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クリシュナムルティ これが最後のデスカッションです、そして、もし宜しければ、我々は昨日やり残したところから始めましょうか? この四週間、我々はここに集いました―四、五週間、私は忘れました―我々は議論してきました、一緒に、我々の生に触れる多くの問題、我々が我々自身で作り出す多くの問題、そして、社会が我々にもたらす多くの問題を話し合ってきました。
そして、我々は社会と我々が二つの異なる何かではないことも見て取りました―それらは相互に関連した活動です。そして、社会の変化に真剣に関心をもつ誰でも、そのパターン、その価値観に真剣に関心をもつ誰でも、もしその人がその人自身の条件づけに気づかないで、そうして、もしその人が心配して、望んで、社会変化に活動的に関わるなら、そうすると、その条件づけが行動上の断片化を促進します、従って、より多くの争い、より多くの悲惨、より多くの混乱を助長します。我々はそのことをかなり徹底的に検討しました。
そして、我々は恐れが何であるのかも、そして、精神はその重荷から自由になりうるのかどうかも、完全に、そして、余すことなく自由になりうるのかどうかも、表面的にも深くにも自由になりうるのかどうかも議論していました、そして、快楽の性質です、それは、全く、そして、全体として、喜びとは、大いなる歓喜とは異なることも議論していました。そしてまた、我々は我々の構造、我々の存在を構成するそれら多くの断片化の問題も検討しました。そして、我々は我々の議論の中で見て取りました、あるいは、それを学びました、私からではなく、話し手からではなく、我々自身を観察する中で学びました―それらの断片化は全ての人間関係を分断し、その分離を維持します、そして、一つの断片が権威を帯びて、分析者になります、他の断片の検閲者になります。
そして、昨日、我々は一緒に意識の性質について話し合っていました。そして、そのことを話している中で、我々は気を付ける働きの問題を検討しました、気を付けることとは何かです。そして、我々は言いました、この気を付ける質は、その中にあらゆるエネルギーが存在する精神の状態であると、高度に集中したエネルギーのそれであると、そして、その気を付けている中には、観察者は存在しないと、気づく、気を付ける“私”としての中心は存在しないと。我々はそのことを検討しました。
宜しいでしょうか、我々は、今朝、精神に、頭脳に、何が起こるのかを明らかにしようと思います、一緒に学ぼうと思います―頭脳です、精神です、全存在です、それは精神身体的な何かです、身体、頭脳、心、精神、全てです―精神が途轍もなく気を付けているとき、何が起こりますか? 宜しいでしょうか、そのことを非常に明瞭に理解するためには、明かにするためには、それについて自分自身で学ぶためには、人は、最初に、表現は表現されようとしているその当のものではないことを見て取るのでなければなりません。人はテントを、このテントを表現できます、テントの多くの穴やテントに関わるあらゆることです。しかし、その表現はそのテントではありません、言葉はそれが伝えようとするその当のものではありません、そのことが、我々は、初めから、絶対的に明瞭でなければなりません、説明はそれが説明しようとしているその当のものではありません、そして、表現に囚われることは、説明に囚われることは、この上なく子供じみた生き方です、私はほとんどの我々がそうしているのではないかと案じるのです―我々は表現に満足します、説明に、語り口に満足します、それが原因で、我々はただただ浮足立ちます。しかし、一方、我々が、今朝、行おうとしていることは、我々自身で精神の質を、あるいは、精神に何が起こっているのかを明らかにすることです―精神は頭脳だけではなく全精神身体的構造です―この途方もなく気を付けているとき、その観察者あるいは検閲者が存在しないとき、精神に何が起こるのかです。
......首無しの赤い鳥居の丹田とは何でしょうか?......
