『ガクらん』   <PRE  NEXT>



 12・……褒めて、欲しいです。




 荻野恵という少女は、基本的にも応用的にも、恥ずかしがり屋というにふさわしい性格の持ち主だった。
 内向的というわけではない。性格は明るいし、万事に控えめではあるが、基本的には、はきはきとした女の子である。
 だが、とにかく恥かしがる。
 人から何か褒められれば、それだけで顔が赤くなるし、多くの人から注目を浴びたりすると、緊張のあまり行動不能になることもしばしである。
 中でも、こと恋愛がらみのことになると、その照れ屋ぶりは真骨頂を見せる。
 思春期の少女としては、決しておかしい反応ではないのだが、しかしそれにしても、恵のそれはやや過剰と言わざるをえないだろう。
 恋愛絡みの事柄全般に関する知識や認識が欠けているというわけではない。むしろ、知識だけならば人並みか、それ以上にあるだろう――全て、本などから仕入れたものだが。
 しかし、そのようなことに、いざ直面しそうになると、
(○×■♯*$%―&¥――っ!!)
 このような感じでパニック状態におちいる。かろうじて、それを表にまで出さないでいられるくらいだ。
 そう。つい先ほどの教室でも――。
 恵はまさにその弱点を親友二人に突かれ、たまらずそこから逃走してきたのだ。
(ううーっ……さえちゃんも夕ちゃんも……)
 昼休みの廊下で息を切らしつつ、恵は先ほどの動揺を鎮めようと必死だった。
 武田健四郎先輩。
 顔すら知らなかったが、恵にとって、密かな尊敬の対象だった人。
 当然、嫌いではない。むしろ好意的な感情で胸があふれんばかりだ――しかし。

  「――ぶっちゃけた話、武田先輩のこと、好きになっちゃったとか?」

 (……うああんっ、どうしていきなり、そういうことにしちゃうのっ!?)
 ただでさえ、そういう方向の話は苦手だというのに。
 恵にとって先日の邂逅は、とても嬉しいことであると同時に、極度の緊張をも強いられたものであった。
 そんなところに突然、さらに生々しい意見を求められてしまった日には、恵の精神はあっという間に沸点へたどり着いてしまうだろう。
 しかし、別にそのことで、あのふたりを責める気はない。
 その手の話は極度に苦手ではあるのだが――そこから逃げたくないという気持ちは、消しがたいのだ。
 昔、この手の関係で、彼女らとはちょっとしたいざこざもあったのだが、それだって、自分が乗り越えなくてはならないことだったのだと思っている。
 苦手なことを乗り越える。恵にとって、それは必要なことだから。
 だが、こと今回の、武田先輩の話にそれを絡めるというのは、どうかと思わざるを得なかった。
 いくら出会いが衝撃的だったとはいえ(それだって、恵にとっての話だ)、唐突過ぎるし、なによりも先輩に対して、そもそも失礼という気がするのだ――もっとも、その言い分だって、単なる言い訳と言うことだってできるのだが。
 そう、失礼である。不遜である。そういう感情こそが何よりも先立った。
 だいたい。いくら助けてもらったからといって、武田先輩が評価してくれたのは、この荻野恵という個人ではなく、自分の行為そのものなのだ。
 ――評価してくれた。自分の行為を。
 そのことが、純粋に嬉しかった。
 だから恵としては、その純粋な喜びを、他のことで汚してしまいたくない……という思いがあるのだ。
 武田先輩に対し、好きとかそういう類のことを避けたい理由を、あえて挙げるならば、つまりはそういうことだ。
 ……もっとも、正直に言ってみれば、単に「恥かしい」というのが一番大きいのだろうけど。
 まあ、とにかく。
 自分の武田先輩に対する思いは、純粋な敬意である――恵は改めて、そういう認識を持つことにした。
 ごちゃごちゃした思いを、全部、心の奥底に押し込めて。
 気持ちを整理して、そうした認識を確たるものにすれば、このどうしようもないどきどき感とも、真っ向から向き合えるというものだ。
 ――どきどき感。
