Quiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift JIS"> アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

鳥居

 

言葉でではなく、知的にではなく、実際にです

クリシュナムルティ 私は、今朝、もし宜しければ、多くのことを検討したいと思います、なぜなら、我々はあと一つのトークを残して、残りの時間を議論に当てることになるからです。
 人は、人自身の中に根本的な変化をもたらすためには、大いなるエネルギー、活力、興味を必要とします。もし我々が外面的な現象に興味をもつなら、我々は、我々自身を変えるプロセスの中で、我々が世界とどう向き会えるのかを見てみる必要があります、そしてまた、我々はエネルギーをどのように保持するのかだけではなく、それをどのように増大させるのかも見るのでなければなりません。我々はエネルギーを果てしなく消散しています、無益なお喋りをすることによって、あらゆることについて数知れない意見を抱くことによって、何らかの概念や方式の世界を生きることによって、そして、我々自身の中で果てしなく争うことによって。私は、それら全てがエネルギーの浪費だと思います。しかし、それ以上に、我々自身の中に何らかの変化をもたらすだけではなく、我々自身の思考の領域を超えて非常に深く踏み込むためにも必要な活力のあるエネルギーを消散させる、より深い要因があります。
 古代人は言いました、性をコントロールせよ、あなたの感覚の手綱を緩めるな、あなたのエネルギーを消散しないように誓いなさいと、つまり、あなたはあなたのエネルギーを、神、あるいは、それが何であれ、それに注ぐのでなければならないと。そのような全てもまたエネルギーの浪費です、なぜなら、あなたが何かを誓うとき、それは何らかの抵抗の形だからです。表面的な、外面的な変化のためだけではなく、深い、内面的な変質あるいは革命をもたらすためにも、エネルギーが必要です。人は、いかなる要因とも、いかなる動機とも無縁で、余すことなく鎮まる能力をもつエネルギーの途方もない感覚を手にするのでなければなりません、そして、その非常な静けさがそれ自身で爆発する質を持つのでなければなりません。我々はそれら全てを検討しようとしています。
 人は分かります、人間がどのように人間のエネルギーを浪費しているのかを、様々な喧嘩の中で、嫉妬の中で、途轍もない不安の中で、快楽の果てしない追求の中で、そして、その要求の中で、そして、それがエネルギーの浪費であることは全く明らかです。そして、また、あらゆることについて数知れない意見や信念を抱くこともエネルギーの浪費でしょうか―他の人はどう振舞うべきか、他の人は何をするべきかなどです。何らかの方式や概念を手にすることはエネルギーの浪費ではないのですか? この文化の中で、我々は、我々が生きる上で、何らかの概念を手にすることを促されます。あなたは何らかの方式や概念を手にしていませんか、それは、あなたはどうすべきか、何が起こるべきかのイメージを抱く感覚です―“現にあること”を拒絶して、“あるべきこと”を形成する思考の感覚です。それら全てはエネルギーの浪費です、そして、私は我々がそこから歩を進めうることを望みます。
 エネルギーの浪費の背後にある基本的な要因は何でしょうか? 人が獲得してきた、エネルギーを浪費する文化的パターンとは別に、もっと深い問題があります、つまり、人は、いかなる形の抵抗もやり過ごして、日常の生活を機能しうるのか、続けられるのか、ということです。抵抗は意志です。私は知っています、あなた方はみな意志を働かせるように、コントロールするように育てられています、“あなたはそうしなければならない、そうしてはならない、あなたはそうすべきである、あなたはそうすべきではない”と。意志は事実とは別です。意志は自己の主張です、“私”の主張です、“現にある通り”とは別個です。意志は欲望です、欲望の表現が意志です。我々は表面的に機能します、あるいは、深いところで、意志としての欲望の抵抗のその主張の中で機能します、そして、それは“事実”とは無関係であり、それは“私”の、自己の欲望に依存します。
 意志が何かを知って、私は問うています、この世界の中を意志の働きとは全く無縁に生きることは可能かと。意志は抵抗の形です、分断の形です。“私の意志”は“私の意志ではない”何かに対抗します、“私はそうしなければならない”は“私はそうしてはならない”に対抗します。そのように、意志は、行動上の壁を、あらゆる他の行動に対抗して築き上げます。我々は、行動を何らかの方式、何らかの概念に順応するものとしてか、あるいは、何らかの理想に近づけて、その理想に、そのパターンに関連する行動として知るのみです。それが我々の行動と称するものです、そして、その中に何らかの戦いが生じます。行動する上での理想として我々が思い描いてきた“あるべき”ものへの模倣が生じます、従って、その行動と理想との間で戦いが生じます、なぜなら、その中には、いつも、近似形、模倣、順応が生じるからです。私はそれがエネルギーの浪費であると感じます、そして、私はその理由を示したいと思います。
