uiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift JIS"> アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

鳥居柿

 

言葉でではなく、知的にではなく、実際にです

クリシュナムルティ) 私は思います、弁証法的な問いとダイアログとの間には違いがあると。弁証法的な問いや探究は、辞書によると、真理を、様々な意見を通して明らかにすることを意味します。それが弁証法的な取り組みの文字通りの意味です。一方、ダイアログは、お互いをよく知る二人の友人が、お互いの言語、言葉の使い方を共にしていて、真理を明らかにしようとする本当の探究心を備えた取り組みのことです―探究する上で、意見を主張し合うのではなく、一緒に取り組むことです。そのように、あなたがそのどちらを選択したいと思うのかは、あなた次第です、つまり、意見を戦わせて真理の存在を探るのか―私はそれを非常に疑問に思います、なぜなら、様々な意見は様々な偏った見方、様々な個人的な傾向などを意味するからです、一方、ダイアログは、我々が共に深く問題に興味を抱いていて、我々は何らかの偏った見方をしていないで、我々は確固たる特定の答えを願わず、我々は、一緒に、その問題の真理を明らかにしようと探究しています。あなたはその違いが分かりますか? 一方は、弁証法的な取り組みで、他方は、注意深く、非個人的に、客観的な探究を通じて、真理に向き合う取り組みです。それは、我々が、共に、いかなる意見とも、いかなる結論とも、いかなる主張とも無縁にスタートすることを意味します、一緒に、二人の友人として、そのようにスタートすることを意味します、そして、友人とは、本当にその問題に関心を抱き、それを共有することで、一緒に、それを探究すること意味していて、そうすることで、恐らく、真理とは何かに向き合うことを意味します。違いますか?  そのように、そのことが、これら全ての―我々が行おうとしている―ダイアログを通じて、明らかであるなら、つまり、それは、いかなる意見あるいは結論も主張しないことです、“私は信じます”と主張しないことです、それは何らかの結論です、一方、もしあなたが探究しているなら、我々は共にオープンであり、我々は、もし我々が共に自由に客観的に物事を見ていくなら、我々は非常に遠くまで行くことができます。

...“私は何も信じません”は“私は信じます”をそのルーツとするその“対極観念”でしょうか?...
...“非暴力”が“暴力” をそのルーツとするその“対極観念”であるように...
      ......メダルの表裏のように......

 それでは、あなたの問いたいこととは何でしょうか?
質問者) 私は個人的な質問をしたいと思います。しばしば、私は、囲い込まれている、閉じ込められていると感じます、そして、とても閉じ込められているという感情の状態から、私は抜け出たいと思います、そして、何らかの自由の空気を吸いたいと思います。私の質問はこうです、何らかの痛みを抱えていても、自然に、それから抜け出して、それが開花して散り去ることは可能か、ということです。
 質問を繰り返させて下さい。彼は問います、人は、囲い込まれている、縛り付けられている、閉じ込められていると感じると、そして、それから自然に抜け出して、それが開花して散り去ることは可能かと。それが彼の質問です。
 (フランス語)
 その質問を手短に繰り返しても宜しいでしょうか、どうか、冗長な言い回しをしないで下さい。その質問者は言います、私の理解する限りにおいて、彼が達している気を付ける状態があって、それは部分的で、それは断片的です、そして、睡眠時に、それはもっと満ちている何かになります。それが質問でしょうか?
 (聞こえず)
 あーっ、彼は彼の睡眠状態を意識します、そして、それは断片的です。私は、今、理解します。他の質問は何でしょうか? ちょっと待って下さい。
 私は様々な恐れがとても強力であると分かります、そして、悲しみがとても深いと分かります、そして、身体は、それ自身、叡智を、その神経組織、その感覚を備えていると分かります、私は、それを物理的な時間のように受け取ると、そして、身体は言います、“私はこれだけ受け取れます”と、身体はそれをそれ以上許さないでしょう。
 多くの恐れが生じます、そして、多くの悲しみが生じます、生物的に、有機的に、身体はそれに耐えられません。
 それはある程度だけ許容できます。
 それはある程度だけ許容できます...それでは、あなたはそれを問おうとしているのでしょうか?
 私は“私”を議論したいと思います。私はそれが何らかの“飢え”なのかどうかを知りたいと思います、“私”です、イメージの作り手です、そして、思考ではありません、記憶ではありません。例えば、もし私が食べ物に飢えているなら、私は食べ物のことを考えます。私は食べ物に飢えることを言っているのではなく、愛に飢えること、“私”に飢えることを言っています。私は考えます、この愛に飢えることのフラストレーションが恐れを生み出すと、そして、それらは共に思考やイメージを生み出すと、そうすると、それらは恐れを助長すると。
 質問は何でしょうか?
 宜しいでしょうか、“私”は単なる過去のイメージでしょうか、それとも、あなたは、それは何らかの飢え、愛の飢えと考えますか?
 愛と飢えのように。
 はい、愛される飢え、あるいは、食べ物の飢えです。
 なるほど、私はその質問を理解します。“私”は、エゴは、思考によって作り上げられたイメージなのか、それとも、それは飢えのようなものなのか、愛に飢えるように。
 はい、そうです。
 宜しいでしょうか、ちょっと待ってください、質問はそれで十分です。我々はそれら幾つかの中から一つの質問を取り上げて、その一つの質問をその行き着く先まで検討する中で、我々はみな歩調をそろえて、同じように歩んで、同じ速さを保つことができますか? つまり、私は問うています、我々はそれらの質問から一つの中心的な質問を取り上げて、そのことに完全に取り組んで、最後に、あなたは自分自身で知ることができますかと。宜しいでしょうか? 我々はそのようにできますか? つまり、我々はその紳士の質問―それは、気を付けること、断片的なこと、そして、睡眠時に気を付ける異なる状態があるのかです―を議論するのか、あるいは、愛を第一義的に要求することがあるのか、飢えのように、そして、“私”は思考の産物にすぎないのか、あるいは、あなたはこういうことを議論したいと思うのか、つまり、ほとんどの人間は、それらの活動によって、それらの悲しみによって、それらの問題によって、それらの抑制によって、それらの教育によって、内に閉ざされているのか、そのように、人々は閉じ込められているのか、言わば、要塞の中に、縛り付けられているのか、そして、人々は自分自身を完全に解放したいと、それを打ち破りたいと思っているのか、それとも、その悲しみや恐れがとても深いので、細胞組織はある程度まで耐えられるだけなのか、許容できるだけなのか、ということです。宜しいでしょうか、あなたは、それらのどの質問を、もし我々がそれら四つの中から一つを取り上げるなら、我々は一緒に検討できますか? つまり、愛の第一義的な欲求―それはエゴではありません、思考によって作り上げられた“私”ではありません―は、従って、あらゆる人間の第一義的な要求は、愛することと愛されることです、そして、なぜ人間は自分自身を内に閉じ込めるのか、つまり、人々の教育によって、社会によって、人々のフラストレーションによって、お分かりでしょうか、それら全てによって、内に閉じこもるのか、そして、そのように閉じこもることから自然に抜け出すことができないのか、そして、気を付けることが生じるのか、それは睡眠時のそれとは全く異なるのか、従って、そのように気を付けることは、日中、維持されうるのか、ということです―もし私が質問を正しく理解しているなら―そして、他のそれは、恐れや悲しみであり、身体の細胞組織にはそれは荷が重すぎるのか、ということです。それでは、それらのどれにしましょうか?
 内に閉じていて、そして、自由を見つけようと願うことです。
 分かりました、そのことから始めましょう、そして、恐らく、我々は他の全てを含めるでしょう。質問者は言います、どうか、議論して下さい、あるいは、検討して下さい、なぜ人間は内に閉じこもるのか、内に閉じるのか、そして、決して自由ではないのかと。
 私は、それは気づきの欠如だと思います。
 それは気づきの欠如である。しかし、それは結論です、それは、あなたはきっとそうであると言うことによって、検討するのを止めてしまいます、つまり、それは何らかの欠如である―それで終了です。しかし、もし我々が、宜しいでしょうか、仮に、話し手がこう言うなら、私は内に閉じこもっていると、私は自由ではありません、私は自分自身を表現できません、それは淀みなく流れません、自由が存在しません。なぜ、世界中の人間は―これは彼の質問ではありません、これは人間の問いです―なぜ、人間は、それほど自分自身の中に閉じこもるのでしょうか、なぜ、人間たちは、この途轍もない重荷を背負い、正に自由を感じないのでしょうか? 我々はそのことを議論できますか、それを検討するという意味で議論できますか、それはこう言うことではありません、“はい、あなたは自由であるべきです”あるいは“なぜなら、あなたは気づきに欠けているからです”などなどと。そのように、どうか、我々はこの問いを検討しようとしています、なぜ人間は―実際に、世界中の誰もが―不幸にも、自分自身をそのようにしてきたのか、あるいは、現に起こっているように、人々は、言わば、四隅の壁に囲まれて生きているのか、ということです。それでは、我々はそのことを検討できますか? 

