14・自己嫌悪と飛躍と、下心。
健四郎は、女の子に声を掛けることが苦手だ。
女の子と話すことそのものは、別に苦手でもなんでもない。むしろ健四郎は、同世代の相手ならば、どちらかといえば男子よりも女子と話しているほうが気が休まる。
ただしそれも、男と女であることを意識しなければの話だ。
健四郎の男女観は、高校二年生という年齢を考えると、奥手と言わざるを得ない。
物心ついてからこの歳に至るまで、健四郎は、彼女というものを作ろうと思ったことがない。そういうのは、自分とは遠い話だと思えた。
……本当は、異性として意識した相手が、一人だけ、居ないわけではなかった。しかし健四郎は、その相手に対し可能な限り、そういうことを意識しないように努めた。そうしたのは、色々な葛藤があったからとしか言いようがないが、今の関係を見る限り、そうしたことは正解だったと思える。最初、彼女と再会したときには、正直なところ、どう接していいかわからなかったのだが、そういう変な思いを押し殺したことで、とりあえず、なんとかうまくやって来られたという気がする。
それはともかく、異性であるということさえ意識しなければ、健四郎は女の子と話すこと自体を苦にすることはあまりない。なにしろ、もっと小さな頃、肉体的な男女の性差がない時期の健四郎は、もっぱら女の子とよく遊んでいたほどなのだ。
……であるにも関わらず、「話し掛ける」ことは苦手だ。こと、女の子に対しては。
それはもちろん、単に消極的なだけという部分もあるのだが、これに関しては、もう少し具体的な原因を見出すことができる。
武田健四郎。本年をもって十七歳を数える。
十七歳。一般的には、もっとも性欲をもてあます時期とされる。
健四郎とて、そんあ青臭い欲求を抱くことに関しては、決して例外ではありえなかった。
しかし健四郎は、そんな誰もが抱く類の思いを、どうにも素直に受け入れられなかった。嫌悪感があるといってさえ過言ではない。そのくせ、それはどうしても意識せざるを得ない。そういう年齢だからだ。
自分から女の子に声をかける――その行為にどこか、そういった下心がついてまとうようになったと感じたのは、中学生になった頃からだろうか。
理性と思考のレベルでは、別にとりたてて必要としていないことなのに、本能だけが、それを激しく求める。そんな内面を上手に律していけるほど、健四郎は大人ではないということなのだろう。そもそも、たかだか話し掛けるという程度のことで、そんな風に感じてしまう時点で、いかにも子供めいている。
とはいえ。
話し掛けるというのは、能動的な行動だ。そこには、多かれ少なかれ意識的な部分がある。単に挨拶を交わす程度であれば、ほとんど自動的、受動的な行為と言っても差し支えないが、いざ相手に声をかけ、何か話をしようとするとなると、そこには明確に、その相手との会話を「求める」という意思が生じていることになる。
その、「求める」という部分が、どうにも引っかかるのだ。別に、とりたてて用事があるわけでもないのに、わざわざこちらから話し掛けて、会話をしようという思いは、どこから生じるのか。単にコミュニケーションを欲しているだけなのか。
その理由としては、もってこいのものがある――それはすなわち、下心の類。
なにも日ごろ、そこまで意識しているわけではない。健四郎とて、生徒会では言うまでもないし、クラスの女の子にだって、話し掛けることはいくらでもある。ただ、そういうときにいつも、気後れのようなものを、内心では感じてしまうというだけのことだ。
どうして自分はこうなのか、という思いは、健四郎の中にはいつもある。
結局のところ健四郎は、他人に何かを「求める」ことが苦手なのだろう。謙虚で責任感の強いところも、どこか内気とさえ言える性格も、異性に対する意識の遅れも、辿ってみれば、すべてそこに行き着く。
(……よく考えたら)
健四郎は思う。
(俺の回りって、遠慮のカケラも持ち合わせていない連中がやたら多いような)
ふと思い、自分と特に親しい人々の顔を思い出してみる。
「ク、ハ、ハ――! なんと、この俺の如き配慮の行き届いた人間を指し、遠慮なしとは、とんだ(略)」
「ぶぁっはっはっ、やーねえ、それは誤解よ健クン? 私ほど人に気をつかう人間なんて、そうは(略)」