 私は願います、我々は我々自身の活動を、我々自身の精神を見守っていると、どのように我々が行動する上で意志を働かせるのかを見て取るために我々はそうしていると。繰り返すと、意志は事実とは別です、“現にある通り”とは別個です、それは自己に、それが願うことに依存します―“現にある通り”にではなく、それが願うことに依存します。そして、その願いは、周囲の状況に、その環境に、その文化などに依存しています、それは事実から切り離されています。従って、矛盾が生じます、そして、“現にある通り”に対して抵抗します、そして、それはエネルギーの浪費です。
 行動は、今、行うことです―明日ではありません、行動したことではありません。行動は現在のことです。何らかの観念、何らかの方式、何らかの概念とは無縁の行動がありえるでしょうか―意志としての抵抗が生じていない行動です。もし意志が働くなら、矛盾が、抵抗そして努力が生じます、そして、それはエネルギーの浪費です。そのように、私は明らかにしたいと思います、抵抗する“私”の主張としてのいかなる意志とも無縁の行動があるのかどうかを。
 宜しいでしょうか、我々は現実の文化の奴隷です、我々はその文化です、そして、もし異なる種類の行動が、異なる種類の生があるとするなら、従って、全く異なる種類の文化があるとするなら―カウンターカルチャーではなく、全く異なる何かです―人は意志のこの全問題を理解するのでなければなりません。意志は旧来の文化に従います、その中には野望や様々な衝動、“私”のあらゆる主張や攻撃性が含まれます。もし全く異なる生き方があるとするなら、人はその中心的な問題を理解する必要があります、つまり、何らかの方式、概念、理想、あるいは、信念とは無縁の行動がありうるのか、ということです。知識に基づいた行動は―それは過去のそれです、それは条件づけられたそれです―行動ではありません。条件づけられていて、過去に依存していると、それは否応なく不一致を作り出します、従って、争いを作り出します。そこで、私は明らかにしたいと思います、意志が全く生じない行動がありえるのかどうかを、そして、いかなる選択とも無縁の行動がありえるのかどうかを。
 我々は、先日、言いました、混乱が生じるところには、何らかの選択が生じているに違いないと。物事を非常に明瞭に見て取る人は(神経症的あるいは頑なにではなく)選択をしません。そのように、選択、意志、抵抗は―行動する上での“私”は―エネルギーの浪費です。それら全てとは無関係の行動がありますか、そうして、精神がこの世界の中を生きて、知識の領域の中で機能して、それでも、自由に知識の限界の妨害とは無縁に行動することがありますか? 話し手は言います、その中にいかなる抵抗も生じない、過去のいかなる干渉も生じない、“私”のいかなる反応も生じない活動があると。そのような行動は瞬時に生じます、なぜなら、それは時間の領域の中にはないからです―時間は昨日であり、あらゆる知識や経験を携えて今日行動することであり、そうすることで、未来はすでに過去によって確立されています。瞬時の、従って、完全な行動があります、その中に意志は全く働いていません。そのことを明らかにするためには、精神がいかに観察するのかを、いかに見るのかを学ぶのでなければなりません。もし精神が、あなたのすべき、あるいは、私のすべき方式に従って見るのなら、そうすると、その行動は過去に由来します。
 宜しいでしょうか、私は問うています、いかなる動機とも無縁の、現在の中にあって、矛盾、不安そして争いをもたらさない行動があるのかと。私が言ったように、意志の働きで、信じ、機能し、行動する文化の中で鍛えられてきた精神は、そのような精神は、明らかに、我々が話している意味で行動することはできません、なぜなら、それは条件づけられているからです。そうすると、精神は―あなたの精神は―その条件づけを見て取って、それとは異なる行動をするために、それから自由になりえますか? もし私の精神が、意志を働かせて機能するような教育を叩き込まれているなら、そうすると、それは、恐らく、意志とは無縁に行動することが何であるのかを理解できません。従って、私の関心は、意志とは無縁にいかに行動するのかを明らかにすることではなく、むしろ、私の精神がその条件づけから自由になりうるのかどうかを―それは意志の条件づけです―明らかにすることです。それが私の関心事です、そして、私は見て取ります、私が私自身をよく見てみると、私の行うあらゆることには密かな動機があると、それは何らかの不安や、何らかの恐れや、何らかの快楽などの要求の産物であると。それでは、そのような精神は、異なる行動をするために、それ自身を即座に自由にできるでしょうか? 
