『ガクらん』   <PRE  NEXT>



 15・大好きです!




 私立昭葉学園の敷地は、郊外に建っているということもあり、とても広かった。
 校庭も、ちょっとした公園並みの広さがある。あちこちに、寄贈された彫刻やモニュメントの類が置かれているし、その中に建てられている、多目的ホールや図書館などは、一般に公開されていることもあってか、かなり立派なつくりの建物で、校庭の景観をさらに良いものにしている。
 桜の季節こそ過ぎてしまったが、遊歩道沿いの花壇には、春の花々が色とりどりに咲いている。昭葉の園芸部は、その活動もさかんであり、学園側としても力を入れている部のひとつだ。
 そんな遊歩道沿いには、ところどころにベンチがあり、天気の良い日には、そこで昼食を取っている生徒の姿もしばしば見受けられる。
 しかし健四郎は、そんな風に外での食事を楽しむためならば、実はもっといい場所があることを知っていた。
 昭葉学園の校舎は、少し変わった、複雑なつくりをしている。本棟となる中央校舎がまずあって、それを両側からはさむような形で、第二校舎と第三校舎が建てられている。校舎はそれぞれ連絡通路で繋がっているが、各階全てがきちんと繋がりあっているというわけではなく、ちょっとした迷路のようでさえあった。
 なぜ、そんな迷路のようなつくりになったのかというと、創立当初の校舎からして本校舎と第二校舎があって複雑だったものが、七年前にこの学園が共学制となった際、生徒数の増加に対応するべく、さらに第三校舎を建ててしまったことが大きい。
 そんな複雑なつくりに隠れるようにして、その場所はあった。
 今ではあまり使われなくなった、第二校舎の脇にある、ちょっとした広場。第二校舎には今、生徒用の教室は入っておらず、玄関からも遠いので、生徒の間ではそれほど知られていない場所。
 その広場は、ちょっとした庭園なのだ。
 そこには、校門から玄関に至るまでの通路沿いにあるものに負けないくらいの大きさの、立派な花壇があった。その傍らには、テラスまでが用意されていた。周囲は雑木林に囲まれており、まるで森の中にいるかのような気分にもなれる。風通しも実にいい場所で、たとえ真夏でも、テラスや木陰に入ってさえいれば、涼しく過ごすことができるだろう。
 この場所、外から回っていくにはやや距離があるので、普通の生徒が訪れることはあまりない。だが実は、第二校舎の勝手口を使うと、いとも簡単に行くことができるのだ。外靴を持って来れば好きに出入りできるし、ひそかにサンダルも用意されているので、知ってさえいれば、それを使うこともできた。
 かつて、昭葉学園がまだ女子高だったころには、もしかするとこの場所にも、多くの生徒たちが集まっていたのかも知れない。
 しかし、省みる人が少なくなった今でも、ここから寂れた感じは受けない。花壇はきちんと手入れされているし、雑草も生い茂ってはいない。テラスにある木のテーブルや椅子でさえ、雨ざらしのまま放置されているという感じではなかった。
 それというのもこの場所は、実は園芸部の活動拠点だった。正面側の花壇や木々は、園芸部ももちろん関わっているものの、基本的には学園が雇った業者が管理しており、植えている花を勝手に移し変えたりするわけにはいかなかった。
 園芸部が、自分たちのものとして好きに使えるのが、この花壇なのだ。
 ここのすぐ近くには、小さい温室もあり、園芸部の活動の中心とするにはふさわしい場所だった。
 健四郎がなぜこの場所を知っているのかというと、去年、生徒会の仕事で、園芸部と協力しあう機会があったからだ。もちろん、園芸部とつながりがなくてはこの場所に入れない、などということはない。単に、園芸部とその回りの人たち以外、この場所について知る機会がほとんどないというだけだった。
 健四郎はそのことをかねてより、もったいないなあ……と思っていた。園芸部の人たちも、放課後はともかく、昼休みにはあまりこの場所を使ってはいないようなのだ。
 それに、こんな素敵な場所が、次第に学園そのものから忘れ去られようとしているように思えて、どこか寂しいという気がした。かくいう健四郎自身、一度しかこの場所を使っていないわけで、大きなことは言えないのだが。
 そもそも新一年生の中には、まだ第二校舎に足を踏み入れたことのない生徒さえいるだろう。普通に過ごしていれば、学園の中に、こんな場所があることには、気づくことさえないだろう。
 それは、とてももったいないことだと思えた。
 ――現に。
「……わぁ」
 第二校舎側にはまだ足を踏み入れたことさえないと言っていた荻野さんは、今こうして、感嘆のため息さえ漏らしていた。
「こんなところがあったんですか……」
 玄関から靴を持ってくれば、勝手口には本当にすぐたどり着くのだ。上の階の、教室に行くより遥かに近い。しかし、普通の生徒にはそちらに行く用事もないので、そのことに気づくこともない。荻野さんが今感じているものは、かつて健四郎が思ったことと同じなはずだ。
「……すごい。お城の、お庭みたいです」
 手の掛けられた花壇と、多少古びているものの、それなりに豪華なテラス。その傍らにある第二校舎は時代がかった煉瓦造りである。なるほど、言われてみれば、ちょっとした城のように思えなくもない。
