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アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ
アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ
言葉でではなく、知的にではなく、実際にです
クリシュナムルティ(K) 我々は始めます、私は思います、いかがでしょうか、我々が、昨日、終えたところから。
我々は意識が何であるのか、その性質と構造を検討していました。なぜなら、人は分かるからです、もし人間の精神の中に根本的な変化が起こることになるのなら、従って、社会の中にそれが起こるのであるなら、我々はその問いを検討する必要があると、我々は、この意識がそれ自身の中で変態を遂げる、完全な変化を遂げる可能性があるのかどうか明らかにするために、そのことを深く検討する必要があると。なぜなら、人は分かるからです、我々の全ての行動は、表面的なそれであれ、根本的なそれであれ、真剣なそれであれ、軽薄なそれであれ、この意識の産物、あるいは、この意識から生じていると。そして、我々は、昨日、言っていました、この意識の中には、多くの断片が存在すると、そして、それぞれの断片が何らかのとき優勢になると。そして、それら多くの断片を理解することなしに―大丈夫です、宜しいでしょうか、気を失った人がいます、大丈夫です、マダム、座って下さい、気を失った人がいます。大丈夫です、マダム、あなた方がみな立ち上がって見ることはないのです、宜しいでしょうか、彼はただ気を失っただけです。(小休止)
私がこう提案すると、あなたは私が無礼だと考えるのでしょうか、出て行きたいと思う人は出て下さい、話の途中ではなく、そうして下さい、なぜなら、それは多くの人たちの迷惑になるからですと。あなたは静かに座って、正に最後までそうするのか、それとも、あなたがそうせねばと思うときは静かにただ立ち去って下さい。なぜなら、幾人かの人たちが苦情を言っているからです、誰かが動き回っていると、完全に気を付けることがややもすれば難しくなると。宜しいでしょうか? ですから、どうかお願いします、もしあなたが立ち去りたいなら、静かに立ち去って下さい。なぜなら、我々は議論をしているからです、かなり難しい問題を一緒に話し合っているからです、そして、あなたは余すことなく気を付ける必要があるからです。
我々が言っていたように、意識の内容を理解することなしに、そして、恐らく、それを超えて行くことなしに、いかなる行為も、それがいかに意義のあるそれでも、我々の意識の断片的な性質を理解することなしに、我々の行動が何であれ、それがいかに意義のあるそれであっても、混乱を招くに違いありません。私は、このことは非常に明確であるに違いないと思います。それは一つの断片に、知性や身体や信念などに、大いに気を付けるようなことです。
そして、それらの断片化は、それが我々の意識を構成します、そこから全ての行動が生じます、否応なく、それは矛盾や混乱や悲惨をもたらすに違いありません。このことは、少なくとも、せめて言葉の上でさえも、明瞭でしょうか? そして、自分自身に言います、それら全ての断片は作られた、あるいは、まとめられた何かであるに違いないと、そして、それらには意味がないと、なぜなら、そうすると、問題が生じるからです、それをまとめるのは誰なのかと。そして、それが我々の、今朝、少し議論しようとしていることです。
私は分かります、私の精神―私の意識、頭脳を含みます―全ての身体的神経反応、それら全ては、意識は、断片的であると、バラバラにされていると、人が生きる文化によって条件づけられていると。その文化は過去の世代とこれからの世代によって作られてきています。そして、いかなる行動も、いかなる行為も、あるいは、他のそれらに対する一つの断片の強調もが、否応なしに、計り知れない混乱をもたらします。違いますか? 我々はそのことを見て取りますか? 何らかの社会的活動を強調することは、宗教的信念、あるいは、知的概念、あるいは、何らかのユートピアを強調することは、否応なく、矛盾するに違いありません、従って、混乱を招くに違いありません。我々はこのことを一緒に見て取りますか?
そして、我々は、この意識の中で、思考が途方もない役割を果たすと見て取ります、思考は過去の反応だけではなく、我々の全ての感情、我々の全ての神経症的反応、将来の希望、恐れ、絶望、悲しみでもあります―全てがその中にあります。そのように、意識の内容が意識の構造を助長します、あるいは、意識はその内容から自由でしょうか? あなたはこれら全てに付いてきていますか?
