『ガクらん』   <PRE  NEXT>



 10・志を共にする人。




 その日の放課後、健四郎は、校舎の中をうろついていた。
 今日は、生徒会の予定も何もない。
 いつもならそういう日は、友達と談笑しつつだらだらと教室に残るか、さっさと家に帰って、夕食の仕込みなり、溜まった家事全般を行ったりなどをするのだが、今日はそういう気分にはなれなかった。
 こうして放課後、校舎の中をぶらぶらするのは、妙に新鮮だった。
 よくよく考えてみると、校舎の中は、特に用事でもなければ赴かない場所がほとんどだ。通って二年目になるが、入ったことのない教室もたくさんある。
 自分の活動範囲は、こうして考えてみると、ひどく狭い。
 これがたとえば北館先輩ならば、入ったことがないからという理由だけで、あちこちの部屋に闖入するということも、何の抵抗もなく行えるのだろう。
 というか、実際に行っている。
 あの人は、自分が授業を受けているわけでもない化学の特別教室に、探検と称し突発的に遊びに赴き、準備室に控えていた気難しいことで有名な古江田先生(38歳、妻子あり)と談笑し、お茶とお菓子をご馳走になったことさえあった。古江田先生とは、それまで話したこともなかったという。
「いえー。ふるえっち(古江田先生の愛称。命名:北館聡美。この日より一挙に学園中に広まる)からお菓子奪ってきたわよー。さあ喰らいなさい欠食児童たち」
 そう言って、生徒会室にお菓子を持ってきてくれた。何か、人間としての器が根本からして違うという感じだ。
 たぶん、北館先輩くらい自由に生きられる人ならば、たとえなんでもない日常的な景色でも、いつでも新鮮で、心が躍るようなものにもなるのだろう。
 もちろん、あそこまで人間力に満ち溢れた人と、同じになれというのは無理だった。人間はみんなそれぞれに違うのだ。
 だがこうして、普段はしないような、放課後の無為な校舎散策を行うだけで、わりとそれに近い感覚が得られるということを、改めて知ったような気がした。
 部活をしていない生徒も、まだまだたくさん残っている校舎。
 学園全体が、活気に満ちていた。
 生徒会がある日ならば、自分もこの中に混じって仕事を行っている。だが、自分がその当事者でないというだけで、その空気は、どこか新しいような、寂しいようなものにその色が変わってしまっていた。
 特に、運動系の部活動が行われている、放課後のグラウンドや体育館の雰囲気。健四郎とは縁遠いものだった。それは、まるでなじみのない空気であり、ちょっとした抵抗感さえあった。だが、もし実際に触れてみたとしたら、案外いいものなのかも知れない。
 触れてみないことには、それはわからないのだ。
 その練習風景を、廊下の窓からまじまじと眺めるだけでも、ずいぶんと印象が変わる。ふだんの健四郎からすれば、生徒会室にいるときに聞こえる、少々気障りな音でしかないが、こうして実際に、一生懸命練習している部員たちの姿を見ながらだと、おお、がんばってるな、という印象にもなるのだった。
 だがそれも、単に「見た」というだけでしかない。当然のことだが、健四郎はそれがどこか、寂しいという気もした。
 見るだけというのは、寂しいものだ――そんなことを思いながら、校舎の中を歩き回る。
 実は、こうして歩き回っているのには、理由がないわけではなかった。
 本当の目標は、一年生教室のある校舎四階。
 ただそれが、明確な目的なのかというと、たぶん違う。
 一年生教室に行かなければならないのならば、授業が終わってから、ただまっすぐそこに向かえばいい。それをしないのは、結局のところ、具体的な用というわけではないということだ。