 そういう感想を素直に抱ける荻野さんの感性が、ちょっといいな、と思った。健四郎にとっては、いい場所という思いこそ確かにあったが、それは、そこそこ綺麗で、外の空気を楽しめる場所、というくらいの印象だったのだ。
「うわ、うわあ」
 特に、花壇の素晴らしさには、すっかり心を奪われているようだった。別に健四郎が手入れをしているわけではないのだが、その反応が嬉しかった。心から喜んでくれているという感じがするのだ。
 ――ついさっき。
 うっかり。うっかり口をついてしまった――という表現が、もっとも適切なものだろう。
 一緒にお昼ごはんをたべましょう。
 その一言が、なにげにとんでもなく出すぎた言葉だったと気づいたのは、それを言われた荻野さんが沈黙・停止してより、およそ十五秒ほど後のことだった。
 冷や汗をかくという感じを、久しぶりに味わった。
 なんてことを言ってしまったのか、という悔恨が心の中に渦巻きいてはいた。だが、硬直から解き放たれ、大いに慌てふためいていた荻野さんを前に、誘ってしまった以上、ごめん、今のうそ、と言うわけにもいかなかった。
 ああ、先約があるんだよねと、そうであることを半ば期待しつつ、尋ねてみた。だが荻野さんは、今日はいつも一緒に食べている親しい友達が、部活だったり外に食べに行ってしまったりして、どうしようかと途方に暮れていたのだという。
 困ったことに、健四郎の誘いは、出すぎた言葉というわけでもなかったのだ――幸か不幸か。
 荻野さんは、どうしていいかわからない様子だった。そして健四郎も、ある意味では彼女以上に、どうしていいかわからなかった。もはや、後には引けない状況であるということを悟った健四郎は、こういう場所があるんだということを言い訳にしつつ、必死の思いで連れ出してきたのだ――必死といっても、単にここで食べようと示し合わせただけのことなのだが。
 あからさまに緊張していた荻野さんだったが、この広場を見て、その態度が一変した。こんなに喜んでくれるとは思ってもいなかったのだ。そのおかげで、先ほどまで健四郎を苛んでいた変な意気込みは、ずいぶんと薄らいだ。
「でも……いいんでしょうか。ここって、勝手に使ってしまって」
 少し心配そうに尋ねられた。確かに言われてみれば、ちょっと立派すぎて、勝手に使っていいものかという風にも思えるのかも知れない。ここに人が集まらない理由には、そんなものもあるのだろう。
「そりゃもちろん。ちゃんと生徒のために開かれてる場所だから」
 生徒会のお墨付き、と、少し冗談っぽく付け加える。
「せ、生徒会……あ、安心しましたっ」
 しかしながら、軽口とは認識されなかったようだ。なんとなく感じられてはいたことだが、この荻野さん相手には、変に気取った遠まわしなことは言わないほうが良さそうだ。それはつまり、健四郎の素のままでということでもある。むしろ健四郎にとっては、自分が思ったことを、素直に語ることができる相手だと思えた。
 恐縮する荻野さんに、軽く笑いかけつつ、説明を行った。
「ここは普段、園芸部の人たちが手入れしてるんだよ。部活で。普通の生徒はほとんど使ってないんだけれど。本当は、もっと多くの生徒に見て欲しいなって」
「あ――」
 いい場所なんだけど、あまり生徒が使っていない。さっき、彼女を連れて来るとき、カチカチになりながら話したことだった。
「花も綺麗だし、実はすぐに来られるし。だから、ちょっともったいないなって、いつも思うんだ」
「……そうだったんですか。だから――」
 荻野さんは、なにやら得心したように見えた。
 どうして自分なんかが、生徒会の人に、お昼を一緒に誘われてしまったのか。それは――この場所を知ってもらいたかったから。
 そういう、納得のいく理由が見つけられた……という反応。
「わ、私、友達にも教えてあげようと思いますっ」
「あ、いや……そんな、無理に教えなくても、いいんだけどね」
 なんだか、使命感に駆られて、一年生のみんなに教えて回ろうとさえ思っているように見えたので、一応の釘は刺しておきたかった。
「だ、だめでしょうか」
「いや、別にだめということでもなく」
 程度的に、ちょっぴり心配なところが。
「でも、こんなに素敵な花壇があるのに」
「それはそうなんだけど」
「……私だけが特別扱いというわけには」
「――あ」
 なるほど、と健四郎は思った。荻野さんとしては、それがまず念頭に来るのだろう。健四郎がきっと、そういう意図で誘ったのだと思っているのだ。
 少し、罪悪感を覚えた。
 彼女をここに誘ったときの健四郎の中に、そんな意図が少しでもあっただろうか。
 それは、日ごろなんとなく思っていたことではあったし、決して嘘ではないのだけれど。
「うん。でもまあ、あまり気にしないで。ここはなにも、生徒会関係だけが使えるってわけじゃないんだし。園芸部の一年生とかだって、たまには使ってると思うし」
 なにかを紛らわすように、健四郎は言葉を発していた。
「友達とかなら、どんどん連れてくればいいよ。その方が楽しいだろうし」
「は、はい」
 そんなことを言いつつも、健四郎はやはり、自分の言葉に釈然としないものを感じてしまう。
「でも……ありがとうございます」
 荻野さんが、改まって口を開いた。
