイメージを作り出すと。それはシンプルです。私はそれら全てを検討しようとは思いません。いいえ、我々が話すのでなければならない他の何かがあるからです。
 そのように、もし我々が欲望を、本当に、根本的に、理解するなら、欲望が何であるのかに閃くなら―あなたはあなたの目的をもち、私は私のそれをもちます―争いは生じません。我々が欲望を根本的に理解しないときにのみ、そうすると、争いが生じます。そのことは放っておきましょう。
 宜しいでしょうか、私はこのことを検討したいと思います。つまり、我々は言いました、思考がその中に安全性を見出してきた蓄積―頭脳―は、今、心理的に安全性は全く生じないと分かると、従って、蓄積は生じません。しかし、その発見は叡智です。そして、その叡智の中に、完全な安全性が生じます。違いますか? 完全な安全性です。あなたは、それら全てのトークに―言葉、言葉、言葉に―耳を傾けた後で、そのような叡智を手にしていますか? そのような叡智をあなたは手にしていますか、そのような叡智が目覚めていますか?
 そして、そのような叡智は、自由に、関係性の中で、いかなる歪みとも無縁に、いかなる動機とも無縁に、観察することになる観察が生じるときにのみ目覚めえます。そのことから叡智が生じます。そのように、叡智が完全な安全性をもたらします、従って、それは必要なものを蓄積して、必要でないものは蓄積しません。そこで、我々は言っています、そうすると、愛は記憶でしょうかと。違いますか? 愛は思考の対象の何かでしょうか? あるいは、愛は思考によって培われうるのでしょうか? 我々はノーと言いました。そして、それは極めてシンプルなことです、誰もがそれに同意します。そうすると、愛は関係性の中でどのような位置を占めるのでしょうか? 宜しいでしょうか? もし愛が欲望ではないなら、もし愛が快楽の追求ではないなら、そうすると、関係性の中の愛とは何でしょうか? 宜しいでしょうか、そのことに取り組んで下さい。あなたは、そのような愛の感覚が生じるとき、そのような問いを発しますか? 問題はこうです、あなたはそのような愛を手にしています、それは欲望ではありません、それは快楽ではないなどです、それは叡智の真髄であるのか、ということです。私はあなたがそのことを見て取るのかどうか知りません。仮に、あなたがそのような途方もない叡智の真髄を―それは愛です―手にしているとします、そして、私はそれを手にしていません。我々の関係性の中で―私は、幸運にも、あるいは、不運にも、私はあなたと結婚しています―そして、あなたはそれを手にしていません、私はそれを手にしています、そうすると、我々の関係性とは何でしょうか? あなたはこのことが分かりますか? あなたは私の問いかけを理解しますか?
 どうか、お願いします、私は質問をしたいと思います。
 ひどい雨になっています。
 議論するあなたのトークとデスカッションを、私は本当に有難いと感謝しています、そして、誰もが、あなたの言ってきたことの中に、何らかの真理があるのかないのか分かります。私は問いたいと思います、あなたは、もしあなたがそこにいないなら、私がそこにいることを、想像できるのかどうかを。
 いいえ、宜しいでしょうか、それは全て理論的です。
 あなたはそのことを理解しませんか?
 理解します、理解します。それは古い質問です、私はそれを知っています。しかし、我々はそれを、今、議論していません。もし宜しければ。我々が話しているのは、欲望ではない、単なる快楽の追求ではない、愛のその質が生まれるとき、そうすると、関係性の中のその愛の質とは何でしょうか、ということです。つまり、我々は言いました、関係性の中で、それぞれが自分自身に関心があると。違いますか?
 慈しみです。
 いえ、いえ、待って下さい。いかなるものにも飛びつかないで下さい、いかなる結論も下さないで下さい。まだ言葉を使わないで下さい。我々は言いました、関係性の中で、あなたは現にある通りのあなたを発見すると。違いますか? あなたの様々な反応、あなたのプライド、あなたの嫉妬心、あなたのあれやこれです。そして、関係性を通じて、あなたはそれら全てを解消し始めます。違いますか? そうすると、あなたはあなた自身を可能な限り深く理解し始めます、なぜなら、関係性の中で、それはそれを示すからです。そして、あなたは悟り始めます、気を付けているとき、蓄積することはないと。我々はそれを経ました。そうすると、問題が生じます、その関係性の中の愛とは何かです。違いますか? もし欲望が生じないなら、もしその関係性の中に快楽の追求が生じないなら、そうすると、関係性とは何でしょうか? お分かりでしょうか? 宜しいでしょうか、そのことをよく考えて下さい。私は、私があなたのためにそれら全てを考え抜いて、そうして、あなたがそれを受け入れたり、あるいは、それを拒絶したりするようにはしていません。それを検討して下さい―“私はあなたを愛しています”
 気を付けることです。
 おーっ、何と! 気を付けることではありません、マダム、我々はそのことを検討してきました。私はあなたを愛しています―あなた自身を見守って下さい、どうか、あなたは誰かを愛します、愛しませんか? あなたは誰かを愛します、そして、その愛は欲望によってコントロールされません、その愛は快楽の追求ではありません―我々はそれら全てを検討しました。そうすると、二人の人間、男、女の間の関係性とは何でしょうか、そのような愛が生まれるとき。
 それは自己中心的ではありません、従って、分離していません、それは全体です。
 それは結論です、それは理論です。その婦人が言います、中心が存在しないと、従って、我々は一つであると。そうでしょうか? あなたは分かります、あなた方の誰もが―このように言うのを許して下さい―あなた方の誰もがそのようにしません、それを検討して下さい。
 どうしてあなたは分かるのですか?