 だから、こうしてだらだらと校舎内をうろついている。
 理由というか、きっかけと言ったほうが正しいのかもしれないが――ともかく、そうしていることに、理由はあったのだ。
 ……昼休みに、真人が言っていた言葉が思い出される。


「どうせ、一年生にあてなどないのだろう」
 真人には今朝、生徒会で新一年生の役員を探さなくてはならない、ということを話していた。
 真人は、幅広い人脈を持っていた。こういう尊大な性格をしているが、どういうわけか友人・知人の類は多い。どういう繋がりなのかわからないが、学園の内外に関わらず、奇妙なほどに顔が広い。
 今朝、真人に対し新入生の勧誘の話をしたのも、そういう線をどこかで期待していた部分があったことは否定できない。
「この俺とて、全てを網羅しているわけではないが……それなりに情報が手に入らないこともない」
 狙いどおりというべきか、真人には、有望な一年生に心当たりがあるようだった。
 しかしそれは、健四郎にとって承服しかねる情報でもあった。
「剣術部の新入部員に一人、活きの良いのがいる」
 剣術部。健四郎と同じ、昭葉生徒会二年の、松瀬早乃が副部長を務める部だ。
「名は確か……津島夕子と言ったか。この娘、なかなかに評判が良い。あの剣術部、ミーハー気分で入部した新入生が次々と辞めていくことで有名だが、どうもこの娘は別格のようだ。部活初日より、あの松瀬早乃と試合いをし、勝てぬまでも、かなりの腕を見せつけたという」
 詳しいわけではないが、健四郎も、松瀬の剣の腕は知っている。彼女に伍するということは、決して並みの腕ではない。
「松瀬早乃からの覚えも良いようだ。剣の腕だけでなく、その素行や人柄も立派なもののようで、早くも二代目サムライなどと囁かれているらしいな」
 なるほど。確かに、有望な人材であることは間違いないようだ。
 しかし――。
「まてよ。その松瀬に可愛がられている子を、どうしてわざわざ俺が」
「――何か、問題でもあるのかね?」
 当然のごとく発した健四郎の疑問に、真人は、なにやら嬉しそうな笑みを浮かべつつ、逆に尋ね返してきた。
「問題も何も」
 そんな、横取りみたいな――と言いかけて、健四郎は真人の邪悪な笑みに気付いた。
 この笑い。何を期待してその頬を歪ませているか、手に取るようにわかった。
「お前はとことん性格が歪んでやがりますね」
「ク、ク――! 嬉しいことを言ってくれる」
 そして、決して悪びれないのがこの男だった。
「いいではないか。略奪愛だ。寝取れ」
「ね、寝取るとか言うな!」
「なぜだ。今のは比喩的表現であり、なにも本当に手篭めにしろと言ったわけでは……いや、貴様がそれを望むというのであれば構わんと思うが」
「望まんわ!」
「聞くところによると、器量も良しということだぞ?」
「そういう問題じゃなくてだな」
 言ってから、待てよ、ではどういう問題なんだろう――と、考え込んでしまった。もちろん、器量のことではないが。
 今、健四郎たちに求められているのは、生徒会にしかるべき一年生を三人ほど入れることである。半ばお約束的に、二年生役員がそれぞれに一名づつ選び出す、ということになっている。
 だが、必ずしもそれに縛られなくても良いのだ。
「いずれ生徒会には誰かを入れなければならないのだろう。貴様が誘うか、松瀬早乃が誘うかというだけの差でしかあるまい」
「それは、まあそうだが」
 ここで問題なのは、はたして松瀬に、その津島という子を勧誘する気があるかということだ。
 松瀬の性格を考えると、それはあまりしたがらないような気がした。あれだけ公私混同を嫌う厳格な性格の持ち主が、自分の周囲にいるというだけで、大切な新しい生徒会役員を決めたりはしたがらないのでは、とも思える。