「きっと私、ふつうに過ごしていたら、こんな素敵な場所があるってこと、ずっと知らないままだったと思います。もし、なにかで通りがかったとしても、ああ、ここってきっと、入っちゃいけない場所なんだな……って思ったはずです」
 荻野さんは、心から喜び、感謝してくれていた。
 そのことは、確かに嬉しいと思える。こんないい子を、喜ばせてあげられたということは、純粋に誇らしくもある。
 健四郎の中にも、喜んでくれるんじゃないか、という予感がなかったわけではない。素直に誇って良いことなのではないか、という思いもある。
 だが。
「私だけじゃなく、他のみんなにも、是非教えてあげてください。みんな、きっと喜びます」
 こういう言葉を聞いてしまうと、心がチクリと痛んだ。
 いつの間にか、彼女の中では健四郎が、後輩たちが知らない場所を教えようとしてあげている、良い先輩……という風になってしまっている。
 いつの間にか、というよりは――そういう風に思われるようなことを言った。お高い立場を保ったままでいられるように、言葉を弄した。まるっきりの嘘ではないということを、心の中で言い訳にして。
 おかげで、最初、ガチガチだった健四郎は、どこへやら行ってしまった。代わりに、思いやりのある立派な先輩という、妙に背伸びした自分がここに居る。それは、下心なんて持っていようはずもない自分だった。
 そういう自分の汚さを、心ではわかっていながら、それに気づかないかのように装いつづける。今さら取り下げようもないことだからだ。
「……ところで」
 少しだけ張った空気を取り払うかのような軽い調子で、健四郎が口を開いた。
「そろそろ、食べようか」
「――あ」
 手に持っている弁当を掲げてみる。言われた荻野さんの手にも、同じように、小さくてかわいらしい包み袋がぶら提げられていた。
 ふたりとも、お弁当を手にし、テーブルも目の前にしておきながら、ただ立ち尽くして話していたことに改めて気づく。
 いくらか気が楽になったと思っていたが、まだどこか硬いままだったのかも知れない。
「は、はい。……いただきましょう、か?」
 おずおずと尋ねてくる荻野さん。
「うん。いいかげん、おなかが空いて空いてしかたない」
「わ、私もです」
 言いつつ、互いを見て、遠慮がちに笑いあう。
 それはまだ少し、硬いものが残ったままの表情だったけど、なんとなく、嬉しい感じがした。


 誰かと一緒にものを食べるということは、大抵は楽しいものだろう。
 ただそれも、誰と食べるかによる。たとえば、気心の知れた友人や家族とであれば、楽しいに違いない。しかし、全く共通の話題のない人と同伴することになればどうか。
 それはなにも、食事の時に限ったことではない。
 だが、食事中という状況が普段と違うのは、いざ同席してしまえば、少なくとも、食べ終えるなり途中で残すなり、食事を済ませてからでないと、おいそれと席を離れることができないという点である。
「…………」
 お互い、テーブルに腰掛け、弁当の袋に手をかける。
 その間に、なんだか妙に気まずい沈黙が流れる。
 別に、少しばかり無言だからといって、おかしいことではない。常にしゃべりつづけてる方が不自然だ。にも関わらず、その沈黙を、変に意識してしまう。何か話すことはないのか。このまま、何も話せないままになってしまうんじゃないか。そういう恐怖心にも似たものに、心を支配される。
 それこそが、自分の臆病さの表れであるということを、健四郎はよく知っている。自分から誘ったにも関わらず、心のどこかで、この状況から逃げ去りたいとさえ思っている自分が、ひどく惨めに思えた。
「じゃあ、いただきます」
「は、はい、いただきますっ」
 そんな、わずかばかりの沈黙からさえ逃れるかのように、健四郎は箸をとり、いただきますを言った。
 荻野さんが、慌ててそれに続く。
 ……なんだか、無理をさせてしまっているように思えて、ひどく申し訳ない気持ちになった。ろくに話も持ちかけられない先輩が、無理して付き合わさせたという格好である。
 なにか話すことを探さなければと、焦りにも似たものが心の中を駆け巡る。
 ちらり、と荻野さんの方を見る。目が合った。彼女のほうも、こちらを恐る恐る伺っていた。
 健四郎は、慌てて目を逸らしてしまった。
 逸らしてから、最大級の自己嫌悪が襲ってきた。しかし、目を合わせたままでいたところで、何も話せないままということには変わりなかった。
「――あ、あのっ」
 そんな思いを、荻野さんの声が断ち切った。
 必死の思いで声を出した。そんな風にも思える。自分が今、まさにそういう風にしようと思っていたことでもあったからだ。
 恥ずかしさに苛まれながら、再び荻野さんの方を向く。
「せ、せんぱいの、お弁当」
 弁当、と言われて、少し戸惑う。弁当に、何か変なことろでもあったろうか。
「……すごい、ですね」
「え? ……あ、ああ」
 そこまで言われてやっと、彼女が言わんとしていることがわかった。
「すごく立派なお弁当です」
「いや、そんな、たいしたことは」
 言いつつも、健四郎は、確かに今日はたまたま、普段の弁当よりは凝った内容だったなあと思い出した。
 健四郎は、自分で弁当を作っている。
 別に健四郎自身は、購買のパンを買っても、学食で済ませてもいいのだが、仕事に出ている母に弁当を作ってあげているので、そのついでに自分のものも作っているのだ。