……この二人は極例としても、健四郎の回りの人間の多くは、およそ気兼ねのない、気さくな人々ばかりという気がする。健四郎もどちらかというと、そういう人間との方が、うまく付き合える。そういう人たちは、自分の遠慮がちな部分を飛び越えてきてくれるからだ。結果として、どうしても損な役割を担ったり、面倒をみる立場になることが多くなるが、そういうのは別に嫌ではなかった。
不思議なことに、そういう人々は、男女問わず、自然と健四郎の回りに集まってくる。健四郎という人間を見て、これは組みし易しと、本能的に見抜くのかも知れない。そのたびに健四郎はしかめ面をすることになるのだが、そういう連中に対し、本気で嫌だと感じたことはあまりない。
つまるところ健四郎は、人間関係に恵まれているのだ。改めて自分の身を振り返ってみると、とりたてて作ろうと励んだわけではないにも関わらず、友人が多い。それは昔からだった。
しかし、そんな恵まれた環境が、健四郎の奥手ぶりをそのままにさせてしまったという気もする。今まで、ろくに自分から求めることなく、人間関係を手に入れてしまっていたのだ。今は、それでもさほど困らないだろうが、いつか、いざというときに、こんな自分の弱さで、困ることになるのではないか。そんな思いが、いつも健四郎にはつきまとっていた。
そして今。健四郎は今まさに、そんな自分の弱さで、困り果てているところなのだ。
健四郎は今、通学の途中だった。
時刻は八時十八分。すでに校門はくぐり抜けており、これから玄関へ向かうところだ。
校庭の中、健四郎と同じく玄関へ向かう生徒も、それなりの人数となり、賑わいを見せていた。
それは全く、いつもどおりの光景だった。それなのに、なぜこうも心穏やかでいられないのか。
その理由が、健四郎のおよそ数メートル先を歩いていた。
他の生徒たちに隠れてしまいそうな、小さな背中。
どこか、小動物的な印象を受ける、短めの髪をした女の子。
知っている子だ。下校途中、二回ほど話をしてもいる。
「……わ、私――嬉しかったですっ!」
……その際のやりとりが、頭に焼き付いて離れない。
名前も覚えている。荻野恵。新一年生の子。たぶん、この名前を忘れる事はないと思う。
あの時のこと。本当にびっくりした。
ほんの少し、気を回しただけのはずだった。不器用だけど、一生懸命になっている新一年生の姿を見て、なんだか少し嬉しくなり、手伝えることなら手伝ってあげようと思った。健四郎のしたことは、ただそれだけだったはずだ。
それに対し、予想もしていなかったようなほどに激しい反応が返ってきた。
正直、戸惑いを覚えた。
……戸惑いはしたが、彼女があの時、息も絶えんばかりに言ってくれた言葉は、嬉しいものだった。
嬉しくないわけがなかった。
しかし。なぜ自分などに対し、あんなにも……という思いは消しがたいかった。改めて考えると、やはり変だという気がした。他の、回りの人たちからは、よくからかわれるし、そのついでのような感じで誉められることもあることにはあるが、あそこまで素直な思いをぶつけられた経験は、健四郎にはなかった。
健四郎は、自分という存在に自信がない。健四郎の自己評価からすると、あの子は自分に対し、どうにも思い込みが強すぎるのでは、という居心地の悪さが、後からじわじわと湧き上がってきた。無自覚のうちに、あの子を騙してしまっているという思いさえあった。
できればそういうことを、きちんと伝えたかった。自分なんて、別にたいした者ではないのだということを、なるべく自然な形で教えられる機会があればと思った。
――その荻野さんが、今、自分の少し先を歩いている。その機会が、目の前にあるということでもあった。
話し掛ければいい。
顔見知りの下級生に、おはようと声をかける。何も不自然なことはない。
しかし健四郎は、それができずにいた。
……校門の前から、ずっと。
数分前。登校する生徒たちの中に、健四郎はたまたま、荻野さんの小さな姿を発見した。
声を掛けよう。そう思った。
少し遠かったが、追いかけていくほどの距離ではなかった。
そして何より、先日の件があった。単に顔見知りというだけならばともかく、彼女を見なかったことにしてやり過ごすというのは、さすがにありえないことだと健四郎は思った。
……思うことは、思ったのだが。
自分が、女の子になかなか声を掛けられない人間だということを、改めて思い知った。
結局、そのまま荻野さんの後ろを、付かず離れずの距離で保ちつづけた。