 松瀬がそれに縛られて、本当はいいなと思っている津島さんを、誘えないでいたとしたら。
「当たるだけ当たってみても、バチは当たらないのではないかな――クク」
 その言葉が、悪魔の誘いであることは十分承知している。
 ただそれでも、当たるだけならば……と思ってしまったのだ。
 悪魔の言うことは、往々にして有効な手でもある。その思惑に丸々乗っかってしまわないよう、自分をセーブすることができれば、問題はない。もちろん、それがなかなかできないからこそ、悪魔は人間をたぶらかすのだが。
 だから健四郎は、その津島さんとやらがどんな子なのか、とりあえず見るだけは見てみてもいいかな――と思いつつも、ふんぎりがつかず、こうして校舎をうろうろしているのだった。
 やはり、あまり気乗りしないのだ。
 真人の言葉には、明らかに、松瀬へのちょっかいの意図が含まれていた。そのくせ、理にはかなっている。だからこそあの狡猾な男は、それを健四郎へのエサにしたのだろう。
 そんなことばかりするから、松瀬に嫌われるんだ――と健四郎はしばしば言い含めているのだが、真人はそれでも一向に構わぬ、とばかりに松瀬に執着するのをやめない。だがそのくせ、度の過ぎたことはまずしない。これは、健四郎の目が光っているから、というのもあるのだが。
 ああ見えて、本当はわりと人間のできている真人が、どうして松瀬のこととなると、こうも……と不思議に思う。
 ともかく、そのわだかまりが、気乗りのしない原因の一つだった。
 もう一つはというと、これは単に、健四郎の人見知りである。
 もちろん、普通の人間ならば、学年も違うクラスに入り込み、面識のない生徒を呼びつけて個人的な話をすることには、抵抗を感じて当然だろう。ごく一部の例外を除いて。
 ただ、健四郎の場合、自分がわりと人見知りするという自覚があった。
 普段はそう困るわけではないが、自分の場合、生徒会という、社交的な能力を強く求められる役職についており、ときおりそんな自分の性質が恨めしく思えることがある――たとえば、今。
 津島夕子さんに会いに行くことが、ではない。新一年生から新しい生徒会役員を見つけ出さなくてはならない現状そのものに、健四郎は気後れを抱かずにはいられなかった。
 今こうして、一年生の教室に向かおうと思っているのも、その現状をなんとかするための、きっかけのようなものが欲しいからだ。どんな形であれ、一年生との繋がりを持たないことには何も始まらない。
 そういう視点からすれば、津島夕子さんの顔を見に行くのも、決して悪いことではない。
 ……そう判断したにも関わらず、自分はこうして、二の足を踏んでいる。
 情けないことだった。


 健四郎が、一年生教室のある校舎四階にたどり着いたのは、授業終了からかなりの時間が経ってからのことだった。
 目標の教室を見つけ、のろのろとした足取りで歩いてゆく。
 すると、その教室から、
「キャー! ムキャーイヤーもーっ! どおーーしてっ、ちょっと宿題すっぽかしただけで、放課後職員室に呼び出されなくちゃならないのー! 不幸! 絶対運命・激不幸ーー!」
 と、なにやら通常の女子高生の三倍くらいやかましい叫び声が聞こえてきた。
「自業自得ー」「かわいそー」「さえ、がんばってこーい」
 続いて、このような野次が飛ばされたかと思うと、「さえっ、いっきまーす!」との掛け声とともに、女の子が教室から飛び出してきた。
 ずどどどど……と爆走するその女の子に、廊下は走っちゃ駄目、と注意する間もなく、横を通り過ぎられてしまった。しばし、あっけに取られる健四郎。
(この、教室……だよな?)