 健四郎の母は、基本的に家事をしない。全くしないというわけではないが、その性格があまりに大雑把で、明らかに家事に向いていないのだ。そんな母に代わって、健四郎は物心ついた頃から、次第に家事を行うようになり、中学校にあがる頃には、家向きのことは全て健四郎任せになっていた。
 母は、幼い頃から女手ひとつで家計を支えてきたわけであり、その手によって養われてきた健四郎は、せめて家事くらいはこなさなければと思っているので、それが変だとか、苦痛だとか思ったことはあまりない。むしろ、そうしたことに、いくらか誇りのような思いさえ抱いている。
 ただ、そのあたりのことは、あまり人に知られたくないものでもあった。
「すごくおいしそうですし、それに、色とりどりで、とってもキレイです」
「……どうもありがとう」
 弁当が誉められているということは、すなわち、健四郎の仕事が誉められているということでもある。嬉しいといえば嬉しいけれど、彼女はたぶん、これが実は、健四郎が作ったものだとは思ってもいないだろう。
 健四郎は、自分で弁当を作っていることを、あまり人に話したくなかった。
 恥じているわけではない。無理やりやらされているというわけでも、とりあえずはない(表面上ではそう見えるかも知れない)。だがやはり、母親が家事を行わず、その息子に押し付けられているという風に世間に思われるのは、体裁が悪い。
 それに、そういう世間体を抜きにしても、自分は料理ができるということをわざわざアピールするのは、当たり前といえば当たり前のことを自慢しているように思えて、どこか嫌らしいという気がした。
 とはいえ、クラスや生徒会では、健四郎の家事については周知の事実となっているが、これは、親しすぎて隠しようもないので仕方がない。妙にちやほやされたり、逆に茶化されたりするのを、甘んじて受け入れるだけだった。だが基本的には、料理も家事も、自分の家で必要だと思うから行っているというだけのことで、人に教えて自慢するためのものではない。
「荻野さんのだって、おいしそうじゃないか」
 話の矛先を、それとなく逸らした。
「あ――は、はい!」
 すると荻野さんは嬉しそうに、弁当を少しだけ傾け、中身を健四郎によく見えるようにしてくれた。いかにも女の子らしい、二重になった小さなお弁当。量も、これで足りるのだろうかと思わせるほどに少ない。だが、十分に手間暇かけて作られているということはよくわかった。ウサギ耳にカットされたりんごや、タコさんウインナーというのは、定番ながら、これでなかなか作るのが面倒くさい。
「私、中学のときから、ずっとお弁当だったんです。だから毎日、お昼休みがすごく楽しみで。今日はどんなお弁当なのかなー、って」
 ごはん食べるの大好きなんです、と少し恥ずかしそうに語る荻野さん。
 なんだか、いつもに比べて饒舌になっているという気がした。会話の間を作らないように、どこか無理に話そうとしているようにも見えて、健四郎は少しいたたまれないような気もした。
「うち、たまにですけど、お父さんが作ってくれることもあるんですよ」
「お父さんが?」
「はい! お父さん、お料理がすっごく上手なんです。今日のはお母さんが作ってますけど」
「へえ……」
 たとえたまにでも、父親が子供のお弁当を作るというのは、珍しいのではなかろうか。
 そして、お父さんのことを話すときの、荻野さんの嬉しそうな表情。どれほど彼女が、父親の愛情を受けて育ってきたかがわかるような気がした。たとえそれが、健四郎にはまるで覚えのないものではあっても。
「でも、お父さんがお弁当作ると、私には量が多すぎて。そういうときはいつも、友達に食べるの手伝ってもらうんです。もし今日、お父さんのお弁当だったら、武田先輩にも食べてもらえたのに」
「いや、それはいいよ」
 せっかくの申し出ではあるが、それはなんだか、お父さんに悪いという気がすごくする。自分がもし荻野さんの父親だったとして、せっかくの手作り弁当を、女友達ならともかく、知り合ったばかりの男子が先輩風を吹かしてそれを食べるなんてのは、論外という気がした。
「あ……」
 荻野さんが、しまった、という顔をした。
「す、すいませんっ。わ……私、つい差し出がましいことを」
「え――? あ、いや、そういう意味じゃなくて」
「いえ。つい、調子に乗ってしまって……」
 どうやら、変な意味にとってしまったらしい。付き合いが深いわけでもない先輩に、馴れ馴れしい態度だった、とでも思ったのだろう。
 むしろ健四郎としては、少しぐらい馴れ馴れしいほうが、付き合いやすいくらいである。だが、荻野さんを相手にそれを求めるのは無理だろうし、そもそも、健四郎のそういう性質を彼女が知るはずもない。
 箸の動きを止めて、荻野さんが口を開いた。
「……私、なにかあると、すぐ舞い上がっちゃう性格なんです。このあいだのことも……」
 このあいだ。――玄関でのこと。
「あの、その……あんなところで突然、変なことを言ってしまって……申し訳ありませんでした」
 嬉しかった、といってくれたこと。
 ……確かに、突然ではあった。突然言われて、びっくりもした。
 だが、それが健四郎にとって、はたして嫌なことだったろうか。
 ああ言ってくれたこと。その理由はよくわからない。自分のしたことが、彼女にああまで言わせられるようなことだったとも思えない。
