世はまさに読書の秋。来週から読書週間。ただでさえ「読書の季節」なのに、自分の場合は往復2時間にもおよぶ通勤時間が期間限定でプラスされているので、どうしても本に目を通す時間が長くなる。
いわゆる『本』は「読めば読むほど賢くなる」と思っている人が一部にいる、という話を聞いたことがある。もしそれが本当なら、この3週間で自分はかなり賢くなったはずなのだが・・・実際にはその逆である。逆に賢くなくなっている。
まぁ・・・『本』といっても上は広辞苑から下はベッドに下に隠すべき本までいろいろある。難しい本を電車の中で、それも精神的・肉体的に負担の大きい通勤途上で読むのは、自分にとって非常にしんどい。どうしても、通勤途中で読める本は、「比較的『重み』の少ない本」である。ここでは、そんな本について、考察してみよう。
純粋に「良い本」については、非常に話が大きくなるのでまた別の機会に考えてみたい。
一応、この文章は「通勤コラム」だし。
まず、先に書いた条件を満たす「良い本、良い活字」とは何か。ずばり、
「活字の向こうで何が起きているか、想像をかき立てられる本」である、と自分は思う。
よく言われることだが、活字が漫画やテレビに対して優れている点は、「見ていて読んでいて想像力が鍛えられる」ことである。やはり「本」というのは、載っている情報が文字しかないことから、どうしても直接伝わることは限られてくる。その隙間を想像力で補ってゆく、それが本の醍醐味だと思う。
このような楽しみ方は、家で難しい本を読んでいたとしても(あまり読んだことはないけど)、電車の中で比較的軽い読み物を読んでいたとしても、大きくは変わらないと思う。
次に、「どんな本を読むか」。本といっても、大きく分けて「作り話」であるフィクションと、「体験談」的なノンフィクションとがある。個人的な好みとしては、あたかも自分が本に書いてあることを追体験している気にさせられる「ノンフィクション」の方が興味深い。ただ本の中の世界を想像するだけでなく、想像した本の世界を自分も追体験できるのが楽しい。「作り話」だと、読んでいてもただの傍観者、といった感じで終わってしまうことが多い。
退屈な一般論はここまで。
昨日書いたような、「読んで本の中身を追体験したくなる、読んでいると追体験してしまう」ノンフィクションには、具体的に何があるのか。いくつか紹介してみたい。
「旅行記ものの先駆的出版(奥野健男)」とも言われる、日本の文学にとって重要な1冊。自分にとっても、一番のノンフィクションである。
とにかく、読んでいて自分が本当に調査船に乗り込んで旅をしているような気にさせられる。これだけ読んで楽しめるのは、航海の様子の描写が活き活きとしているためである。特に面白いのは、「活字だ」なんてかしこまったところは一つもなく、馬鹿馬鹿しいエピソードやどうでもいいな知識が本のあちこちにちりばめられている点である。この「無駄な描写」が、かえってこの本に「現場の臨場感」みたいなものを与えているので、ますます読んでいて面白い。
もう、こんな手ずれた評論じみた紹介文でしか紹介できないのが悔しい。いいから買うべし。
かなり昔の作品であるにも関わらず、現在も文庫判で各社から出されているが、買うなら「角川文庫」のがおすすめ。「航海記」誕生のエピソードも楽しめる。
残念ながら今年(2003年)亡くなられたが、日本きっての旅行記作家であり、また作家に文章を書かせる編集者(先の「どくとるマンボウ航海記」を書かせたのも宮脇である)である。決して自分が鉄道ファンでありまた旅行好きだから、という理由だけで薦めているわけではない。