 少々不安に駆られながら、健四郎は開けっ放しの戸から、中から気付かれにくい角度で、そっと教室の中をのぞきこんだ。
 教室に残っている生徒は、数人しかいなかった。うちの一人が、掃除用具を片付けているところから、恐らくはたった今、教室の掃除が終わったというところだろう。
 真人から聞いた津島夕子さんの特徴を、健四郎は思い返してみた。一言で言うと、武士っぽい女の子らしい。最初は、なんだそりゃと思ったが、真人からしてそもそも実物を見たことがないのだから、突っ込みようもなかった。
 教室に残っている女の子は、見たところ、いずれも武士という感じではなかった。もっとも健四郎も、武士風の女の子というのはあまり想像できないのだが。
 さっきのけたたましい女の子も、まず違うだろう。あれが武士風と言えるのだとしたら、武士の概念が根底から覆されかねない。
 恐らく、もう津島夕子さんは部活に行ってしまったのだろう。
 健四郎は、どこか気が抜けたような、ほっとしたような気持ちになった。そんな安堵感を覚える自分が、情けないとも思いつつ。
 放課後になってまっすぐここに向かっていれば、たぶん間に合ったと思う。ああいう風に寄り道をしたのは、むしろこうなることを内心で望んでいたのではなかろうか。
 こういう自分が、健四郎は昔から嫌いだった。子供の頃から、いつも自分のことを、情けない奴だと思いつづけてきたのだ。
 高校二年生になった今も、それが全然改善されていないような気がした。むしろ、年を取った分、より情けなくなったと言える。
 ――あの当時、目標とした「彼女」は、今なお強くなり続けているというのに。
 情けなさに押し潰されそうになりながら、健四郎はその教室を後にした。
 そういえば、さっきまで何人もの一年生たちが側を通っていったが、健四郎のことを、生徒会の役員だと気付いた生徒はいなかったように思える。そういう気配はまるで感じられなかった。
 もし、ここにいたのが、自分以外の誰かだったら、きっと今ごろは、大変なことになっていただろう。
 特に天城先輩などは、いくら昭葉生徒会の会長だからといって、ここまで持てはやされるのかというほどの人気がある。
 いつだったか、天城先輩の周りにちょっとした人だかりができていて、何事かと思ったら、それが先輩とのツーショット写真を撮る順番待ちだと知り、愕然としたことがあった。いくら携帯電話のカメラが普及したとはいえ、先輩はTDL内の着ぐるみか何かかと。
「あははっ。そっかぁー……みっきまーみっきまー、みっきみっきまー♪」
 そう思ったことを告げると、当人も大変その気のご様子で、歌いつつ飛んだり跳ねたりそれっぽい動きで愛嬌を振りまいたりしてくれた。大好きらしい。
 もちろん、この学園内での人気に限って言えば、そんな某世界規模で有名な鼠と比べてさえ負けないという人と自分を比べたところで、何の意味もないのだが。
 ――否。そのうち、嫌でも比べられることになる。
 日頃あまり気にしないようにはしているが、あと半年ほどで彼女らの役職を継がなければならないという事実は、現として存在していた。
 頑張るしかないんだよな、と前向きに思おうとはしている。
 だが、実際にはこうして、急務にして必須の仕事にさえ、二の足を踏んでいるのが現実だった。
(はふぅ……あー、今日はもう帰ろう)
 こういうときに頑張っても、自分を追い詰めることになるだけだ。
 難しいことは頭から押しやって、気を取り直しつつ、帰路につくことにした。


 玄関に着き、自分の靴箱へと向かうと、そこはちょうど掃除の真っ最中だった。
 健四郎のクラスの靴箱の前を、熱心にちりとりをかけている女子生徒がいた。見たことのある顔ではない。一年生の子だろう。
