『ガクらん』   <PRE  NEXT>



 11・輝くものは、ここにあるのに。




 ものをきれいにしておく――ということの大切さを恵に教えてくれたのは、お父さんとお母さんだった。
 お部屋をいつもきれいにしておくと、毎日とても気持ち良く過せることだとか。トイレの汚れなんかは、手で触るのもいやだなって思いがちだけれど、でもそれをきちんと掃除しておけば、自分だけでなく、それを使うみんながとても良い気分になれることだとか。
 それらの教えは、まだまだ「ものを思う」ということを知らなかった恵に、最初の価値観といってもよいものをもたらした。一言で言うならば、きれい好きという志向である。
 きれい好きだなんて、別に大したことではない。でも、恵自身も含めた多くの人にとって、それは好ましいものに違いないという思いはある。
 それはつまり、自分が是とする意識を、人に認めてもらえるということだ。
 だから恵は、その価値観を、自分の大きな拠り所としている。
 恵が掃除をすることで、誰かが喜んでくれれば嬉しいし、もし、その誰かと一緒に掃除をして喜びを分かちあえるとしたら、それはなんて素敵なことだろうと思う。
 だが、それを実際に認めてくれる人は、少ない。
 あまりにもありふれたことなためか、他の人が、それを本当に好ましいと思っているかどうかさえ、よく分からないのだ。
 身近な人は、ちゃんと認めてくれる。お父さん、お母さん。近所の人。親しい友達。この人たちは、ちゃんと自分の行いを見てくれているから。
 しかし、恵の人生で見てきた中で、かなり多くの人たちは、恵の美意識に対して無関心だった。一生懸命に掃除する恵を見て、怪訝な顔を浮かべるくらいで、ほとんどは何の反応もない。時には、迷惑そうにされることさえあった。
 別に、褒められたいからやってるわけじゃない――というのは、半分嘘だ。
 もちろん、褒められることが目的なわけではない。恵という人間は、きれいになった教室や廊下が好きだ。清潔な場所を見るだけで、喜びを感じられる。そういう空間を維持しようと努めるのは、他の誰かの意識が介入したものではなく、純粋な恵自身の欲求である。
 でも。世の中で、自分だけがそれを喜んでいるというのは、寂しいことではないか。
 もちろん、たった一人で喜べることだって、世の中にはたくさんあるのだろう。
 しかし、自分の喜びを、誰かと共感したいという思いは、常にある。一人きりの喜びを満喫するには、恵はまだまだ子供に過ぎる。
 ――それに。自分の中には他に、誰かに誇れるようなものなんてないわけだし――
 ほんのちょっとでいいから、認めて欲しかった。それを、元々自分のことを愛してくれている人以外に求めるのは、欲張り過ぎることなのだろうか。
 そういう虚しさは、きっと恵だけに限らない。ほとんどの人は、自分の隣人の持つ美点に気付かず、たとえ気付いても、特に何も言葉をかけることはなく、すれ違って、いずれ忘れる。
 自分の良さを分かってくれる人がほとんどいないのと同じように、自分も、他の人の良さを知ることが出来ていないのだと思うと、とても切ない気持ちになる。
 この世の中で、それまで全く関係を持っていなかった人同士が、何かのきっかけで知り合って、お互いを認め合えること。それはまるで、奇跡のようなことではないか。
 誰もが、自分のことを認めて欲しいのに――。
 そういう、どこか鬱屈した思いを、恵はずっと抱き続けてきた。
 それは、恵が抱くコンプレックスの多さと無関係ではない。自分は情けない存在。だからそんな風に、誰かに認めてもらえる喜びなんて得られないだろうと、どこかで自分を押し込めてきたところがある。
 ――だが、それだけに。
 それだけに、自分の良さを認めてくれた人が現れたときの喜びは大きかった。それがまして、自分が密かに意識していた人であったのだから。