その中で、氏のデビュー作であるこの本は、「国鉄全線完乗」という「阿呆らしき(著書寄り引用)ことに対し、不釣り合いなほど真面目な姿勢で取り組み、その記録を本にしたものである。ローカル線の最後の1駅間たかが数キロを乗りに行くために、東京からわざわざ土日を潰して乗りに行くような、「報われることのない不釣り合いな真面目さ」に因る「ユーモア」と、美しい日本の風景をあくまでも過不足なく描き切る「文章」によって、行ったことに対して不釣り合いなほど良い本になっている。
特に注目していただきたのは、国鉄全線完乗を果たした後の「俄に老け込」んだ状況で書いた「あとがき」。取材のため旅行記と同じ行程を旅して「はたしけ、険しい山渓にあったはずの猪谷駅は、朝靄のないときはさほど幽遠ではなかった。私は、おやおやと思ったが、・・・」という一文。ここから宮脇は「四季おりおりで日本列島」の素晴らしさと「一度乗ったらそれで終わり」の誤りに目覚め、以降日本きっての旅行作家として終生筆をとり続けることになった。そのきっかけが、ここに埋まっている。
旅行記ものが続いたので、ちょっと異なる「体験記」を。
この本は、テレビに関する批評のコラムで埋め尽くされている。テレビの面白いところ・面白くないところが濃縮エキスのように詰まっており、読んでいるとテレビ本体よりむしろ面白いことすらある。その面白さは、あまりテレビを見ない自分が、活字を追うだけでテレビの内容を、あたかも実際にテレビで見たかのように楽しめるくらいである。
そのうえ、誰もが思っているに違いないけど誰も口にしない「ケッ、つまんねーの」とか「この番組おかしいよ」いうテレビ批判(というよりも「切り捨て」)まで、確固とした論拠つきでついてくる。そのどれもが、読んで痛快、読んだ後に爽快な気持ちになる佳作である。
残念ながら、氏は昨年(2002年)に亡くなったが、その跡を継ぐコラム、氏の「呪縛」から解放されたテレビは、どれもカスであるような気がする。
この本は、フリーライターである作者の、「取材と称して覚せい剤等の薬物に手を出し、結果、身を滅ぼしてゆく」過程が、麻薬中毒そのもののサイケデリックな文章で書かれたものである。
麻薬に対する作者のスタンスその他点は置いておいて、「本の中身を追体験」ということだけで考えててみると、これはやはりすごい1冊である。文章そのものがジャンキーというか薬物中毒である。最初何気ない好奇心からチーマー(死語)への聴き取り取材で引きずりこまれる導入部、麻薬が体全体にまわってハイになっている状況とその後の重ッ苦しい後遺症状、活字を読んでいるだけで「麻薬をやるとこうなる」というのが身を持って分かった気になる、とんでもない1冊である。
ちなみに石丸は、このあと覚せい剤所持の現行犯で警察に逮捕され、裁判で執行猶予判決を出される身になる。その状況は続編ともいうべき「アフター・スピード」に書かれているが、これもおすすめ。
ちなみに会社に行く途中でこの本を読むと、業務に支障が出そうなので、今は自重しています。
最後に、趣向を変えて「重い」1冊。
数々のノンフィクションの著作がある作者の家族が自殺を試み脳死状態に陥ったことをきっかけに、「魂の救済」ともいうべき思索と実践、臓器移植問題への考察、さらには「死」のあり方の提案までを含んだ、「壮絶な著作」である
この本のものすごいのは、身内の自殺未遂から始まって、脳死、臓器移植の提案と実行、臓器移植と脳死に対する問題提起、さらには人間が生きてゆく上で最も根源的な「死」に対する思索と提案まで話をおしすすめてゆく一連の流れである。学者が好きな机上の空論など一瞬にして吹っ飛んでしまうような、「実体験に裏打ちされた説得力」「科学万能に対する筋道の通った批判」を本当に見せつけられる。これを読んで人間の死生について何も考えない人は、よほど幸せというか鈍い人ではないか、とすら思った。