...“日本人=日本国”という“蛸壺”の“牢獄”とは何でしょうか?...

 あなたはどのようにこの問題に取り組むのでしょうか? 私の質問が分かりますか? 私は内に閉じています。私は傷ついています、私はショックを受けています、私は多くの痛みを抱えています、身体的にも、精神的にも、私は多くの侮辱を受けてきました、等々です。私は内に閉じています、そして、私は私が囚人であると感じています。それでは、どのように私はこの問題に取り組むのでしょうか―お分かりでしょうか? それへの私の取り組みとは何でしょうか? 私の取り組みは、それから自由になりたいと願うことでしょうか? 私の質問が分かりますか? 私には―それから自由になる、と言う―動機があります、従って、私はすでに何らかの方向性を手にしてスタートしていて、従って、私は検討していません。何らかの方向性が私をガイドすることになります―お分かりでしょうか? 私はあなたがこのことを見て取るのかどうか知りません。私は囚人です、心理的に、とりわけ心理的に、そして、私には動機があります、それを打ち破ろうとするそれです。その動機が何らかの方向性を指し示します、違いますか? 良く見て下さい。何らかの動機があると、それは明らかに何らかのラインを指し示します、何らかの方向性を指し示します、従って、私はすでにある方向を目指してスタートしています、従って、私は検討することを止めています。このことは明瞭でしょうか? そうすると、私は、私が検討する中で、いかなる動機とも無縁に検討するのでしょうか? もし私がいかなる動機からも自由でないなら、そうすると、それはなぜでしょうか、もし私がこう理解するなら、いかなる動機も何らかの方向性を指し示すと、従って、そうすると、それは検討することにはならないと。つまり、もし私に何らかの信念があるなら、そして、私がその信念に基づいていて、そして、私がそのように検討したいと思うなら、私はそうできません。私はすでに途轍もない偏見を抱いてスタートしています。そのように、もし私が何らかの動機を私の検討する中に持ち込むなら、そうすると、その動機がその検討に何らかの方向性を与えます、従って、それは検討でも何でもありません。そのように、私は私の検討する中で―なぜ人間は囚人なのか、心理的な囚人なのか―いかなる動機からも自由でしょうか? あなたは私の質問が分かりますか? 最初に、あなたはそれから自由でしょうか? あなたはそれから自由です、あなたがその真理を見て取るとき―何らかの動機が何らかの方向性を指し示して、従って、あなたは検討することを止める、という真理です。従って、あなたはこう言います、“それは馬鹿げている、私はそれを捨て去る”と―お分かりでしょうか?―何らかの動機を捨て去ることは自然なことです。私はあなたがこのことを理解するのかどうか知りません。あなたはこのことを理解したでしょうか?
 つまり―どうか、明らかにして下さい―もし私が私の作り出してきた、あるいは、他の人たちが作り出してきた、あるいは、社会が作り出してきた、あるいは、私の両親などがそうしてきた心理的な牢獄から自由になりたいと思うなら、もし私の動機がその牢獄から自由になることなら、そうすると、私の目は何らかの方向性に注がれます、従って、私は見ていません。違いますか? そのように、私は見て取ります、なぜ私は内に閉じているのかを私は理解したいと思うと、そして、また私は見て取ります、もし私が何らかの動機を抱いているなら、検討することはできないと。それはシンプルなことです。従って、私はいかなる動機も抱きません。宜しいでしょうか? あなたはその立場に立っていますか? いかなる心理的な探究もそのことを要します、それは必要なことです、いかなる方向性もあってはなりません。それは、あなたがいかなる信念とも無縁にスタートすることを意味します、無縁に、です―あなたはそれら全てから自由です、従って、あなたは検討します。お分かりでしょうか? もし私が仏教徒で、そして、私が何らかの方向性を、何らかの偏った見方を手にしているなら、私が多くの書物を読んできているなら、そして、私がそれに確信を抱いているなら、そこで終了です。あるいは、もし私がカソリック教徒なら...それは、それが何者であろうと、問題ではありません。
 そのように、検討するためには、自由に観察することが非常に重要です。そして、あなたは、いかなる方向性も、いかなる動機もないときにのみ、観察しうるだけです。違いますか? そのように、あなたは動機を捨て去っていますか? もしあなたが動機を捨て去っているなら、そうすると、その牢獄とは何でしょうか? お分かりでしょうか? 私にはいかなる動機もありません、私は“現にある通り”見ています、それは私の牢獄です―私の様々な傷です、傷ついたそれらです、我々を委縮させ、カタツムリのように這い入ってくる、我々が生の中で経験するあらゆることです。宜しいでしょうか、それは事実です、我々はそれを見ています。何が起こりましたか? それは、私が子供の時から傷ついてきたことでしょうか―家庭で、学校で、カレッジで、大学で、あらゆる生の中で、幾分かの感受性を持ち合わせているので、人間は傷つきます。そうして、人は引きこもり始めます。違いますか? 人は自分自身の中に閉じこもり始めます。そのように、この引きこもりの原因の一つが、その孤立感、その囚人感覚を抱えた、その一つが―その要因の一つが―傷つくことです。違いますか? 宜しいでしょうか、あらゆる人間が傷つきます。違いますか? 宜しいでしょうか、我々があらゆる人間を自分と同じと見て取るとき、それは我々に更なる活力を与えます。お分かりでしょうか? 私はあなたがそのことを理解するのかどうか知りません。私が私は傷ついていると言うとき、それは非常に些末なことです、しかし、私があらゆる人間が傷ついていると見て取るとき、それは途轍もない何かになります。お分かりでしょうか? 私はあなたがそのことを理解するのかどうか知りません。そうすると、傷つかないことは可能でしょうか―決してです。お分かりでしょうか? 人は人が若いときから傷ついてきました、そして、その傷は、ほとんどの人の場合、一生涯、残ります。違いますか? 我々はその重荷を背負い続けます、従って、我々は人々に抵抗します、我々は引きこもります、我々は自分自身を孤立させます、我々は辛辣になります、そうすることで、暴力などが生じます。そこで、我々は問うています、過去の傷や傷ついたことから自由になることは可能かと、そうして、自由になって、人は決して傷つかないことは可能かと。お分かりでしょうか? 過去を癒すプロセスとその予防があります。私は私が...我々はお互いに通じ合っていますか? おーっ、宜しいでしょうか、これはダイアログです。(笑)
 あなたは私の質問が分かりますか? 過去の傷があります、そして、それら過去の傷から自由になることは可能でしょうか、そして、将来の傷を避けることは可能でしょうか―宜しいでしょうか―そうやって、頭脳が決して傷つかないことは可能でしょうか? そのように、それは若いままです―私はあなたが理解するのかどうか知りません―従って、無垢のままです。その無垢という言葉―それはラテン語などからきています―それは、傷つかないでいられることです。そのように、我々はそのことを見ていこうと思います。私は傷ついています、仮に、私が人間として子供の時から傷ついているとします。私は、それらの傷があるとき、何が起こるのか知っています、私はそれに気づいています―私は引きこもります、私は抵抗します、私はそれ以上傷つかないように自分自身を孤立させます。違いますか? あなたはこのプロセスに気づきますか? どうか、宜しいでしょうか!
 気づくのは難しいことです、なぜなら、深い苦悶、深い諦めがそのプロセスの中にあるからです。
 それに気づくのは難しい、なぜなら、深い苦悶がその中にあるから。その言葉を見ていきましょう―私が傷ついているのに気づくことの中には深い苦悶があると。あなたは彼の言っていることを理解しますか? おーっ、宜しいでしょうか。どうか、寝ないで下さい。これはあなたの問題です、お分かりでしょうか、それは彼だけの問題ではなく、それは人間の問題です。我々はみな子供の時から傷ついています。傷つけば傷つくほど、暴力的になります。あなたは何と言っていたのでしょうか?