 そうすると、精神はどのように見るのかを学ぶのでなければなりません。それが、私にとって、中心をなす問題です。そのような精神は―それは時間の産物です、様々な文化、経験そして知識の産物です―条件づけされていない目で見ることができるでしょうか? つまり、それは、即座に、その条件づけから自由になって、機能できるでしょうか? そうすると、私は、私の条件づけを、それを変えようとか、それを変質させようとか、それを乗り越えようとかとの欲望とは無縁に見ることを学ぶのでなければなりません。私はそれを現にある通りに見ることができるのでなければなりません。もし私がそれを変えたいと思うなら、そうすると、私は意志の働きを再び持ち出すことになります。もし私がそれから逃げたいと思うなら、再び、何らかの抵抗が生じます。もし私が一部分を保持して、他の部分を拒絶するなら、再び、それは選択を意味します。そして、選択は、我々が指摘したように、混乱です。そのように、私は、この精神は、いかなる抵抗とも無縁に、いかなる選択とも無縁に、見ることができるでしょうか? 私はあの山々を、あの樹木を、私の隣人を、私の家族を、政治家たちを、聖職者たちを、いかなるイメージとも無縁に、見ることができるでしょうか? そのイメージは過去の何かです。そのように精神は見ることができるでしょうか? 私が私自身の中を、世界の中を、いかなる抵抗もしないで“現にある通り”見るとき、そうすると、そのような観察から、意志の産物ではない瞬時の行動が生まれます。お分かりでしょうか? 
 私はこの世界の中をいかに生きて行動するのかを明らかにしたいと思います、僧院へ引きこもるのではなく、あるいは、あるグルが主張するニルヴァーナとかに逃げ込むのではなく、そのグルが約束します、“もしあなたがこうすれば、あなたはそれを手にする”と―それら全てはナンセンスです。それを脇へ置いて、私はこの世界の中を、いかなる抵抗とも無縁に、いかなる意志とも無縁に、どのように生きるのかを明らかにしたいと思います。私は愛とは何かをも明らかにしたいと思います。そうすると、私の精神は、快楽の要求に、充足することに、満足することに条件づけられ、従って、抵抗することに条件づけられてきた私の精神は、愛ではない全てを見て取ります。そうすると、愛とは何でしょうか? 宜しいでしょうか、何かを明らかにするためには、人はその何かではないものを否定し、それを余すことなく脇へ置くのでなければなりません。否定することによって肯定的な何かに至ります、肯定的なものを探し求めるのではなく、そうではないものを理解することによって、そこに至ります。つまり、もし、私が、真理が何であるのかを明らかにしたいと思うなら、それが何であるのかを知ることなく、私は偽りであるものを見て取ることができるのでなければなりません。もし私が偽りであるものに気づく能力がないのなら、私は真理が何であるのか見て取ることができません。そのように、私は偽りであるものを明らかにするのでなければなりません。
 偽りとは何でしょうか? 思考が作り上げたあらゆる他のものです―心理的にです、技術的にではなく。つまり、思考は“私”を作り上げました、その記憶と共に、その攻撃性と共に、その分離性と共に、その野心や競争心や模倣や恐れ、そして、その記憶と共に、それら全ては思考によって作り上げられています。そして、思考はこの上なく途方もないものも機械的に作り出しています。そのように、思考は、“私”としてのそれは―それは本質的に何の真実も持ち合わせていません―偽りです。精神が、偽りが何であるのかを理解するとき、そうすると、真理がそこにあります。同様に、精神が本当に愛とは何であるのかを深く探究するとき、“それはこれである”、“それはあれである”と言うことなく、探究するとき、そうすると、それはそうではないものを見て取るに違いなく、それを完全に葬ります、そうでないと、あなたは真実を見つけることはできません。人はそのようにできますか? 例えば、“愛は野心ではない”と。野心的で、何かを成就したいと思っている、権力を手にしたいと思っている精神、それは攻撃的で、競争的で、模倣的です、そのような精神は、恐らく、愛が何であるのかを理解できません―我々はそれを見て取ります、違いますか?