 最初は、その人が誰だか分からなかった。
 いつものように、掃除に励んでいたある日。そんな風に思っていた人から、突然、声をかけられた。
 褒められたばかりか、自分の不始末で汚した床を、一緒に拭いてまでくれた。そんな親切で優しい人が実は、自分がちょっと意識していた存在だったと知ったときの、恵の驚きときたら。
 そんな人に、自分は、掃除を手伝ってもらっていたのだ。
 その時に言われて、何より嬉しかった言葉。

「――きれいだと、気持ちがいいだろう?」

 まさに、その通りだと思った。恵の思っていることを、そのまま口にしてくれたという気がした。
 手伝ってもらったことそのものも嬉しい。しかしそれよりも、この人が、恵と同じ美意識を持っており、恵の行動を認めてくれた上での手助けだったというのが、何よりも報われたという気持ちを恵に抱かせてくれたのだ。
 顔も知らないけれど、ちょっとすごいな、と思っていた人が、ある日突然、自分のことを褒めてくれた。認めてくれた。そんな偶然が舞い降りてきたことに、恵は思わず、舞い上がってしまいそうだった。
 恵だって、普段からこういう鬱屈した思いをしているわけではない。たまたま、こういう思ってもみない時に突然、嬉しい出来事があった。それで改めて、自分の思いについて振り返ってみようという気にもなったのだ。
 こんな自分のことを、見てくれた人。認めてくれた人。
 あの日から、昭葉学園生徒会二年生、武田健四郎という名前は、恵にとって、少しだけ特別な意味を持つものになった。



 ――その翌日。
「それで、掃除を手伝ってもらったってわけか」
「う、うん」
 いつものように、恵、さえ、夕子の三人での、お昼休みのお喋りタイム。当然の如く、昨日の放課後のことは話題になった。
 恵が放課後、玄関の掃除をしているとき。自分がうっかり床を汚してしまったのを、一緒になって拭いてくれた人がいたこと。そしてその人が、なんと、前からよく話題にしていた、生徒会の人だったということを。
「私、そのとき、すごくびっくりして。慌てちゃって、全然うまく喋れなかったんだけど。でも、そんなこと気にしないで、手伝ってくれて――」
 恵は、自分が決してお話し上手ではないということは知っている。だが、このことに関しては、いつもに輪をかけて支離滅裂な話し方になっているという気がした。
 だが、そんな恵のたどたどしい話でも、ふたりはきちんと聞いてくれる。いつものことながら、それが嬉しかった。
「そーなの。私がめぐちゃん迎えに行ったらね、なんだか知らない男の子が手伝ってて、もう激ビックリ」
 さえはあの場面に、タイミングよく居合わせたのだ。
「それでねそれでねっ、どこかで見たことのある顔だなーって思ったら、なんとなんと! 噂の生徒会の男子生徒じゃないですか! いやー、生徒会役員の中で唯一、あんまり情報を仕入れてなかった人だったから、わたし的にも超サプライズでしてー」
「わ、私もそれで、すごく驚いて」
 ろくにお礼も言えないで、お別れしてしまった――。
 そう。あの時、掃除を手伝ってくれていた人が、あの生徒会の男子の人だと知ったときの、恵の慌てようときたら。
 それはまさに、二重のびっくり箱。突然掃除を手伝ってもらって、それだけで驚いたというのに、ようやく落ち着いたと思ったら、その底からもう一度びっくりが飛び出てくるなんて。
 だから、恵はいっぱいいっぱいになってしまって。「き、今日は本当にご親切にどうもありがとうございましたっ」と一息に言ったあと、すぱぱぱぱ、と掃除道具を片付け、慌ててその場から逃げさってしまったのだ。
 すごく、失礼なことをしたと思う。思えば自分は、自分の名前さえ言っていない。武田先輩はあのとき、さえに生徒会の人と言われてすぐ、改めて自己紹介してくださったというのに。
 武田先輩は呼び止めてくれたけれど、でも、ぺこぺこと頭をさげることでお礼を言うくらいしか、あのときの恵にはできなかったのだ。