 でも、彼女はきっと、必死になって、思ったことを真剣に言ってくれたはずだ。
 たとえそれが、彼女の言うように、気持ちが舞い上がったというだけの思い込みの産物だったとしても、健四郎はそれが嬉しかったからこそ、彼女とまた話したい、と思い始めたのではないだろうか。
 人の抱く思いというのは複雑で、下心とか、何かのあてにするとか、そういうのは必ずどこかで混じってくる。健四郎が今、彼女を誘って一緒に食事をしているのが、まさにそれである。
 でも、そんな色々なものが混じった思いの中で、単に彼女の言葉が嬉しかったということだけは、多分、純粋といえるものではないだろうか。
 健四郎は、何かを自分から「求める」ということが苦手である。ああでもない、こうでもないと、自分の中で色々と、余計なことを考えすぎるからだ。
 ――しかし、今くらいは、もっと率直な自分であるべきではないだろうか。
「あの……わ、私のお話ばっかりで、すみません……」
 沈黙に耐えられなくなったのか、さらに謝ってくる荻野さん。
 自分に問う。今、したいことは何か。
 ……荻野さんを、こんな辛そうなままではいさせないことだ。
「――そんなに気にしないでくれていいよ」
「え……?」
「いやいや。荻野さんは礼儀正しい。話すとき、ちゃんと人に気をつかうし。掃除はまじめにやるし。とてもいいことだよ」
 にこり。慣れない類の笑顔を浮かべて、健四郎は言った。
 日ごろ、あまり人に見せる表情ではない。だから、もしかすると、多少引きつった笑顔になっているかも知れない。それならそれでいいと思った。つまらない体面なんて、どうでもいいことだ。
 いつもの自分とは、たぶん違う風に見えるだろう。自然な態度ではない。
 今、参考にしているのは、健四郎に近しい、生徒会の先輩たちの言動だった。健四郎のことを振り回しながら、どこか安心させてくれるような、言うなれば先輩風。
 馴れ馴れしいかも知れない。それで構わなかった。自分がされて嬉しかったことを、誰かにしてあげる。それが受け入れられなかったとしたら、それはしょうがない。そもそも、最初にそのラインを踏み越えたのは、健四郎の方からだったのだ。
「お父さんのお弁当かあ……なんか凄そう。じゃあ、もし機会があったら、食べさせてもらってもいいかな?」
 さっき言われたことを、思い出したかのように持ち出してみる。
「え……? あ……は、はいっ! ど、どうぞご遠慮なく」
「うん、ありがと」
 やはり、どこかぎこちない会話。当たり前だった。無理をしているのだ。
 さっきの荻野さんだって、そうしていた。自分だけいい格好のままというのは、傲慢というものだろう。
 考えてみれば、いくら出会いがああだったからといって、ほとんど話したこともない相手なのだ。
 いっしょに食事をする。考えようによっては、よく知らなかった人と親しくなりたいのならば、それが一番手っ取り早い方法でもある。なにしろ、一度同席すれば、食べ終わるまで、そうは離れられない。気まずいままでいたくなければ、少しでも親しくなるしかない。まして初めから、親しくなりたいと思っていた相手ならば、それが何の苦になるだろう。いや、苦といえば苦なのだろうけれど、それは、自ら進んで得ようとする類の苦だ。人が、人として成長するための。
「しかし世の中には、お父さんとかでも、弁当作る人がいるんだなあ」
 さも感心したかのように言ってみる。
「へ、変でしょうか……?」
「いやいや。まさか」
 少し不安そうにする荻野さんに、笑ってそれを否定する。
「だってさ。……俺も実は、弁当、自分で作ってたりするんだよ」
「――え?」
 今まで、自分からはなるべく人に言わないようにしてきたこと。根のところで、健四郎のアキレス腱に触れること。それを口にしていた。話してもいい。彼女相手にならば、話してもいいや、と思った。
「お弁当。それだけじゃなくて、朝晩の食事も自分で作ってたりね」
「……ほ、ほんとですか」
 よほど驚いたのか、素で聞き返されていた。
「ん、なにげに疑われてる?」
「……あっ! い、いえっ! いえいえっ、そのようなことはっ」
 荻野さんの口調が、なにやら面白げなことになっていた。
「いやホント。この俺、武田健四郎は、毎朝早起きして、お弁当をこさえております」
 面白かったので、調子を合わせて、少しおどけて言ってみせる。
 荻野さんは、ぽかんとしていた。
「あー、やっぱり、変かな?」
「へ、変じゃありませんっ! 変じゃ、ありませんけど……でも、どうして?」
 やはり、そこに行き着く。
 別に、ごまかしてもいいことだった。単なる趣味だとか、偽ることはいくらでもできる。
「まあ、料理とかが、嫌いじゃないってのもあるんだけど……本当のところは、ウチの親に作るついでだったり」
 でも彼女になら、そのまま話していいと思えた。話したいと思った。
「ご両親……の?」
「ん、母親の」
 父親はいない。一応、いることはいるけれど、家にはいない。これも、別に言ってもいいことだったけど、荻野さんに気をつかわせると思うので、直には触れないでおいた。
「ウチの母さんさ、料理とか滅茶苦茶苦手で。それに、働きにも出てて忙しいからさ、ヒマな息子がお料理番を任されてるというわけ」