 あの日の掃除中。一人で無理をして、それでやっぱり失敗して。それで惨めな思いをしている、ちっぽけな一年生を助けてくれた、ステキな上級生。
 その正体はなんと、あの生徒会の人だったというのだから、それで尊敬の念を抱かないほうがどうかしている。
 助けてくれただけことだけでなく、ちょっとだけお話をしていただいた内容からも、その誠実な人柄を垣間見ることができた。
 もっとも、恵はその時、萎縮しきってしまい、ロクにお話することができなかったのだが――ともかく、そんな人が、自分の掃除好きに同調してくれた。
 しかしそれは別に、恵という個人と同調したわけではないのだろう。綺麗好きとかお掃除が大切だとかは、人間として基本的なことである。
 基本的ではあっても、わりとおろそかにされがちな事ではあるのだが、武田先輩はそういう面で、取りこぼしのない人なのだろう。決して、自分と感性が合う人だとか、そういうことではないはずなのだ。
 ――それでもよかった。
 たとえ単なるコモン・センスであろうとも、恵にとっての拠り所が、尊敬に値する人に認められた事実は確かなのだから。それだけで恵は、自分にほんのちょっぴり誇りを持てた。
 こういう誇らしい気持ちは、恵が一番欲している類の感情だった。
 自分に自信を持ちたいから。自信を持てるだけの強さが欲しいから。こういう誇らしさは、恵の望みを叶えるための、何よりも大きな糧になるはずだ。
(もっと。もっと頑張ろう――!)
 恵は、改めてそう思う。掃除に関してだけではない。大げさだが、それこそ人生全般を、さらに精力的に取り組んで行こうとさえ思えた。
 自分はまだ、全然臆病だけど。至らないところだらけだけど。それでも、自分の信念を貫くことで、尊敬すべき人に認められることができたのだ。それは恵にとって、大きな励みになった。
 だから、色々と頑張ろうと思う。自分がすべきことを。
(……さし当たっては、こないだのことを、謝らなきゃ……)
 そう。恵はあの時、そんな励みを得た瞬間だったにも関わらず、先輩の正体を知った驚きのあまり、そこから逃げるように去るという失礼をしてしまったのだ。せっかくの励みであり、大きな一歩だったにも関わらず、その直後からいきなり味噌がついてしまった形である。
 ――しかし。そういう悪い所を、改めようとすること自体は、前向きで悪くないと思うのだ。
 武田先輩に、先日のことをお詫びすること。
 気はやや重い。緊張もある。
 だが、謝らねばと思う恵の心にはどこか、高揚感さえあるように思えた。


 ……そんな決意をしたところ。
 恵はふと、廊下に、ちょっとした人だかりができているのを見つけた。
 階段のそば。後者の別棟への渡り廊下に、女の子たちがやけに群がっていた。
 どうしたのかなと、その集団に注目する。
 新一年生の女子生徒たちが、なにかを取り囲むかのように集団を作っていた。それはまさに、黒山の人だかりという感じである。
 その中央には、周りの子から比べて頭一つほど抜けた、長身の人影があった。
 さらりと伸びた黒髪。しなやかな猫科の肉食獣を思わせるスタイル。
 そして――はっとするような、美しい顔。
 その顔には、恵にも見覚えがあった。
 つい先日。入学式の次の日に行われた、新入生歓迎集会。その中で、この麗しいお顔を、確かに恵は目の当たりにしていた。
 その、取り囲まれている人物は、まごうことなく。
 『麗人』こと昭葉生徒会三年書記の、綾部葉先輩であった。
(うわあ……)
 恵もふと、その美しい姿に目を奪われる。
 何も、初めてその姿を目にしたわけではない。現職の生徒会三役の面々は、先の新入生歓迎集会で司会進行を執り行っていたのだ。恵に限らず、一年生であれば、その日に休んでいない限り彼女の姿を見ているはずだ。
 綾部先輩はメインの進行役ではなかったので、司会として、そう注目を集めたわけではない。
 だが、それにも関わらず、この人のお顔や姿には強烈な印象が残っている。それほどの美人だった。
 もちろん、生徒会三役の他のお二方も、美人であることは確かであり、それぞれに強い印象に残る特徴をもっていらしたのだが、こと、女性として完成された美しさという点においては、この綾部先輩の存在は際立っているように思えた。