そのことを理解するためには、それについて本当に学ぶためには、話し手のその説明に単に満足するのではなく、人は明らかにする必要があります、人は“現にある通り”の理解から始める必要があります―“現にある通り”です、“あるべき”あるいは“今まで”ではなく、“現にある通り”です。どうか、私と共に歩んで下さい―一緒に歩を進めて下さい―もし我々が一緒に歩むなら、それは大いなる喜びです、一緒に学んでいるときです。なぜなら、明かに、途轍もない変化が世界と我々に起こるのでなければならないからです。明かに、我々の思考方法や行動様式はとても全く未熟になっています、とても矛盾しています、とても悪魔的になっています、もし人がそう言いうるなら。あなたは殺戮機械を発明します、そうすると、その機械を破壊する対抗機械が出現します―対抗、対抗、対抗です―それが人々の世界中で行っていることです、社会的にだけではなく、機械的にもそうです。 宜しいでしょうか、精神はこのことの全体を見て取ることができますか? そして、それは、もし観察する断片が存在するなら、それを全体として見て取ることができません。我々は問うています、いかなる断片化も存在しなくて、大いに気を付けている精神の質とは何かと。それが我々の、昨日、やり残したことです、そこで我々は終了しました。その精神の質とは何でしょうか? 私は、あなたがそのことを試みたのかどうか、検討したのかどうか、あるいは、昨日のことから学んだのかどうか知りません、そして、話し手はあなたに何かを教える教授ではありません、あるいは、あなたに何らかの情報を与えているのではありません。しかし、それを明らかにするためには、いかなる断片化もあってはなりません、それは明らかです、それはいかなる努力も存在しないことを意味します―努力は歪みを意味します、そして、精神です、我々の精神が歪んでいるように、あなたは、恐らく、完全に気を付けていることが何であるのかを理解できません、そして、余すことなく気づいている、余すことなく気を付けている精神に何が起こっているのかを明らかにできません。
安全性と安定性との間には違いがあります。それはその猿です、我々は、昨日、それを言いました、それは、その思考を抱えた、その問題を抱えた、その不安や恐れなどを抱えた、その絶え間のない私です、その落ち着きのない思考は、猿は、いつも安全性を追い求めています、なぜなら、それは不確かさを、その活動の中の不確かさを、その関係性の中の不確かさを恐れるからです―それはあらゆるものが機械的であることを願います、つまり、安全性です。そのように、それは安全性を機械的な確かさという点で解釈します。私はあなたがこれらのことに付いてきているのかどうか知りません。
宜しいでしょうか、安定性は、異なりますか、その対極ではありません、安全性とは異なる次元の何かでしょうか? 我々はこのことを理解する必要があります。落ち着きのない精神は、そして、その落ち着きのなさの中で、安全性を追い求めている精神は、決して安定性を、安定している何かを見つけることはできません。動じない―それではありません、その言葉ではありません―お分かりでしょうか、揺るぎなく、不動であって、それでも、それには大いなる動的な質が備わっています。そして、安全性を追い求めている精神は、動的で、敏捷で、それでもなお、計り知れなく不動であるという意味の安定性は望むべくもありません。あなたはその違いが分かりますか? それでは、あなたの行っているのはどちらでしょうか、あなたです、話し手ではありません―どちらをあなたはあなたの生の中で、あなたの日常生活の中で行っているのでしょうか―思考は、その猿ですか、その落ち着きのなさの中で、安全性を追い求めているそれですか、そして、一つの方向でそれが見つからないと、それは別の方向へ向かいます、それは落ち着きのなさの活動です。そして、その落ち着きのなさの中で、それは安全性を見つけることを願うのです。あなたはこのことが分かりますか? 従って、それは決してそれを見つけることができません。それは言うことができます、いずれにしても、神が存在すると、それは依然として思考の発明です、思考のイメージです、幾世紀もの条件づけによって、思考としてのプロパガンダによって、条件づけられたそれによってもたらされたイメージです、共産主義者の世界では言います、そのようなものは存在しないと、馬鹿を言うなと。それも同様に条件づけられたそれです。
それでは、あなたはどちらを行っているのでしょうか? あなたの落ち着きのなさの中で安全性を追い求めていますか? 宜しいでしょうか、安全性は最も興味深いものの一つです、安全であるという願望です。そして、その安全性は世界によって認められなければなりません。あなたは理解します―私はあなたがこのことを見て取るのかどうか知りません。私は書物をものにします、そして、私はその書物の中に私の安全性を見つけます。しかし、その書物は世界から認められるのでなければなりません、そうでないと、安全性は保証されません。そのように、私の行ってきたことを見て下さい。私の安全性は世界の言論の中にあります、つまり、“おーっ、私の書物は何千と売れている”。そして、私は世界の価値観を作り出してきました。私は正に、書物を通して、あるいは、それが何であれ、安全性を追い求める中で、世界に依存しています、私が作り出してきた世界です、そのように、それは私が私自身を絶えず欺いていることを意味します。違いますか? おーっ、もしあなたがこのことを見て取るなら!