また、この本のもう一つのポイントは、脳死状態に陥った家族に対し、その「志」を実現するべく遺された家族が「真面目に(言葉遣いとして語弊があるかもしれぬが、ここでいう『真面目』は、拠り所がはっきりしない妄信とか奇跡とかにすがるような行動を『不真面目』とした時、それとは正反対の『筋道を立てて家族自らの力で事態の解決を試みる』行動を指す)考え、話し合い、そして死後の臓器移植といった行動を実践する一連の流れである。ここまでするのが家族なのか、読んでいて言葉を失った。自分は、ここまで、出来るのだろうか。
非常におすすめしたい本だが、とても自分はこれを通勤の電車の中では読めない。読み出したら最後、感情のコントロールが効かなくなってしまう。
しつこく、本の話を続ける。今回は「漫画」。
よく「漫画ばかり読んで」「テレビばかり見て」と親が子供を怒る、といった話を聞く。
確かに、漫画やテレビは読んだり見たりして活字ほどは頭を使わない。行間を自分の思考で埋めることで想像力を鍛える、という作用も期待できない。。
しかし逆に言えば、文字だけでは微妙な感情とか雰囲気とかニュアンスとかで各人が勝手に解釈する余地が残ってしまうことも見過ごせない。こういう時こそ、例えば「文字と絵」のようにバラバラにに作用する複数の表現を組み合わせる、漫画とかテレビとかの強みが出てくる。伝えたい事柄についてブレることなく「読む人の間で共通認識を持たせる」ことが可能になる。
のっけからむずかしい話になってしまった。反省。
特に今回のテーマである「漫画」に絞ると、その特色は「文字(ストーリー建てやセリフ、はたまた「オチ」)と絵(絵柄や描き方、絵のクオリティ)の組み合わせ」で表現の内容が決まる(文字だけでも絵だけでもダメ)メディアといえるのではないだろうか。
ここで再び上のグラフを見ていただきたいのだが、「文字とそれ以外の情報との組み合わせによる表現」の、「グラフの軸」に注目していただきたい。曲がっているし目盛は不均等だし文字の軸との交わりも怪しい。実際にこの軸が斜めに交わっているのか軸自体がひん曲がっているのかは分からないが、少なくとも、この「グラフの軸」は算数の授業で出てくるグラフのような単純なものではないはずである。
つまり、各々一定の数字を持っている「文字」と「絵」とを掛け合わせると「互いに打ち消し合って結局何も伝わらない」事態も起きる、と言えるだろう。その逆に、「文字」と「絵」の組み合わせによっては、各々がそこそこでも、掛け合わせると想像を絶する迫力ある作品になる、とも言える。
これである。自分は、漫画ならではの面白さは、この「文字」と「絵」との相乗効果にあると思う。それがうまく出た、想像を絶する迫力ある作品を読んで「カタルシス」を感じたい、と思う。
一般論はここまで。自分の表現力が乏しいため、こんな難しい表現を使わないと「漫画」の面白さを表現できない。
で、自分の体験に話を戻すと、最近そんな「カタルシス」を感じさせてくれる漫画を読んでいない気がする。時々、駅で漫画雑誌を買って車内で読むのだが、どうもスッキリしない。読んでみると、絵が秀逸、話が秀逸という漫画は結構あるのだが、それらを掛け合わせても大きな数字になってこないのである。
一番ガッカリしたのが「週刊モーニング」で連載が始まった「サイコドクター楷恭介」である。以前は「サイコドクター」という名前で連載されていたが、今回の連載再開にあたり、作画担当が代わった。その結果「あれあれ?」と思うくらい面白みのない作品になってしまった。
以前の「サイコドクター(原作・亜樹直、作画・的場健、講談社)」は、主人公であるカウンセラー楷恭介が様々な事件に巻き込まれる中で当事者の「心の闇」を照らし出して事件を解決する、といったストーリーである。このストーリーを象徴するかのような「墨塗りを多用した、黒白のコントラストが目立つ」絵であり、話の世界を過不足なく描き上げていた。この両者は雑誌や単行本の上で互いに影響し合い、「カタルシス」ともいうべき迫力が出ていた。しかし、ストーリーはほとんど同じなのに、作画・画風が変わった「サイコドクター楷恭介」は、はや普通の漫画でしかない。