 私は言いたいと思います。あなたはこう言うのでしょうか、あらゆる人間が子供の時からそのように傷つくことを経験していると。そうすると、どうも、私には、少なくとも私には、それは人間存在の本質的な次元のように思われます。そこで、私は考えます、少なくとも私は感じます、それは、傷つかないようにする私の存在の意図、目的ではないと。どうも、それは私の存在の一部であるようです。そこで、私は、恐らく、絶えず、繰り返し傷つくことにもっと創造的な仕方で相対する必要があります。私は感じます、傷つくことは成長のプロセスの一部であると。
 傷つくことは自然であると。傷つくことは成長の手段として、進化の手段として、発達の手段として自然であり、あなたは傷つくのでなければならないと。
 傷つくこととその傷を継続させて、その傷を心理的な何かにすることとの間には違いがあります。それは完全に異なることです。もし誰かが私を突き飛ばすなら、私はその瞬間傷つきます、しかし、それは異なる傷です、それは心理的な傷とは何の関係もありません。
 宜しいでしょうか、その紳士は言います、人間存在の一部は傷つくことであると、それは自然なことであると。私はそれを疑問に思います。なぜ我々は傷つくのでしょうか? それが、心理的に、内面的に、どのようなダメージをもたらすのか、それがいかに頭脳に影響するのかを見て下さい。“私は傷つくことが生の一部であると考える”のではなく、その結果を見て下さい。
 しかし、どのようにしてあなたは傷つくことを防ぐのでしょうか?
 私はそこに歩を進めます。我々はそこへ向かいます、つまり、どのように傷を防ぐのか、そして、我々が受ける傷とどう向き合うのか、ということです。しかし、もし我々が、傷は生の一部である、戦争は生の一部である、お互いに殺戮し合うのは生の一部である、病―心理的な病―は生の一部であると言うなら、そうすると、その議論はそこで終了です。しかし、もし我々が、傷つくことを防ぐことは可能か、そして、人が受ける傷にどう向き合うのか、と言うなら、そうすると、我々はその問いを検討することができます。
 宜しいでしょうか、どのようにして我々は我々が傷ついていることを知るのでしょうか?
 あなたが傷ついていることをどのようにあなたは知るのか―あなたが傷ついていることをあなたは知りませんか? おーっ、宜しいでしょうか!
 (聞こえず)
 宜しいでしょうか、学校で、家族の中で、子供は言われます、あなたはあなたの兄や姉のように優秀ではないと、そうすると、あなたはすでにその子を傷つけています。違いますか? そして、クラスで、学校で、AはBと比較されます、そして、教師が、AはBほど賢くない、あるいは、優秀ではないと言います、あなたはすでにその子を傷つけています。そのように、比較や競争が生じるとき、傷つくことが生じます。それはとても明らかなことです。宜しいでしょうか、我々は―その紳士も問いました―我々は我々が傷ついているのに気づきますか? 宜しいでしょうか。シンプルに見て下さい、それを複雑にしないで下さい。あなたはあなたが傷ついていることに気づきますか?
 はい。
 良かった!(笑) 少なくとも、極めて正直に、そう思い当たる人がいます。あなたはその結末が分かりますか、あなたはその傷の結末に気づきますか、何が起こるのかに気づきますか? 即ち、孤立であり、抵抗です、そして、抵抗は暴力を意味します、そして、徐々に孤立していく感覚を意味します。そのことから、あらゆる種類の辛辣さ、愛の欠如、自由な感覚の欠如など、それら全てが生じます。あなたはこのことに気づきますか? 勿論、誰でもこのことに気づきます、違いますか? 宜しいでしょうか。
 そのような過去の傷があります、我々はどのようにそれに向き合うのでしょうか? もしあなたがこう言うなら、“私は傷ついてはならない”あるいは“私は抵抗しない”と、それはすでに抵抗の別の形です。私はあなたがそのことを見て取るのかどうか知りません。あなたは理解しますか? 私は傷ついています、そして、私はその傷とその傷の成り行きに気づいています、そして、もし私がこう言うなら、“私は傷つきません、私は私の傷を忘れます”と、そうすると、私はすでに抵抗しています。違いますか? 従って、それは抵抗の別の形です。おーっ、宜しいでしょうか!
 人はその焦点をその傷から他の何かに変えるべきです。
 人はその傷を他の何かに変えることができます、愛に。
 その焦点です。
 その焦点。人はその焦点を他の何かに変えることができる、それは愛です。あなたはあなたが傷ついているのが分かります―どのように私は―あなたはそれを検討していません―どのように私は、私が傷ついているとき、非常に深く傷ついているとき、それはそこにあります、そして、他の何かに焦点を当てるように試みます。それは逃亡でしょう。これは事実です、それは非事実です。違いますか?
 傷つくのは我々が我々自身に抱くイメージにすぎないのではありませんか?
 我々はそこに踏み込んでいきます、マダム。あなたはとても...
 我々は傷つくのが何であるのかを知りたいと思います。
 宜しいでしょうか、どうか、耳を傾けて下さい。私は私が受ける傷にどう向き合うのでしょうか、そして、私はその成り行きが分かります、私はその傷にどう向き合うのでしょうか?
 それを経験します、それを経験します。
 しかし、私はそれを経験しています、私は傷を受けています。(笑)
 ある考えがあります、もしあなたがそれを徹底的に経験するなら、それは減少するか、消え去ると。私はそれが何によるのか知りません。
 あなたは言います、私がそれを徹底的に経験できるのかどうか。私はそれを最初に徹底的に経験しませんでした、その結果が、今、そこにあります。もし私が本当に最初に気を付けていたなら、傷つくことはないでしょう、しかし、私は気を付けることをしていません、そこで、私はその傷を受けています。私はどうするのでしょうか?
 あなたがなぜ傷ついているのかを理解するように努めるのです。
 私はあなたに言います。私はなぜ私が傷ついているのか理解できます。私は私自身について驚くべきイメージを抱いています、そして、そのイメージが傷つきます。違いますか? 私は私が非常に賢い人間であるというイメージを抱いています、そして、あなたがやって来て、こう言います、私は愚か者ですと、そのことが私を傷つけます。私のイメージが傷つきます。違いますか? 私のイメージとは私のことです。私は私のイメージと異なりません。違いますか? おーっ、どうでしょうか、そのことは明らかでしょうか? 私は私のイメージと異なりますか?
 その解決法とは何でしょうか?
 あなたはあなたがそれを検討する前に解決策を欲します。あなたは何とせっかちなのでしょうか、あなたは何かにつけて短絡的な解決策を欲します―即効薬、瞬時のニルヴァーナ、瞬時の瞑想、何もかも短絡的です! 宜しいでしょうか、どうか、耳を傾けて下さい。我々がこう言うとき、“私は傷ついている”と、誰が傷ついているのでしょうか? 私が私自身に抱いているイメージが傷ついています、違いますか? それはシンプルなことです、違いますか? それでは、そのイメージは私と異なりますか? そのように、私がそのイメージです。待って下さい、待って、私はあなたの質問にすぐ後で応じます。私はそのイメージです、なぜなら、私がそのイメージを作り上げてきたからです。そのイメージは、両親を通じて、社会を通じて、環境的な影響などによって築き上げられています。そのように、そのイメージは私です、私はそのイメージと異なりません。そのように、あなたが、不快な何かを言うとき、そのイメージが傷つきます、そして、それは私です。
 (聞こえず)
 私は聞こえません、マダム。誰か、それを聞いた人が、それを繰り返していただけませんか? 宜しいでしょうか?