(……俺はいったい何をしているのだろう)
顔見知りの後輩の女の子をプチストーキング。そう言おうと思えば言える状態でさえある。
どうして自分はこうなのか。今日に始まったことではないが、切実に思う。
声を掛けられないわけではない。事実、先日は掃除中の荻野さんに声を掛け――それで、あんなことにもなった。
多少の躊躇いを振り切り、彼女に駆け寄り、軽く挨拶する。別に、なんでもないことだ。例によって再び、やたらと恐縮されてしまうかも知れない。人目が多いので、注目を集めるかも知れない。それも別にいい。
いいと思っているにも関わらず、健四郎は行動を起こさない。
回りを歩く、早足の生徒たちにぶつかりそうになって、あわあわと体制を立て直す荻野さんの後ろ姿を、普段より遅い足取りで歩を進めつつ、ただなんとなく眺めているだけだった。
そうしているうち、荻野さんは玄関にたどり着き、一年生のゲタ箱の方へとてて……と向かっていった。
健四郎は、しばし玄関口にて立ち尽くして、やがて自分のゲタ箱へと向かった。
なるべくゆっくりと靴を履き替えつつ、回りに聞こえないように、小さく嘆息する。
なんとも言えない気持ちを押し殺しつつ、健四郎は登校してきたクラスメイトに、さわやかに挨拶を交わした。
その日の授業中。自習のプリントを前にしつつ、健四郎は色々なことを考えていた。
それは主に、自己嫌悪……といえば自己嫌悪なのだが、それについては、今日に始まったことではない。この人見知りと臆病さは、健四郎にとっては持病のようなものだ。克服したいとは常々思っているが、きっと一生自分はこうなんだろうな、という諦観さえどこかで抱き始めている。
臆病は臆病で、別にいいという気もした。できれば克服すべきことではあるが、どうしても直さなければならないというものではない。
実際のところ、たとえ顔さえ知らない女の子だろうと、普段なら話し掛けることくらいはできる。
では、今回のことはどうか。
荻野さんと話すことは、必要だと思う。ただ、その思いに、色々と不純なものが混じっているような気がして、どうにも居心地が悪いのだ。
健四郎は、あの子――荻野さんに、ある種の下心を抱き始めていることを自覚していた。
下心といっても、言葉どおりの意味ではない。
……いや、そういう意味での下心が全くないかというと、その手のことにはてんで疎い健四郎には、はっきりとは断言できない部分もあるのだが、少なくとも、そういう意味ではあまり意識していないと思う。今現在においては。
そういう色っぽい話ではなく、もっと現実的な話だ。
生徒会の二年生である健四郎は今、生徒会の新しい役員候補として、一年生を新しく引き入れなければならない立場にある。
そして、健四郎は未だ、適した人材を見つけ出していない。それどころか、どうやってあたりをつければ良いか、途方に暮れているというのが実情だ。
そんな折に、ふと目の前に現れた、なぜか自分を慕ってくれている一年生。
健四郎は今、おお、ちょうど良いところに、手ごろな一年生が……という思いを、少なからず抱いている。
しかしそんな考えは、あまりにも適当すぎだ。
ただでさえ、ロクに勤め上げられているかわからない生徒会の仕事。中でも、後輩の選出という、極めて重要なことを、そんなご都合的に片付けることは許されないと思った。自分の身をもって知っていることだが、昭葉学園の生徒会とは、それほど軽いものではなかった。
荻野さんには勤まらない、と思っているわけではない。それはまだ、よくわからないことだ。ただ、今まで話してみた限りでは、まじめで責任感があり、悪くはないという気もする。
だから彼女のことを、もっと良く知らなければならない――そういう理由付けが出来てしまうこと自体が、健四郎には、どこか不純という気がしてならないのだ。
新一年生は、他にも何百人といる。その中から、探すということをせず、ただ自分に近かったというだけで選ぶというのは、誠実ではない。
それに、荻野さんに対しても誠実さを欠く。そうすることは、彼女の思いを、健四郎の都合に利用してしまうということと同じだ。まして彼女は、健四郎について過分に思い込んでいるところがあるように思える。その思いは嬉しくとも、素直にそのまま受け入れてよいものではない。まして、利用するなどとは。