質問者 はい、我々はそう見て取ります。
クリシュナムルティ そのように、安全であるという思考の願望は不確かさの表明です、非安全性の表明です。宜しいでしょうか、精神が完全に気を付けているとき、その中に中心は存在しません、そのように、熱気を帯びて気づいている精神に何が起こっているのでしょうか―その中に、安全性が生じますか? あなたは私の質問を理解しますか? その中に、何らかの落ち着きのなさが生じますか―いいえ、どうか、同意しないで下さい―このことは明らかにするうえで途轍もない何かです、なぜなら、我々はそれを超えて行こうと思うからです。宜しいでしょうか、ほとんどの我々は世界の悲惨の解決法を追い求めています、社会的倫理―それは非倫理です―の解決法を追い求めています、我々は、社会的不正の生じない社会を組織化する方法を明らかにしようとしています、そこで、人は神、真理―あるいは、それが何であれ―を追い求めてきました、幾世紀もそうしてきました、そして、我々は決してそれに出会っていません、しかし、我々はそれを信じています―そして、あなたがそれを信じるとき、あなたはあなたの信念によって経験することを自然に手にします、そして、それは偽りのそれです。私はあなたがこれらのことに付いてきているのかどうか知りません。
そのように、人は、その落ち着きのなさの中で、その安心や安全性を願望する中で、安心を覚えようと、それら全ての想像的安全性を手にしてきました、発明してきました、思考によって思い描いてきました。宜しいでしょうか、あなたがエネルギーのそれら全ての断片化に気づくとき、従って、エネルギーの断片化は全く存在しないことに気づくとき、安全性を追い求めてきた精神に何が起こっているのでしょうか、なぜなら、それは落ち着きがないので、それは一つの恐れから別のそれへ向かうからです。宜しいでしょうか、あなたは私の質問を理解しましたか? どうか、私はその質問を明瞭にしましたか? していませんか?
質問者 いいえ。
クリシュナムルティ それはせめて言葉の上でさえも明瞭ですか、せめて知的にでさえも明瞭ですか?
質問者 それはもはや分離していません、恐れが存在しません。
クリシュナムルティ 紳士は言います、それは分離していない、恐れは存在しないと―宜しいでしょうか、我々はそれらのことを見てきました、もしあなたが本当に見て取らないなら、それはあなたにとってそうです、何も言わないで下さい、なぜなら、それには意味がないからです。あなたは発明できます、あなたは言えます、私はこう感じると―しかし、もしあなたが本当に真剣なら、あなたはそれについて学びたいと思います、そうすると、あなたはそれについて検討する必要があります、それはあなたの仕事です、あなたの生です―ただ単に今朝のことではありません。宜しいでしょうか、我々が道を下っていると、村を通りすぎていると、人々はみな教会へ向かっています―週末の宗教です。そして、これは週末の宗教ではありません。これは生の何かです、生き方の何かです、このエネルギーがバラバラにされていない生き方の何かです。宜しいでしょうか、もしあなたが一度このことを理解するなら、あなたは途方もない感覚の行為を手にするでしょう。
それでは、進めましょう。
質問者 宜しいでしょうか、あなたが何かを言うとき、あなたは我々の中のその猿にどう対処するのでしょうか?
クリシュナムルティ いいえ、宜しいでしょうか、私はそのように言いませんでした―私は言いました、あなたはどこにいるのかと。
質問者 はい。もしあなたがその問いに答えたいと思うなら...