 我々のイメージは傷ついてから変わります。私が傷つくとき、私のそのイメージは変わります。そうして、彼女は言います、我々はそのイメージの変化を受け入れるべきではないのかと。
 イメージは傷ついて後で変わる。しかし、その傷は残ります。私は私のイメージを変えるかもしれません、しかし、その傷は残ります。しかし、あなたはこのことを検討しさえしません。
 幼子が、何らかのイメージが生じる前に、傷ついていることはありえませんか?
 私はその質問に答えられないと思います、なぜなら、私は子供たちを十分には知らないからです。しかし、あなたはあなた自身を見て取ることができます、マダム、あなたが傷ついているのかどうかを―あなたのことです。もしあなたが傷ついているなら、そして、我々は問うています、つまり、誰が傷ついているのかと、あなたがあなた自身について抱くイメージではないのですか? それとも、あなたはそのイメージとは異なりますか? あなたはこの問いに答えなければなりません。
 あなたの言うことは正しいのですが、私の過去の傷は...
 どちらですか?
 過去です。
 あなたの過去はあなたがあなた自身について抱いてきたイメージです。それは何と途方もないことでしょう! 宜しいでしょうか、私は私自身を傷から自由にすることにのみ興味があります―宜しいでしょうか―他に何もありません、私はあらゆる種類の理論を欲しません、私の傷から―もし私が何らかの傷を受けているなら―自由になる方法を私に説くそれら全ての理論を私は御免を蒙ります。その傷は、そのような他のあらゆるものにも関わらず、残ります。私は日本へ行くかもしれません、禅仏教などその他の全てです、しかし、肝心なことは内面のどこかにあるのであり、私はそれから逃げることはできません。私はそれから逃げようとしますが、それはそこにあります。私はどうするのでしょうか?
 あなたはそれを観察する必要があります。
 私はそれを明らかにするためにあなたに問うています。あなたは何を行うのでしょうか? なぜなら、私は傷から自由になる必要性を見て取るからです、なぜなら、それがあらゆる種類の醜さをもたらすからです。そのように、私はそれから自由でなければなりません、それからの自由があるのでなければなりません、私は何を行うのでしょうか?
 なぜあなたはそれから自由になりたいと思うのでしょうか?
 おーっ、宜しいでしょうか、私はそれを説明しました、動機です。私はその結末が分かります―宜しいでしょうか―私は何を行うのでしょうか?
 あなたはその傷をもたらすものを避けられません、それは集中して生じます、それは、記憶に、その鋭さ、その潜在的な力を加えます。
 はい、記憶、経験、知識です、それは過去です、過去の中に、“私”と称するもの、そのイメージがあります、そして、それが傷ついています。宜しいでしょうか、私はあなたに問うています、人は何を行うことになるのかと。答える前に、最初に、それを見て下さい。人は何を行うことになるのでしょうか?
 なぜその傷は継続するのでしょうか?
 なぜその傷は継続するのか。
 はい。どのように私はその傷を見るのでしょうか?
 なぜその傷は継続するのか。それは記憶の一部です。人は我々の記憶を、その経験あるいはその知識を拭い去れません。あなたはそれを取り除けません、それはそこにあります。
 しかし、あなたがそれから自由になりたいと思うとき、そうすると、あなたは動機を持つことにもなります。
 宜しいでしょうか、私はあなたに説明しました。手短に話しています。宜しいでしょうか、私は様々な理由で傷ついてきました、そして、私はそれらの傷の結末が分かります、そして、私はそれらの傷が消え去らなければならない重要性を見て取ります。私は何をすることになるのでしょうか? 
 私は、私がそれらの傷と異なるとき、それらの傷について何かができるだけです。人はそれらの傷から異なるべきです。そして、彼はすでに言ってきました、我々はそれらの傷と異ならないと、そうすると、私はそれらの傷について何もできません。
 いいえ、その紳士は言います、私は傷ついていると、そのイメージが傷ついていると、そのイメージと私との間にいかなる違いもないと、私はそのイメージであると。そして、そのイメージが傷ついていると、そして、私がそれについて何かをしようとする限り、私は別のイメージを作り出していると。違いますか? 私はあなたがそのことを見て取るのかどうか知りません。
 そのイメージが傷ついている当のものです、あなたはあなた自身をあなたのイメージから分離できません、そうすると、あなたはそれらの傷からあなた自身を自由にできません。
 従って、何が起こりますか? もし私がその傷なら―あなたはそれに向き合っていません―もし私がその傷なら、そして、そのイメージが私と異ならないなら、それは、観察者が観察されるその当のものであることを意味します、そうすると、何が起こりますか?
 あなたはそこに留まります。
 もし私がそれを見て取るなら、私は私の精神を分断するのを止めます。
 そうです、その通りです。もし私が、私はそのイメージであり、そして、そのイメージは私であると見て取るなら、従って、分断は起こりません、そうすると、全く異なるプロセスが生じます。つまり、観察だけが生じます、傷からの自由ではありません。観察だけが生じます、あなたが観察者とは無縁に観察するとき、もしあなたがそのことを検討するなら―あなたは私にそのことを非常に注意深く検討してほしいと思いますか、あなたはこのことに付いてきていますか? 観察者は過去です。違いますか? 観察者は、記憶、経験、知識です、それは過去です。そのように、過去と共に、彼はあらゆるものを見ています。違いますか? そして、過去と共に、観察者として、彼は現在を見ています。違いますか? 従って、現在と過去との間に、観察者によって、分断が作り出されます。お分かりでしょうか? そのように、観察者と彼が観察するものとの間に争いが生じます。彼は言います、“私はそれを変えなければならない、私はそれをコントロールしなければならない、私はそれを抑圧しなければならない、私はそれから逃げ去るのでなければならない”などと、しかし、観察者が観察されるその当のものであるとき、そのような争いは消滅します。そして、この真理を発見することはこの上なく重要なことです、つまり、経験者が正にその経験です。違いますか? 思考者が正にその思考です。思考者はいません、もし思考が存在しないなら。そのように、思考者が思考です。思考者は言いますが、“私は異なる”と、しかし、実際には、思考者がその思考です。違いますか? 経験者がその経験です。私はそのことをあなたに示します、もしあなたが進んで耳を傾けるなら。
 私は何かを経験します。私が何かを経験していると知るためには、私はそれを認識しなければなりません、違いますか? 勿論です。私はそれが何であるのかを知るのでなければなりません。そうでなければ、私はこう言えません、“私は経験している”と。そのように、認識は過去を意味します、違いますか―過去が、その知識、その記憶と共に、その経験です、そして、人は言います、“私は何かを経験している”と。そのように、経験者がその経験です。あなたがそのことを見て取るまで、我々はそこから動けません。宜しいでしょうか、神々、あなたが作り出してきた、人間が作り出してきた神々、それがキリスト教であろうと、ヒンドゥー教であろうと、何であろうと、それらの神々は、人自身の思考、人自身の欲望の表出です。違いますか? あなたはそれを受け入れますか? もしあなたが、一度、それを受け入れるなら、あなたは何が起こるのか分かりますか? あなたは私の質問が分かりますか? あなたが神から作り出したイメージはあなたの築き上げたイメージです。神はあなたにそのイメージを作らせていません、そうではなく、あなたが神をあなたのイメージに沿って作り上げたのです。違いますか? 後生ですから、これはとてもシンプルなことです。違いますか? あなたは同意します、しかし、全キリスト教世界、宗教的思考の全世界は、それに基づいています。一度、あなたがこのことを見て取ると、あなたは宗教的な事柄の全思考構造を否定します。