 まず、背が高い。百七十センチ台は確実にあるだろう。そしてそのスタイル。昭葉の制服は、比較的体のラインが分かりにくくなっているデザインなのだが、それにも関わらず、綾部先輩のスタイルが日本人離れしていることは明らかだった。そのくせ、顔はとても小さく見える。モデル体型という言葉は、この人のためにあるという気さえするほどだ。さらりと伸びた黒髪は、シャンプーのCMにそのまま出演できそうなほどにつややかで、痛みやすいくせっ毛をした恵には、羨ましいという思いを通り越して、別次元の存在とさえ思えるほどだった。
 しかし綾部先輩には、そんな誰もが羨むようなスタイル以上に印象的な部分がある。
 はっとするほどに澄んだ、鋭いまなざしだった。
 それは、単に美人顔というだけでは、説明がつかないものである。その切れ長の瞳には、どこか引き込まれるような感じさえある。もし、あの目で迫られてしまったら――そんなことがあるかどうかは別として――そのまま身も心も捧げてしまいたくなってしまうのではないか、という気さえする。
 強いて例えるならば、野生の肉食動物を見たときに感じるものに近い。それも、ヒョウとかチーターとかの、猫科の大型肉食獣から受ける印象に。
 とはいえ、それは決して、凶暴性などの類ではない。一個の生物としての完成度が、陸上生物としての頂点に立つ獣のに通じている……とでも言えばいいのだろうか。広告などにしばしば用いられる、美しい獣のグラビアを見て受ける印象こそが、綾部先輩のまとっている雰囲気に近いのだ。
 プロポーションが良いというだけでなく、綾部先輩からはどこか、力強いしなやかさが感じられた。実際に、先輩はスポーツも万能で、ずば抜けた運動神経の持ち主らしい。獣の持つ美しさに通じるというのは、そういうところから受ける印象なのだろう。
 非の打ち所すらない、美しく完成された女性――ともすれば、近寄りがたい存在とさえ言えるかも知れない。まして、昭葉の生徒会役員という肩書きさえあるのだ。
 だが、そんな崇高なまでの美しさを誇る綾部先輩は、その印象と反するかのように、こうして新一年生の女の子たちに囲まれている。それも、ただ囲まれてるというだけではなく、いかにも親しげにされているのが見て取れた。
 恵も最初、集会のときに思ったことなのだが、先輩からはどこか、その圧倒的な存在感とはまた別に、とても親しみやすそうな雰囲気があった。
 あえて言うならば、これもまた、綾部先輩の目が持つ力かも知れない。
 切れ長の、圧倒的な印象のある瞳。美しい獣のまなざし。
 だが、そんな瞳が帯びた色は――限りなく優しげなのだ。
 それは今こうして、一年生たちに囲まれている綾部先輩の顔を見れば、よくわかることだった。
「綾部先輩って、美術部なんですよね! 一階の廊下に飾ってある絵、先輩が描いたって聞いたんですけど?」
「すっごい、すっごーい! 今度、部活見学に行っていいですか!? いいですよねー!?」
「ちょーっと、あんたたち馴れ馴れしいー! ……それはそうと先輩、私たちついさっき、家庭科の調理実習だったんです。作ったの、ラング・ド・シャなんですけど、あの、もし良かったら、食べていただけませんか?」
「あんたこそ激しく馴れ馴れしいー!」
 ……女の子たちは、綾部先輩に群がって、口々に好きなことを口走っていた。
 恵にだって、その気持ちはわからなくもないのだが、突然廊下で囲まれて、こんなにも騒がれてしまったら、さすがに迷惑に思われるだろう。
 だが綾部先輩は、嫌そうなそぶりをおくびにも見せなかった。ほんの少しだけ困ったようにしながらも、そんな子たちの言葉に、それぞれきちんと答えてあげているようだ。わずかたりとも、邪険にしているようには見えなかった。
 綾部先輩はあまり表情を変えないため、その態度は、ぱっと見クールにも思えるけれど、間近で目の当たりにすると、全然そんなことはなかった。よく見なければ分からないが、たとえば今はまるで、幼稚園の保母さんのような優しい表情を見せている。
