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旅行記その6:九州鉄人旅行(2004.7.23〜27)No.3

2日目(2004.7.25)横浜〜熊本

高校生の頃、テレビで「季節限定!東京から熊本まで一番安く行く方法!?」と題して、青春18きっぷを使って1日中電車に乗り続ければ2千円強で熊本まで辿り着く、といった番組をやっていた。

まだ一人で遠くに旅行する習慣がなかった当時は、この番組を見ていたく感心したものである。感心までは行かなくとも「なるほどね」と思った読者の方々は多いかもしれない。

しかし。それを「机上の遊び」にとどめるか、「実際に実行」するかの間には、大きな壁が存在する。1日かけてこれを実践した人の話はあまり聞かないし、無理してこれを実行したところで誰も誉めてはくれず、せいぜい好き者変わり者扱いされるだけであろう。

さしずめ、紀行作家宮脇俊三の表現を借りれば『「知」と「痴」の違いが出てくる』といったところであろうか。

(旅の行程を示した地図)

東海道の部東海道の部(横浜〜大垣)

 

7月25日日曜日。

場所は深夜0時過ぎの横浜駅6番ホーム。

今日1日が終わる頃、自分はその「好き者変わり者」になるハズである。今晩の宿をとっている熊本に着くのは21時間後の見込み、その間ほぼ1日のほとんどを、鈍行列車の車内で過ごす計画を立ててきた。

日曜日のこの時間、このホームで列車を待つ乗客は多い。服装や荷支度から判断するに、その過半数が自分同様に夜行列車を待つ人々であろう。東海道線の夜行快速「ムーンライトながら」はなかなかの人気列車であり、自分もキャンセル待ちでようやく切符を手に入れたことを思い出した。みんなどこへ行くのだろうか。

結局切符が取れなかった定期の「ムーンライトながら」を見送った後、すぐ入ってくる臨時の「ムーンライトながら91号」にそそくさと乗り込んだ。横浜駅での停車は短す、すぐ出発。

夜行といってもブルートレインみたいな寝台車ではなく、昼間走る特急列車(もっと正確にいうと、かつて特急として使用していた車両の中古)をそのまま使っているだけであるが、とりあえずこれでも設備は十分である。

コラム「ムーンライトながら」以前の時代

この「ムーンライトながら」は、今でこそリクライニングの効く特急用車両を使った、全座席指定の快速列車として運行されている。

しかし6〜7年ほど前までは、まだ「ムーンライトながら」といった小洒落た名前ではなく「大垣夜行」と呼ばれていた。座席は背もたれが直立した昔ながらの代物であり、その中で一晩過ごさなければならず、一晩この車内で過ごした後は体が痛くなることが多かった。また、当時は「座席指定」ではなく「先着順」であったため、始発である東京駅あるいは品川駅で、発車する2〜3時間前から乗車口に整列して順番待ちをしなければならなかった。

いま思い返してみれば、それはそれで風情のある列車であった。

自分も、今を去ること11年前、初めてこれに乗って九州に行った。次の日用にこしらえていた手製の枝豆おにぎり(冷凍枝豆を混ぜて炊いた)を、待ちきれずに全部食べちゃった、始発駅での順番待ちの記憶が甦ってくる。

さて。

荷物を網棚に上げ、荷物の整理をして、検札を済ませて、寝酒をあおった後は、座席を倒して寝るだけである。しかし、列車は小田原駅に到着したが、5分、10分、20分・・・全然発車しようとしない。今日はこの後熊本に辿り着くまで、時間に余裕のない乗り換えを繰り返さなければならず、ちょっとした遅れがものすごく気になる。とても寝るどころでは無くなってきた。

構内放送が流れる。昨晩より東京都内の路線で列車が遅れており、この列車に間に合わなかった乗客を救い上げた東海道線最終列車の到着を、今日は特別に待ってからの発車、発車時刻は定刻より35分遅れとなる見込みとのこと。