...明治の文明開化期に造語されたと思われる“宗教”という言葉は、底の知れない罪深い言葉でしょうか?...

 そのように、その傷は私と異なりません、“私”がそのイメージです、そして、そのイメージが傷つきます、そのように、私がそのイメージです。怒りが私と異ならないように、私が怒りです。私は、私はそれと異なると考えるかもしれませんが、実際には、私が怒りです。そのように、あなたはその真理を見て取りますか―その観念ではなく。実際の真理です、あなたが怒るとき、その怒りがあなたです。
 怒っているのは私ではないように思われます。
 他のことに逸れないで下さい。宜しいでしょうか、あなたはこのことの第一義的な原理を見て取っていません。あなたが嫉妬しているとき、その嫉妬はあなたと異なりますか? それがあなたと異なるのは、あなたがこう言うときです、“私には嫉妬する正当な理由がある。嫉妬するのは当然です、私の妻は...”と―お分かりでしょうか? そうすると、その発言と事実との間に分断が生じます。そのように、事実は、あなたがそのような感情を、あなたが嫉妬と呼ぶ、そのような感情を抱いていることです。それはシンプルなことです。宜しいでしょうか、もし、絶対的な何らかの真理があるなら―あなたが見て取るのです、私ではありません―そうすると、観察者と観察されるものとの間の争いは消滅します。お分かりでしょうか? 
 そのように、傷が生じます、そして、その傷は私です、そして、“私”はその傷と異なりません。そうすると、何が起こるのですか? 争いの中で―お分かりでしょうか?―観察者と観察されるものとの間で私が使っていた全てのエネルギーが浪費されません。違いますか? あなたがこのことを見て取るのかどうか私は知りません。私は、エネルギーを、観察者と観察されるものを―“私”と“私”ではない何かに―分断する中で、浪費してきました。違いますか? 私は、エネルギーを、争いの中で、抑圧する中で、それから逃げ去ろうと努めるなどその他の全ての中で、浪費しました。しかし、私が逃げ去らないで、観察者が正に観察されるその当のものであるという真理を見て取るとき、そうすると、何が起こりますか? 
 エネルギーが有効になります。
 そうすると、エネルギーが正にその観察です。違いますか? 私は明らかになりました、つまり、完全なエネルギーが生まれるときには、記録することが生じません。お分かりでしょうか? 私があなたの侮辱に対して完全に気を付けているとき、記録することは生じません。私が不完全に気を付けているときにのみ、記録することが生じます。要点が明確になりましたか? あなたはこのシンプルな真理を理解しましたか? 後生だから、このことを理解して下さい。理解しましたか? 私は争いの中で私のエネルギーを浪費してきました。私はこう言います、“私はその傷ではない、私はその傷とは異なる”と、従って、私はその傷について何かを行うように努めます。違いますか? 私はそれから逃れるように試みます、それを抑圧するように、それに抵抗するように努めます、それと分離するなど試みます。しかし、私が、私はその傷であるというその真理を発見するとき、そうすると、私は、あらゆるそのエネルギーを、“現にある通り”観察する中で―私が浪費してきたそれらを―獲得しています。“現にある通り”観察する中で、何かが根本的な変化を遂げます。お分かりでしょうか? そのように、傷が存在しません、つまり、過去からの傷も存在しません。そのように、完全に気を付けていると、次に、あなたが私をあれやこれやと罵倒しても、それは記憶されません。完全に気を付けているところに、あらゆる感覚の完全なエネルギーが生じるところに、記録される何ものもありません。
 気を付ける源とは何でしょうか?
 気を付ける源はありません。最初に、宜しいでしょうか、そのような質問をまだ持ち込まないで下さい。あなたはこのことを見て取りますか―この驚くべきことです―とてもシンプルなことです。伝統的に、我々はその方式に慣らされています、つまり、私はそれとは異なると。違いますか? 私は私の怒りとは異なります、私の神は私とは異なります、私の信念などです。つまり、我々は伝統的に受け入れます、経験者はその経験とは異なると、そうして、絶えず、分断と争いが生じます。分断が生じるところには、争いが生じるに違いありません。違いますか? あなたはそのことを見て取りますか? 国家的に、宗教的に、経済的に、社会的に、分断があるところには、争いがあるに違いありません。それは法則です。