 そんな様子を見て恵は、まるで、やんちゃな子供たちを見守る優しいお母さんライオンみたい――と思った。
 カッコよくて、優しくて。
 まさに、昔から生徒の信望を一身に集める、昭葉生徒会にふさわしい人だった。
 気が付けば、いつの間にか恵も、綾部先輩を囲む群れのひとりになってしまっていた。遠巻きにしてはいたが、綾部先輩に惹き付けられていたという意味では、他の子たちと何も変わらないだろう。
「……みんな。そろそろ、教室に戻らないと」
 ふと、綾部先輩が言った。それも、一年生たちの矢継ぎ早に放たれるお喋りを、一切遮ることないタイミングで。
 確かに、そろそろ昼休みが終わる時間だ。
「……ね?」
 穏やかに。かなり控えめに言われているはずなのに。
 綾部先輩の言葉は、まるで魔法みたいに、心に入り込んできた。
 あれだけお喋りに盛り上がっていたにも関わらず、周りを囲んでいた子たちは、その一言だけで我を取り戻し、先輩の言うとおり、それぞれに教室へと戻っていったのだ。……最後にきちんと、先輩へお辞儀をすることも忘れずに。
 ……そんな魔法がかかる様を、恵は、ぽかんとした表情で見ていた。
「どうしたの?」
 そんな風に、呆けていた恵を見て、怪訝に思ったのか――綾部先輩が、声をかけてきた。
 声をかけてもらえるとは思ってもおらず、恵は、まるで突然猫に襲われた小鳥のように心を乱した。
「!!! ……い、いえっ、なんでもありませんすみません失礼しましたっっ!」
「……あ」
 気が付けば、その場に一人だけ残っていた形になってしまっていた。
 恵は慌てて言いつくろってすぐ、羽毛を撒き散らしてばたばたと飛び立つ雀のように、その場から駆け出そうとし――廊下を走ってはいけないと思い直し、全速力で歩き去った。
 ……最後、何か言われそうな感じもしたが、まず、言われたとおり教室へ戻らないと、という思いが何よりも先走った。
 また、「やってしまった」のかも知れない。つくづく自分って進歩がない……と自己嫌悪する。
 しかし、今のに限って言えば無理もない――あくまで、人一倍照れ屋な恵の基準で言えばの話ではあるが。
 昭葉生徒会。そのカリスマぶりを、確かに体験した。
 もちろん、先日の武田先輩の一件もそうだと言える。だが、あれは言ってみれば不意打ちで――そのため、知った瞬間に逃げ出してしまった。
 いや、今だって、ほとんど逃げ出したのと同じではあるのだが。
 でも、恵は改めて、この学園の生徒会が、あれほどまでに生徒の心を集めていたのかがわかったような気がした。
 ――だけど、不思議と。
 この綾部先輩から受けたどきどきと、武田先輩から受けたそれとでは、何かが違うような気もした。
 これは一体、どういうことなのだろう。直に会って、何かしてもらったかどうかという差かも知れない。
 だが、のべつまくなし緊張して、いつも慌ててばかりの恵には、そのあたりの正しい判別はつけられそうになかった。
 恵が自分の教室に戻り、戸を開けたと同時に、昼休み終了のチャイムが鳴った。


 ……それから、数日後の放課後。
 恵はふたたび、玄関の掃除を行っていた。
 だが今日は、恵の班が掃除を担当している日ではない。
 であるにも関わらず、恵は一生懸命に、くつ箱の周りの土ぼこりをちりとりで集めたりしているのだ。
 ――まるで、あの日のように。
(……べ、別に、変なことを期待してるわけじゃなくて)
 心の中で、なにやら意味のない言い訳をする恵。
 だが本当に、特別な意図があって、この場所を掃除しようと思ったわけではないのだ。
 今日、ホームルームも終わって、さあ帰ろうというときに。
「荻野さーん! お願い、今日掃除変わってくれない? 今日夕方のドラマの再放送、ビデオに予約してるかどうか自信なくって……」
 そう友達から言われたので、快く引き受けた。ただそれだけのことである。
 ――それなのに。恵は、妙な言い訳じみたことを思っている。
 掃除の場所が、この玄関だった――それがたぶん原因なのだろう。教室の掃除ということであれば、何の逡巡もなしに、お掃除を頑張ろうと思うだけだったに違いない。