自分にとって「カタルシス」な漫画はもう一つある。前にも自分のホームページでも取り上げた「ナイーヴ(二宮ひかる・白泉社)」がそれである。男と女が行き違いを繰り返しながら魅かれ合う、それだけの作品なのに、鉛筆でデッサンしたような独特の画風が微妙な男女の心理を描くストーリーにピッタリとハマった、非常に感慨深い作品になっている。さらにこの画風が、青年誌連載作品につきものの性描写の、その下品さをうまく打ち消しており、他では見られないタッチの作品になっている。「読んでいて迫力を感じる」といった性質の漫画ではないが、今読んでもしみじみと「カタルシス」を感じられる佳作である(ちなみに、この作者の現在の連載は、ストーリーが画風に全然追いついていないように思う)。
今連載されている作品では「プラネテス(幸村誠・講談社、「週刊モーニング」連載)」が面白いと思うが、ストーリーや話の見せ方は素晴らしいものの、文字と絵の相乗効果による「カタルシス」には至っていない。
先日、漫画の面白さをここで書いた際に触れた「文字だけの表現」と「他の情報との組み合わによる表現」の違い。
テレビでも同じことが言えると思う。しかも、テレビの場合「文字(ストーリー)」と「絵(画面・映像)」だけでなく「音(音・演出のための効果音)」も加わる(そのうえ、「絵」だって動く。アナウンサーが喋っている間の表情だけで、同じニュースでもいろいろな意味合いを持たせることが出来る)から、伝えたい事柄についてよりブレることなく、より強く「視聴者の間で共通認識を持たせる」ことが可能になる。
しかし、この「視聴者の間で共通認識を持たせる」働きが効き過ぎていて、おかしくなっている番組が多い気がする。特に民放のニュース番組とかドキュメンタリーとかワイドショーとか。唐辛子をビンごと入れちゃって真っ赤になって食べられなくなったうどんみたいだ。何故うどんか。
だけど、他の人を観察してみると、みんな辛いものが好きなのか感覚がマヒしているのか、はたまたおいしくないけどもったいないと思っているのか、結構平然とツルツル食っているように見える。
この文章を書こうと思うきっかけになったのが、今週の月曜日に放送された、「ビートたけしのTVタックル」。あの番組、アオリ方とか効果音の使い方、テーマの取捨選択とストーリー立てで畳みかける力があまりにも強く、耐えられない。その「演出」の強烈さは、ニュースとかでたまに見る北朝鮮のテレビ番組と大差がないくらいである。ある特定の悪者を決めて、立ち止まらせることなく畳みかける。見るものは抗うことは許されない。
自分は、テレビの演出家やらプロデューサーやらにそこまで「任せた」覚えはない。
しかも、奴等(テレビ番組の制作側ね)は、放送したものに対して「責任を取る気」がないのである。この前の「ニュースステーションダイオキシン報道」の裁判の判決とその解説記事を新聞で読んでいて、その「責任を取る気のなさ(後になって『現場からダイオキシンつきの白菜が1個だけ見つかった』として自分たちの報道を訂正しない姿勢)」を改めて知った。「結果オーライやるときゃやる。理屈は後からついてくる」ってな感じ。自分がどんなオッカナイものを振り回しているのか気づいていないのである。
ある意味、政治家とか官僚とかよりもタチが悪い。
自分の場合、特にニュースとかドキュメンタリーとかは、新聞とかNHK(テレビではあるが、民放に比べ「演出」感は圧倒的に少ない)で立ち止まりながら情報を仕入れないとダメである。テレビの『勢い』に乗せられて、整形された情報を鳥のエサのように流し込まれるるのは、非常に恐い、と思う。