 どうしてあなたは分かるのか? もしあなたがそのようにするなら、あなたは此処にはいないでしょう! やれやれ、雨が激しくなっています、そうですね? 私は、あなたが、後で、温かい服を着るのを願います。
 我々は問うています、関係性の中で、この愛の質の居場所はどこにあるのかと。お分かりでしょうか? 我々は言いました、叡智の働き、叡智の目覚め、それが愛の真髄であると。違いますか? そして、この叡智は慈しみでもあります。この叡智は明晰性でもあります、そのことを我々は話しました。そして、また、この叡智は巧みに働きもします。違いますか? 巧みに―その意味を、今、理解しましたか? あなたはそれを理解していますか? していませんか! 
 川のように。
 それが全てです! お分かりでしょうか? あなた自身で、それを検討して下さい、そうすると、あなたは、もしあなたがそうするなら、あなたの生の中で、途方もないことが起こるのを見て取るでしょう。言葉でではなく、理論的にではなく、何らかの結論に至るのではなく、実際に、それら全てが何であるのかに閃くのです。そして、あなたが閃きうるのは、自由があるとき、心理的な自由があるとき、いかなる選択とも無縁の自由があるとき、あなたが見ることのできる、いかなる方向性とも無縁の自由があるときのみです。
 そのように、我々は、慈しみ、明晰性、そして、巧みさについて話しました。我々は言いました、愛のそのような質の中に、叡智が生まれると。違いますか? 叡智は慈しみです、違いますか? なぜなら、あなたは、明晰性なしに、慈しみを手にすることはできないからです。そのように、人の他の人との関係性の中に、慈しみが生まれると―愛、慈しみ、叡智、明晰性―あなたは、関係性の中で、優れて巧みに振舞います。違いますか? 私はあなたがこのことを見て取るのかどうか知りません! あなたはそれを見て取りますか、それとも、それは、依然として、全くのチンプンカンプンですか?
 我々が言ったように、我々は大いなる技術を手にしています、我々はあらゆる方向で途轍もない技術を獲得してきています―空中で、海中で、地上で、我々の関係性の中の、狡賢いスキルです。違いますか? 欺瞞的に、偽善的に、傷つかないように巧みに振舞います、私自身の方法で、あなたが私に従って、そうすることで、いかなる争いも生じないように望みます。我々はそれら全てを学んできました。しかし、そのような技術は明晰性を欠きます。そのような技術は更に“私”を強調します。我々はそのことを検討しました。
 そこで、何が起こるのかを見てみます。極めて簡潔に、私はそのことを検討します、何が起こるのかを論理的に検討します。我々は言いました、あなたは、外側のものを、世界で起こっていることを観察することによって、歪むことなく、あなた自身を知ることができると。そして、外側の世界から内側に目を向けると、あなたの見るものは何でも適切になります、なぜなら、あなたは、適切に、事実のままに、精確に観察することを学んだからです、あなたの周りで何が起こっているのかを学んだからです。そのように、あなた自身を観察する中で、関係性の中の主な要因の一つは何らかの争いです―何らかの傷、意志の表現、欲望です。違いますか? 傷つくこと、争い、そして、それぞれがそれぞれ自身の、彼自身の、あるいは、彼女自身の方法を願います。違いますか? 宜しいでしょうか、それら全てが、分離、分断を際立たせます。そのように、意志の働きによって作り出された、何らかの観念によって作り出された、何らかの欲望によって作り出された、様々な欲望の目的、何らかのイデオロギーの追求によって作り出された分断が生じるところではどこでも、人々を分断します、従って、その結果、途轍もない争いが生じます。私の妻はカトリック教徒かもしれません、そして、私はカトリック教徒ではないかもしれません、そうすると、争いが生じます。私は彼女に非カトリック教徒になって欲しいと思います、そして、彼女は私がカトリック教徒になることを欲します、そうすると、戦いになります。

......あなたの中に“沈黙の月”は出ているでしょうか?......