 宜しいでしょうか、精神はその誤りを見て取ることができますか? それは、野心的な精神は恐らく愛すことができないと見て取って、それを即座に死んでやり過ごすことができますか、なぜなら、それは誤りだからです。あなたが偽りを完全に否定するときにのみ、そうすると、他の何かが生まれます。そうすると、我々は非常に明瞭に見て取ることができますか、世界の中で、何かを獲得しようとしている精神は、あるいは、何かを成就しようとしている精神は、あるいは、いわゆる精神的な世界の中で、何かを悟ろうとしている精神は、愛することができないと。明らかにしようと、何かを成就しようと駆り立てるものは野心です。従って、精神はその誤りを見て取って、それを即座に死んでやり過ごすことができますか? そうでないと、あなたは“現にある通り”を見出せません、そして、あなたは決して愛とは何であるのかを見出せません。愛は嫉妬ではありません、違いますか? 愛は何かを所有することではありません、それは何かに依存することではありません。あなたはそのことが分かりますか? そのことを次の日にまで持ち越さないで、それを即座に死んでやり過ごして下さい。それを即座に死んでやり過ごすのは何らかの意志によるのではありません。それはあなたが実際にその誤りを見て取るかどうかによります。あなたが誤りであるそれを死んでやり過ごすとき、誤りではない何か、他の何かが生まれます。

   ...死んでやり過ごす守宮の尻尾とは何でしょうか?...

 宜しいでしょうか、これは少しより難しくなります。愛は快楽でしょうか? 愛は何かを成就することでしょうか? もしあなたが本当に愛する精神を手にしたいと思うなら、あなたはそのことを非常に深く検討する必要があります。我々は問うています、愛は快楽かと、何らかの満足かと、何らかの成就かと。我々は言いました、快楽の要求は思考の継続であると、それは快楽を欲望や意志として追求していて、“現にある通り”から分離していると。我々は愛をセックスと関連づけてきました、そして、その中に快楽が生じるので、我々はそれを途方もないものにしてきました。セックスは生の中でこの上なく重要なものになっています。我々はその中に何らかの深い意味を見つけようとしてきました、深い真実、大いなる一体感、単一感、そして、他の超越的な何かです。なぜセックスは我々の生の中でそれほどの意義をもつのでしょうか? 恐らく、我々は他の何ものも手にしていないのです、多分、他のあらゆる領域の中で、我々は機械的なのです。我々の中にオリジナルなものは何もないのです、クリエイティブなものは何もないのです―絵画を描いたり、歌や詩をものにしたりするという意味の“クリエイティブ”ではありません、それは本当にクリエイティブな感覚の非常に表面的な部分です。我々は大なり小なり二番煎じの集まりなので、セックスや快楽が途方もなく重要になっています。それが我々のそれを愛と称する理由です、そして、その仮面の背後で、我々はあらゆる種類の災いをなします。
 そうすると、我々は愛とは何であるのかを明らかにすることができるでしょうか? このことは人がいつも問うてきた問題です。このことを明らかにできないでいて、人は言います、“神を愛せよ”、“観念を愛せよ”、“国家を愛せよ”、“隣人を愛せよ”と。あなたは隣人を愛すべきではないということではありませんが、それは単なる社会現象であって、それはいつも新しい愛ではありません。そのように、愛は思考の産物―それは快楽です―ではありません。我々が言ったように、思考は古い何かであり、自由ではありません、それは過去の反応です、そのように、愛は思考とはいかなる関係も実際にありません。我々の知るように、我々の生のほとんどは何らかの戦いです、それはその緊張感、その不安、その罪悪感、その絶望、その計り知れない孤独感や悲しみであり、それが我々の生です。それが、実際の“現にある通り”であり、そして、我々はそれに進んで向き合おうとしていません。