 こういう廊下や玄関といった部分は、それぞれに区分けされ、学年問わず各クラスに掃除を受け持つことになっている。だが、音楽室や視聴覚室といった特別教室はともかく、廊下や階段などは、一クラスが受け持つ範囲が、かなり広くなる。
 ゆえに、こういう特別区域は、多くの生徒から面倒くさがられ、教室ほどには真面目に掃除をされないことがほとんどだった。ぱっぱと終わらせようと思えば、いくらでも早く片付けることができる。だが、そういう掃除をしても、あまり綺麗にはならない。
 この子の掃除ぶりには、そういう適当さはまったく感じられなかった。その懸命な姿に、健四郎は、感心感心、となごやかな気分になった。
 健四郎は、自他ともに認めるきれい好きだった。だが、掃除を行うのが好きというわけではない。きちんと掃除されていないと落ち着かない性質なのだ。だからといって、それを人に押し付ける気はないので、大抵は自分が率先して掃除を行うことになる。
 だから、誰か他人が一生懸命掃除をしている姿を見ると、それだけで嬉しくなってしまうのだ。
 その子は丁寧にほこりを集め取ると、てきぱきとした足取りで、それを捨てに行った。
 靴箱の下は、見ていて心地良くなるほどきれいになっていた。
 嬉しい気持ちになりつつも、健四郎はふと、去年の自分を見たかのような気にもなった。
(……一人で頑張るってのも、辛いよなあ)
 奇しくも、去年の健四郎のクラスが受け持っていた特別区域の清掃担当が、この玄関だった。
 細やかなところまで生真面目に掃除しようとする健四郎を、一緒の当番のクラスメイトたちは少々呆れているような感じでもあった。健四郎も、彼らに真面目に掃除しろよ、などと言ったわけではない。ただ、自分が率先してやれば、誰かがついてくるという期待は少なからずあった。しかしそれは、健四郎の思い込みでしかなかった。
 決して、一人で掃除させられていたというわけではない。だが、健四郎がやるので、仕方なくみんなもそれを補助する……という風景が、去年の掃除では続いていた。
 あの子もそういうクチかも知れないな、などと、色々と想像を巡らせていた自分に、健四郎は気づいた。どうも自分は、要らないことに気を取られすぎるようだ。
 上履きを脱ぎつつ、外靴を取り出して、それに履き替える。
 さあて帰ろう、と思ったところ、さっきの女の子が再びそこを通りがかった。
 ……通りがかった、というよりは、通ろうとして四苦八苦している、というべきかも知れない。
 その子は、いかにも重そうなゴミ箱を抱えおり、歩くのがやっと、といった感じだった。ぷるぷると震えつつ、なんとか前に進んでいる。
「……うぅ……うぁーっ……」
 苦しそうにうめきつつ、ふらふらと右往左往する。
 抱えているのは、その子の小柄な体では、いかにも持つのが辛そうなゴミ箱だ。見るとそれは、スチール缶とアルミ缶専用のダブルボックスであった。健四郎も去年、さんざん重たい思いをして担いでいたのが記憶に新しい。
 男の健四郎でも重いものを、こんな、天城先輩より少しは大きいかな、というくらいの女の子が担いでいるのは、どう考えてもおかしかった。
 あのゴミ箱は、単に重いだけでなく、しばしば行儀の悪い生徒が、飲み残しがまだ入ってる缶をそのまま投げ込むことがある。持ち方がまずいと、汁が制服にひっかかってしまいかねない。
「うぅっ…………はうーっ……」
 顔を真っ赤にしながら、必死に運ぼうとする女の子。
 そのゴミ箱は、底がこすれて穴が空いており、それが傾くたび、ぽたりぽたりと汁がこぼれしまっていた。その飛沫が少し、制服の裾にもかかってしまっているようだ。
 その様子を見て、健四郎は理不尽な思いに駆られた。
(なんでこんな子に、よりにもよって、これを持たせてるんだよ――!)