 そこで、我々は言いました、頭脳は蓄積すると、なぜなら、蓄積する中に、何らかの安全性が生じるからですと。そして、それが作り出してきた安全性は、我々がお互いについて抱くイメージの中にあります。そして、お互いが異なるイメージを抱くので、争いが生じます。そこで、我々は、関係性を通じて―違いますか?―自分自身が何であるのかに閃いています。そのような閃きは、自由に、空虚に見るときにのみ生じます。あなたは見ることができません、もしあなたの精神が、もしあなたの頭脳が、何らかの偏見で、あれやこれやで一杯になっているなら。そのように、空虚に見るのでなければなりません。つまり、観察者が止むのです。我々は、それら全てを検討してきました。
 そこで、我々は言いました、心理的蓄積、非蓄積は、そのような叡智が生じるときにのみ可能であると。そのような叡智は、何らかの閃きが生まれるとき、生じます。違いますか? そのように、そのような叡智は、必要なものを蓄積して、必要でないものは蓄積しません。
 そこで、我々は、愛が何であるのかの問いを検討します。愛は欲望などそれらでしょうか? もしそうでないなら、そうすると、愛は関係性の中の叡智です。違いますか? そして、そのような叡智は慈しみの一部です。そして、そのような慈しみは、明晰性が生じるときにのみありえます。自由によって生じる明晰性、そして、観察する自由と閃きです。そして、慈しみ、明晰性は、関係性の中で、この上なく巧みに働きます。違いますか?
 宜しいでしょうか、あなたは、それら全てのトークとダイアログの後で―もし我々がダイアログを行っているとするなら、我々は全くダイアログを行ってきていません、私が話してきました、あるいは、話し手が、ずっと、話してきました、我々は、来年、もし我々が此処にいるのなら―我々は此処にいるでしょう!―それを今回とは異なるように行うのでなければなりません。それでは、これら全てが終了すると、我々はどこにいるのでしょうか? 我々は一緒に歩んできていますか、絶えず、一緒に歩んできていますか、一緒に流れてきていますか、やり過ごしてきていますか、川のように、障害物を横目で見て、それをやり過ごしてきていますか、我々はそのように歩んできていますか? それとも、我々は、依然として、その岸辺の一部で、その川を見ているのでしょうか? あなたは私の言っていることが分かりますか? 我々は、岸辺に、我々の様々な観念を抱えて、我々の希望を抱えて、我々仕様の安全性に守られて―あなたはその他の全てのことを知っています―悠々と座って、川の流れを見ているのでしょうか? あなたの行っているのはそのどれでしょうか? その川の一部であるためには、その川と共に流れるためには、あなたはその岸辺を去るのでなければなりません、ごく自然に。私は思います―どうか、答えないで下さい―私は思います、どれだけの人がこれら全てと共に流れているのかと。それでは、宜しいでしょうか。そうすると、私のような話し手が、ただ一人ではないということが非常に重要になります。お分かりでしょうか? あなたが、私の代わりに、ここに来て座ることが非常に重要になります。あなたが、明らかになっている人に、明晰性、慈しみ、巧みさを手にしている人になるのです。なぜなら、世界は、益々、狂気じみて、健全さを失ってきているからです、そして、あなた方の幾人かが、ここへ来て、座って、話して、外へ出て行くためには、心理的な途轍もない革命を経るのでなければならないからです。あなたはそれら全てを行いますか? それとも、あなたは年を取りすぎていますか? それでは、このトークの最後に...
 宜しいでしょうか、あなたは最後に言いました...
 それはとても...時間は何時でしょうか? 私は止めなければなりません。私はこれ以上話せません。そこで、私は望みます―望むのではありません―あなたが一緒に歩んできたこと、一緒に、我々は非常に遠くまでやって来ました。中途で終えて、こう言っていません、何と、それはとても難しい、私はそれを理解しません、私は彼を理解しなければなりません、私のことではありませんと。あなたは知っています、我々がお互いに弄ぶあらゆるゲームのことを、多くの観念や狡賢い論理などそれら全てを弄ぶことを。それら全てをやり過ごして、我々は、一緒に、非常に遠くまでやって来ましたか? 
 私はあなたが素敵な一日を過ごすことを願います。                     ―1977年 7月31日 ザーネン
                     1977年 7月10日 ザーネン
                     1976年 7月28日 ザーネン