 この、玄関掃除を頼まれたとき、少しだけ悶着があった。
「おいおい。そんな理由で掃除をさぼることないだろう?」
「そーそー! めぐちゃんを便利屋にしちゃいけないんだからー!」
 夕子とさえ。このふたりが、その友達を非難した。
 確かに、ドラマの録画が気になって……というのは、恵もちょっとどうかと思わないではない。だが、本人にしてみれば、大切なことなのだろう。できることならば、なんとかしてあげたいと思う。
「ううっ、津島さんはともかく、さえっちにまで言われるなんて……」
「にゃにおー!?」
 その友達が、こんなことを言うのも無理はない。さえは、掃除が苦手だと公言してはばからないからだ。
 だが、ふたりがこんなことを言うのは、実のところ、恵のためなのだ。
 小学校時代、そして中学生時代。恵はしばしば、クラスの便利屋みたいな立ち位置に置かれることがあった。
 別にいじめられているのではない。ただ、何かと物事を引き受ける恵は、周囲に遠慮がないと、どうしてもそういう損な役割を押し付けられる立場に置かれてしまう。
 だからふたりは、恵がそういう風になってしまわないよう、昔から気を配ってくれているのだ。今回のように。
 ふたりのその気持ちは、すごく嬉しかった。
 しかしその反面、この友達の力になってあげたいと思うことも確かなのだ。
 板ばさみ状態である。
 ……さて、引き受けるか否か。
 恵内部の道徳に照らすならば、自分のお仕事は、できることなら自分でするべきだし、親友二人の気持ちを汲むべきだという思いが、まずなによりも強い。ドラマならば、もし見逃したところで、他の誰かがビデオに録画しているだろう。
「うー。それじゃあ、やっぱり自分でやるかなあ……。玄関の掃除、時間かかるから、気が気じゃないんだけど……」
 言った友達も、思い直したような口ぶりだし、ここはやはり――と思いかけたところ。
 玄関の掃除。確か、そう言った。
 ――それを聞いて、恵は思わず、
「……い、いいよ? お掃除、替わっても」
 気を配ってくれた、親友ふたりに悪い――と感じているにも関わらず、そう口走ってしまっていたのだ。
 後ろめたい。なぜかそう思った。
 玄関の掃除――そのことで、ふたりに何か言われるかと思ったが、
「いいの? めぐちゃん」
「恵がいいなら、別にいいけど……」
 ……単に、気を使ってくれただけだった。
 実際のところ、自分の考えすぎなのかも知れない。いや、恐らく、間違いなく考えすぎなのだ。
 考えてもみれば、玄関の掃除はこれから一年間ずっと続くのだ。ましてこの玄関は、全校生徒が使っているものだ。帰る時間だって、生徒ごとにまちまちで。
 そう考えると、恵が捕らわれている連想など、いかにも夢見がちな思い込みだと痛感させられた。
 ――しかし。それでも恵は。
 玄関の掃除となると、あの、武田先輩が助けてくれて、掃除を手伝ってくれた日のことを思い出さずにはいられなかった。
 だって――本当に、嬉しかったから。
 馬鹿な思い込みだとわかっていても、たとえこれから先、あんな偶然は二度と訪れないとわかっていても、恵はこれから一年間ずっと、この玄関を掃除する時はいつも、武田先輩のことを思い出すに違いないのだ。
 あの日のことは、恵にとって、それだけ大きなものだったのだ。今日の、掃除を替わった件で、そのことに気が付いた。
 だから。こうして掃除をしていても、意識はついつい――次々と訪れる生徒に行ってしまう。帰宅しようとする生徒の顔を、うかがってしまう。
(――武田、先輩……)
 ……また、来てくれたりしないだろうか……と。
 自分は一体、何を求めているというのか。
 会いたいと思う理由がないわけではない。あの時。先輩が生徒会の人だと知って、逃げ出してしまったこと。その失礼を謝りたかった。
 だが、それだけならば、この玄関で待つ必要などないではないか。
 極端な話、武田先輩の教室を訪れて、直接謝ればいいのだ。……もっとも、それができるくらいならば、そもそもあの時に逃げたりしていないわけだが。