なぜよりによって今日なのか。駅のホームの時計は1時40分をとうに廻っていた。

列車は結局35分遅れで小田原を発車。この「遅れ」を、世界一時間に正確な(注1)日本の鉄道はどこまで挽回してくれるか。列車はいつもより心持ち速い速度で夜の東海道を飛ばしてゆく。熱海、三島、沼津・・・ジリジリと音を立てて、遅れをわずかずつ挽回してゆく。しかし、次に列車が止まったのは原・・・原?停まらないはずの駅である。いつまで経っても発車せず、もう所定の時刻から1時間は遅れている。ガラスのように脆い自分のスケジュールなどひとたまりもない。真っ暗な貨物列車が轟音を立ててホームの向かい側を通過していった。

しかし気がついた時には静岡では40分遅れ、浜松では15分遅れで出発していった。次に気がついた時には数分の遅れで名古屋到着。これなら当初立てた計画通りに旅行を続けられる。晴々した気持ちで倒していた座席を元に戻し、降りる準備を始めた。

程なく、終点の大垣に到着。反対側に停まっている乗り換えの列車に乗り継ぐが、これがたったの4両編成。「ムーンライトながら」の600人近い乗客を受け入れるには、立席までフルに使っても足りない(注2)。結局自分もこの列車では座れず、30分ほど前が見える立席で立ちながら我慢し、米原駅まで出た。

 

京阪神の部京阪神の部(米原〜(京都・大阪・神戸)〜姫路〜岡山)

大阪周辺を走る新快速電車は、東京地区のそれとは異なり、キチンと前を向いて座れる車両であり、鉄道ファンの間のみならず非常に評判がよく人気も高い。

利用者の側でも、空いている座席の上に荷物を置くようなことはせず座席はお互い譲り合う習慣があるようで、少なくとも自分が今日乗った車両では、座席を詰め合って座る風景がよく見られた(もっとも、車掌の車内放送の効果とか、関西人の気質みたいなものとかに拠るかもしれない)。

ああそれなのに。恐らく関東から同じ「ムーンライトながら」に乗ってきたに違いない乗客が、この座席を巡って、「突き飛ばして割り込んだ」だの「いや謝った」だの「そんな謝りは謝りに入らない」だのといったいざこざを起こしていた。確かに米原到着後、大垣からの列車を降りた乗客が我先に押し合いへし合いで快速電車に乗り移っていったが・・・情けないことこの上ない。

で、その時自分は・・・というと。同乗してきた鉄道ファンを含めて誰もマークしていなかった、一番前の車両の運転台すぐ後ろの補助席を引き出してそこに収まった。この座席は補助席なりの造りで他の席よりも掛け心地は格段に落ちるが、そんな座り心地はどうでも良く、米原から京都・大阪・神戸を通過して姫路に至るまでの2時間以上、この席から運転台ごしに飛び込んでくる風景を楽しんだ。

列車は神戸駅に到着。見たところはただの中間駅であるが、ここが東京から続いてきた東海道本線の終着駅であり、また九州まで続く山陽本線の始発駅である。沿線の風景も神戸を出てすぐの急カーブを曲がったあたりから東海道本線のそれから変わったきがする。左手に瀬戸内海を見ながら、右手にせまる山の稜線ぎりぎりを狙って走ってゆく。明石海峡大橋の大吊橋も、すぐ頭上を過ぎていった。

久しく縁遠かった田んぼが広がって車窓が鄙びてくる頃、終点の姫路に到着。

乗り換えの岡山行き電車は乗客がぎっしりで座れず、終点岡山までの1時間半立ち通しであった。ここまで新快速のペースに慣れきってしまっていたため、ゆっくり走り各駅に停まる、本来の普通列車のペースに「じれったさ」みたいなものを感じる。上郡を過ぎ、船坂峠の大昧な峠越えのピークに差しかかると、兵庫県から岡山県にはいる。その最初の駅である三石を過ぎた後、岡山駅までの44分が非常に長く感じられた。

気分的には岡山県に入った時点で「岡山についたも同然」といったつもりになったが、実際にはそこから終点の岡山市まではかなりの距離がある。そのイメージと実態とのギャップやら、ずっと立ち通しで過ごしてきた疲れやら、単調な沿線風景やらを我慢しているのが非常にツラくなってきた。

この辛さは「カキ氷」のそれに例えられるかもしれない。どんなに暑いときに食べるカキ氷も、食べ始まってしばらくすると頭が痛くなってくる等して食べるのが嫌になってくる。大抵の場合は途中で投げ出すこともなく最後まで食べてしまうものであるが・・・今回の鈍行の旅はその辺どうなるのだろうか。