もし意識の内容が、それは私の絶望、私の不安、恐れ、快楽、数知れない希望、罪悪感、そして、過去の壮大な経験です、もしそれが我々の意識を構成するなら、それは意識です、そうすると、意識から生ずるいかなる行動も、決して、意識をその限界から自由にさせません。分かりましたか? いいえ、どうか、このことに同意しないで下さい、これは学校の生徒の学習ではありません。私は特定の文化の中で育てられてきました―我々はコミュニケートしています、私とそれを共有しています―それはあなた自身の中で取り組むことを、観察することを意味します、そうすると、我々は先へ進むことができます―私はただ導入部分として話しているだけです。私の意識は私が生きてきた文化の産物です。その文化は、様々な形の活動を、様々な形の快楽の追求、恐れ、希望そして信念を促したり、留めたりしてきました。そのような意識が“私”です。
宜しいでしょうか、そのような意識から生まれるいかなる行動も、それは条件づけられています、否応なく断片的であるに違いありません、従って、矛盾するに、混乱するに違いありません。違いますか? 我々は互いにコミュニケートしていますか、我々はこのことを共有していますか? もしあなたが共産主義者の、あるいは、社会主義者の、あるいは、カトリックの世界に生まれるなら、あるいは、プロテスタントなどのそれに生まれるなら、その特殊な精神、頭脳は、その中で生まれる文化によって条件づけられています、その社会によって、その標準的価値観によって、その社会の願う何かによって条件づけられています。そして、その意識から生まれるいかなる行動も、否応なく、断片的になるに違いありません。違いますか? このことは明らかですか? いいえ、いいえと私に言わないで下さい。そのことを見て下さい、宜しいでしょうか、まだ私に問わないで下さい、ただあなた自身を見守って下さい。もし言わせていただくなら、最初に、話し手の言わんとすることに耳を傾けて下さい、あなたの質問を、あるいは、あなたの思考を持ち出さないで下さい、ただ、最初に、彼の言わんとすることに耳を傾けて下さい。そうすると、非常に静かに耳を傾けた後で、あなたは問い始めることができます。そうすると、あなたは言うことができます、あなたは間違っていると、あなたは正しいと、それはそうと、なぜそうなのかなどです。それらのことがあなたの精神の中で生じているなら、そのように問うているなら、そうすると、あなたは耳を傾けていません。従って、我々のコミュニケーションは終了します。我々は共有していません。そして、このことは非常に複雑で、繊細な問いかけなので、我々が検討しているそれです、あなたは、最初に、耳を傾ける必要があります。
宜しいでしょうか、我々は意識とは何であるのかを明らかにしようとしています。それはそれが含む多くのものから成り立っているのでしょうか、それとも、それはその内容から自由な何かでしょうか? あなたはこのことを明らかにしなければなりません、あなたはそれについて学ばなければなりません。もしそれがその内容から自由なら、そうすると、その自由の行動はその内容によっては指示されません。もしそれが自由ではないなら、その内容が全ての行動を指示します。違いますか? それはシンプルです。宜しいでしょうか、我々は明らかにしようとしています。宜しいでしょうか、私は分かります、私自身を見守っていて、私はそれら全ての産物であると、過去、現在、未来の希望、意識の脈々たる全性質が、そのすべての断片化と共に、それであると。そして、その内容から生じるいかなる行動も、否応なく、断片的であるだけではなく、その内容から生じる行動には自由も全くないはずであると。違いますか?
そうすると、この意識はそれ自身を空虚にできるのでしょうか、そして、全く異なる種類の行動が生まれうる自由な意識が存在するのかどうかを明らかにできるのでしょうか? あなたは私の言っていることを理解していますか? 誰かが言います、はい、あるいは、いいえと。私の話していること、私の説明しようとしていること、あなたがそれについて考えることではありません―私はあなたにそれを伝えているでしょうか、私はそれをあなたに説明しているでしょうか?
...日本人=日本国という“蛸壺”の“牢獄”(K)とは何でしょうか?