 ……改めて、自分の臆病さ加減が嫌になる。
 結局のところ、恵は、あの時の嬉しさが忘れられないだけなのだ。
 恵が、掃除を好きなのは確かだ。だが、いくら好きだからといって、それが辛いと思うときがないわけではない。
 一人ぼっちで、とても重たいものを運んだり、大変な作業をすることは、やはり辛い。
 それでも恵が、そういったことを率先して行ってしまうのは、責任感というよりは、むしろ単なる強迫観念に近いものだ。
 それは結局のところ、自分の頑張りやこだわりを、認めて欲しかったというだけのことなのかも知れない。
 今こうして、しなくてもいい掃除をしている自分を見つめると、つまりはそういうことなのだとわかる。
 何と単純なのか。何と底が浅いのか……そういう思いに苛まれる。
 しかし、それでもなお、恵があの時受けた喜びは消しがたかった。
 そして、それを再び得たいと思う心も。
 ……恵だって、別に期待しているわけではない。また、あんな風に武田先輩が来てくれて、一緒に掃除してくれたりするような、虫のいいことは。
 だがせめて、あの時の思い出にすがるかのように、玄関の掃除を一生懸命に行うくらいなら、別にいいのではないか。
 情けなくても、人のためにはなる。
 あの時受けた喜びから得た力を、たとえ些細なことでも、良い方向に発揮できるのであれば、それでいいと思った。
 ……そんなことを思っていたせいか、今日はあんまり、掃除にも気が入らなかった。いつもよりも、明らかに手が遅かった。
 後で、自分がまた運ぼうと思っていた、空き缶用のボックスも、気がつけばすでに、この班の男子が運んでいるところだった。
 つい、意気消沈しそうになる。
(……情けないにも、ほどがあるよ)
 いくらなんでも、すがりすぎだと思った。
 気持ちを切り替えよう。
 自分は掃除をちゃんとする。掃除当番の最中は、それだけを考えていればいいのだ。
 つまらないことで手を止めないで、さっさとちりとりを終わらせるべし。そう思い、作業に集中しようとしたその時。
 ――ふと、視線を感じた。
 何かと思い、振り返ってみて――叫び声を上げそうになり、慌ててちりとりの方を向きなおす。
(――嘘)
 武田先輩だった。
 一瞬見ただけで、すぐに視線をそらした。だから、本当に武田先輩だったのか、自信が持てない。
 だが。こちらを見ていた。
 確認しようにも、もう一度そちらを向く勇気がない。
 なにせこちらは一度、思い切り不自然に視線を逸らしてしまっている。それでは、知らなかったふりは通じなくなる。
 ――というか。
 なんで自分は、思い切りその視線を見なかったことにしようとしているのか――!
 謝らなきゃ、いけないのに。
 いや、本当はそれ以上に、あの武田先輩に、何か言いたいことがあったような気がする。
 それなのに、どうして視線を逸らしてしまったのか。
 振り返んなきゃ。振り返んなきゃ――!
 でも、体が動かない。怖くて。
 いや、どうして怖いだなんて思うのか。あんなに優しかった先輩に対して。
 それでも、どうしても、そちらを再び見ることはできなかった。
 恵はそのまま、じっとちりとりで埃を集めているそぶりをし続ける。手はろくに動かず、身じろぎさえできていない。
 どうして。
 どうして、自分はこんななのか――。
 泣きたくなる。消えてしまいたくなる。
 だが今は、そんな風に自己嫌悪に浸る余裕さえない。
 武田先輩……と思われる人物の気配が、近づいてきたのがわかった。
 背中を向けている自分を、見ているだろうか。それとも、気付かないでいてくれるだろうか。
 このまま、気付かないで、通り過ぎてくれたら……それは。
 それは……。
 足音が止まった。ちょうど、恵の真後ろあたりで。
 恵は、自分の呼吸の音さえひそめた。
 気配は、動かなくなった。
 そこから去ろうという動きも、靴を履き替えようという気配さえなかった。
 ――何を、しているのか。
 まさか。
 恵のことを、見ているのか。
(…………っ!)