 ......ロシア=ウクライナ戦争とは何でしょうか?......

 そして、私はこうです、私は傷ついています、そして、伝統的に、私は言ってきました、私はその傷とは異なると、従って、私はその傷について何かを行います―それから逃げ去ります、それから逃げます、それを正当化します、抵抗の壁を築くなどします、そして、それらは全てエネルギーの浪費です。そして、観察者が正に観察されるその当のものであると気づくとき、その傷は私であると気づくとき、そうすると、私はいかなるエネルギーも浪費しません。そのようなエネルギーで、私は観察します、それが完全に気を付けていることです。宜しいでしょうか、もしあなたが完全に気を付けているなら、たとえ私があなたにおべっかを使っても、それには意味がありません、あるいは、たとえ私があなたを侮辱しても、それには意味がありません。宜しいでしょうか、あなたは侮辱の瞬間にそうできますか、事後ではなく、そうできますか? お分かりでしょうか?
 (聞こえず)
 宜しいでしょうか、もしあなたが気を付けているなら、傷は生じません、あるいは、おべっかの痕跡は生じません。お分かりでしょうか? それは、質問者が指摘しているように、あなたが意識の全問題を非常に深く検討する必要があることを意味します。お分かりでしょうか? イメージ造りが続くところに、人の精神の潜在意識の深いところで、イメージ造りが進行しています。私はこう言うかもしれません、“はい、私はイメージを抱きません”と、しかし、深いところに、様々なイメージが存在します。そうすると、私は私の意識を余すことなく意識できますか、それに気づけますか―お分かりでしょうか?―オープンなそれと同様に隠れたそれにも、私の意識の全領域です、私はそれに余すことなく気づけますか? 
 (聞こえず)
 終了させて下さい、あなたは後で私に問うことができます。我々は、意識を上位と下位に分断することに慣れています―違いますか―潜在意識、意識です。このような分断は思考のせいで生じます。思考は断片的です、なぜなら、思考は時間の産物だからです、時間は記憶であり、時間は過去であり、従って、思考は断片的です。違いますか? 私はあなたがそのことを見て取るのかどうか知りません。そのように、断片は決して全体を見て取ることはできません。そして、我々は言います、もし全体の観察が生じないなら、それから自由になることは決してありえないと。私は観察できますか、人間は意識の全内容を観察できますか―余すことなく、です、一切片ではありません、あるいは、一部分ではありません、あるいは、部分的にではありません、意識を余すことなく、です、全意識のそれが含む全てです、自然に―執着、欲望、思考がそこに作り出してきた様々なイメージ、悲しみ、痛み、不安―お分かりですか―人間のあらゆる試み、あらゆる人間の悲しみ、悲惨、混乱、無秩序です、それを一目で観察できますか? あなたはそれを全体として見て取ることができますか? あなたはそのテントを見て取ることができますか―どうか、耳を傾けて下さい―そのテントを全体として見て取ることができますか? それを見て下さい、そのテントを見て下さい、そして、あなたはその全体を見て取ることができるのかどうか見て下さい。私はその全体を見て取ることができます、その中にあるものです。宜しいでしょうか? 私は外側のその全体を見て取ることはできません。お分かりでしょうか? 私はあなたがこのことを把握するのかどうか知りません。私はそれをその全体として見て取ることができます、それは極めてシンプルです。しかし、私はその外側にあるものを見て取ることはできません。宜しいでしょうか? そうすると、私は、もし私が空間を理解するなら、何かを全体的に見て取ることができるだけです。このことはとても...私は続けられますか? 宜しいでしょうか、私は話しています、あなたは私に加わっていません。私は、私が空間を手にするとき、何かを余すことなく見て取ることができます。違いますか? 私はそのテントを内側から見て取ることができるだけです、その全体です、しかし、私は外側からそのテントを見て取ることはできません。その全体を見て取るためには、私は内側を観察するだけではなく外側も観察するのでなければなりません。自然にそうなります。
 どっちが全体ですか?
 それが全体です。ちょっと待って下さい、ちょっと待って下さい。そのように、私は明らかにしなければなりません、この人間の意識を観察するためには、それを全体として見て取るためには、空間がなければなりません、違いますか? 何かを見るためには、あなたを見るためには、私はあなたと私の間に空間を手にするのでなければなりません。もし私があなたに直に接触するなら、私はあなたを見ることができません。違いますか? そのように、私は空間を手にするのでなければなりません。空間とは何でしょうか? あなたはこのことに興味がありますか? 空間とは何でしょうか? もし中心が生じるなら、その空間は限られています。あなたはそれをできる限り広げるかもしれませんが、それは依然として限られています―違いますか―もし中心が存在するなら。もし中心が存在しないなら、空間は計り知れません。違いますか? 我々は、その中心からその周辺へと空間を計ります、しかし、もし中心が存在しないなら、計ることはできません。お分かりでしょうか? 計ることはできません。そのように、計ることができないとき、あなたはあなたの意識として何を手にしていますか? 私はあなたがそれを見て取るのかどうか知りません。まだ発言しないで下さい、発言しないで下さい。

   ......空間慈しみとは何でしょうか?......