それとも、意識の全ての内容は、泥の小さな水たまりのようなものでしょうか、非常に浅いそれで、小さな蛙が、その中で騒々しい音を立てているようなものでしょうか。そして、その小さな蛙が言います、“私は明らかにしようと思います”と。お分かりでしょうか? そして、その小さな蛙はそれ自身を超えようとしています。しかし、それは依然として蛙です、それは依然として泥水の中です。そのように、その泥水は、いかにそれが浅かろうと、深かろうと、それ自身の全ての内容を、それ自身の内容です、空にできるでしょうか? 私の小さな泥水は、私がその中で生きてきた文化です。そして、その小さな私は、その蛙は、その文化と戦っています、そして、言います、それは抜け出さなければならないと。しかし、たとえ、もしそれが抜け出しても、それは小さな蛙です。そして、それが抜け出す先は、それが何であれ、依然として、それが作り出すその小さな泥水です。どうか、このことを見て取って下さい。
そうすると、人は何を行うことになるのでしょうか? どうか、それを答えないで下さい。精神は、それが従事する、あるいは、強いられる全ての活動、その全ての活動は、その内容を伴う意識の中の活動であると分かります。そして、それを理解すると、精神は何を行うことになるのでしょうか? それはその限られた意識を超えて行くことができるのでしょうか?
宜しいでしょうか、それが一つの要点です。二つ目は、その小さな蛙の泥水は―そして、それは良い直喩です―大きくなるかもしれません、そして、その水たまりは広がるかもしれません。それが作り出す空間は、依然として、何らかの次元の境界内のそれです。違いますか? それらにあなたは興味をもちますか? 宜しいでしょうか、私はこのことを問うています―その小さな蛙は収集できます、あるいは、小さな猿は、猿の方が良いです―その小さな水たまりの中のその小さな猿は、多くの知識を、情報などその他の全てを獲得できます、経験を獲得できます。そして、その知識や経験は、それにある種の広がりをもつ空間を与えます。そして、その空間は、いつも、その中に、小さな猿をその中心に据えています。違いますか? あなたはこのことに付いてきていますか?
そのように、意識の中の空間は、いつも、その中心によって限界づけられています。もしあなたが何らかの中心を手にするなら、意識の周囲、あるいは、意識の境界は、いつも、限界づけられています、それがいかに広がろうと。その小さな猿は瞑想するかもしれません、多くのシステムに従うかもしれません、一つを拒絶して、別のそれを取り入れるかもしれません。そして、その小さな猿が、いつも、留まります。従って、その周りの空間、そして、それがそれ自身のために作り上げる空間は、いつも、限られていて、浅いのです。違いますか? そのように、それが二つ目の問いです。
三つ目は、中心とは無縁の空間とは何かということです。我々はそれを明らかにしようとしています。最初の質問は何でしたか?
質問者 意識の限界、そして、精神は意識を超えられるかです。
クリシュナムルティ 雨に耳を澄ましましょう! (小休止)
この意識は、その限界を纏う意識は、その中心に絶え間なく害悪を働く猿を据えたそれは、それ自身を超えることができますか? (小休止)
その猿は―もし宜しければ、私はその言葉にこだわります―その猿は、その全ての意図で、その願望で、その活力で、それ自身をその条件づけから自由にできますか、そして、それが作り出してきた意識の境界を超えて行くことができますか? 宜しいでしょうか?
言い換えると、その猿は、それは“私”です―“私”は、それはその猿です、あらゆる種類のことを行って―瞑想したり、抑圧したり、順応したり、あるいは、順応しなかったり、絶え間なく活動的であったり、何かであったり、なかったりして、その活動はそれ自身を超えることができますか? つまり、意識の内容が、“私”を、その猿を作り、従って、その猿の、“私”の側のそれ自身を自由にする試みは、依然として、その水たまりの限界内でしょうか? 違いますか? そのように、私の問いはこうです、その猿は完全に静かになりうるのか、それ自身の境界を見て取ることによって、その境界線に気づくことによって、それはそれを超えて行くことが果たしてできるのかどうか、ということです。私はそのことを伝えていますか?