しかし。健四郎の思いはどうあれ、一年生を生徒会に引き入れなければならないという、どうしようもない現実はあるのだ。健四郎個人の是非を超えたところで、その現実は非情に押し迫ってくる。
そういうことを細やかに考えていると――結局、自分の精神が脆弱なだけだ、という結論に達する。
些細なことであれこれ悩みすぎるというのは、健四郎が自覚している欠点のひとつだ。いや、健四郎にとっては些細なことではないのだが、それがどうしても、臆病さ、奥手さにつながってしまう。
結局、自分はどうしたいのか。どうするべきなのか。
その答えはきっと、実際に行動するまでわからないことなのだ。だから、思ったことをなかなか行動に移せない健四郎は、あれこれと考え、悩み続けるのだろう。それがまた行動を遅らせ、そして、今朝のようなことにもつながる。悪循環が生じていた。
憂鬱な気分を味わいつつ、健四郎はひたすら授業内容をノートに取り続けた。
「――人間は、何の為に生きるのか」
昼休み。真人は、いつもの調子でなにやら語り始めた。
「一言で言えば、人間が生きるということはすなわち、自身の欲望を満たすということだ。人の欲。人の意思。それは尽きることも果てることもない。慈悲や友愛という感情でさえ、自身の欲望という言葉で解釈を行うことができる。それはつまり――」
「とりあえず、話の結論だけ先に言ってくれるか」
「今日は外に飯を食いに行こうと思うのだが」
最初の話からどう繋がってそういう結論に達したのか、健四郎は少しだけ気になった。
「ク、ク――! このせっかちさんめ。まあいい、話そう。今日は『イタリアン・アルプス一万尺』のランチがやたらと食いたくなってな。食わずにはいられん。故に食いに行く」
「単に、一万尺に食いに行くとだけ言えないのかお前は」
一応の突っ込みは欠かさない。すでに慣れているとはいえ。
「しかし……俺はいつも思うんだが、どうしてイタリア料理の店の名前が、アルプス一万尺なんだろう」
ちなみにアルプス一万尺はアメリカ民謡だ。アルプス山脈こそ、一応イタリアに被ってはいるのだが、しかしどうにも違和感がありすぎる。
「わからんが、店主は確かイタリア人ではなく、ロシア人だったはずだ。格闘家あがりの」
「謎すぎる……」
とはいえその一万尺、健四郎も入って食べたことがあるが、味は確かに良かった。それなりに繁盛もしているらしい。
「まあともかく、お前も来い。絶品の猟師風スパゲティが我々を待ち受けているぞ」
「あのな、俺、毎日弁当なんだが」
毎日いっしょに昼食しているくせに、そういうことをまるで気にしない男だった。
「気にするな」
「気にするわ! だいたいお前、いくら学校から近いからって、校則違反もいいところだぞ」
「何を言うかこの腰抜け軟弱(ファッキンチキン)野郎め」
「チキン言うな。だいたい俺、これでも一応生徒会なんだぞ」
いくらこの男相手とはいえ、誘われた以上は付き合ってやりたいところだが、さすがに生徒会役員がそんなことをしては、示しがつかない。
「行くなら一人で行って来い。見なかったことにするから」
「……止めんのか?」
「どうせお前、俺が何か言ったところで聞かないだろうが」
この一年を振り返っても、健四郎はこの男が自分の言うことを素直に聞いた場面を、数えるほどしか思い出せない。
「……何も言われないというのも、それはそれで物足りんな」
なにやら不服そうだった。
「どうしろってんだよ」
「どうしろもなにも、級友が校則違反を犯そうとしているのだぞ? それを怒るどころか注意もしないとは……お前、そんなことで、眼鏡っ子委員長を名乗れると思っているのか!?」
「名乗るもなにもンな属性ねえよ! つーか、眼鏡ってどこから出てきた」
「委員長といえば当然眼鏡ではないか! あれはよいものだ。是非装着せよ」
「よいものでも装着しねえですから」
そもそも、委員長でさえない。
「いーから。アルプスだろうとシベリアだろうと、とっとと好きなところに行って来い」
しっしっと、追い立てる。
「クラスの諸君! 生徒会の許しが出たので、俺は堂々と外食に赴く! 堂々とだ!」
「断じて許してない!」
そんな健四郎たちのやりとりを見て、周囲からどっと笑い声が起こる。
「――い良し! それこそ眼鏡委員長にふさわしい反応だ! ほんのりと萌えてやろう!」
ク、ハ、ハ――と笑い声を上げて、そそくさと教室を出る真人。
取り残される健四郎。