 ほとんど反射的に、その子を助けるべく近づこうとしていた――が。
「あっれー? 荻野っちー、どこー」
 ちょうどそこに、その子のクラスメイトらしき子が二人、駆け寄ってきた。
「いたいた、荻野さん……って、うわっ! な、なんで荻野さんがこれ運んでるの!?」
「あーっ……べ、別に……だ、だ、だぃじょー……ぶっ……」
「見るからに明らかに大丈夫なわけないじゃない! もー、男子! とっとと救援に来なさーい!」
「さぼんなやー! もっと馬車馬のように働け男どもー!」
 駆け寄ってきた二人は、その子――荻野さんというらしい――が馬鹿でかいゴミ箱を抱えていることに驚き、あわててそれを止めさせた。
 健四郎としては、出鼻をくじかれた格好である。ただ、その様子を見て、安堵も覚えていた。ああ、別に、無理矢理辛い仕事を押し付けられていたわけじゃなかったんだな、と。
 怒鳴られたことで慌てて飛んで来て、二人がかりでゴミ箱を運んでいった男子生徒をよそに、女の子二人は、そんな無茶をしていた子を責めたてていた。
「だ、だって、手が空いてたの、私だけだったし」
 その子が理由を説明すると、女の子二人は、憤激したようなあきれ返ったようなリアクションをそれぞれに見せた。そしてその後、別にそこまでしなくていいんだから、と再度言い含める。
 言われた女の子は、申し訳なさそうにしていた。
 そのうち、空になったゴミ箱を手に、いかにもやる気のなさそうな男子生徒たちが戻ってくると、さー、掃除終わりーとばかりに、一年生たちはそれぞれにその場を後にした。
 ところが、その女の子だけは、その場に残ろうとしている。
 荻野っちも帰るぞー、と声をかけられていたが、あ、ううん、ちょっと、と答えたので、なにやら急いでいた女の子たちは、置いてくぞーと言い残し、そのまま去っていった。
 どうやらこの子は、先ほど、ゴミ箱から滴っていた汁が、床にこびりついているのが気になっているようだった。
 その子はしばしその汚れた床を見つめると、再び掃除用具箱へ戻り、バケツと雑巾を持ってくると、それを湿らしてごしごしと拭きはじめた。
 ……確かに、ジュースの汁を床にこぼれたままにしておくと、わりと大変なことになる。踏むとベタベタしてとても気持ち悪いし、ホコリや土もここぞとばかりにこびり付くので、見た目も大変おぞましいことになる。健四郎でもきっと、それは見過ごせないだろう。
 ……というか俺は、何をまじまじと見ているのだろう――と疑問を抱く。
 ついさっき。あの子がゴミ箱を運んでいるとき。ほとんど無意識のうちにだったが、健四郎は彼女に手を貸そうとしていた。しかし、出るタイミングを逸した。そしてそのまま、そこから離れるでもなく、少し遠いところから、一部始終を健四郎は全て見ていたのだ。
 この汁のあとは見過ごせない。生徒会役員の立場うんぬんに関わらず、一個のきれい好き人間として、許されざる汚れである。しかし、ここで彼女に声をかけるのは、少々ばつが悪い。まして先ほど、その機を失ってるのだ。
 ああして一人、床を拭く彼女の気持ちは、よくわかった。
 他のクラスメイトを呼び止めて、それを一緒に拭かせるということを、彼女はできないのだろう。それは、自分のエゴを人に押し付けない強さであり、同時に、他人に対してものを言えないという弱さでもある。
 そういう葛藤を、健四郎はよく知っていた。
 そして今、自分に良く似た弱々しい背中が、一生懸命、自分の思いを貫こうとしている。
 こんなときにまで、弱気になっていてどうするんだ――。
 やるべきことは決まっている。思ったところを実行に移すべく、その子の元へ近づく。
 ところが、なんと言葉を切り出していいかわからない。
 とりあえず、無理矢理、自分の口を開けた。
「あー」
「……♪(ごしごし)」
 無反応である。
 それなりに近寄ってはいるのだが……。
「あの」
「……♪(ふきふき)」
 もう少し、声を明確にしてみる。だが反応は返ってこない。
 おほん。咳払い。
 ……無反応。というか、気付かれてない。
 いや、そりゃ無理もないんだが。そもそもこっちを見てないし。
 なんなんだ俺は。内心で自分に突っ込む。シャイすぎるにもほどがあるでしょう。
 ……よし。
 意を決して、直接声をかけてみた。