質問者 (聞こえず)
クリシュナムルティ おーっ、何と―宜しいでしょうか、あなたは自分自身で気づきますか、あなたはいつも中心から行動していると。あなたはそのことに気づきますか? 気づかない? その中心は何らかの動機かもしれません、その中心は恐れかもしれません、その中心は野望かもしれません―あなたはいつも中心から行動しています、違いますか? 私はあなたを愛しています―私はあなたを憎みます―私は力強くありたい―全ての行動が、我々が、今、知る限り、中心からのものです、その中心が、何らかの共同体、あるいは、何らかの哲学と同一化しようと、それが何であろうと、それは、依然として、それが何かと同一化している中心です、従って、それが同一化したものがその中心になります。分かりましたか? あなたはそのような行動が、いつも、進行していることに気づきますか? 気づきません? それとも、その中心が活動していない瞬間がありますか? それは起こります、突然、あなたは、中心とは無縁に、見ています、生きています、感じています。そして、それは余すことなく異なる次元です。そして、思考が言い始めます、それは何と驚くべきことだと、そして、私はそのことを継続したいと思うと。そうすると、それがその中心になります。終秒前に起こった何かの記憶が、思考を通して、その中心になります。違いますか? 我々はそのことに気づきますか? そして、我々は中心がそれ自身の周りに作り上げる空間に気づきますか、何らかの分離、抵抗、逃亡です―その空間です。中心が存在する限り、その中心がそれ自身の周りに作り出してきた空間が存在します。
そして、その空間を、我々は広げたいと思います、なぜなら、我々は、広く生きるためには、空間の広がりが必要であると感じるからです。しかし、その拡大する意識の中には、いつも、その中心が存在します、従って、その空間は、いつも、限られています、どれほどそれが広がろうと。そのことをあなた自身の中で観察して下さい、宜しいでしょうか、私に耳を傾けないで下さい、あなた自身の中で、それを見守って下さい、あなたはそれらのことを非常にシンプルに発見します。そして、関係性の中の戦いはこれです、なぜなら、二つの中心が、それぞれの中心が広がりたいと思うからです、主張したいと、支配したいと思うからです―それら猿たちが蠢きます。
そこで、私は学びたいと思います、精神は言います、私はそのことを非常にはっきりと見て取ります、私はそのことを学びましたと。そして、私は学んでいます、精神はどのようにしてその中心が生まれるのかを学んでいます―それは、この社会、この文化の産物ですか、それとも、それは神聖な中心ですか―私はその言葉を使っています、その“神聖”という言葉を使うことを許して下さい―それは、いつも隠されてきた神聖な中心ですか? その社会によって、その文化によって隠されてきたそれです―外面的に、それは隠されてきました。お分かりでしょうか? ヒンズー教やその他がそれをアートマンと称します、いつもその中の何かが覆い隠されている大いなる何かです。従って、あなたはその覆いから精神を解放する必要があります、そうやって、真実の何かが現れうるのです、真実の猿が現れうるのです。
明らかに、その中心は人が生きる文化によって作り上げられます、人自身の条件づけられた記憶、経験、人自身の断片化によって作り上げられます。そのように、その中心を作り上げるのはその社会だけではなく、その中心それ自身がそれ自身を促してもいます。違いますか? そうすると、この中心は、それがそれ自身のために作り上げてきたその境界を超えて行くことができますか―それが問いかけの一つです。それはできますか? それ自身を黙らせることによって、それ自身をコントロールすることによって、瞑想することによって、何々によって―お分かりでしょうか、何かを模倣することによって、何かに従うことによって―その中心は拡大し、境界を超えて行くことができますか? 明らかに、それはそうできません、それが何らかのパターンに順応すればするほど、それは強力になります、それはそれが自由になっていると想像するかもしれませんが。お分かりでしょうか?
悟りは、確かに、精神の状態です、その猿が決して蠢いていない精神の質です。そうすると、どのようにしてその猿はその活動を終了するのでしょうか、何らかの模倣によってではありません、何かに順応することによってではありません、誰かが悟ったと言っていて、私は行って、その人から学ぼうと言うのではありません―それら全ては猿のまやかしです。
宜しいでしょうか、どうか、このことに付いてきて下さい、その猿はこのことを見て取りますか、その猿は、それがそれ自身に掛けるまやかしを見て取りますか、そして、こう言いますか、私はそれを了解しました、私は社会を助ける用意がある、社会を変える用意がある、私は余すことなくその社会の価値観、正しい振舞、社会の公正に関心をもつと。私は―宜しいでしょうか? それとも、それは、それ自身に掛けているまやかしですか? あなたはこのことに答えます、宜しいでしょうか。答えませんか? あなたは、それがそれ自身に掛けているまやかしであると考えませんか? それはとても明白です、それについては何の問題もありません。あなたは確かではありませんか? もしあなたが確かではないなら、宜しいでしょうか、どうか、議論しましょう、そのことについて話し合いましょう。