クリシュナムルティ いいえ、私はただ問うているだけです、宜しいでしょうか、言葉尻を捉えないで下さい―私はただこう問うているだけです、あなたはどこにいるのかと。
質問者 (聞こえず)
クリシュナムルティ はい。そのように、断片の一つがあります―それは実際に“現にある通り”です―このバラバラにされたエネルギーの一つです、知ること、気づくこと―いいえ、私はその言葉、気づきや知るという言葉を使いません―それらの断片の一つ、落ち着きなく安全性を追い求めているそれです―それが我々みなの行っていることです。そして、その落ち着きのなさ、そして、その絶えず追い求めるそれ、絶えず尋ねているそれ、絶えずそのように発言するそれ、そして、そのことを取り上げるそれ、そのような社会に参加していくそれ、そうして、そのような社会を取り上げるそれ、お分かりでしょうか、その猿がそのように果てしなく活動します、それら全ては、安全性のみに関心を抱く生き方を追い求める精神を指し示します。
宜しいでしょうか、そのことが非常に明瞭に見て取られるとき、そうして、その精神とは何でしょうか―もはや安全性に関心をもたない精神に何が起こっているのでしょうか? 私はその問いを異なる見地から問うています。それに何が起こっているのでしょうか? それは恐れを抱いていません―それは非常に些末なことです。それは非常に些末なことになります、あなたが、いかに思考がエネルギーを断片化しているのかを見て取るとき、あるいは、いかにそれ自身を断片化しているのかを見て取るとき、そして、その断片化のせいで恐れが生じるのを見て取るとき。そして、あなたが、その断片化の中の思考の活動を見て取るとき、そうして、恐れを―あなたはそれに向き合います、あなたは行動します。そのように、我々は問うています、途方もなく気を付けている精神に何が起こっているのかと。追い求める何かが生じていますか? どうか、明かにして下さい。
質問者 機械的な活動は完全に止みます。
クリシュナムルティ 機械的な活動は完全に止む。あなたは私の言っていることを理解しますか、私の問いかけです。あなたがそのように気を付けているとき、精神は依然として追い求めていますか? 経験を追い求めること、それ自身を理解するのを追い求めること、それ自身を超えて行くことを追い求めること、正しい行動、誤った行動を明らかにすることを追い求めること、それが依存できる永遠な何かを、関係性の中の永遠を追い求めること、あるいは、信念の永遠性を、あるいは、何らかの結論の永遠性を追い求めること、それらは、あなたがそのように完全に気づいているとき、依然として活動していますか?
質問者 精神はもはやいかなるものも追い求めません。
クリシュナムルティ 精神はもはやいかなるものも追い求めない。あなたはそれの意味することが分かりますか、あなたがその種の発言を、そのように安易にするとき―どうか、このことに耳を傾けて下さい。何事も追い求めない、それはどういう意味でしょうか?
質問者 それは新しい何かを受け取る用意がある。
クリシュナムルティ それは新しい何かを受け取る用意がある。
質問者 そのことをそれは想像できません。
クリシュナムルティ そのことをそれは想像できない。いいえ、マダム、あなたは、本当に、本当に、理解していません。いえ、いえ、私の問いかけはこうです―あなたはあなたの言っていることを全く分かっていません―私の問いかけはこうです、精神は、その落ち着きのなさの中の猿の活動を見てきました。その活動、それは依然としてエネルギーです、思考がそれをバラバラにしてきました、永遠の何かを、安全性を、確かさを、安心を見つけようとする願望の中でそうしてきました。そうして、それは世界を分断してきました、“私”そして“他人”、“我々”そして“彼ら”として、安全性の手立てとして真理を追い求めてきました。そして、精神です、人はそれら全てを観察してきました、そして、精神はもはやいかなるものも全く追い求めていないのでしょうか? お分かりでしょうか、追い求めることは落ち着きのなさを意味します―私はそれをここには見つけませんでした、そして、私はそこへ行きます、そして、私はそれをそこに見つけませんでした、そして、私は他のどこかへ行きます。
質問者 中心を持たない精神は追い求めることに関心を抱きません。
クリシュナムルティ 中心を持たない精神は追い求めることに関心を抱かない。しかし、そのことがあなたに起こっていますか?