我々が、それにいかなる選択や抵抗とも無縁に向き合うとき、何が起こるのでしょうか? あなたはそれに向き合えますか―恐れや嫉妬やあれやこれを乗り越えようとしないで、それを変えようと思うことなく、それを支配しようと、それをコントロールしようと思うことなく、ただそれを余すことなく観察して、それに余すことなく気を付けて、それを実際に見ることができますか? あなたが我々の労苦的な日常生活を、我々の日常のブルジョア的あるいは非ブルジョア的な生を見て取るとき、何が起こるのでしょうか? あなたは、そうすると、途轍もないエネルギーを手にしていませんか? エネルギーは、抵抗するときに、克服しようとするときに、乗り越えようとするときに、それを理解しようとするときに、それを変えようとするときに、消散してしまいます。そうすると、あなたがこの生を現にある通りに見て取るとき、そうすると、“現にある通り”に何らかの変質が生じていませんか? そのような変質は、あなたが、意志の働きが全く存在しない中で、そのようなエネルギーを手にするときにのみ、起こります。
 宜しいでしょうか、我々は説明が好きです、我々は理論が好きです、我々は思索的哲学に没頭します、そして、我々は、とても明らかな時間とエネルギーの浪費であるそれら全てに足元を掬われます。我々は現にある通りのことに向き合わなければなりません、つまり、その悲惨であり、その貧困であり、その汚染であり、人々と国家の悲惨な分断であり、我々人間が引き起こしてきた戦争です―それらは奇跡的に生じてきていません、我々一人ひとりにそれら全ての責任があります―我々は現にある通りのことに向き合うのでなければなりません。そしてまた、我々は、死という、生の中のこの上なく重要なことの一つにも向き合うのでなければなりません。それは人がいつも避けていることの一つです。現代文明は古代文明と同様にそれを乗り越えようと、それを何とかして制圧しようと、不死が存在すると、死後の生をイメージしようとしてきました―それと向き合うことを除いて、あらゆることをしてきました。私の精神は、それが絶対に知らない何かに向き合えますか? あなた方のほとんどは、不幸にも、もし私にそう言わせていただくなら、それらのことについて、とても多くの読書経験があります。あなたは、恐らく、インドの哲学者たちや教師たちの書物を読んできました、あるいは、あなたは他の哲学者たちの書物を読んできて、あなたのキリスト教的な取り組みをしてきました。あなたには、他の人たちの知識や主張や意見が詰まっています。あなたはきっとそうであるに違いありません、あなたは意識的にそれを認めないかもしれませんが、それはあなたの血の中に入っています、なぜなら、あなたはそのような文明や文化の中で育てられてきたからです。そして、ここにあなたの絶対に知らない何かがあります。あなたの唯一知っていることは、あなたが消滅することを恐れていることです。そして、それは死とは何かということです。
 恐れはあなたがそれを見ることを妨げています、恐れがあなたの不安や悲しみや罪悪感なしに生きることを妨げてきたように―あなたはそれら全ての残虐な成り行きを知っています。恐れはあなたが生きることを妨げてきました、そして、恐れはあなたが死の何であるのかを見るのを妨げてきました。恐れは慰安を要求します、そこで、輪廻転生という観念が生じます、あの世などでの再生です。我々はそれを検討しません、なぜなら、我々の関心は、あなたの精神が、消滅することの現実に向き合えるのかどうかだからです。それが起ころうとしていることです、あなたが健康であろうと、あるいは、あなたに何らかの障害があろうと、あるいは、あなたが裕福であろうと、あらゆることが起こりえます―老年、病あるいは事故などです。精神はその途轍もなく不可知の問いに向き合えますか? あなたはそれに、それを初めて見るかの如く、向き合えますか―誰もあなたにどうするのか言いません、慰安を見つけることはその事実からの逃亡であるとあなたは知っています。そのように、あなたは、それを初めて見るかの如く、不可避の何かに向き合えますか? 