 こういう風に言うと、やはり美談に聞こえるだろう。それが嫌なので、あまり人には話したくなかった。俺って偉いだろ、と言いふらしているように思える。
 それは、実のところ本音だ。そうする自分のことが、少しばかり偉いとは思っている。
 荻野さんは、その本音をそのまま伝えたいと思える相手だった。彼女ならば、そんな自分の押し付けがましい美談でも、素直に受けとめて、嬉しい言葉を返してくれるに違いなかった。
 健四郎は、たとえ面映い思いをしようとも、荻野さんに誉めてもらいたがっている自分が居ることに、改めて気がついた。
「……先輩って、偉いです」
「あはは、どうもありがとう」
 誉められた。その一言が、すごく嬉しいと思えた。
「――あ。……す、すみませんっ。なんか私、偉そうな態度でっ」
 後からちゃんと、そういうところに気が付く彼女の細やかな心づかいも、また快かった。もちろん、偉そうな態度だなんて、これっぽっちも思ってはいなかったが。
「いいよ、そんなに気にしないで」
「あううっ……申し訳ありません。でも……本当に偉いと思います」
 恐縮しつつ、尊敬のまなざしを向けてくる荻野さん。
「だって先輩、生徒会のお仕事もされているのに。私なんて、部活もなにもしていないのに、お母さんのお手伝いも、あまりしてません」
 荻野さん曰く、自分は、たまにお使いに行ったり、お洗濯したり、料理だって、普段はお皿を並べるくらいしかお手伝いしてませんでした――とのこと。
「うーん。それだけしてれば、十分に偉いと思うけど」
「でも。先輩はお弁当まで」
「いや、どっちかというとウチの場合、そもそも親に問題があるような気もするんで」
 正直なところ、大いに問題ありだと思っている。嫌ではないしさほど苦でもないが、一介の母親として、これはどうかと思うことは年中暇がないほどでもある。でも、だからといって、表で母を悪し様に言うことはしたくなかった。そういうことにはとてもデリケートな環境で育ってきたのだ。片親という家庭環境は、世間からの目で容易に傷つけられる。
 健四郎は、なんだかんだ言って、母のことが大好きだった。私生活に関しては色々と思うところこそあるが、女手ひとつで自分を養ってくれたことは、どれほど感謝してもしきれないと思っている。だから、たとえ軽口だろうとうかつなことを言って、母のことを他人から悪く言われたくはなかった。
 でも、この荻野さんが相手ならば、大丈夫という気がした。たぶん彼女は、誰であろうと、親のことを悪く言うなんてことは、もってのほかだと思っている人だ。だから、彼女にならば、ちょっとくらいの愚痴を漏らすことはしてもいいと思えた。
「だから、俺の場合は、必要だからやってるだけだよ。偉いことはないと思う。それに、そんなに美味しくは作れないし」
 母を始め、食べた人はよく誉めてくれるけれど、客観的に判断すれば、やはりそれほどの味とは思えなかった。
「お、おいしそうですけれど……」
「食べてみる?」
「えっ!?」
「味見。がっかりするかも知れないけど」
 こうして、自分の料理を人に勧めることを、健四郎はほとんどしたことがなかった。
 健四郎の料理を食べたことのある人は、自分から食べさせて頂戴とねだってくるケースがほとんどだった。どういうわけか、荻野さん相手だと、不思議と、何かしてあげたいと思ってしまう。
「い、いいんでしょうか」
「荻野さんさえよければ、だけど」
「……そ、それじゃあ、ちょっとだけ」
「どうぞどうぞ」
 まだ箸をつけてないコロッケを、箸の頭でつまんで、荻野さんの弁当箱に移す。
「い、いただきますっ」
「……あんまり期待しないでね」
 神妙な表情で、荻野さんが恐る恐る、コロッケを口に運ぶ。
 しばし咀嚼したのち、口を開く。
「お、おいしい……。とってもおいしいですっ」
 安堵する健四郎。あまり得意ではない中で、とりあえず一番自信のあるものをあげたのだ。その言葉が、お世辞ではないことを祈りつつも、ほんのりと幸せな気分になった。
 家の外で、誰かに料理を食べてもらったことで、こういう気持ちになることも、ほとんど始めての経験だった。たとえば、クラスや生徒会などで、おかずをよこせとたかられたときには、たとえおいしいと誉められても、どこか気恥ずかしいという気持ちの方が先に立った。
「これって、レトルトというわけでは……」
「うん。このコロッケは手作り」
「……う、うわぁ」
 荻野さんが驚嘆する。コロッケを手作りするとなると、けっこうな手間がかかるのだ。それがまして、朝、弁当のおかずとして作るとなると。
 健四郎も、普段はしばしばレトルトのお世話になることはあるのだが、このコロッケに関しては、母からの評判もすこぶる良いので、リクエストがあったときには、多少無理をしてでも作ることにしている。だからコロッケは、健四郎の最も得意な料理のひとつだった。
「やっぱり、武田先輩ってすごいです。私なんて、女の子ですけど、お料理なんて簡単なものしか作ったことありません」
「女の子だとか、簡単かどうかってのは、あんまり関係ないさ。その気になれば、誰だって料理くらいできるし」
「……そ、そうでしょうか」
「ところで。簡単なものって、どんなの作ったことあるの?」
「え、えーとですね……」