 ――また、自分の悪いくせが出た、ということだ。
「えーと……なんていう人だったっけ?」
 しばらく聞き手に回っていた夕子が尋ねてきた。
「せ、生徒会二年生の、武田先輩。武田健四郎さん」
「ふうん。武田先輩――か」
 確認するかのように、その名前を口にする夕子。
 確か夕子は、剣術部で、もう一人の生徒会二年生の人と知り合っているはずだ。その関係で、何か思うところがあったのかも知れない。
「それは確かに、いい人だね。私も、男子のくせに生徒会の人ってことで、ちょっと偏見入ってたかもしれない。恵の気持ちはわかるな」
「へーふーんなるほどー」
 と、夕子を遮るかのように、さえが訝しげに言葉を挟んできた。
「そう仰るゆーちゃんこそー、剣術部で松瀬先輩にずいぶん目をかけられちゃってるって噂がちらほらと流れているのですけれども? 生徒会の先輩に可愛がられる分では、一日の長がおありといったところで?」
「……なっ、なに」
 してやったり、という感じのさえに、少し狼狽している夕子。
「みーんな言ってるわよー。少なくとも、わたしの周りの子たちはみーんな」
「……さえ。一つ聞くが、その噂の出所に、心当たりはないかな?」
「でどころ? はてはて、うーんと、ゆーちゃん情報をみんなにばらまいたのは……」
 眉間のところに二本指を当てて、考えこむさえ。
 少し経ってから、答えが閃いたらしく、顔をあげて一言を。それも超笑顔で。
「わたしっす!」
 それを聞き、夕子の表情が変化した。笑顔――なんだけど、妙に堅いというか、怖いというか。
 ――ぶっちゃけ、怖かった。
「ほう――いいボケだな。さえの方こそ、高校生になってボケに磨きがかかったんじゃないか?」
「あ、あらあらあら? そのう、ゆーちゃんが今、手をわきわきとしておられるのは、何のためなのかなーと尋ねたい気分がほんの少し」
「ちょうど私の前に、いらんことばかり喋る口があるんだよ。それを塞ぐのには、どうしたらいいかと考えていたりするのさ」
「NO! 非暴力服従!」
 きしきしと蠢く夕子の指先におびえつつ、言葉を続けるさえ。
「だ、だってだってー! 本当に松瀬先輩とは仲いいみたいじゃない。ゆーちゃん自分でそう言ってたもん」
「よ、良くしてもらってるのは確かだよ。でも別に、私だけじゃなくて――」
「ふーん。『私だけじゃなくて』とな。……その言葉を深読みすると、そんな素敵な松瀬先輩の愛情を、独り占めしたいなんていうイケナイ欲求の影がちらほらと――って痛い痛いチョー痛い! こめかみをぐりぐりしないでー! ひーん!」
 とうとう夕子の指がさえの頭を捕らえ、みしみしと締め付ける。それを見て恵は、確かこれって、あいあんくろー……って言うんだったっけ、などと思っていた。わりとのんきに。
「めぐちゃーん、ゆーちゃんがバイオレンスを振るって来たー! 激ヒドイ。泣きそうー」
「あ、あはは。でも、夕ちゃん、そんなに強くしてないでしょ?」
 技を解かれて、恵に泣きついてくるさえ。
 でも実際、見ていてもそれほど痛そうな感じはしなかった。――もっとも、ああやって顔面を鷲づかみされると、むしろ精神的にこたえるのかも知れないが。
「そーだけどやっぱり痛いのー。どちらかというとわたしの心が。しくしくと痛むー」
「うーん。それじゃあ」
 痛くない、痛くなーいと、さえの頭を優しくさすってあげた。
「どうかな? 痛くなくなった?」
「……あふぅ」
 恵の手の感触に、ぽぅ、とした表情になるさえ。
「復ッ活ッ! めぐちゃんのなでなでで、すっかり癒されましたー!」
「恵ー。さえを甘やかしちゃ駄目だろ」
「ま、まあまあ」
「ゆーちゃんもなでなでされたら? きっもちいいよー?」
「私はご免こうむる」
「ほほうほうほう。なるほど。……ゆーちゃんの内心曰く、私を撫でられるのは、松瀬先輩だけよっ! 日本女性は、操を保つことこそを肝要とす――べしっ!?」