「君。そこで床を拭いている、君。……君?」
「……? …………って――…………ひぃっぅぁ私ですかあっ!?」
 とてつもなくおもしろい叫び声をあげて、その子は大仰天した。ぺたん、と尻もちまでついてしまった。
 ちなみにここまでの反応は、最初気付かない → 声にやっと反応 → 顔を上げずきょろきょろ → 俺の影を発見 → 顔を見上げて、俺の姿を発見 → ふと考え込む様子 → さっきの音が、俺の呼び声だと認識 → 爆発 ……という感じだった。
 というか、こっちも大変おどろきました。
「び、び、びびびっくりしたっっ」
「ご、ごめん。お、おどかすつもりでは」
「あ、あっ、あっあっあっ、こ、こここちらこそすみませんっっっ」
 ものすごい勢いで取り乱しつつ、全力という感じで謝ってきた。こちらをびっくりさせたことについてだろう。
 こうして床を拭いていることといい、よく出来た子だとはしみじみ思うが……もうちょっと、なんというか、こう……。
「あ……な、何の御用でしょうかっ」
 こちらが上級生だと悟ったのか、かしこまった態度で尋ねてきた。
「い、いや。別に、用というか何と言うか」
「そ、そのっ……あのっ……」
「えーと……それ」
「そ、それっ!?」
「そう、それ」
「そ、それって、あの、何のことで……」
 ものすごく拙い意思疎通を行う二人だった。
 本当に自分は言語能力を持つ人類なのだろうか、と少し不安になるほどだ。
「……いや、だから、それだよ」
 その子が手にしている雑巾を指す。
「……えっ? えっえっ?」
 ところがその子は、両手を胸のところに持ってきているので、ちょうど胸のあたりを指差すことになった。
 自分の胸の部分をまじまじと見つめると、何か変な勘違いでもしたのだろうか、顔を真っ赤にしてぶるぶると首を振った。
「わっ、わかりませんっすいませんっっ」
 再び、ぺこぺこと頭をさげる。いかん、この子、大変にシャイだ。健四郎が思うほどだから、よほどのものなのだろう。
 さっきからの空回りを見ていると、なんだか、自分の尻尾を咥えられなくて、あわててくるくると走り回っている子犬のようだった。見ると、その顔立ちまでが、なんだか可愛らしい子犬みたいな女の子だった。
 やれやれと苦笑してしまう――だが不思議と、いらだちは全然なかった。慌てる気持ちがわからないわけではないし、何よりも、この子の反応には、とても好感を抱けるのだ。
「床さ。君、今そのあたりを拭いていただろう?」
「……は、はい」
「だからさ。もう一枚、雑巾がないかなって」
 なるべく怖がらせないよう、精一杯の顔を作って話し掛ける。実はこっちも、この子に負けないくらい必死なのだ――それを表には出さないが。
「え、えっと……ゆ、床を……拭かれるんですか?」
 ああ、やっと通じた……。
「うん。汚れてるみたいだし」
 ここまでの、一部始終を見ていたことは伝えなかった。
 言ってもいいかとは思うのだが、またぶるぶると萎縮させてしまうかも知れない。
「そ、そんなことを、させてしまうわけにはっ」
 こうやって、自分の行為に恐縮されるのは、健四郎にとって、あまり馴染みのないリアクションだった。
 健四郎の周囲にいる人間は、学校・家庭を問わず、その多くが、およそ遠慮という言葉を煎じて飲ませたい類の性格の持ち主である。だから、遠慮がない態度には慣れっこだったが、そのせいか逆に、今は少し戸惑いがあった。
「うーん。いや、君にどう、という話ではなくて」
 これはやや、本音と異なるところだ。だが、全くの間違いというわけではないので良いだろう。建前だけではあるが。
「この床は、ちょっと、拭かなきゃいけないだろう?」
「あ、でも……これって実は、私が」
 言わんとしていることは察せられたので、それを遮る。
「玄関はみんなのもの。だから、別にいい……ような気も、するんだけれど」
 なるべく格好よく言おうとしたのだが、ついつい照れが出て、最後のところが疑問系になった。うーむ。いかにも無理をしているという感じだ。
「で、でもっ……」
 まだまだ激しく恐縮するこの子を、どうしたら安心させられるだろうか。
 この子はたぶん、自分と同じくらいのきれい好き。
 それならば――と思い、とっておきの決め文句を口にした。