このようなテレビ批判に対しては、「放送するのは勝手、あとは見るほうが自己責任で解釈すべきである。(演出過多な番組を「番組」として受け止められない、みたいに)それが出来ないのはダメ人間」という批判、「どんなにくだらないもの、ベタベタなものも、自分で見てみて、受け入れる努力をするべきである」という批判があると思う。
確かに、自分はテレビに関しては社会不適合なくらい受け入れられる容量が少ないとは思うが、逆に言うとみんなユルすぎ、刺激に対してあまりに鈍感すぎだと思うが、如何であろうか。
水曜日。夜、帰宅して一人で「トリビアの泉」を見ていた。
番組の最後の方で「桃太郎は桃から生まれたのではなく、桃を食べて若返ったおじいさん・おばあさんの間に生まれた」という事実が紹介された。その経緯が紙芝居風に紹介されて、その最後に『桃を食べて若返ったおじいさん・おばあさんが抱き合っている影絵』が出てきた。しかもアクロバティック。
うわぁ。親と一緒に見なくて良かった。
おそらく、これを見ていたお母さん方の中には、自分と同じような感想あるいはもっとエスカレートして「こんなイヤらしい映像を流すんじゃありません」と思っただろうと思う。リアクションが極端だが。
性に関する情報はその取扱いにデリケートであるべきであるし、それを見て不快感を感じる人もいるでとを考えると、「アウト」なものも無防備にテレビで垂れ流し的に放映されるべきではないと思う。この「紙芝居」も、そのへんの所を頭に入れた、ギリギリの演出での結果あろうと思う。
どこでセーフとアウトの境界線が引けるか、というような具体的な話は、話を複雑にするだけなので、ここでは触れない。
以上がこの話の導入部。問題はもっと根っこにある。
今回の文章で言いたいのは、「テレビにおけるグロテスクの規制は適正か?」ということである。現状は相当ひどい。グロ同様こういうことのヤリ玉に挙がる「エロ」は結構規制されているのに。
「桃太郎」の話が放送された同じ週の月曜日、普段親が見ているサスペンスドラマが放送された。時間は午後9時。ちょうど「水戸黄門」が放送されていた後、惰性で同じチャンネルが掛かっていた。
もう凄かった。これから放映される「××サスペンス」の見所を編集して詰め込んだ予告だったのだが、のっけから放火のシーン、飛び降りのシーン、頭の半分以上が血に染まった刺殺体の映像。この短いの映像、「視聴者の感情を煽る」なんて生やさしいものではない。次にCM。某石鹸メーカーを筆頭に様々な企業がスポンサーとして並んでいる。1分ほどたって本編が始まった。開始2分でノックダウン。見ていて気分が悪くなった。
「この程度で気分が悪くなるのか」といった指摘は確かにあると思う。これはあくまでもドラマの中での演出に過ぎず、それと現実とをリンクさせて考える方がどうかしている、といった旨のことを親に言われた。
しかし、これはあまりに醜くないか?あまりにグロテスクではないか?調査を行ったわけではないので、どのくらいの人がこの映像を見て不快感を感じたかは分からないが、少なくない数の人に良くない影響が現れたと思われる。その威力(お茶の間に与えた影響)は、先程の「桃太郎」が「蚊に刺された程度」だとすると、「まるで市街地に毒ガスを垂れ流したくらい」である。何でこんな映像が無規制で垂れ流しになっているのか。
少なくとも、自分は「グロ」に関する規制の設定が他に比べて甘く設定されており、良くないと思った。少なくともそういう邪推をされても仕方がないほどの映像である。。
一般的な話に戻る。
問題は、(エロ・暴力・差別思想など人によっては不快感を感じる表現と同じように)グロテスクな表現を見たくない・子供に見せたくない」という考え方を持つ人に対して、どのようにして意図的か否かに関わらず流されるグロテスクな表現のTVから守るか?、ということである。
そして、その答えは、「ゲーム」にあると思う。