 

(地図)山陽路の部(岡山〜福山〜(広島・宮島)〜下関)

走る〜走る〜俺ーたーち、流れーる汗もそのまーまーに(お客サーン、駅構内走っちゃダメでしょ!そもそも何故平成も10年代後半に入った今「爆風スランプ」!?)。

つまんない小ネタはさておき。

電車は岡山に到着したが、長旅の感慨も風情も感じるヒマなく、たった2分の乗換時間で岡山県内を往復する快速電車「サンライナー」(注5)の、空いてる席に滑り込んだ。乗り換え時間がそれだけしかないため慌ただしいことこの上ない。

やっと座れた。車内はガラガラ、座席は新快速に負けず劣らずのクロスシート(事実、このサンライナーは、かつて大阪近郊で「新快速」として使用された車両の中古を用いている)。まだ午前中ではあったが、持参してきたポケットサイズのラム酒の瓶をこっそりと切った。いい気分である。

この快速は広島にはいってすぐの福山止まり。途中の井笠駅で福山よりも先まで行く普通列車に接続するが、ある用件を思いついて、そのまま終点まで出る。その用件とは、福山での乗換待時間を使って昼食を調達すること。今の駅弁は昔と違って、売り子氏がホームに出てきて「弁当ー、弁当ー」と売りに来ないし、乗換駅での待ち時間を使って駅弁を買おうとしても、今回の行程ではどこの駅でも接続時間は絶妙を極め、つまり弁当など買っている余裕などなかったのである。

そんな経緯で福山で買った駅弁「たこめし」は、すぐには食べず、途中駅で乗り換えた下関行きに根を生やしてから頂いた。

さて、この鈍行列車であるが、途中の広島周辺で快速になるこれを「普通列車」と呼んでいいかといった議論はあるものの、現代では大変貴重となった「長距離を走り抜く鈍行列車」である。始発の糸崎を出てから5時間経たないと終点の下関まで辿り着かない(注4)。その間275キロ。

本当に根を生やして過ごしていたため、蒸気機関車の頃は大変苦労したであろうセノハチ越え(瀬野−八本松間の上り勾配が、昔は大変な難所であった)にも、この区間を走る貨物列車に取り憑くモミジ色をした専用の補助機関車にも気付くことなく、広島に着いてしまった。

広島までは、広島の市街地に出る家族連れで混んでいたが、広島駅で客層ががらりと替わる。イカ臭いおつまみを手にした、ワンカップ片手のオヤジ軍団が乗り込んできた。まだ昼過ぎなのに、相席している女性に対する気遣いなど全くなく、席につくなりワンカップの栓をめいめい切り出した。客室内の雰囲気が音を立てて悪くなる。そんなオヤジ共は、競艇場のある宮島口で下車していった。

岩国に到着相席させられた女性その他大勢もここで降りていった。車内は閑散、座席は陽のあたる海側、夏の陽射しの刺激がきつい。旅行中のストレスフリーな状態にいることもあり、飲まずにいられない気分になってきた。1時間以上前の福山駅で買ったものの他の乗客の手前なかなか栓を切れずに温めておいたビールの栓を切ってゴクリ。ぬるくなっているのに目をつぶれば十分おいしい。

特急とか新幹線とかではなく近郊列車の車内での飲酒は極めて行儀悪いことではあるが、ちゃんと他の乗客に気を配って(いなくなるまで飲まなかった)振る舞っていたのでまぁギリギリ許されるであろう。あと、こちらは一人で縮こまってヤっているので、大声を張り上げる等他の乗客への迷惑を考えながらの一献であり(それが集団になるとどうしても制止が効かなくなる)、そんなに崩れずに飲んでいたつもりである。

このあたりの山陽本線は、海岸線にそってクネクネ曲がって走る。海の色は絵で描いたような「青一色」ではなく緑色から藍色まで様々であり、さらにところどころに小さな浜辺があり、2〜3家族が海水浴を楽しんでいる。海水浴といえばイモ洗いのように混み入った海辺でウンヌン、といったものしか見てこなかったので、「もし家族ができたらこういうところへ海水浴に行きたいな」と思えてきた。