いつもいつも、どうして自分はあの男と友人でいられているのだろうと不思議に思う。
学校にも友人は多いが、改めて思い返すと、だいたいいつも真人とつるんでいる。
昼食の時もまたしかり。健四郎はほぼ毎日弁当で、真人はその日によって適当な食料を調達してくる。学食のパンで済ませることが多いようだが、時には、毛ガニやらローストビーフの塊やらの突拍子もないものを持ってきたりするし、ピザやラーメン、寿司といった出前を取ることもある。そして時々は、こんな風に外食しに行ったりもする。
本当に、したいことだけをして生きている男だった。
そういう男だからこそ、健四郎とは合うのかも知れない。健四郎とはおよそ正反対の性格だが、不思議と、本質的なところでは反発しない。健四郎も、日ごろ真人に怒鳴りつつも、どこか心の奥で、羨ましかったり、見習いたいと思っているところがあるのかも知れない。
それはともかく、昼をどうしようかと思い悩む。いつもは大抵、真人といっしょなので、少々手持ち無沙汰だった。
「あーあ、武田くん、今日はひとりだー」
「無位に、置いて行かれた」
「見捨てられちゃった? それとも武田くんが見捨てた?」
……そんな健四郎を見て、クラスメイトの初川さん、美杉さんが、ここぞとばかりに面白がって声を掛けてきた。
「いや、ちょっ、見捨てられ……って、俺が? 真人に?」
心外だとばかりに訊き返す。
「だってー、武田くん、ほとんど毎日無位くんにくっついてるじゃない」
「武田と無位。いつもいっしょにいる二人が、今日に限って離れてるのは、なんかアヤシイ」
健四郎は、彼女らの思考そのものこそが最高に怪しいと思った。方向性が特に。
「いっしょに食べに行けば良かったのに。倦怠期?」
「……倦怠期、とおっしゃいましたか美杉さん」
それはなんというか、ありえない表現のような気がした。
「無位くん、誘っても断られちゃったから、さびしそうに行っちゃったじゃなーい。かわいそー」
かわいそう――この表現もありえない。
「な、なんか誤解してるみたいだけど、あいつは別に、本能のままに生きてるだけだと思うよ」
何か重大な誤解をされているような気もするのだが、それを尋ねるのもある意味怖いので、それ以上追及されないよう、適当にお茶を濁した。
「ふーん。まあいいけど。……それよりさっ、武田くん、今日は私たちと食べない?」
「え?」
「噂の、武田の手料理というものに、私たちは興味しんしん」
「食べてみたいよね、みんなー?」
初川さんが、向こうで机を寄せているグループに尋ねる。「おー!」と意気投合した返事が勢い良く帰ってきた。
「ほらほらー。無位くんにばっかり食べさせてないで、私たちにもちょっとおすそ分けして欲しいなー」
「……別に、そんな大したものじゃないんだけど。それに第一、真人には食べさせてない」
しばしば、隙を突かれておかずを盗まれることはあるが。
健四郎は、自分で弁当を作っている。
別に料理が得意というわけではない。ただ、親のために作る必要があるので、ついでに自分の分も作っているというだけのことだ。
ただ、男子生徒が自分で弁当を作ってきているというのは、それなりにインパクトはある話のようで、こんな風にしばしば言われたりもする。大抵は、そういう噂好きの女の子からだ。
今年はまだクラスが変わったばかりなので、そういうことはこれからどんどん詮索されるのかも知れない。別に嫌ではないが、やはり少し恥ずかしい気がする。
「……あー、悪いけど、今日は生徒会室で、仕事しながら食べることにするから」
やんわりと断ったつもりだが、一同からは「えー」と極めて残念そうな声が一斉にあがる。
「……大学いも、食べたかった……」
「あ、あああ、ごめんごめん。でも別に、本当にそんな大したものじゃないから、そんな期待しないで」
わりと本気で残念がっている美杉さんに、フォローを入れる。噂の先走りというのは、やはり恐ろしいものだ。
「わーん、フられちゃったよー」
泣きまねをしつつ、初川さんがグループの中に戻っていった。
「おお、よしよしー」
「ハッチーのお色気も通じなかったか」
「色気っちゅーには貧弱すぎじゃない?」
「いやあ、それよりも、やっぱアレは、無位くんに操を立ててると見たね」
「操ー!? ……ああ、でもそれありそう! 武田くん、絶対浮気とかしなさそうなタイプだし!」
「操ってことは……すでに二人は!?」
「『すでに』!? それアリ!?」