「ほら、床がきれいだと、気持ちいいだろう?」
 うむ。自分でも、見事に言えたという気がした。ややクサいだろうが、許容範囲内だ。……そういうことにしておく。
 そして……思ったとおり。
 この子はそれを聞いて、しばし沈黙した後、ぱあっと表情を明るくして、
「……は、はいっ! そ、そうですよねっ!」
 同志発見、という顔をしてくれたのだ。
 この子だけではない。
 健四郎としても、同志を見つけられたという思いだった。


 そしてしばらくの間、同志二人は、汁が滴った後をきちんと拭い取った。聖母マリアでも頬擦りしたくなるくらいに――と言ったら言い過ぎではあるが、ともかく、汚くないというくらいにはなった。海軍の鬼軍曹が見ても、これなら文句は言わないだろう。
「き、今日は、本当にどうもありがとうございましたっ」
 ぺこりぺこり。
 ふかぶかと何度も頭をさげて、お礼を言ってくる女の子。
「いやあ、そんなことは」
 掃除の最中からして、お礼の言葉が矢継ぎばやに放たれていたのだ。そもそもお礼を言われるほどのことではないのに、ここまで感謝されてしまうと、ちょっと面映すぎる。
「俺のほうこそ、ちゃんと掃除を真面目にしてくれていることを、感謝しないと」
 これは個人的な思いでもあるが、むしろ、生徒会役員としての言葉である。
 ……まあ、この子は健四郎のことを、生徒会の人間だとは全く思ってみてもいないのだろうが。そういうのは別に慣れっこである。
「そっ、そんなそんなっ……!」
 またどもる。顔も真っ赤にしていた。だが、そんな恥かしがる様子も実に可愛らしい。
 とはいえ、実のところ、恐縮しあってるのはお互い様なのだ。こちらの顔も少し赤らんでいるかも知れない。
 この、やたら恥かしがる子を見て、少しだけ、天城先輩や北館先輩の気持ちがわかったような気がした。なるほど、確かに褒めたりからかったりすると、その反応がとても快さそうだ。もちろん、そんなことしないが。
 ともかく、面白くて、その上とてもいい子だった。
 荻野さん――と言ったか。
 ……などと思っているところに。
「おおーい! わーい、めっぐちゃーーーん!」
 けたたましい叫び声を放ちつつ、こちらに向かって、一人の女の子が爆走してきた。
「やあーーーっっと解放されたよーーっ! 奴隷解放だよ、人民解放だよ、宿題解放戦線における圧倒的辛勝だよもーーっ! まあーったくっ、化学のふるえっちってば、厳しすぎると思わないーー……って、はれれ?」
 その姦しい女の子は、急ブレーキで二人の前で留まった。そして、健四郎を一瞥し、あれという表情を浮かべた。
「はてな? めぐちゃん、この人、誰? むむ? 男の……ひと?」
 それはまあ男ではありますが、という突っ込みも、あまりに壮絶な登場のインパクトのため行えなかった。不覚である。
 というか、健四郎側には、この子に覚えがあった。確かさっき、一年生の教室から怒涛の勢いで駆けていった女の子ではあるまいか。
「えっ、あれ? うそ、まさか……でもそんな……しかしあるいは……!?」
 なにやら、彼女の内部で、何かがものすごい勢いで盛り上がっているように思えた。
「まさかまさかっ!?」
「いや、違うので」
 言わんとしていることが、悲しいぐらいに察せられてしまったので、先にカウンターを入れておいた。この手合いの扱いには慣れているのだ。……それがいいことかどうかはともかく。
「さえちゃん、どうしたの?」
 ところが、まるで感づいていない方もおられます。まあ、その手のことには、やたら鈍そうなのは見て取れたが。
 なるほど。さえという名前の子なのか。そして、この子が、荻野めぐ……なんだろう?
「んー、でもぉ、そのお顔、どこかで…………って、ピコピーーンと来たーー!」
 その、さえという子は、なにやら考え込んだあと、さっきに負けない勢いで絶叫した。……もう少し、なんとかならないだろうか。おしとやかに、とまでは言わないが。
「この人、生徒会の!」
 するとその子は、ずびし、と健四郎を指差した。
「――え」
 それを聞いて、この子――荻野、めぐ……?――は、大きく目を見開いた。



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