質問者 あなたが気を付けている瞬間、それは起こっています。
クリシュナムルティ いいえ、宜しいでしょうか。
質問者 多くのことが、精神に、それが奮闘するのを止めると、起こります。
クリシュナムルティ あなたは知っているでしょうか、静かに歩いているとき、あるいは静かに座っているとき、完全に空虚であることの意味を、何かから分離しているのではありません、引きこもっているのではありません、あなた自身の周りに壁を築いて、あなた自身を見つけているのではありません、いかなるものとも関係を結ばないのではありません―私はそう言っているのではありません。精神が完全に空虚であるとき、それはそれが記憶をなくすのではありません、記憶はそこにあります、なぜなら、あなたはあなたの家へ歩いていくからです、あるいは、あなたの会社へ行くからです―それは記憶です。しかし、追い求めるあらゆる活動が終了している精神の空虚のことです。
質問者 すべてが存在していて、私がいます。
クリシュナムルティ すべてが存在していて、私がいます。“私がいます”とは何でしょうか? “私がいます”とは誰でしょうか? “いる”と言う“私”とは誰でしょうか?
質問者 猿です。
クリシュナムルティ 猿? それを誰かが示唆しています。その私とは何でしょうか―どうか、そのことを見て下さい―私とは何でしょうか? プロパガンディストの言ってきたことを繰り返さないで下さい、宗教の言ってきたことを繰り返さないで下さい、心理学者たちの言ってきたことを繰り返さないで下さい―私とは何でしょうか? あなたとは何でしょうか? こう言うのは誰ですか、“私はこういう人です”と―イタリア人、フランス人、ロシア人、信念、教条、恐れ、過去、追い求める人、そして、追い求めて、探す人、家と一体化する人、夫と、お金と、名前と、家族と一体化する人―それら全ては何でしょうか? 言葉です。違いますか? いいえ、あなたはこのことを見て取りません。しかし、宜しいでしょうか、もしあなたがこのことを見て取るなら、あなたが記憶や言葉の束であることを見て取るなら、その落ち着きのない猿は消滅します。
質問者 なぜでしょうか、もしあなたの精神が、あなたが会社へ向かっているとき、完全に空虚なら、あなたは会社へ向かっていますか?
クリシュナムルティ いいえ、宜しいでしょうか。
質問者 それでは、なぜあなたは依然としてそのようにしているのでしょうか?
クリシュナムルティ あなたは生計を立てる必要があります、あなたはあなたの家へ行く必要があります、あなたはこのテントを出て行きます。
質問者 あなたはあなたの会社へ行くことを忘れます、恐らく。
クリシュナムルティ あなたはそれを止めるかもしれません、私は違います―会社に行くことを持ち出さないで下さい。
質問者 確かに、問題はこうです、どのようにして私は空虚になりうるのでしょうか、もし記憶がそこで働いているなら―それが質問です。
クリシュナムルティ 宜しいでしょうか...
質問者 それは分裂です、精神の一部が空虚で、別の部分はそうではありません。
クリシュナムルティ いいえ、そうでは全くありません。
質問者 精神はエネルギーになります。
クリシュナムルティ 私は降参です―私は家へ帰ります、もしあなたが気を付けていないなら。
質問者 いえ、いえ、ここにいて下さい。
クリシュナムルティ 宜しいでしょうか、私はあなたに何かを伝えたいと思うからです、私はあなたと何かについてコミュニケートしたいと思うからです、そして、あなたは私に言葉を投げつけます―私は非常にシンプルなことをあなたに話したいと思います、つまり、安全性というようなものは存在しないと、その安全性を要求する落ち着きのなさは、観察者の、その中心の、その猿の一部であるということです。そして、その落ち着きのない猿が、それは思考です、この世界をバラバラにしてきて、この世界の恐ろしい混乱を作り出してきました、それはそのような悲惨、そのような苦悶をもたらしてきました。そして、思考はそれを解決できません、いかにそれが明晰でも、いかに賢くても、いかに博学でも、いかに効率的思考に長けていても、それはできません、思考は恐らくこの途轍もない混乱から秩序をもたらしえません。それから抜け出すのでなければなりません、それは思考によるのではありません、それが私のあなたに伝えたいと思うことです、つまり、この気を付けている状態の中で、その気を付けている働きの中で、安全性のあらゆる感覚が消え去っています、なぜなら、安定している何かが存在しているからです。そのような安定性は安全性とは何の関係もありません―思考が安全性を追い求めるとき、それはそれを永久な何かに、不動の何かにしてしまいます、従って、それは機械的になります。思考は関係性の中に安全性を追い求めます、あなたと私です、関係性の中です。思考はその関係性の中に何らかのイメージを作り上げます。そして、そのイメージが永久な何かになります。そして、そのイメージが関係性を破壊します、あなたはあなたのイメージを手にし、私は私のイメージを手にします。そのイメージの中に、思考は確立してきました、それ自身を永久的な何かと同一化してきました。