「アリだよー! やたら仲いいものっ!」
「きゃー!」
「きゃーきゃー!」
……何か教室の奥の方から、とてつもなく恐ろしい会話の断片が聞こえてくるのだが、怖いので全く聞こえないフリをしつつ、健四郎はそそくさと教室を出た。
「……アスパラの牛肉巻き……」
あちらの恐るべき会話には耳をふさぐ一方で、その傍らで立ち尽くしつつ、やたら具体的なおかず名をつぶやく美杉さんの声を聞いた健四郎は、やっぱり今度、何か作って持ってきたほうが良いかなあ、などとも思っていた。
「……なんか、変なことになってるなあ……」
弁当の包みを手にしつつ、とぼとぼと歩く健四郎がつぶやいた。
怖いのであんまり聞きたくはなかったが、先ほどは、なにやら実に危険な会話が、影で繰り広げられていたような気がしてならない。
女の子ってそういう話が好きだからなあと、過去の経験に照らしつつしみじみと思い、小さなため息を漏らす。
しかし、あろうことか、自分と真人でそんなことを考えることはあるまいて。
……ひょっとしたら自分は、女の子に興味が無い男と見られているのかも知れない、と健四郎は思い始めた。もちろん、決してそんなことはない。ただ、外から見ると、そういう気配が感じられないというのは、無理もないことかも知れなかった。
真人は真人で、
「俺とこいつは、契り合った義兄弟(きょうだい)なのだ」
などと公言してはばからない。確かに、真人に言われるままに杯を交わしたことはあるのだが、なにやらこの言い方だと、ある種の疑念を生じさせかねないので嫌だった。
とにかく、あの状況を逃れてきたことは、正しい選択だと思えた。あの集団には、一年の頃からの顔見知りも居るし、一緒に食事を摂ること自体には抵抗はないが、あの雰囲気では、何を聞かれるかわかったものではなかった。
そのおかげで、教室から出るはめになった。教室で食べている他の友達の中でも混じろうかと思っていたのだ。
教室から出て食べている連中の多くは、学食か、部活仲間と一緒かのどちらかである。やはり、さっき言った通り、生徒会室で食べることにした。
実は、仕事はあるにはあるが、昼休みのちょっとの時間くらいでは片付けられないものばかりなので、さっき言ったことは単なる方便であった。
生徒会の面々は、たまに個々で生徒会室でお昼を取ることもあるようだが、健四郎がそうであるように、基本的にはそれぞれの友達たちと済ますことが多い。今行っても、誰もいない算段の方が高かった。
たまには一人で食べるのもいいか、という気に健四郎はなっていた。真人と一緒に食べると、いつもうるさすぎて落ち着かない。静かに昼食を取れるのは、なにげに新鮮だった。
廊下から、ふと外に視線をやる。
四月といえば、まだまだ肌寒い日も多いが、今日はこれでもかというほどに良い天気だった。いい日差しなうえに、窓から流れるそよ風が心地よかった。
去年、一度だけ、校庭に出て昼食を取ったことがあった。梅雨に入る前の、ちょうど今日みたいな日差しの、爽やかな風の吹いていた日だった。
この学園には、あまり目立たないが、とてもいい場所がある。そこを見つけて以来、健四郎は、ゆっくりと外の空気を楽しみながら食事するにはもってこいの場所だと常々思っていたのだ。しかし残念ながら、そのときは真人が一緒だったので、外の空気を楽しむはずが、あの男の夏服論を延々と拝聴しつづけるだけという羽目になった。爽やかな青い空の下、スカート丈の長さについて、このうえなく真剣に話しているのがあまりにもむなしかったので、健四郎はそれ以来、外で食べようと言い出したことはなかった。
今日ならば、そんなむなしさの元凶たる真人はいない。
窓から外を眺めながら、健四郎はしばし考えていた。気持ちよさそうなのは確かだが、わざわざ一人で外に出るのも、少しおっくうという気もする。
やっぱりやめておくか……と思い直し、きびすを返したちょうどそのとき。
「「あ」」
視線と視線が正面衝突した。
「た、武田せんぱい」
荻野さんだった。
うっかり思考停止してしまいそうになった。
いつからそこにいたのか。
ずっと前から、自分に気づいていたのだろうか。
「こ……こんにちわっ」
ぺこりと、急かされたように、しかし行儀正しく頭を軽く下げる荻野さん。
「こ、こんにちわ」
健四郎も、ぎこちなく挨拶を交わす。
彼女の姿を見つけて、そのまま結局、声を掛けられずじまいだったのは、つい今朝の話である。