 荻野さんは指折りしつつ、料理の名前をひとつづつ挙げていった。簡単なもの、と言ってたわりには、かなり手間のかかるものも含まれている。そのレパートリーの数も、この年頃の子にしてはかなりのものだと思う。健四郎が作ったこともないものも結構あった。
「……なんだかさ。こうして聞いてると、荻野さんって、ものすごく料理が得意なように思えるんだけど、俺の気のせいでしょうか」
「そ、そんなことないです。作ったといっても、全然へたっぴですし、お父さんとお母さんにずいぶん手伝ってもらってますし」
 しかし、いくら手助けがあったからといって、ビーフストロガノフなんてメニューが出てくる時点で、料理上手という印象を与えるには十分に過ぎるという気もする。(実は、そんなに難しい料理というわけではないのだけれど)
「それに、先輩みたいに、毎朝お弁当を作ってくるなんて、できないです」
「そうかなあ。荻野さんなら、やろうと思えば全然やれそうな気がするけど」
「ホントは一度、作ろうと思ったことはあったんです。でも、そう言ったら、お母さんが、無理するなって」
 いいお母さんだった。……というか、これが普通の母親の反応という気もする。
「ほら、やっぱり環境次第だよ。もし、荻野さんがウチに生まれていたら、きっと今ごろ、毎朝お弁当作りしていると思う」
「は、はあ」
「だいたい、ウチの母さんときたら……」
 ほんの少しだけ、愚痴モードに入った。
 ……ほんの少しのはずが、やや熱が入りすぎてしまったかも知れない。
 なにしろ――母について、他人に愚痴をこぼしたのは、恐らくは、これが生まれて初めてだった。
 健四郎が抱く、母への不満の多くは、その生活態度のだらしなさについてである。仕事が忙しいので、家事の多くを健四郎に任せている。それは別によかった。だが、そもそも家事以前のレベルで、あまりにもだらしないところがある。洗濯物は脱ぎっぱなしで散らかし、飲みかけの缶ビールはほったらかし、靴は決してそろえて脱がないし、テレビや電気をつけたまま平気で寝たりする。綺麗好きなところのある健四郎にとっては、いずれも耐えがたいことであった。
 そうしたことを、とつとつと荻野さんに語る。
 当の荻野さんは、時にはふむふむと、ところどころでは苦笑いを浮かべつつも、とりとめもないことをよく聞いてくれていた。
「……なんだか」
 ひとしきり聞いた後、荻野さんが、言葉を捜すかのように口を開いた。
 そして、とんでもないことを言った。
「先輩って、お母さんのことが、大好きなんですね」
 ――その言葉の衝撃で、思わず言葉を失う。
 そして湧き上がる、痛烈なまでの羞恥心。思春期の男子にとっては恐らく、もっとも堪えるであろう類の言葉。それが、このうえなく適切なタイミングで放たれた。
 その場で転げ、のたうちまわりたいという衝動に駆られる。これがもし、皮肉とか嫌味で言われた言葉だったとしたら、ひどく傷ついたかも知れない。真人あたりに言われようものなら、少なくとも数日の間は、口もきいてやるものか、と腹を立てたに違いない。
 それらの反応を起こさせなかったのは、その言葉を放ったのが他ならぬ荻野さんで、そこに、健四郎をからかおうという類の意思が、ほとんど感じられなかったからだ。
 ……それどころか。
「……で、ですよね……?」
 言った後、しばし言葉も返さない健四郎に、不安そうなそぶりさえ見せている。本当に、純粋な気持ちで尋ねたのだろう。あたかも、美徳を称えた言葉だったかのように。
 それはむしろ正しい。親のことを思う子の気持ちが、恥ずかしいものであるはずがない。
 だが、人間の心というのは未熟なもので、正しいことや、きれいなものだけでは作られていない。それどころかむしろ、そうしたものが、心を傷つけることさえある。そういう、正しいもので傷つく未熟さは、誰もが少なからず持っているものであり、それを責めることなどできはしない。
 そうしたことを、荻野さんに伝えることは簡単だった。いや、何も言わなくとも、このまま気まずい沈黙を保っていれば、彼女は自ずから、自分の言葉のうかつさに気づくだろう。本質的には、鈍い子というわけでは決してない。人の気持ちには敏感なところもある。だから、気づけばきっと、慌てて平謝りに謝ってくるに違いなかった。
 ――彼女にそうさせることで、なにか、尊いものに傷がつくというような気がした。
「……………………うん、まあ」
 小さく、消え入るような声でうなづく。
 十六歳の男子の精神が行える、最大限の譲歩だった。
「ですよねっ」
 しかし、こんな弱々しい肯定に、荻野さんは、とても嬉しそうな表情を見せてくれたのだ。
「そういう荻野さんこそ、お父さんお母さんのことが大好きみたいじゃないか」
 健四郎にはまだどこか、素直になりきれないものが残っていたのだろう。皮肉めいた感じで返してしまった。
 ところが、そんな言葉を放ってしまった後悔も。
「はい! 私も、お父さんとお母さんのこと、大好きです!」
 まばゆいような笑顔で、力強く放たれた言葉が、一息にかき消してしまった。
 健四郎は、自分がなぜ彼女に惹かれたのか、わかったような気がした。単に、慕ってくれることが心地よいというだけではない。自分にとって尊いもの。大切だと思う感情。そうでありながら、どこかつまらない体裁で、表に出すことがはばかられてしまうもの。彼女はそれを、自分の中から引き出してくれるのだ。彼女自身が、それを輝かしく見せ付けてくれることによって。