質問者 あなたは、時々、社会を助けることを、社会的活動のことを言います、社会を助けること、あるいは、社会活動が、誰か他の人のためにする何かのように言います。しかし、私は、私は社会と異なっていないと感じます、従って、働くことは社会的なことであって、それは私自身の中で社会的な何かです、それは同じことです―私はその区別をしていません。
クリシュナムルティ しかし、もしあなたがその区別をしないなら―私は個人的に話していません、宜しいでしょうか―私は問うています、我々は問うています、その中心は依然として存在しますかと。
質問者 そのはずはありません。
クリシュナムルティ “そのはずはありません“ではありません。そうすると、我々は全く異なる領域へ入っていきます―はずである、はずはない、なければならない、あってはならない―そうすると、それは理論的になります。実際の事実は、私は“私”と社会が一つである等々のことを認めるけれども、その中心が依然として活動しているのか、その“私”が依然として活動しているのか、“私”、その猿が、こう言うのか、私は...と―お分かりでしょうか? 私の質問はこうです、私は分かります、その猿の側の行動が存在する限り、それが何であれ、その活動は何らかの断片化、幻想、大いなる混乱をもたらすと。言い換えると、ずっともっとシンプルに言ってみると―その中心は自己です、それはいつも活動している自己中心性です、私が神のようであろうと、私が社会に完全に関心をもって、私は社会であると言おうと―その中心、それが活動しています。もしそれが活動しているなら、そうすると、それは意味をなしません。
そのように、精神は言います、それはこのことを非常に明瞭に見て取ると、見て取るというのは、気づくという意味でもあり、そのマイクロホンを見るように、いかなる非難もしないで、それをただ見るということでもあります。そうすると、何が起こりますか? 見るためには、耳を傾けるためには、いかなるものに対しても、完全に気を付けているのでなければなりません、違いますか? もし私があなたの言っていることを理解したいと思うなら、私は余すことなくそれに気を付けているのでなければなりません。そのように、気を付けている中に、その猿が活動していますか、活動していますか? 活動していない? どうか、明かにして下さい。私はあなたに耳を傾けたいと思います。あなたは何か重要なことを、あるいは、重要でないことを言っています―私は明らかにしたいと思います。そして、あなたの言っていることを明らかにするためには、私は気を付けるのでなければなりません、それは、私の精神、私の心、私の身体、神経、あらゆるものが、調和して、気を付けることを意味します。精神は身体と分離していません、心は精神と分離していないなどです―それは完全に気を付けている調和した全体でなければなりません、そして、それが気を付けることです。私はそのように耳を傾けていますか―精神は、そのように完全に、余すことなく気を付けて、その猿の活動に耳を傾けていますか、その猿を見守っていますか、それを非難するのではなく、それは正しいとか間違っているとか言わないで、これやあれと言わないで、ただその猿を、その猿のまやかしを見守っていますか?
そして、この見守る中に、分析は起こりません。このことは非常に重要です、それを検討して下さい、宜しいでしょうか、腹を据えて掛かって下さい。それが分析をするや否や、その猿の断片の一つが活動します。そうすると、精神は、そのように完全に気を付けて、その猿の全ての活動を見守りますか―我々は全活動とは言いません―そうすると、あなたは言います、そうできますかと―その猿の活動です、そして、そのように完全に気を付けているとき、何が起こりますか? あなたはその要点が分かりますか? あなたはそうしていますか?
あなたは耳を傾けるとはどういう意味か知っていますか―あなたがあの雨に耳を傾けているとき、完全にそうしているとき、その雨に抵抗しません―あなたはこう言いません、“おーっ、雨が止んで欲しい、私は明らかにしたいと思っている、私は学びたいと思っている”と―短気を起こしません、それに対抗しません、それを非難しません―あなたは完全に耳を傾けています。宜しいでしょうか、あなたがそのように耳を傾けているとき、その猿である中心が活動していますか? あなたは明らかにします、宜しいでしょうか、私があなたに答えるのを待たないで下さい―明らかにして下さい。今、雨が降っています―構いません。あなたは話し手に耳を傾けていますか? 耳を傾けること、それは完全に気を付けることを意味します。あなたはそうしていますか? それは、あなたが彼の言っていることを言い直していないことを意味します、あなたは同意も不同意もしていません、あなたは彼の言っていることをあなた自身の精神に適合するように比較したり、解釈したりしていないことを意味します。そのような全ての活動が生じるとき、気を付けていません。完全に気を付けることは、耳を傾けるために完全に鎮まる精神を意味します。あなたはそのようにしていますか? あなたは、今、話し手に耳を傾けていますか、正に、今です、そのように気を付けてそうしていますか? もしあなたがそうしているなら、そこに中心が生じていますか?