11年前の1993年、はじめて九州に行った時のことである。途中で本線から逸れて宇部線・小野田線を廻りついでに当時は茶色でリベットゴツゴツの旧型電車で運行されていた本山支線まで足を伸ばした。そうやって遠回りした結果、車窓左右から山が無くなりだんだん「地の果て」の雰囲気を醸し出しながら辿り着いた下関は、非常に感慨深いものであった。

ビールがまわったせいか、ボックスシートを独り占めして居眠りなどをして車中で過ごしていた。宇部も小野田も気付かずに過ごしていたが、車窓遠くにそびえていた山の稜線がだんだん低くなるのを見て醒めた。まもなく5時間近く乗り続けたこの電車の終点であり、本州最西端の都市である下関に到着する。姿勢を正して下関到着を待った。

午後の4時半過ぎ、とうとう下関駅に到着した。横浜からここまで16時間半、文字通り1日中を鈍行電車の中で過ごした(注5)。自分の人生を振り返っても、こんなに1日中ずっと電車に乗り通しだったことはない。まさに「鉄人レース」ならぬ「鉄人旅行」である。しかし、その割にはあまり疲れは溜まっていない。混んだ電車に乗り通しだった岡山到着時はちょっと挫けそうになったが、電車が空いていて快適だったせいもあり、まだまだ行けそうである。

そして行かなければならない。今日の目的地である熊本まで、予定通り行ってもあと4時間以上かかる。

 

(地図)九州路の部(下関〜門司〜(小倉・博多)〜大牟田〜熊本)

いよいよ九州である。ここから先は関門海峡下の海底トンネルを含めJR九州の守備範囲であり、架線を走る電気も直流から交流に変わるため、JR九州が保有する専用車両(注9)に乗り換える。

どこかで見た記憶のある車内に収まり、下関を出た直後の短い橋を渡りトンネルに入るまではかつての旅行の記憶がなくワクワクして過ごせたが、トンネルは端と違うただのトンネルでしかなく、九州最初の駅であり山陽本線の終着駅である門司駅には、力なくフラフラと到着する始末であった(注7)

 

なんだか興醒めな九州入りであった。門司では例によってせかされながら快速電車に乗り換えたが、この快速電車を一目見て目が醒めた。来ました来ました、「九州入りした」実感がひしひしと感じられる。

鉄道車両のデザインでは世界一(!)突拍子ない九州旅客鉄道。その快速電車は、燃えるような原色赤の外観、赤・青を派手に使った「前衛芸術もカブトを脱ぐ」強気の内装。座席に腰掛けてつぶさに観察すると、座席の表地は本来の黄色いヒョウ柄も超えるインパクトの「赤のヒョウ柄」である。座席に腰を下ろして窓の外を見ると、鉄道雑誌でだけは見たことのある「あり得ない」派手なデザインの特急電車が普通に行き交っている。

「こ・・・これは・・・」。眩暈がしてきた。

快速電車はモーターの音も高らかに博多を目指す。陽も傾きかけたし、そろそろ2本目のビールに手をつけてもいい時間帯である。

話は突拍子もなく脱線する。旅先で速報版を書いていた時には、鉄道ファンとしてあるまじきことに「快速電車はあっという間に福岡到着」と書いてしまっていた。それだけ作者の「福岡」に対するイメージはモヤがかかったままである。福岡は確かに福岡県福岡市であるが、鉄道には「福岡」なる駅名はなく「博多(JR)」か「天神(西鉄)」と書くべきであった。では、その博多と天神のどちらが格上か?前に福岡に行った時は、泊まった旅館の食事がとにかく貧相(肉の入っていない牛丼)だったのと中洲でボッタクラレル寸前まで飲んだことの記憶ぐらいしかなく確認できなかった。今回も福岡では降りることはなかったので、コトの真偽は不明なままである。

福岡でたくさんの客が乗ってきて車内は満員になった。ちょうど福岡の市街地で遊んだ後、帰るのにちょうどよい時間帯である。手持ちのメモ帳を広げ、何を書こうかなと考えていると、午後7時頃に突然雷がタテに落ちて雷雨となった。今日も一日天気に恵まれたツケを払わされる格好である。雨は非常に強く、このままちゃんと熊本まで着くかなと思って入ると、果たして電車が遅れ始めた。もう先に影響の出る乗り換えはないので、いくら遅れても「実害」はないのだが、そろそろ宿に入って休みたい気持ちも出始めている。