 きっと健四郎は、最初に会ったときから、そういうものを彼女から感じていたのだろう。
 なんだか、とても嬉しかった。
 思わず、苦笑が漏れてしまう。
 健四郎に笑われて、戸惑った反応をみせる荻野さん。この笑いは、彼女の中の尊いものを、いくらか傷つけるものだろう。それは仕方なかった。健四郎自身が、荻野さんと全く同じになれるはずがないのだ。
「……え、えっと……」
 荻野さんは、少し不安そうになり、健四郎の反応をうかがった。
「そっか。ご両親のこと、大好きなんだ」
「は、はい」
「なんか、荻野さんって、いいな」
「……〜〜っ」
 苦笑交じりに荻野さんを称える。そんな、どこかからかったような感じの言葉を受け、彼女は少しだけ、身をすくめて恥ずかしがった。
 悪いとは思いながらも、健四郎は、荻野さんのそんな反応が、かわいいなと思った。
「へ、変なんでしょうか。お父さんとかのこと、好きだって思うの」
「いや、そんなことないさ。笑ったりしてごめん」
「友達にはよく笑われます。子供っぽいって言われますし」
「……まあ、それはそうかも」
 ただでさえ荻野さんは、背も低く、いかにもまだ中学生くらいにしか見えない。それであそこまで無垢な言葉を放てば、幼く思えるのは仕方ない。
「でもそれで、馬鹿にされたりはしないでしょ?」
「は、はい。それは、たぶん」
「だったら別にいいさ。もし、どうしても恥ずかしかったら、あまりおおっぴらには言わないようにすればいいだけで」
 俺がそうしてるみたいに……とまでは続けなかった。そういうところが、自分の弱さなのだと思う。大人の体面を保つことが、必ずしも強いというわけではないと、彼女を見ていて改めて理解できた。
「俺もさ。昔はマザコンって、よくからかわれたよ。それが恥ずかしくて、今はなるべく隠すようにしてるけど」
 昔は、そうすることにさえ抵抗があった。周囲の、反抗期の友達とは反対に、親のことを思って何が悪い、と反発さえした。高校生になった今でも、心の奥底ではそういう思いが残っている。
「やっぱり、恥ずかしいものなんでしょうか」
「まあね、かなり恥ずかしい」
 こと、男の子の身の上では。
「わ、私も、ちょっとくらいは、恥ずかしいと思ってますけど……」
「それでいいんじゃないかな。恥ずかしくたって、好きなものは好きで」
「で、ですよね」
「そうそう」
 そう言って、笑いあった。
 まるで、自然と笑みがこぼれてくるみたいに。
 弁当に手をつけながら、色々な話をした。荻野さんの両親の話から、料理の話。お弁当の話。学校の話。基本的な価値観のようなものが、すごく似通っているせいか、何を話しても、よく通じた。
 ……そういえば、いつの間にか、ずいぶんと自然に、荻野さんと話せるようになっていることに、ふと気がついた。最初、何を話していいかわからなかったことが、まるで嘘みたいに思える。朝に姿を見かけても、声もかけられなかったことも。
 それはきっと、己の弱さを守るための殻だったのだ。人間ならば、誰もが持ち合わせている、自分を守るための殻。それが必ずしも、恥ずかしいわけではない。しかし、その殻を外すのには勇気が必要で、それは尊敬に値することだと思う。
 そういう意味でも、荻野さんが見せてくれたのは、間違いなく強さと呼べるものだった。
 健四郎も、少しくらいは勇気を振り絞れたと思った。こうしてお昼に誘ったことそのものが、かなりの勇気が必要なことだったからだ。妙な体面を繕ってしまったので、誇る気にまではなれないけれど。
 心地の良い日差しと風の中。健四郎はいつの間にやら、荻野さんを誘った目的だったはずの、花壇ことなど忘れていた。


 そんな昼休みを過ごしてからというもの。
 慣れというべきか。それとも、もっと心の深いところで、何かを乗り越えられたのだろうか。
 一度、殻を破ってしまえば、二度目からは抵抗がなくなってしまうもののようで。
「おはよう」
「わ、先輩。おはようございます」
 朝、登校中に姿を見かけた荻野さんに、こうして普通に声をかけることができるようになっていた。
 それどころか、下校途中や、一年生の教室のある棟に立ち寄ったときなどにも、人ごみの中に、荻野さんの姿がないかと探している自分がいることに、健四郎は気がついた。
 さすがに、一緒に食事をするようなことは、あれきりだったけれど、昼休みに偶然会って、しばらくの間立ち話をするくらいのことは何度もあった。
 友達は多いけれど、結構人見知りが激しい健四郎にとっては、わりと珍しいことだった。ましてそれが、部活などの接点があるわけでもない下級生の子であればなおさらだ。
 人一倍、他人に気をつかう性格のせいか、健四郎は、友達ととりとめもないおしゃべりをすることが、あまり得意ではなかった。考えてみると、自分から進んでおしゃべりするような相手は、真人や生徒会の仲間のほかには、それほどいなかった。荻野さんは、その数少ない一人だ。


 ――久しぶりに、生徒会の全員が揃った日。
 健四郎がふと、「これはと思う一年生が、いないわけではない」と漏らしてしまったのは、そういう頃のことだった。



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