質問者 あなたは受け身です。
クリシュナムルティ 私はあなたが受け身なのか、能動的なのかどうか気にしません―私は言いました、宜しいでしょうか、宜しいですか、いいですか―宜しいですか、あなたは耳を傾けていますか、耳を傾けることは気を付けることを意味します。そして、そのように気を付けている中で、その猿が活動していますか? はいとも、いいえとも言わないで下さい―明らかにして下さい、それについて学んで下さい、宜しいでしょうか。活動していますか? そして、その中に中心が存在しない、その中でその猿がまやかしを働いていない、そのように気を付けている質とは何でしょうか、その質とは何でしょうか?
質問者 (聞こえず)
クリシュナムルティ 私は知りません、宜しいでしょうか、言葉にしないで下さい、無思考、空虚などと―明らかにして下さい、学んで下さい、その意味は、気を付けていることです、束の間のそれではありません、余すことなく完全に気を付けている精神の質を明らかにするために気を付けていることです。
質問者 (聞こえず)
クリシュナムルティ いいえ、宜しいでしょうか―あなたが、私に語るために、言葉でコミュニケートするために、それはないと言うとき、そうすると、その精神が、その記憶が存在します。しかし、私は問うています、あなたが余すことなく気を付けているとき、中心が存在しますかと。確かに、これはシンプルなことです。宜しいでしょうか、あなたが何かを見守っているとき、本当に面白い何かを、笑いを誘う何かを見守っているとき、中心が存在しますか―あなたを虜にする何かを、お分かりでしょうか、見守っています、どちらにも加担していません―あなたがサッカーの試合を見守っているとき、もしあなたがそうするなら、そして、もしあなたがそれらのどちらにも加担しないで、ただ見守っているだけなら―そのように見守っている中に、その猿である中心が存在しますか? 私はこれ以上答えられません。もし中心が存在しないなら、そうすると、その問いはこうです、そのように気を付けていることは流れるように働いているのか、ということです、一時のそれではありません、お分かりでしょうか、そうすると、それは気を付けていないことになります。そのように気を付けていることは、自然に、容易に、努力とは無縁に、流れるように働きうるのか、ということです―努力はその猿が生じることを意味します。あなたはこれら全てに付いてきていますか?
その猿は、もしそれが何らかの活動をする必要があるなら、這い入る必要があります。しかし、その猿の側の活動は、それは気を付けることから生じるのでしょうか、気を付けることから生まれるのでしょうか、それとも、その猿は気を付けることから分離しているのでしょうか? 私は―人は会社へ行きます―会社へ行きます、そして、会社で働きます、それは気を付ける働きでしょうか、それとも、それはその猿の活動でしょうか、その猿が乗っ取った活動でしょうか? その猿は言います、私は―お分かりですか―より巧妙でなければならない、私はより多く稼がなければならない、私はよりハードに働かなければならない、私は競わなければならない、私はマネージャーに、工場長に、それが何であれ、それになるのでなければならない。私は大司教あるいは人民委員になります―あなたの生の中のそれです。それを検討して下さい、宜しいでしょうか、あなたの生の中のそれです、それは気を付ける働きであって、従って、より効率的で、より生き生きとしているのか、それとも、それは乗っ取っている猿なのか、ということです。答えて下さい、宜しいでしょうか、自分自身で。そして、もしその猿が乗っ取って、何らかの害悪をなすなら、宜しいでしょうか、そして、猿たちが害悪をなすなら―そして、その害悪は拭い去られて、痕跡を残さないことがありうるでしょうか? どうでしょうか、宜しいでしょうか、あなたはこのことの全ての美を見て取りません。
誰かが、昨日、私に言いました―それに耳を傾けて下さい、少しそのことを検討して下さい―それは真実ではありませんでした。その猿が活動していて、そう言いたかったのですか、宜しいですか、あなたは嘘つきですかと、それとも、その猿が活動していない、その気を付けている働きが、真実ではない何かに耳を傾けると、真実ではないその発言は痕跡を残さないと。分かりますか、宜しいでしょうか、後生です、このことを分かって下さい。その猿が反応するとき、それは痕跡を残します。