 動けなかった。自分の体が、石になったと思った。
 体どころか、あたりの空気さえ、その動きを止めていた。
 ……その沈黙は、たぶん、時間にすれば十秒ほどだったのだろう。
 しかし、石化していた恵には、永遠にさえ思えた間だった。
 どうにかして。どうかここから、助け出して……と祈る。
 だが、何から助け出されるというのだろう。それは間違っても、この後ろにいる人ではない。
 では、なにが恵を追い詰めている――
 ……と、そのとき。
「……あー。あの……君?」
(びくうっ!)
 ほとんど、失神してしまいそうだった。
 ついに。
 ついに、その後ろの気配から、声をかけられてしまった。
 声を、かけさせてしまった――自分からは、振り返れなかった。
 その呼びかけは、あの時と同じく、遠慮がちで、優しい声で。もうそれだけで、誰かが確信できてしまった。
 情けなさと、申し訳ない気持ちで、消えてしまいたくなりながら、恵はゆっくりと、後ろを向く。
「……えーと……?」
 間違いなく、あの日の人。昭葉生徒会二年、武田健四郎先輩だった。
 そのお顔は、困惑と、戸惑いの色を見せていて、そんな表情をさせた原因が自分にあると思うと、恵はもうその顔を見続けることさえできなくなった。
 うつむく。そのお顔を見られない。
 つぶやく。……すみません、と。
 しかし、声にはなってない。自分自身でさえ、その言葉が聞き取れない。
 謝ろうと思っていたのに。
 それだけではない。もっと、なにか、言いたいことがあったはずなのに。
 つまらない、理由さえない保身のために、こんな千載一遇を、台無しにしてしまった。
 無視したと思われたはずだ。先輩を一目見て、見なかったことにしようとしたと思われたはずだ。絶望的なことに、それは、事実なのだから。
「…………っ」
 言葉を必死に出そうとする。しかし、声にならない。
 言葉が、死んでしまっていた。
 それは、何を言ったらいいのか、わからないから。
 謝ってどうするというのだ。無視したいほどに、先輩の事を避けたかったのではないのか。
 逃げ出せ。いつものように、逃げてしまえ。
 そんな心の声が聞こえてくる。
 ――でも。でも、それだけは――。
「ご、ごめん。……掃除の最中……だったんだよね?」
「……はい」
 先輩が、気をつかって尋ねてくる。なんとか、はい、とだけは答えられた。
「いや、何か、じっとしていたから。もしかしたら、気分でも悪いのかな、と思って」
「……」
「……えーと。大丈夫……かな?」
「……(こく)」
 うなづく。うつむいていて、ほとんど首を動かせなかったけど。
「あー……そうか」
 先輩は、何か言葉を捜すかのようにしていた。
 何を。こんな、失礼で情けない後輩に、何を言おうとしてくれているというのか。
 ほんの少しだけ、顔を上げて、先輩の顔をのぞいてみる。
 困っていた。明らかに、困った顔をしていた。
 どうしてなのかはわからない。だが、その原因は、確実に自分にあるのだろう。
 困った顔のまま、先輩は、口を開いた。
「その、この間は……ごめん。……い、いや。今も、なんだけれど」
 ――ごめん。
 先輩は、そう言ったのか。
 どうして。
「なんか、脅かしちゃったみたいで。お節介して、掃除の邪魔……したみたいだから」
 先輩の言っていることが、すぐにはよくわからなかった。
 どうして、自分なんかのために、先輩が謝ってるのか。
「なんていうか、迷惑……かけたと思うんだ。いや。どうか気にしないで欲しい。すまなかった」
 迷惑。
 迷惑、だって――!?