 絶対に知らない何かに向き合うことができる精神の状態とは何でしょうか―生体的な死は例外です。生体組織は、心臓疾患、何らかの緊張、病などで死んで行きます。しかし、心理的な問いはこうです、精神は何かに向き合うことができるのか、ということです、それについて絶対に何も知らないと分かっていて、それに向き合うことが、それと共に生きることが、そして、それを完全に理解することができるのか、ということです。それは、それが、いかなる恐怖感も抱かずに、それと向き合うことができるのか、を意味します。あなたが恐怖を感じるや否や、あなたは何らかの選択をします、意志が働きます、何らかの抵抗をします、そして、それはエネルギーの浪費です。“私”としてのエネルギーの消滅が、死と向き合う能力です。

......首無しの赤い鳥居の丹田とは何でしょうか?......

 私が絶対的に知らない何かと向き合うには大いなるエネルギーを要します、違いますか? 私がそうできるのは、意志、抵抗、選択、エネルギーの浪費が存在しないときのみです。不可知の何かに向き合うためには、この上なく高度のエネルギーの形が存在するのでなければなりません、そして、そのような余すことのないエネルギーが存在するとき、死の恐れが生じるでしょうか? あるいは、継続する恐れが生じるでしょうか? 私が抵抗、意志そして選択の生を生きているときにのみ、存在しなくなる恐怖、あるいは、生きていない恐怖が生じるだけです。精神が不可知と向き合っているとき、そして、それら全てが潰えているとき、途轍もないエネルギーが生まれます。そして、そのような至高のエネルギーが生まれるとき、それは叡智ですが、死が生じるでしょうか? 明らかにして下さい。

   ......“不生でいなはれ”(盤珪永琢)......

質問者 宜しいでしょうか、今朝、あなたは様々な宗教の言説に疑問を呈していました、そこで私は問いたいのです、つまり、私はあなたの言うことを知的レベルで理解できるのです、それはなるほどと思われます、それは理に適っているように思われます、それでも、私には熱気が欠けています。
クリシュナムルティ 質問者は言います、あなたの言うことは、知的に、言語的に、なるほどと思わせます、しかし、どういうわけか、それは浸透しません、それは非常に深く染み込みません、それは事の源に触れません、私が分け入れるようになりません。それは駆り立てる活力をもたらしません、それと共に生きる感覚をもたらしません。私はそれがほとんどの人に当てはまると思うのですと。
クリシュナムルティ (遮って)どうか、答えないで下さい。検討しましょう。紳士は言います、あなたの言うことは論理的です、知的に私はそれを受け入れます、しかし、私はそれが私の心に浸透して、私自身の中に何らかの変化、何らかの革命をもたらして、私が全く異なる種類の生を生きるようには感じませんと。そして、私は言います、それは我々のほとんどに当てはまると。我々は幾分か共に歩んで、少し距離を取り、そして、離脱します。我々は十分間その興味を保持して、残りの時間、他のことを考えます。あなたはこのトーク後に立ち去って、あなたの日常生活を継続します。それでは、なぜそれが起こるのでしょうか? 知的に、言葉で、論理的にあなたは理解します、しかし、見たところ、それはあなたに深く触れません、そのように、あなたは古いものを焼き尽くしません、火事のごとく。なぜそれが起こらないのでしょうか? それは興味の欠如でしょうか? それは怠け心、怠惰でしょうか? それを検討して下さい、宜しいでしょうか、私に答えないで下さい。もしそれが興味の欠如なら、なぜあなたは興味を持たないのでしょうか? 家が燃えているとき―あなたの家です―あなたの子供たちが育って殺されようとしているとき、なぜあなたは興味を持たないのでしょうか? あなたは盲目ですか、鈍感ですか、無関心ですか、冷淡ですか? それとも、内面深く、あなたはそのようなエネルギーを手にしていなくて、従って、怠惰なのでしょうか? それを検討して下さい、同意も不同意もしないで下さい。あなたがそのように鈍感なのは、あなたがあなた自身の問題を抱えているからでしょうか? あなたは何かを成就したいと思います、あなたは劣っています、あなたは優れています、あなたは不安です、あなたは大いなる恐怖を覚えています―それら全てが存在します、そして、あなたの問題があなたを息苦しくします、従って、あなたは何についても興味を抱きません、もしあなたがあなた自身の問題を最初に解決するのでなければ。