そこで、私は問うています、この気を付ける働きは流れうる何かでしょうか、どのようにして私は淀みなく気を付けることができるのか、ということではありません、なぜなら、そうすると、それはそのように問うている猿になるからです。しかし、いつも気を付けている働きがありますか、私はただそれに従います、精神はただそれと共に働きます。あなたは私の話していることを理解していますか? いいえ、あなたはこの本当に途方もなく重要な問いに答えなければなりません。我々はその猿の活動を知るだけです。そして、我々は、その中にその猿が全く現れない、この気を付けている働きを、時折、手にするだけです。そうすると、その猿は言います、私はその気を付けている働きを手に入れたいと。そうして、それは経験します―瞑想をしに日本へ行きます、あるいは、醜く脚を組んで座るためにインドへ行くなどします。
そこで、我々は問うています、この働きは―私は分かりました―この気を付ける働きは、それは、余すことなく意識とは、我々が知るそれとは、関係していないのかと。明らかに、関係していません―あなたは私の言うことが聞こえますか? (雨音) 宜しいです、私は待ちます。(中断)
我々は問うています、この気を付けることは、何らかの働きとして、流れうる何かであるのかどうかを、全ての働きが流れる何かでなければならないように。そして、その猿が活動的になるとき、その猿はそれ自身それが活動的で、そうして、気を付ける流れに干渉しないと気づきうるのでしょうか? 誰かが侮辱されました、昨日。そして、その猿が目覚めました、反応するために、そして、それはそれ自身に気づいたので、そして、猿のまやかしの意味するあらゆることに気づいたので、それは鎮まります、そして、その気を付けている働きを流れさせます。どのようにその流れを維持するのかではありません―このことは本当に重要です。あなたがこう言うや否や、私はそれを維持しなければならない、それはその猿の活動です。そうすると、その猿は知ります、それが活動的なとき、それに気づく感受性がそれを即座に鎮めると。
質問者 (聞こえず)
クリシュナムルティ 私はそれを理解していません、宜しいでしょうか、私は聞こえません。
質問者 (聞こえず)
クリシュナムルティ 宜しいでしょうか、気を付けることはエネルギーを意味します、高度のエネルギーです、違いますか? 気を付ける中に、あらゆるエネルギーが含まれます、断片的ではありません。断片的な行動が生じるや否や、そうすると、その猿が活動します。そして、その猿が―そして、その猿もまた学んでいます―感受性豊かになって、気づくとき、それはエネルギーの浪費を悟ります、従って、それは自然な振舞をします。それはその猿と気を付ける働きではありません。それはその猿と気を付ける働きとの分断ではありません。もし分断が生じるなら、その気を付ける働きは、そうすると、高位の自己、お分かりでしょうか、その猿が発明してきたあらゆるまやかしとなります。しかし、それは余すことのない働きです―気を付ける働きです。そして、不幸なことに、その猿にもそれ自身の生があり、目覚めます、それは気を付ける働きと対立した何かではない余すことのない活動です。あなたはこれら全てを理解するでしょうか。宜しいでしょうか、それはあなた次第です。
宜しいでしょうか、中心がないとき、完全に気を付けている極み、極みです、お分かりでしょうか、気を付けているただ中です。その気を付けているただ中に存在するのは何なのか―そこに何が存在するのか、極めて高度に気を付けている精神に何が起こっているのか私に言ってくれますか、あらゆるエネルギーがそこに存在します、微塵も浪費されません。何が起こりますか、何が起こっていますか? おーっ、どうでしょうか、私がいつも話しています。
質問者 沈黙が生じます。
クリシュナムルティ おーっ、いいえ、我々はそれら全て乗り越えてきました、宜しいでしょうか。
質問者 自己同一化が生じます。
クリシュナムルティ いいえ、我々は猿のまやかしを手にしています。何が起こっていますか、知性だけではなく、頭脳だけではなく、身体にも何が起こっていますか? 私は話す必要があります―あなたは学びません。もし話し手がもう来ないとするなら、死ぬなら、何でも起こります、何が起こるのでしょうか、どのようにあなたは学ぶのでしょうか? 別のヨーギから学ぶのでしょうか? いいえ、宜しいでしょうか、従って、今、学ぶのです―学ぶのです。極めて高度に気を付けている精神に、あらゆるエネルギーがその中に含まれている精神に何が起こっているのでしょうか―知性の質に何が起こっているのでしょうか?