 言い終る前に、今度は鼻先に水平なチョップが放たれていた。今度は少し痛そうだった。
「……さえ。お前は本っ当、ループが好きだよなあ」
「ぎぶぎぶぎぶひぃー!」
 最後のあたり、豚のような悲鳴になった。むにょーと、両のほっぺをひっぱられたためである。
「まあ、この口はこうして封じておくとして。……それで、どんな感じの人だった? 武田先輩って」
「え」
「いや、恵の目から見てさ。一緒に掃除してたんだろ?」
「え、えーと、えーと」
 突然、思ってもいないことを尋ねられ、うろたえた恵。
「どんな感じ……かなあ。……すっごく優しい感じの人……だけど」
「ふむふむ」
 照れ照れになって紡がれる恵の言葉に頷く夕子。武田先輩に興味があるのだろうか。
「はふう、痛かった……。それはそうと、ゆーちゃんは松瀬先輩から、生徒会のお話とかって聞かないの? 他の人のこととか」
 恵もそれは少し思った。武田先輩のこととか、ちょっとしたお話の中で出てきたりしていないかと。
「うーん。それはあんまり。っていうか、そんなの普通、後輩の方からずけずけと聞くもんじゃないだろ」
「そっかなー。そのくらいいいと思うけど」
「部活の最中は、本当に練習に集中するから、そんなこと聞いてる暇なんてないしね。……あ、部活が終わってからなら、たくさんお喋りしてくれるけど」
 でも、どっちかというと、私の事とかを尋ねられたりばかりかな――と続ける夕子。そう語る様子は、どこか恥かしそうな、それでいて嬉しそうな感じで、夕子は本当に、その松瀬先輩には可愛がられているということが伺えるような気がした。
「だからまあ、ちょっとそういうのを知りたかったというか」
 つまりさっきは、松瀬先輩がらみで尋ねられたのだろう。
「もー、ゆーちゃんたらっ。そーいう情報なら、このさえ・The・ディテクティブという、心強い存在がいるじゃないのよー。わたしにおまかせおまかせっ」
 といっても昨日会っただけだけどー、と補足しつつ、得意満面になって申し出てくるさえ。
「んー。わたし的にはねー、なかなか好感度高かったかも。ちょっと見直しちゃった。生徒会のハーレムの主は、実はこまやかな気配りのできる好青年……と、さえメモにも大記入しましたもん」
 この手のことになると、俄然盛り上がるさえ。意気揚揚と、武田先輩のことを話しはじめた。
「顔もねえ、けっこーカッコよかったよ? 線は細いけど、いかにもイケメンって風じゃなくて、もうちょっと素朴な感じで。わたし的にはむしろああいう方が好みかもー。少なくとも、ケンシロウって名前から連想する顔とは全然違ったのであります。難を言うなら、生徒会の人にしては、ちょっと頼りなさそうなところがあるかな? ……でもでもっ、めぐちゃんを助けてるときの姿は、かなりいい線いってたかも。おおー頼れるぜニクいよこのって感じで。ね、めぐちゃん?」
「う、うんうん」
 さえのものすごい勢いに、やや気圧されながらも頷く恵。
 言っていることそのものには、おおむね同意である。もっともあのときは、頼りないという印象を抱けるほど恵に余裕はなく、ついでに言えば、ケンシロウという名前に関しても、どこかで聞いたことがあるような――という程度であったが。
「――ときに、めぐちゃん」
「ん、なあに?」
 ふと、さっきまでの話の勢いに間を置いて、妙な空気を作りつつ、さえが何か訊こうとしてきた。
「どう? 武田先輩は」
「? どう……って?」
 それはたった今、さえ自身が話していたような。
 恵としても、昨日会ってお話した範囲でしか、武田先輩のことは知りえていないというのに。
「めぐちゃん的にはイケておりますかな?」
「えっ? えっえっ……イケ?」
 ますます混乱する。
「うーみゅ。もうちょっと具体的に言うと……ふぉーりんな感じ?」
「さ、さえちゃん。ふぉーりんって、なに?」