「そ、それじゃあ」
 そう言い残し、先輩は、そこから行ってしまおうとした。
 ――泣きたくなった。
 どうして。あんなに嬉しいことをしてくれたというのに、どうして。
 先輩が、自分なんかに申し訳なさそうにしてなくちゃならないのか。
 こんな悲しい勘違いをさせてしまって、良いというのか。
 ……良い、わけがない。
 このまま、何も言わないままで、良いわけがない。
 ――伝えたいことが、あるのだ。
「……まって、ください」
 声を出す。しかし、まだ小さい。届いていない。
 すでに後ろを向いて、歩き出している先輩に、届いてはいない。
「――待ってください!」
 ――届いて! そう祈って、声を振り絞った。
 先輩が、振り向いてくれた。
「……わ、私――嬉しかったですっ!」
 絶叫というほどには声を出せていなかったけれど。でも、恵は、心から振り絞るかのような思いで、思いを口にしていた。
 ……それは、言おうと思っていたはずの、謝辞の言葉ではなかった。
「先輩に! 先輩に、お掃除手伝ってもらえて、すごく、すごく嬉しかったんです!」
 必死の思いで、照れも思惑も何もかも振り捨てて、出てきた言葉。
「あのとき、一人で空回りして頑張って! それで何か、とても惨めな思いをしてて! でも先輩は、そんな私の事、ちゃんと見てくれたんですっ! 嬉しかった! 本当に!」
 本当に、心から言いたかったこと。
 それは、単純に嬉しかったという気持ちそのものだった。
「……めいわくだなんて……とんでもありませんっ……!」
 最後の言葉は、まるで、先ほどまでの言葉で、全部の音を使い果たしてしまったかのように、小さくなった。
 でも、聞いてくれたと思う。先輩は今、恵のことを、見てくれている。
 ……この前、綾部先輩から受けたものが、武田先輩とは違うと思った理由がわかった。
 自分は、武田先輩という人間に、求めているものがあったのだ。
「……あのときは……先輩が、生徒会の人だったって知って、すごくびっくりしちゃって……それで、私、逃げちゃって……。本当にすみませんでしたっ!」
 気がつけば、言葉が止まらなくなっていた。ついさっきまで、一言も放てなかったというのに。
 色々なことを、話していた。
 以前から、先輩のことを知っていたということ。男子なのに、昭葉の生徒会で活躍していて、すごいと思っていたこと。そんな人が突然目の前に現れて、どれだけ自分がびっくりしたかということ。
 お掃除するのは、嫌いじゃなくて。きれいになった部屋を見るのが、大好きで。
 そんな自分の喜びを、先輩が認めてくれたような気がして、とても嬉しかったということ。
 そんな恵の、興奮しすぎで支離滅裂になりかけた話を、武田先輩はしっかりと聞いてくれていた。
 ……全部話し終わって、恵はふと、怖いような気持ちになった。
(……これって、単に、変な子みたいな……?)
 何を。何を唐突に、語ってしまっているのか。いくらなんでも、突然すぎだ。
 言ったこと自体には、後悔はない。
 だが先輩が、それで気味が悪いと思ってしまったなら。
 自分のことは仕方ないけれど、先輩の心の平穏を乱してしまったということに対し、いたたまれない気持ちになる。
「……その」
 恐る恐るといった感じで、先輩が尋ねてきた。
 やっぱり、引かれてる――?
 ……そう思ったが。
「なんて言ったらいいのか、よくわからないけれど……」
 先輩は、戸惑ったかのようなそぶりは見せたけれど。
「ありがとう。……そんな風に言ってくれて、嬉しい」
 ありがとう。嬉しい――そんなことを、答えてくれた。
 え――?
 自分のことで、嬉しいと思ってくれた……の?
 動揺と戸惑いのあと、恵に訪れたのは――まぎれもない、歓喜。
 あの時、味わったのと同じくらいの、嬉しい気持ちだった。
「あの時も言ったけれど、俺も、綺麗になった部屋とか床とか、そういうのを見るのは大好きなんだ。だから、きちんと掃除してくれている子がいたのが、嬉しくて」
 それで、つい助けたくなったんだ――先輩は、そう言ってくれた。
「荻野、さん……で、いいんだよね?」
「ど、どうして、私の……名前を?」
「いや……君の友達が、そう言ってなかった……っけ?」
 そこまで、自分のことをちゃんと見ていてくれたのか。
「は……はいっ! 私、荻野ですっ。荻野……恵です!」
 元気いっぱいに叫ぶ。そう、自己紹介さえ、まだしていなかった。
 ……恵があの時から、武田先輩に求めていたもの。
 それは、自分のことを、もっともっと認めて欲しいということだった。
 不特定な誰かに、というのではなく、この人にこそ……という思いだ。
 ――この人に、褒められたい。褒められるような人間になりたい。
 恵がずっと抱いてきた、漠然とした願い。より強い、自分になりたいという思い。
 そんな思いが、ひとつ、明確な形を持つことができたということを、恵は知った。


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