 宜しいでしょうか、私は私の家具に執着しています―ブロックウッドの私の部屋に非常に素敵なテーブルがあります、美しいテーブルです。私はそれに非常に執着しています―もし私がそうなら、私はただそう言っているだけです―私は執着していません、しかし、もし私がそれに執着しているなら、それは何かを計ってのことです、違いますか? 私はあなたがそのことを見て取るのかどうか知りません。私は執着しています。私はあなたにそれを触って欲しくありません、私はあなたにそれを傷つけてほしくありません、日の光がそれに当たってはなりません。お分かりでしょうか? そのように、執着としての計る働きが生じているところでは、その空間は非常に限られた空間になります。勿論、そうなります。なぜなら、私は私の快楽の中心からそのテーブルを見て計っているので、その計ることがそれを限られたものにします。違いますか? もし計ることを―それは、その中心からそのテーブルまでです―しないなら、そうすると、広大な空間が生まれます。違いますか? あなたはそう思いますか? 同意しないで下さい。あなたはそう思いますか、中心は存在しないと。そして、もし中心が存在しないなら、あなたは意識の全体を見て取ります。私はあなたがそうするのかどうか知りません。それは驚くべきことです、私はただ...お分かりでしょうか? 宜しいでしょうか、私はこのことで、今、興奮しています、私は落ち着かなければなりません。
 計る働きは、我々は言いました、思考であると。計る働きは時間的プロセスであり、ここからあのテーブルまでということです。つまり、思考は時間の中の働きです―違いますか?―計る働きとして時間の中のそれです、私からあそこまでです。違いますか? もしそのような働きではないなら―違いますか―そうすると、私の意識は何から出来上がっているのでしょうか? そこには何もありません。私はあなたがこれら全てを見て取るのかどうか知りません。いいえ、あなたはそれを見て取りません。このことはとても難しすぎます、あなたはこのことを見て取れません。
 もし中心がないなら、そうすると、全体があるのでしょうか、部分があるのでしょうか?
 計る働きが存在しないとき、そうすると、全体が存在します。ちょっと待って下さい、私はそれをあなたに一分間で示します、異なる方法で示します。人間の意識は中心からのそれです、違いますか? 私はそれに執着しています、つまり、私の家族、私の家、私の怒り、私の嫉妬、私の希望―中心から、意識の全体が築かれます。違いますか? 私はその家具に執着しています、私はその家に執着しています、私はその信念に執着しています、その観念に、そして、私の悲しみに執着しています。お分かりでしょうか? いつも、中心から動き出しています。違いますか? それが私の意識です。あなたのそれを見て下さい、それはシンプルです。そして、その意識は潜在意識と意識に分断されます、それを西洋世界は行ってきました、そして、東洋世界は異なる仕方でそれを行います、それは問題ではありません。そのように、この分断がある限り、計る働きが生じるに違いありません。違いますか? 私はあなたがそのことを見て取るのかどうか知りません。そうすると、私は、内側にあるのは、土台にあるのは何かを検討し始めます。私はあなたが見て取るのかどうか知りません。そのように、計る働きがないとき、中心は存在しません、従って、人間が知っている意識が消え去ります、そうすると、全く異なる次元、広大な次元が生じます、なぜなら、計る働きが存在しないからです。そのように、計る働きがある限り、空間は非常に限られています、私からそのテーブルです、なぜなら、それは非常に狭いからです。しかし、もしテーブルあるいはその中心がないなら、空間は計り知れません。
 それでは、精神は意識を余すことなく観察できるのでしょうか、そして、それは、中心が―それはこう言います、“これは良い、これは悪い、こうすべきだ、こうすべきではない”と―存在しないときにのみ観察しうるのでしょうか、お分かりでしょうか? 私はあなたがこのことを理解するのかどうか知りません。あなたは理解するでしょうか?

......死んでやり過ごす守宮の尻尾とは何でしょうか?......