そして、外面的に、それが我々の行ってきたことです。あなたの国家、私の国家、神、それら全ての愚にもつかないことです。宜しいでしょうか、精神がそれら全てをやり過ごすとき、つまり、それがそれを見て取っているとき、それがその全くの不毛さ、害悪を見て取っているとき、言葉を弄するそれを見て取っているとき、それは見て取って―それで終了です。そうすると、そのように完全に安全性の全ての概念を終了している精神に何が起こるのでしょうか、そのように気を付けている精神に何が起こるのでしょうか? 私はあなたに指摘しています―表現はそれが表現しようとするその当のものではありません―それは完全に安定しています。
質問者 (聞こえず)
クリシュナムルティ 何でしょうか、マダム。
質問者 (聞こえず)
クリシュナムルティ 他のものが消滅している? 何をあなたは言っているのでしょうか、マダム、私は理解できません。
質問者 フランス語でそれを私は言えますか?
クリシュナムルティ はい、マダム、勿論です。
質問者 我々は他のものが分離している何かだと感じません。それらは我々であり、我々はそれらです。あることから他のものへという関係性の問題はもはや存在しません、なぜなら、もはや観察者が...
クリシュナムルティ マダム、あなたはそれを、それら全てを、あなたの心から話しているのでしょうか?
質問者 (聞こえず)
クリシュナムルティ それは終了しています、マダム、それ以上言うことはありません。私はあなたに問うています―もしあなたがそれはそうと言うなら、そうすると、言われることはもう何もありません。私は私自身に問うています、従って、あなたはあなた自身に問うています、精神が、思考が、もはやいかなる形の安全性ももはや追い求めていないとき、そして、そのような永久的なものは存在しないことを見て取るとき、精神は―その重要性を見て下さい、宜しいでしょうか―進化し、成長し、記憶する頭脳は、完全に安全であるという観念を抱いて...宜しいでしょうか? 精神は、頭脳は、安全性を欲します、そうでないと、それは機能できません、それは非論理的に、神経症的に、非能率的になるでしょう、従って、頭脳はいつも秩序を欲しています。そして、それは秩序を手にすることを安全性の観点から解釈してきました。そして、もしそのような頭脳が依然として機能しているなら、それは依然として安全性を通して秩序を追い求めています。このことをぜひ理解して下さい。そうすると、気を付けているとき、頭脳は依然として安全性を追い求めていますか? 私に答えないで下さい。
質問者 宜しいでしょうか、現在があるだけです。
クリシュナムルティ 彼は言います、現在があるだけであると。宜しいでしょうか、私はあなたに何かを伝えようとしています。私は全く間違っているかもしれません。私は完全にナンセンスなことを話しているかもしれません、しかし、あなたは自分自身で私がナンセンスなことを話しているのかどうかを明らかにする必要があります。
質問者 私は、この瞬間、私は気を付けていて、私は追い求めていないという感覚を手にしています。しかし、この気を付けていることは止むかもしれません、そうして、私は再び追い求めています。
クリシュナムルティ 決してそうなりません―それが要点です。もし思考が永久的なものは存在しないと見て取るなら、そのことを見て取るなら、思考は決してそれを再び追い求めないでしょう。つまり、頭脳は、安全性の記憶を抱く、社会の中でそれを育む、安全性に依存する、安全性に基づくあらゆるその観念を抱く、安全性に基づくその倫理を抱く、そのような頭脳は、それは、安全性に向かうあらゆる活動を完全に無にしていますか? 私に答えないで下さい。