よくゲームとか(「バイオハザード」とかいったグロテスクな奴)では「この作品にはグロテスクな表現等が含まれております」等と言った警告文がオープニングで流されたり、パッケージ等に表示されている。そういう配慮がテレビでも必要ではないだろうか。ましてやテレビは「見よう」という意思がなくとも(ゲームの場合は、「買ってこなければ」そのグロテスクに触れることはない)という意思が惰性でお茶の間に流され得るという点で、ゲームよりもグロテスクなものに対する扱いは慎重であるべきである。
「グロテスクさのランクを誰がどのような基準で評価するか」「番組放映前の警告文だけで足りるのか、新聞のテレビ欄にも警告表示を載せる必要があるか」等の問題はあるが、それは克服するべき問題である。
人によって趣味嗜好はいろいろであり、また放送する側にも「表現の自由」という権利はある。だから自分は、「テレビからグロい表現を締め出せ」とまでは主張する気はない。ただ、その表現で傷つく人がいること、彼らに対する配慮は必要だと思うし、それは現時点では十分なされていないと思う。
「この文を書いている渡辺、お前の見かけが何者にも代えがたいグロテスクそのものじゃないか」。
痛い。オチをつけるな。
今日は一旦別のことを書いて更新したけど、予定変更。
ウヒー。アーヒャヒャハyaヒャ、ドンドンドン(畳を叩く音)、ゼェゼェゼェ(息切れ)。
・・・・・・コホン。読み苦しいものを書いてしまい失礼しました。だってあまりに面白いんだもん。
相も変わらず今週も「ご長寿早押しクイズ(さんまのスーパーカラクリTV・TBS系列)」は面白かった。見ていて笑いのためなら全てをかなぐり捨てられるほど面白い。たいてい、最初に書いた表現があながち嘘と言えないほど笑い転げている。
この番組のおかげで、本来ならすごーく憂鬱になる「日曜の夜」が鬱にならずに過ごせるのだから、自分にとっては拝みたくなるくらい有難い存在である。おっと拝んじゃいけないそいつはシャレにならない。
今更説明するのもナンであるが、この番組(の中のコーナー)は、「80歳〜90歳台のお年寄り3人を早押しクイズで競わせ、正解者の多い人が勝ち。その途中で出てくる珍回答を楽しむ」ものである。ただ、その「珍回答」があまりにトボけたものが多い&トボケ加減が見た目の進み加減にリンクしており(「○○だもの」という問題(正解は「にんげんだもの」)に対して「煮物は煮るだけだもの」「死にかけだもの」「だって分かんないんだもの」とか)とても危なっかしいので、見ていて可笑しいのである。
このコーナーに対しては「ヤラセではないのか」「年寄りを馬鹿にして、けしからん」といった批判を聞いた。
しかし、この番組はヤラセであろうが素で年寄りを競わせているのか、そんなのはどちらでもいい。だって「素」の年寄りの姿・事実を伝えるやっているコーナーじゃないし、あくまでもバラエティなのだから見る方だってそんなの期待していない。
この番組がヤラセなのか素なのかと聞かれたら、かなり「ヤラセ」に近い演出はされていると思う。年寄りは比較的正答率の高そうな昔の事柄の問題でも他と変わらずトボけるし、「なるほどこの年齢層ならこういう考え方をしてこういう誤答をするだろう」と思わせる誤答が少ない。さらに、誤答が笑いを取れるよう奇麗にパターン化されすぎている(今週は「モモレンジャー」という問に対して「乳レンジャー」「桃尻レンジャー」「桃尻教師」といった答えが返ってきた)気がする。
しかし、ヤラセであってもいいじゃないか。素でやらせても、こんなことにはなり得ない(もっとまとまりのない番組になるし、極端な話、放送できない酷い状態にだってなってしまう)。
90歳にもなってヤラセに乗れる。番組の意図通りにキチンと動き、番組の意図通りに笑いを取れる。それこそ驚異的であり、ハッピーな番組ではないか。まじめに「祝ご長寿」である。