この時、旅行最大の楽しみであるはずの食事もあんまり食べたくはなくなっており、どちらかというと九州ならではの美味しい焼酎でもあおって、その勢いでベッドに横になりたい気分であった。

大牟田で接続の電車が遅れているようなので、今晩の食料を買いに(ホテルは素泊まり)駅構内のコンビニに入る。黒麹菌を使った本格焼酎がワンカップで売られていたのはビックリした。さすが九州。九州ならではのモノを買って得意気になり、熊本方面の電車を待った(旅行のときは「さすが九州」と思ったが、水戸でもこれと似たようなものを売っていたのは、ここだけの秘密である)。

熊本ゆきはたった2両。ロングシートの車内も閑散としている。外は雨は止んだものの暗くて何も分からない。車内では行儀良く熊本までの時間を過ごした。そして。

横浜からここまで1200km、21時間鈍行列車の車内で耐え続けて(実のところ「耐えた」という実感はあまりない)熊本到着。列車は、右に左に揺られながら徐行しつつ熊本駅に入るところであった。

(注1)世界一時間に正確
人身事故やら信号機故障やらで最近揺らいでいる「日本の鉄道の時間の正確さ」。しかし、かつて日本と時間の正確さを争ったドイツの鉄道が、外国の鉄道雑誌でも取り上げられるくらい「常に時間に不正確」になっていることを鑑みれば、やはり日本の鉄道は「世界一時間に正確」と断言できるだろうと思われる。
(注2)「ムーンライトながら」の600人近い乗客を受け入れるには、立席までフルに使っても足りない
大垣までの「ムーンライトながら」が、1両あたり平均の定員が約60人×10両編成=1列車定員が約600人。大垣−米原間の普通列車は1両あたり平均の定員が(立席含め)約120人×4両編成=約500人。
(注3)岡山県内を往復する快速電車「サンライナー」
列車は定刻、ドアを閉めたものの発車しない。一番前の車両に乗ったので運転席を覗くと、本来運転士が取り扱うことなどあり得ないドア操作スイッチをいじっている・・・。なるほど時刻表を見て不審に思った、岡山限定快速電車のカラクリが分かった。路線バスのように運転士だけを列車に乗せて、いままで運転士と車掌で分担していた業務を全て運転士にやらせることで、快速電車を低コストで往復させられるわけである。最近の鉄道ではローカル線でもバスみたいに運転席後ろに料金箱を設けることが多い(下妻物語で出てくる「常総線」で散々コケにされてたっけ。この料金箱)が、この快速電車が停まる駅は料金関係は全て比較的大きい駅でやってくれるため、現在は電車に料金箱を積むまでには至っていない。将来のことは知らない。
(注4)始発の糸崎を出てから5時間経たないと終点の下関まで辿り着かない
これで腰を抜かしていたのではJRの神様(そんなのいるのか?)に申し訳が立たない。このあたりには岡山−下関間362km(関東地方換算で、東京−仙台に匹敵)を6時間半かけて走り抜く「鈍行列車」が毎日5往復以上、平気なカオして走っているのである(その中の1本は岡山を通り越して姫路県境の三石まで。404kmを7時間かけて走る)。
(注5)文字通り1日中を鈍行電車の中で過ごした
横浜から下関まで16時間半、そのうち待ち合わせ等で電車から降りていた時間は合計してもわずか30分強しかない。
(注6)JR九州が保有する専用車両
上の文字だけ見れば、相当インパクトあるモノを思い浮かべるかもしれない。しかし事実は、外観から内装まで普段乗っている常磐線のそれにそっくりであった。事実このあたりでは、常磐線と共通で「415系」と呼ばれる車両が使用されている。作者が乗ったステンレス製車両は、座席のモケットぐらいしか常磐線のソレとの差はなかった。中には、本当に常磐線で使用された後、国鉄末期に遠路九州に転属となりそのままJR九州に移管された車両もいる。
(注7)力なくフラフラと到着する始末であった。
門司駅到着直前で「直流−交流」の切り替え地点があり、電車はその構造上惰性で走った。常磐線・水戸線のそれと異なるのは、既に駅が近づいており更には注意の黄色信号が出ていたため、惰性で走る速度が低いことくらいである。
 

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更新日 2004.9.23
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