宜しいでしょうか、あなたはこれまでこの瞑想の問題を検討したことがありますか、誰かありますか? 瞑想は瞑想には関心がなくて、瞑想者に関心があります―あなたはその違いが分かりますか? あなた方のほとんどは瞑想について関心を抱きます、瞑想の方法です、どのように瞑想するのか、一歩一歩、そしてその他の全てです―それはその問題では全くありません。瞑想者がその瞑想です。瞑想者を理解するのが瞑想です。
宜しいでしょうか、もしあなたが瞑想のこの問題を検討したことがあるなら、瞑想者が終了するのでなければなりません、明かに、理解することによって、抑圧するのではありません、思考を殺すことによってではありません―理解することによって、つまり、彼自身を理解することは思考の働きを理解することです、思考は頭脳の働きです、あらゆるその記憶を抱いている頭脳のそれです。そして、安全性を追い求めている思考の働きなどその他の全てです。
宜しいでしょうか、瞑想者は問うています、この頭脳は完全に鎮まりうるのかと、それは思考が完全に鎮まることです、それでも、その静まりから思考は働きます、それ自身の中の目的としてではなく働きます。お分かりでしょうか? 恐らく、それはあなたには殊の外ひどく複雑な何かです―それは、本当は極めてシンプルです。
そのように、高度に気を付けている精神は、エネルギーの断片化を手にしません―どうか、このことを見て取って下さい、エネルギーの断片化が存在しません、それは完全なエネルギーです。そして、そのエネルギーが、あなたが断片化とは無縁に会社へ行くとき働きます。違いますか?
質問者 恐らく、本当に理解することは言葉の助けなしに気づきうるのかもしれません、それはあなたが理解しようとしている、あるいは、理解しているものと直に触れるようなものです。
クリシュナムルティ あなたは言葉の助けなしに直に触れることによって理解できます。
質問者 その結果、逃げである言葉の必要性がなくなります。
クリシュナムルティ 正にそれです。あなたは言葉なしにコミュニケートできます。
質問者 はい。
クリシュナムルティ 待って。(笑) 言葉なしに、なぜなら、言葉は妨げるからです。宜しいでしょうか、私はあなたと言葉なしにコミュニケートできますか、そのように途方もなく気を付けていて、それでも、世界の中で、そのエネルギーを断片化しない精神の質を手にして、活動することができますか? あなたは私の問いかけを理解しましたか?
質問者 はい。
クリシュナムルティ 宜しいでしょうか、私はあなたにそのことを言葉を使わないでコミュニケートできますか? 私はできますか?
質問者 はい。
クリシュナムルティ はい? 私はできますか? どうしてあなたは私ができると分かるのでしょうか? あなたは一体何を話しているのでしょうか?
質問者 私は、あなたはできると思います。
クリシュナムルティ 宜しいでしょうか、私は、ほぼ三週間、話してきました、あらゆることを説明してきました、それを詳細に検討してきました、人の心をそのことに注いできました―あなたはそれを理解しましたか? せめて言葉の上でさえも。そして、あなたは何かを非言語的に理解したいと思うのです。それが意味するのは―それは可能であるということです、もしあなたの精神が話し手に、同じ強さで、同じ熱気で、同時に、同じ次元で、触れるなら、あなたはコミュニケートするでしょう。あなたはそうしていますか? 宜しいですか、あの列車に耳を澄ませて下さい、それに耳を傾けて下さい。宜しいでしょうか、言葉とは無縁に、コミュニケーションが成立しています、なぜなら、我々は、我々は共に、あの列車の騒音に耳を傾けているからです、同時に、同じ強さで、同じ熱気で。
宜しいでしょうか、そのようなときにのみ、直のコミューニオンが生まれます。違いますか? あなたはそうしていますか? あなたにそのような熱気がありますか、話し手と同じ瞬間、そのような熱気がありますか、お分かりでしょうか、その他の全てがありますか―ありますか? 勿論ありません。宜しいでしょうか、あなたが他の人の手を握るとき、あなたは、それを何らかの習慣、あるいは、慣習から、そのように行えます。一方、あなたは手を取って、コミュニケーションが言葉なしに起こりえます、なぜなら、双方ともに、その瞬間、熱気を込めているからです、コミュニケーションが生まれています、言葉とは無縁に。しかし、我々には、そのような強さ、熱気、関心がありません。
質問者 いつもそうではありません。
クリシュナムルティ いつもそうではない―そう言わないで下さい、ほんの一瞬でさえも。
質問者 あなたはどうして分かるのでしょうか?