 しかし、あなたの問題は他の人の問題でもあります、あなたの問題はあなたが生きている文化の産物です。そうすると、それは何でしょうか? 全くの無関心、鈍感、冷淡さでしょうか? それとも、それは、あなたのあらゆる文化や教育が、知的で、言葉によるものだからでしょうか? あなたの哲学者たちは言語的です、あなたの理論は途轍もなく狡猾な頭脳の産物です、そして、あなたはその中で育てられてきました。あなたのあらゆる教育はそれに基づいています。それは、思考がそれほど途方もない重要性を与えられてきたからでしょうか―賢くて、狡猾で、何らかの能力を備えた、技術的な精神です、計ることをすべとする、建設的で、戦って組織化する精神です。あなたはその中で教育されてきました、そして、あなたはそのレベルで反応します。あなたは言います、“はい、私はあなたに、知的に、言語的に、同意します、私はその論理、その成り行きが分かります”と。しかし、あなたはそれを超えて行くことができません、なぜなら、あなたの精神は計ることをすべとする思考の働きに囚われているからです。思考は深みや高さを計れません、それができるのはそれ自身のレベル上の何かだけです。
 そのように、このことは本当に誰にとっても重要な問いかけです、なぜなら、我々のほとんどはそれら全てに、言葉で、知的に、同意するからです、しかし、どういうわけか、その火が点火しません。
質問者 私は、変化が起こらないのは、重要なことが知的レベルにはなくて、別の領域にあるからだと思います。
クリシュナムルティ そのことを我々は言ったのです、宜しいでしょうか。変化が起こらないと、その紳士は言います、なぜなら、心理的に、経済的に、社会的に、教育の中で、我々は条件づけられているからであると。我々は我々が生きている文化の産物です。そして、彼は言います、それが我々の中で変えられない限り、我々はいかなる深い興味も抱かないと。それでは、何があなたに興味を抱かせることになるのでしょうか? 私は問うています、なぜ、あなたはそれら全てに論理的に耳を傾けていながら―私は、健全な精神でそうしていることを願います―そのことが火を点火して、それで何かを焼き尽くすことにならないのかと。どうか、あなた自身に問うて下さい、明かにして下さい、なぜ、あなたは、論理的に、言語的に、表面的に、同意しても、それでも、それはあなたに深く触れないのかを。もしあなたのお金やあなたのセックスが取り払われると、それはあなたに触ります。もしあなたが重要と思う何かが取り払われると、そうすると、あなたは格闘します。もし、あなたの神、あなたのナショナリズム、あなたのさもしいブルジョア生活が取り払われると、あなたは犬や猫のように戦います。それが全て意味するのは、知的に、我々は何かができるということを指し示しています。技術的に、月へ行きます、我々は思考のレベルで生きています、しかし、思考は、恐らく、人を変える炎を点火できません。人を変えるのは、それら全てに向き合うことです、それを見守ることです、そして、いつも、そのような表面的なレベルで生きないことです。
質問者 あなたは、今朝、言いました、あなたが死を絶対的な不可知な何かとして見ることができるとき、それは、あなたが生を現にある通りに見ることができることでもあると、そして、あなたは行動を起こすことができると。