 あまり具体的という感じの表現ではないような気がした。
 ――なんとなく、その響きの持つ意味を察せられなくもないのだが。
「キャー! やだめぐちゃん! 乙女の口から、そんなことを言わせちゃうのー? 言わせちゃいたいのーもーやだ!」
 さえはもう、嬉しくてたまらないという感じで、次から次へと続ける。さえの本領発揮といったところだ。となると――
「ふぉーるいんらぶの略! 要するにぃ、武田先輩のこと、いいなーとか、ステキだなーとか思ってるとか、ええっと……もおっ! ――ぶっちゃけた話、武田先輩のこと、好きになっちゃったとか、そういうのっ! どお、めぐちゃん? そういう気持ち、ある!?」
「えっ――えええっ!?」
 やっぱり、そのようなことを訊かれてしまった。鈍い恵にも、薄々とその空気は察せられていたのだが、やっぱりこういうことを突然聞かれると、ひどく狼狽してしまう。
「だーーってだってだってぇー! あんなふうに、ある日突然、知らない女の子を黙って手助けする上級生の男の子だなんて! すっごいシチュエーションじゃないの! リリカルじゃないの! ロマンスじゃないの! その状況だけで、恋とか愛とかラブとか芽生えちゃったって、わたし絶対おかしくないと思うものっ」
「あ、あああ、あの、そんな、そういうのじゃなくて」
「それに、けっこー雰囲気よかったじゃないー。ちょっと初々しくって、見たとき一瞬、『すわ、カップル成立!?』とか思っちゃったものー! どお、この際、本当に――」
「――さえ」
 さえのノリも絶頂に達し、さあさあ恵を追い詰めよう――というところで、夕子がふと、口を開いた。
 普段のそれとは違う、重い口と、言葉。
「あんまりこういうこと言いたくないけど。お前昔、そういう調子で、恵のこと――」
「――あ」
 それを受けて、さえも言葉を止めた。
 ――昔のこと。いや、それほど前のことではない。ついこのあいだと言ってもよい。
「……うん。覚えてます。ちゃんと」
 さえが、しゅんとして答えた。
 覚えている。恵も、あのことはよく覚えている。
 中学生のころだった。当時、恵には、ちょっと気になる人がいた。上級生の男子で、格好良かった先輩。
 別に、気になるというだけで良かったのだ。遠くから見ているだけで、なんかいいなあ、と思えた。幸せだった。我ながら消極的だと恵も思う。だが、そんな思いさえ、今だからこそ抱けるものなのだ。当時としては、そういう風に、ほのかな思いを抱いているというだけで、自分のなかのどきどきに押し潰されそうだった。
 そんな恵の様子を、さえはきちんと察してくれた。恥かしかったけれど、照れくさいけれど、友達がちゃんと自分のことを分かってくれていて、恵には嬉しかった。
 ただ、その後が、ちょっと――
「もうしないっす、あんなこと」
 もう、あんなことしないから――さえが泣きながら、恵に謝ったときのことを思い出す。
 あろうことか、さえは恵の名前を勝手に使って、その先輩にラブレターを出してしまったのだ。
 恵としては、それで一気に、自分の中がぐちゃぐちゃになった。
 それからはもう、ひどいものだった。恵はもう、どうしたらいいかわからなくなって、わんわん泣きわめくことしかできなかった。さえにも、酷いことを言ってしまったかもしれない。事情を知った夕子が、さえのことを本気で怒って。責めて。
 あの惨状は、誰のせいで生じたものなのだろうか――
「……めぐちゃん、その……ごめんね?」
「う、ううんううん! 別に私、全然気にしてないよ」
 気にしていないどころか、逆に、さえの好意を踏みにじったという思いさえある。
 あのことを、さえの勝手な行動のせいだと言うことは簡単だった。でも恵は決して、このことの責任をさえに被せたくはなかったのだ。
 ――なぜそう思うのかは、自分でも、なんとなくでしかわからなかった。