どういう巡りか、と思わずにはいられなかった。
正直、焦る。
色々と。
色々と、話すべきことや、話したいことが、あるのではなかったか。
それが、うまく頭から出てこない。
「――き、きょ」
「こ、このあいだは」
「あ」
互いに、言おうとしていた言葉がかちあった。
「……あ」
気まずい間が空く。
――というか。
そもそも、言うべきことといっても、具体的には何もないのではなかろうか。言葉で説明するたぐいのことでは決してない。
じゃあ、何に悩んでいたのか。何をしようとして、戸惑っていたのか。
ひとつだけ、明確な目的はある。
なんでもいいから、とにかく。
話したいと思っていたはずだ。それに戸惑いも感じていた。
色々と理由をこねくり回していた気もしたけれど。
それは、要するに、ただ気恥ずかしいというだけではないか。
「……あ、あはは……」
気まずさをごまかすように、荻野さんが苦笑いをする。
……そういう、辛そうな表情をさせたくはない。
それは、確かなことだ。
「いや、ごめん。気づかなかった」
「え――?」
「今ちょっと、外を見ていたんで」
考えすぎないで、普通に接すればいい。たぶん、それだけのことなのだ。
「あ、ああ―ー」
荻野さんは、少し考えるようにしてから、嬉しそうに答えた。
「そ、そうですっ。きょうは、すごくいいお天気ですね、……って」
ああ、なるほど。
「うん。いやあ、春だしね」
「はい、春ですしね」
「春だね」
「春です」
……もう少し、考えるということをしてもいいかも知れなかった。
季節話とお天気話。見事なまでの社交辞令トークである。気の聞いた会話なんて、健四郎にはできるわけもないのだが、せめてもう少しなんとかならないものだろうか。
「……あはは」
……荻野さんも、そんなことを思っているのかも知れない。
言葉を捜す。
話すべきこと。話したいこと。具体的な内容ではないだけあって、言葉が思いつかない。
「あ、あの……」
「ん?」
「せんぱいは、これからお昼……ですか?」
「あ、うん」
自分が弁当の袋を手にしていたことを思い出した。
「昼休みだし」
「あっ! ……あ、あはは……そ、そうですよね」
何か失言でもしたかのように、うわ、という顔をされる。
何故だろう。
「荻野さんは?」
「え」
「やっぱりこれからご飯?」
「は、はい。これからお昼を」
言ってから、実は彼女も、お弁当を包んでいるらしき袋を手にしていることに気づいた。
「お、お昼休みですので」
「――あ」
それはそうだ。訊くまでもないことだった。
というか、さきほど健四郎が訊いたのと全く同じ質問だった。
お互い、かなり間の抜けた会話をしていたようだ。
「あ、あはは……」
互いに、苦笑いを浮かべる。
……何か、会話をしていること自体、どこか無理をしてはいないか。
それじゃあ、と切り上げて、このままここから立ち去りたいという思いに駆られる。
――朝と同じように。
ああ、そうか。
朝、声を掛けられなかったのは、こういう雰囲気が無意識のうちに予想できていたのか……と健四郎は気づいた。
さすがに、ぬぐいきれないほどの自己嫌悪が沸いてくる。
もうちょっと、やりたいことをやれる人間になれないものか。自分の周りの人々のように。
自己嫌悪に、これ以上責めさいなまれたくはない。大人になってまで、こんなままではいたくはない。
別に、難しいことではないはずなのだ。ちょっとだけ、あれこれと考えすぎるのを押さえ込んでいればいい。
それだけを、心に言い聞かせる。
あまり考えることなく、思うところを言葉にした。
「じゃあさ。一緒に食べようか?」
なんでもないことのように、そう言った。
見たところ、一人のようだったし。弁当持ちのようだし。
なにより、彼女ともう少し話したいと思っていたのだ。
そのあたりを踏まえ、そのうえで素直になれば、こういう言葉が自然と出てきた。
――ただ。
「…………」
目の前で、かなり面白い固まり方をしている荻野さんの様子を見て。
大きく飛躍しすぎたことを言ったのでは、という思いが湧いてきた。
――というか。
「……………………」
とんでもないことを言ってしまったことに、健四郎は気づいた。
そこにはたぶん、下心があるはずだ。
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