クリシュナムルティ はい、そうです。“あなたができると言うとき”、その“できる”という言葉は難しい言葉です。能力は何らかの働きを意味します、あるいは、何かの能力を手にすることです。あなたは何らかの能力を培うことができます。私はゴルフやテニスを行う能力を培うことができます、あるいは、何らかの機械を組み立てる能力を培うことができます。宜しいでしょうか、我々は“能力”という言葉を時間的な意味で使っていません―お分かりでしょうか? 能力は時間を含みます、違いますか? つまり、私は、今、できないけれども、一年与えられれば、私はイタリア語、フランス語あるいは英語を話すことができるでしょう。もしあなたが能力を時間として理解したのなら、それは私の意味することではありません。私の言う意味は、不可知をいかなる恐れも抱かずに観察することです、それと共に生きることです。それには何らかの能力を要しません。私は言いました、あなたはそうすると、もしあなたが偽りの何かを知って、それを拒絶するならと。
質問者 それは耳を傾けることを知らないという問題ではないのでしょうか? あなたは言ってきました、耳を傾けることは行うのにこの上なくハードなものの一つであると。
クリシュナムルティ はい、それは行うのにこの上なくハードなものの一つです、耳を傾けることです。あなたの言う意味はこういうことでしょうか、社会活動に献身的で、その人の全ての生をそれに注いでいる人は、このことのいずれかに果たして耳を傾けようとするのでしょうかと。あるいは、こう言う人は、“私は独身の誓いを立てています”―その人はこれら全てに耳を傾けるでしょうか? いいえ、耳を傾けません。耳を傾けることは霊妙な働きです。
質問者 あなたは言っていました、困難なのは、知的レベル上にあると、そして、我々は我々の感情や情動が他の人々との我々の関係性の中に這い入ることを許さないと。しかし、私は、それは全く反対であるとの印象を抱きます。私は思います、世界中のトラブルは、コントロールできない情動や熱情によって引き起こされると、恐らく、理解の欠如から生じていると、しかし、それらは熱情です。我々は暴力的な生を生きています。
クリシュナムルティ 暴力的、勿論です、それは分かります。宜しいでしょうか、あなたは克服すべき情動的な生を生きていますか? 情動的で、興奮する、快楽や情緒に熱中する―あなたはそのような世界の中を生きていますか? そして、あなたがそのような世界の中を生きているとき、そして、それが秩序の乱れになるとき、そうすると、知性が這い入ってきて、あなたはそれをコントロールし始めます、そして、言います、“私はそうあってはならない”と、しかし、その知性がいつも支配します。
質問者 あるいは、それが正当化します。
クリシュナムルティ それは正当化します、あるいは、非難します。私は大いに情動的であるかもしれません、しかし、知性が這い入ってきて言います、いいですか、気を付けて下さい、あなた自身をコントロールするようにしなさいと。知性がいつも支配します―それは思考です―違いますか? 私の他の人との関係性の中で、私は怒り、苛立ち、情動的になります。そうすると、何が起こりますか? それはトラブルになり、人間たちの間で喧嘩が生じます。そうすると、私はそれをコントロールしようとします―それは思考です、なぜなら、それはそれ自身のために何らかのパターンを確立してきたからです、それがすべきこと、あるいは、それはすべきではないこと、それは言います、“私はコントロールしなければならない”と。そこで、我々は言います、“コントロールすることがなければならない”と、そうでないと、人間関係が壊れると。それら全ては思考のプロセス、知的な働きではありませんか? 知性は我々の生の中で途轍もない役割を果たします、それが我々の指摘している全てです。我々は情動が正しいとか間違っているとか、真実であるとか偽りであるとかを言っているのではありません、しかし、思考は、その計るすべで、いつも、判断しています、価値評価しています、コントロールしています、乗り越えようとしています、従って、思考があなたの何かに向き合うことを妨げます。―1971年 7月29日 ザーネン叡智の目覚め