 私はあなたの質問に答えましたか? つまり、あなたの質問はこうでした、なぜ人間はそのように内に閉じているのか、自ら内に閉じているのか、なぜ人々は自分自身の周りに壁を築いてきたのか、なぜ人々は決して開花しないのか、そして、その開花の中で、死んでやり過ごさないのか、執着を死んでやり過ごさないのか―お分かりでしょうか?―それら全てです、なぜでしょうか、そして、我々は言いました―我々はその一部を取り上げました、それは人間が傷つくことです、そして、人間は考えます、傷は私とは異なると、その“私”が、そうして、言います、“私は異なる、従って、私はその傷をコントロールしようと思う、私はそれを変えようと思う、私はそれを抑えようと思う、私はそれから逃げようと思う、それは醜い、それはあってはならない”と。しかし、その“私”がそのイメージであるとき、そして、そのイメージがその傷であるとき、そうすると、私は、私が浪費してきた全てのエネルギーを手にして、その傷を見ます、そして、そのような観察の中で、完全なエネルギーが生まれるとき、傷は存在しません、自然に。
 私は、宜しいでしょうか、そのことを理解しません。
 あなたは理解しない。それは英語の問題でしょうか? 私はそれを異なる言い方で試みます。世界はあなたと異なりますか?
 (聞こえず)
 いいえ、私に答えないで下さい、お願いします。これは学校の試験ではありません! 私に答えないで下さい、お願いします。世界は人間としてのあなたと異なりますか? 世界は外の世界ですが、物理的な世界だけではなく、心理的な世界でもあります、怒りの世界であり、暴力の世界であり、悲しみの世界であり、快楽の世界であり、様々なナショナリティの世界であり、宗教的な違いや信仰の世界です、それはあなたと異なりますか? いいえ、異なりません。その真理を見て下さい、言葉による表現ではなく、そのことの真理です。インドあるいは日本あるいはアジアあるいはアメリかに行って下さい、人間はズボンをはくかもしれません、キモノを着るかもしれません、あるいは、インドではドーティを身に着けるかもしれません、これやあれです、しかし、本質的に、深いところで、人々は悲しみを抱えます、不安を抱きます、悲惨な思いをします、不確かさを抱えます―お分かりでしょうか?―人間存在の苦悩はどこでも同じです。そのように、あなたが世界であり、世界はあなたです。それは真理です。あなたはそのことを見て取りますか? それとも、あなたはこう言いますか、“いいえ、私はあのインド人とは違う”と―心理的に? 勿論、あなたは異なります、あなたは女性であり、あるいは、男性であり、白い肌であり、黒髪であり、褐色、白色であり、社会的に、食べ物が豊富であり、より多くの衣服をもっているなどです、しかし、内面的には、深いところで、あなたは同じ苦悩を抱えています。そのように、あなたは世界です。あなたはそのことを見て取りますか? あなたは何が起こるのか分かりますか、あなたがこう言うとき、あなたが世界であり、世界はあなたであると。それはあなたに途轍もない力をもたらします、途轍もない活力をもたらします―お分かりでしょうか?―なぜなら、そうすると、あなたは世界と戦っている単独の“私”ではないからです。あなたはこのことを理解しますか? そうすると、あなたは...ではありません、自分のこととするその普遍化の中に、活力が生まれます、もしあなたがその自分のこととする普遍的なことを実際にどう見て取るのか知るなら。
 それと同じように、世界はあなたであり、あなたが世界です。あなたは経験者であり、そして、あなたは考えます、あなたはその経験と異なると。再び、それは我々の偏見であり、我々の伝統であり、我々の教育です。一方、あなたがそのような経験であり、その経験は経験者と異なりません、従って、経験を追い求めることは生じません。お分かりでしょうか? あなたは、そうすると、経験から自由です、そして、精神は、それがそれ自身の光であるときにのみ経験から自由です。お分かりでしょうか? それが真理です。分かりましたか? 時間は何時でしょうか?
 一二時五分前です。
 おーっ、何と!
 (聞こえず)
 質問者は知りたいと思っています―これか、どうか、最後の質問です、五分で、我々は終了します―彼はT.M.について知りたいと思います―懐かしいそれです! 超越瞑想です。宜しいでしょうか、どうか、我々はそれを客観的に見ていこうとしています。我々はそれを非難していません、我々はそれを脇へ除けていません、そうではなく、それを見ていこうとしています。マントラという言葉―それは超越瞑想の中に含まれます―は何らかの形、方式、一連の言葉を意味していて、それが精神集中をもたらすのを助けます。お分かりでしょうか? マントラ、その言葉の根本的な意味は、精神集中をもたらすのを助けるという意味です、何らかの絵画によって、何らかの言葉によって、何かを、何らかの方式を繰り返すことによって、あなたが精神集中するのを助けるということです。
 私は違うと思います。それは精神集中ではありません。
 どうか、宜しいでしょうか、私は言いました、その言葉の根本的な意味を。
 OK。
 何と! (笑) その根本的な意味です。どうか、宜しいでしょうか、特定の立場に立たないで下さい、あなたは超越瞑想の人か他の何かかもしれません、特定の立場に立たないで下さい、我々はそれを見ていこうとしています。そのように、その言葉の根本的な意味は精神集中をもたらすことです、何らかの言葉によって、何らかの文句によって。精神集中はあなたの全てのエネルギーをある点に向けることです―違いますか?―そして、その点に這いよるいかなる障害物にも抵抗することです。違いますか? 書物であれ、ページであれ、それに精神集中することは、私があらゆる他の動きに抵抗することを意味します。違いますか? 私は超越瞑想について言っているのではありません、私はただ精神集中が意味することを言っているにすぎません。他のあらゆる考えを脇へ除ける、その特定の思考のことです。違いますか? そうすると、分断が生じます、つまり、精神集中と非精神集中です。お分かりでしょうか? 私は、十分間、精神集中します、そして、他のあらゆる妨害に抵抗します、従って、私は分断を作り出します。それが精神集中の意味です。そして、様々な形の精神集中があります、コントロールする人とコントロールされるものです。違いますか? 私は私の思考をコントロールします、それは、コントロールする人がコントロールする対象と異なることです。その人がコントロールしているのは、別の思考です、そして、コントロールする当のものもまた思考の一部です。そのように、あなたが、コントロールするものが、正にコントロールされるその当のものであるという真理を見て取るとき、精神集中の全現象が余すことなく変化します。
 宜しいでしょうか、超越瞑想の中の、“超越”という言葉は不幸な言葉です、なぜなら、それは、あらゆる人間の争いを超越するという意味だからです、他のあらゆるものを超越するという意味だからです。それがその意味です、つまり、超越するのです、乗り越えて行くのです。宜しいでしょうか、何らかの言葉を繰り返すことによって、最初は、大きな声で、次に、静かに、その次に、言葉にしないで繰り返すのです、そうすると、精神はますます鎮まります。絶え間なく、何らかの言葉を繰り返すことによって、あなたは精神を静かにするという考え方です。それがマントラやその他の全ての考え方です―精神を静かにすることです。つまり、何らかのメッソド、何らかのシステムによって、誰かがこう言うことによって、“こうしなさい、そうすると、あなたはそれを手にするでしょう”と、権威と権威を受け入れることによって何かを獲得するのです。我々が、以前、言ったように、精神的なことの中には、権威の這い入る余地はありません、なぜなら、あなたは自分自身の光になる必要があるからです。グルというものはいません。教師はいません。リーダーはいません。
 あなたは、もしあなたが超越瞑想を実践するなら、いかなるリーダーも受け入れる必要はありません。あなたは直ぐに自然に鎮まります、そして、私の経験はこうです、私はクリシュナムルティを、長年、読んできていました、そして、私はそれを受け入れました。私は、私が超越瞑想を実践していた以前に私はクリシュナムルティを読んでいました、そして、それは非常に美しかったのです、そして、私は、超越瞑想を、二十分間、行った後で、クリシュナムルティを読みます、それは、ただ鎮まって美しいだけではない何かでした。超越瞑想の間、感受性の探索が生じます、あなたは、超越瞑想の間、いかなるゴールも手にしていません。あなたは、ただ、あなたが川を見守るように、そのマントラを見守るだけです、そして、マントラには意味がないように、過去や未来も関与しません、そうすると、あなたは正にその瞬間を生きることを学びます。そうすると、私が最初にクリシュナムルティを読んだとき、私はいつも彼に言いたいと思っていました、それは、正に、彼が我々に生きて欲しいと望んだことでしたと。我々は、それを、非常に自然に、いかなる権威も受け入れることなく、学んでいることになります、もし我々が超越瞑想を実践するなら。それは、クリシュナムルティが我々に教えていることと異なる何かではありません。それは誤解です―それは抑圧ではありません、それはコントロールではありません、それは非常に自然な何かであり、ユニークな何かです。違うものは何もありません。
 私は、宜しいでしょうか、それは大いに異なると思います。あなたに反駁するのを許して下さい。
 私はあなたを見守りたいと思います―あなたは超越瞑想を学んでいます、きっとそうです。
 きっと、私が超越瞑想を実践したと?
 いいえ、私はあなたの本を読んでそう思います。
 宜しいでしょうか、それらの本を読まないで下さい。(笑) あなたは私の話していることを理解していません。宜しいでしょうか、宗教的な生の第一原理は―非権威です、それは、あなたがあなた自身の光になるのでなければならないことを意味します、従って、いかなるものにも依存しません―グルであり、マントラであり、書物であり、人物であり、観念です、いかなるものにも依存しません。それは、あなた自身の光であることを意味します、それは、あなたが余すことなく独存することを意味します。独存するという言葉は全一という意味です。お分かりでしょうか? その“独存する”という言葉の意味は全一ということです、全てが一つになることです。おーっ、あなた方は、それら全てのことを知りません!
 そのように、あなたがそのような意味で独存するとき、あなたは慈しみに溢れます、従って、あなたはあなた自身の光です、そうすると、あなたは、あらゆる神々、あらゆるマントラ、あらゆる教師を忘れることができます、いかなるものも重要ではありません。しかし、我々は独存することを恐れます、我々自身の光になることを恐れます、我々は過ちを犯します、失敗します、あなた自身があなた自身を照らしているのが分かって恐れます。そのためには大いに気を付けていることを要します、大いなる気遣いを要します、そして、あなたは気を付けていることができません、愛することができません、気遣うことができません、書物によっても、人々によっても、マントラによっても、いかなるものによってもそうできません。
                    ―1976年7月28日 ザーネン
                     1976年7月29日 ザーネン