質問者 (聞こえず)
クリシュナムルティ いいえ、あなたは知りません―どうか、推測しないで下さい。
質問者 それはより鎮まります。
クリシュナムルティ 私は言いました、宜しいでしょうか―頭脳、機能してきている、働いている頭脳、それがその猿を発明してきました―その頭脳です。いいえ、あなたは知りません、どうか、推測しないで下さい。頭脳は途方もなく感受性豊かになりませんか? そして、あなたの身体は―宜しいでしょうか、あなたがそのような途轍もないエネルギーを手にするとき、汚れのない、浪費されていないエネルギーを手にするとき、全有機組織に何が起こっていますか、頭脳に、人間存在の全構造に何が起こっていますか―それが私の問うていることです。
質問者 それは目覚めて、それは生き生きとなります。それは学びます。
クリシュナムルティ いいえ。宜しいでしょうか、それは学ぶために生き生きとなっています、そうでなければ、あなたは学べません。もしあなたが無気力になっていて、こう言うなら、 私はこれを信じます、私の先入観、私は私の先入観が好きです、それは驚くべきことです、私の条件づけです―そうすると、あなたは無気力になっています、あなたは目覚めていません。しかし、あなたが問うや否や、学び始めると、あなたは生き生きとします、あなたは生き生きとし始めます。それが私の問いです。その身体に、その頭脳に何が起こっていますか?
質問者 完全な相互作用です、分断がありません。
クリシュナムルティ 私は家へ帰ろうと思います。(笑)
宜しいでしょうか、あなたは非常にシンプルな事実に気づきましたか、もしあなたがエネルギーを浪費していないなら、指を弄っていないなら、もしあなたがエネルギーを浪費していないなら、何が起こっていますか? 頭脳の働きに何が起こっていますか、それは純粋に機械的な働きです、頭脳です―何がその機械装置に起こっていますか?
質問者 それは生き生きとしています。
クリシュナムルティ 明日です、宜しいでしょうか、我々は行かなければなりません。どうか、あなた自身を見守って下さい、余すことなく完全に何かに気を付けて下さい、あなたの心と共に、あなたの身体と共に、あなたの精神と共に、あなたの中のあらゆるものと共に、あらゆる分子、あらゆる細胞と共に―何かに気を付けて下さい、何が起こるのか見て下さい。
質問者 もしそれが、もしそれが起こっているなら、あなたは存在しません。
クリシュナムルティ はい、宜しいでしょうか、しかし、頭脳に何が起こっているのでしょうか、あなたではありません、私は同意します、中心は存在しませんが、身体は存在します、頭脳は存在します―頭脳に何が起こっているのでしょうか?
質問者 あなたは静止しています、それはこの上なく気を付けている次元です。
クリシュナムルティ あなたは決してそれを検討してきませんでした。宜しいでしょうか、頭脳の働きとは何でしょうか?
質問者 秩序です。
クリシュナムルティ いいえ。私の発言を繰り返さないで下さい、後生だから。頭脳とは何でしょうか―それは時間の中で進化してきました、それは記憶の貯蔵庫です、それはものです、それは高度に活動的で、認識します、防御します、抵抗します、考えます、考えません、怯えます、安全性を追い求めます、それでも不確かでいます―それはそのあらゆる記憶を抱えたそのような頭脳です、ただの昨日の記憶だけではありません、幾世紀もの記憶です、人種的記憶です、家族の記憶です、伝統のそれです―それら全てです、それがその内容です、違いますか? それでは、そのように途方もなく気を付けているとき、そのような頭脳に何が起こっているのでしょうか?
質問者 それは新しい。
クリシュナムルティ 無礼なことを言うつもりはありませんが、あなたの頭脳は新しいですか、それとも、あなたはただそれを言葉にしているだけですか?
質問者 (聞こえず)
クリシュナムルティ どうか、宜しいでしょうか、とても機械的になっているそのような頭脳に何が起こっているのでしょうか―それは非機械的になっていると言わないで下さい―それは答えになっていません、それは機械的です、頭脳は純粋に機械的です、それはその条件づけに応じます、その条件づけ、その背景や恐れなどに、快楽などに従って応答します、そのような機械的な頭脳に、エネルギーの浪費が全く存在しないとき、それに何が起こっているのでしょうか?
質問者 それは創造的になっています。
クリシュナムルティ 明日にしましょう。―1970年8月8日 ザーネン
“『実践する』という言葉は酷い言葉です”(クリシュナムルティ)
....“言葉でではなく、知的にではなく、実際にです”(同)...