「さえちゃんも、もうあんまり気にしないで。私、あのときは困ったけれど、でも……」
 だから、言葉もうまく続かない。
 話の矛先を戻した。
「そ、それに、武田先輩のことは、そういうのじゃなくて、えっと……じゅ、純粋に尊敬しているっていうか」
 とりあえず言いつくろう。別に、嘘を言ってはいないとも思う。
 だが――本当のところは、どうなんだろう。
 しかし恵は、そのことについて考えることは、止めにした。
 考えなくていいことだとも思った。
 嘘ではないのだ。決して。
「……そっか」
 さえがつぶやく。
「でも、めぐちゃん? めぐちゃんはさ――」
 何かを言いたそうにして。
「ううん、なんでもない」
 しかし、言葉を止めた。
 ……それでいいの? と続けようとした言葉に思えた。それは恵がいつも、自分の内面に対して浴びせ掛けている言葉でもある。
「……さえちゃん」
「そっかそっか。めぐちゃんも、なかなかに男の子の基準はキビシイのですな」
「へっ?」
「んー、武田先輩も、そこそこにはイケてると思うけれどねー。でも、めぐちゃんの御眼鏡にかなうほどではないか」
「う、うわうわっ。そ、そういうことでもなくてっ」
「いいのいいのっ。女の子は、自分を安売りしちゃいけないんだからっ」
 さえの言葉で、少し空気が和らいだ。
 しかし、それはそれでまた、恵的には動揺に値する意見でもあった。
「それに意外とー、その武田先輩の方こそ、めぐちゃんにずぎゅぎゅーと魅せられちゃったかも知れないしねー」
「え、えええええっ!?」
 とんでもないことを言われて、思わず声をあげる恵。
「あはは。それはひょっとしたらあるかもな。恵、かわいいから。男の子の保護欲をそそるタイプだよ」
 あろうことか、そんな意見に、夕子までが同意してきた。
「か、かわいくなんてないよ私!」
「そーいう照れ照れなところがさいっこーにカワイイのよー!」
「む、むぎゅふ!」
 抱きしめられてしまい、反論の言葉も封じられる。
「別に持ち上げるわけじゃないけど、恵はもっと、自分に自信を持ちなよ。私がもし男の子だったら、きっと恵のことなら、いいなって思うよ」
「あー、ダメー! いくらゆーちゃんでも、めぐちゃんをそう簡単にお嫁に行かせるわけにはいかないわっ! どうしても欲しかったら、わたしと勝負して負けることねっ」
「お前はまた、ウチの親父たちみたいなことを言うなあ」
「うーうー……ぷはっ」
 ふたりが言い合い(?)をしている隙に、恵はのさえの強烈なハグから脱出した。
「わ、私っ、ちょっとお手洗いにっ」
「ああん、めぐちゃーん」
 かわいいとか、褒められたりすることに、恵は弱い。いてもたってもいられず、恵はその場から一時逃走した。
 脱兎の如く走り去る恵の背中を、暖かなまなざしで見送るふたり。
「……本当、恵は照れ屋だよなあ」
「全くであります。ししょー」
「誰が師匠か」
 軽くボケとツッコミを交わす。
「……あのね、ゆーちゃん」
 少しの沈黙のあとで、さえは言った。
「さっきは、ありがとう」
「ま、気をつけなよ」
 さっきのこと。
 でも、夕子だって、さえの気持ちがわからないわけではないのだ。
 ――それどころか、根本的なところで思っているのは、ほとんど同じなはずだ。
「……別にわたしだって、めぐちゃんを無理矢理彼氏持ちにしたいわけじゃないんだよ?」
「うん。わかってる」
「だって、めぐちゃんのこと見てると……」
「まあね。私だって」
 どうにかしてあげたいって思うよ――と、声になるかならないかで呟く。
「――恵は、本当に照れ屋だから」
 別に男の子関係でなくてもいい。
 あの、優しい子が。自分たちにとって、本当に大切な存在が、もう少しだけ、自分というものを出せるようになれればと思うのだ。



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