クリシュナムルティ 私は知りません。もしあなたがそうなら、そうすると、あなたはその意味することを知るでしょう、気づくこと、熱気を帯びること、従って、もはや安全性を追い求めていないこと、従って、もはや断片化という点から行動したり考えたりしないことです。そうすると、宜しいでしょうか、我々が話してきたあらゆることを経てきた精神に、あらゆる議論、そのような言葉のやり取りを経てきた精神に何が起こっているのかを見て下さい、このことに本当に耳を傾けてきた精神に何が起こっていますか?
最初に、それは鋭敏になっています、心理的にだけではなく、身体的にもそうなっています―喫煙、飲酒、薬物を止めます、水に流します、それは川に流すと称されます。そして、我々がこの気を付ける問題について議論してきたとき、話してきたとき、あなたは、精神がもはや何ものも全く追い求めていないことを、あるいは、何も主張していないことを見て取るでしょう。そして、そのような精神は全くの不動の動です。
宜しいでしょうか、そのような安定性と感受性から、それは行為しえます、断片を作り出すことなく、生を断片にバラバラにすることなく、あるいは、エネルギーを断片にすることなく行動しえます。宜しいでしょうか、そのような精神は―それは何を見つけるのでしょうか、行為とは別に、安定性とは別に、その他の全てとは別に、そこに何が存在するのでしょうか? お分かりでしょうか? 人はいつも追い求めてきました、人が思い描く神とは、真理とは何かを、いつもそれを、人の恐れから、人の希望の喪失から、人の絶望から、死から、懸命に追い求めてきました、人はそれを追い求めてきました。そして、考えました、人はそれを見つけたと。そして、その発見を人は組織化し始めました。そして、あなたはその有名な話を覚えていますか―悪魔とその友人が、ある日、道を歩いていました、そして、彼らは彼らの前にいる男が何か非常に光るものを拾うのを見ました。そして、その男はそれを見て、歓喜し、悦に入りました。そして、悪魔の友人が尋ねました、それは何かと、何を拾ったのかと。おーっ、彼は言いました、悪魔は言いました、おーっ、それは真理の一部であると。そして、その友人が言いました、そうすると、それはあなたの商いには向きません、もし人が路上で真理を見つけても、それはその人の商いには向きません、あなたには手立てがないでしょう。彼は言いました、大丈夫です、友よ、私がそれを組織化するのを手伝いましょうと。宜しいでしょうか?
そのように、宜しいでしょうか、安定していて、極めて動的で、感受性豊かなそれは、問いません、それはこれまで決して見つけられることのなかった何かを見て取ります、それは、そのような精神にとって、時間が全く存在しないことを意味します、それは人が列車を見逃すことを意味しません。従って、時間とは無縁の、従って、信じられないほど広大な状態が存在します。
宜しいでしょうか、私はそれを検討できます、それは本当にこの上なく驚くべき何かです、もしあなたがそれに出会うなら、しかし、表現はそれが表現しようとしているその当のものではありません。それはあなたがあなた自身を見守ることによってそれら全てを学ぶのです―いかなる書物も、いかなる教師も、それら全てについて、あなたに教授することはできません―誰にも頼らないで下さい、いかなるものにも参加しないで下さい―精神的組織、お分かりでしょうか、物理的組織ではありません。
そのように、人はそれら全てを自分自身から学ぶ必要があります。そして、その中で、精神は信じがたいものを発見するでしょう。しかし、そのためには、いかなる断片化もあってはなりません、従って、計り知れない安定性、敏捷性、動的な何かがあるのでなければなりません。そして、そのような精神は時間とは無縁です、従って、死と生の全概念が全く異なった意味をもちます。
質問者 そのような精神がコミュニケーションを試みることに何らかの益があるのでしょうか?
クリシュナムルティ 終了です、我々は話すことを終了しました。時間です―今、何時でしょうか?
質問者 一時十五分前です。
クリシュナムルティ 心地よい旅をして下さい。
質問者 ありがとうございます。 ―1970年8月9日 ザーネン
....“言葉でではなく、知的にではなく、実際にです”(同)...