9・春は残酷な季節。
春は残酷な季節――そう言った詩人がいる。
なにげない会話の中に、奴は突然、そんな言葉を持ち出してきた。
「俺はこの言葉に、同意することもできるし、それは違うという意見もまた持っている」
奴――無位真人(むくらいまさと)は、目を細めつつ、静かな口調でそう言った。
「たとえば。肌を刺すような冷気から、下半身の柔らかな肉のふくらみを守るようにして穿かれる、厚手のパンティ・ストッキング。そしてその色は、必ず黒」
黒であるべきだ――と、繰り返し強調する。そんな風に言葉を続ける真人の姿は、深い懺悔の中に身をおく贖罪者の姿さえ思い起こさせるほどに厳かだった。
「春になり、次第にその『黒』が数を減らし、人の目に触れることが少なくなるのは、確かに悲しいことだ。――しかし。春には決して、悲しいことだけが訪れるのではない」
校舎の三階から、今まさに登校時間の真っ最中の、校門の前を見下ろすように促す。
「見よ。これが、春だ」
言われるままに視線をやると、そこには、すでに制服姿がこなれた二、三年生の姿に混じり、初々しさがにじみ出ている真新しい制服が、ちらほらと見受けられた。
新入生の、制服姿。
初々しい――真人が、うっとりした表情でそうつぶやいた。
「新入生とは良いものだな。健四郎よ」
「それだけのことを言うために、あれだけ回りくどい表現を駆使する奴に初めてお目にかかった」
「ク、ハ、ハ――!」
そんなたわごとに、健四郎は極めて冷淡な言葉を贈ったが、それを特に気にすることなく、可々大笑だけを真人は返してきた。
うんざりするほど、いつもどおりのやりとりだった。
「要は解釈の問題よ。黒スト無きこの世を不毛の大地と捉えれば、芽吹く草花にとって春は残酷なものだろう。しかして今、俺と貴様の眼前に広がるは、まさしく春という名の美。ボッティチェリさえ表現し得なかったほどのな。これを本当に残酷といってよいものか、という思いもまた同時に存在する」
「というかお前、全般的に俺の話を聞いてないだろ」
無位真人――恐ろしいことに、紛れもなく本名である――他人のツッコミには、基本的にあまり応じない男であった。
そんな男と、この一年を共に過してきた健四郎は、自分はどうしてこの男と友達でいられるんだろう……としばしば思うことがある。
しかし、なんだかんだ言いながら、根本的なところで妙に気が合うのだった。ひょっとすると、ツッコミ役が自分に適しているのかも知れない。
とりあえず、親友と呼んでも良い存在だと健四郎は思っている。もちろん、それを実際に口にしたりはしないが。
「俺は確かさっき、生徒会に新入生を勧誘しなくてはならない、と言っただけだったと思うんだよ。それがどうして春だの黒ストだのの話になるんだ」
「わからんのか?」
「俺がわかるのは、お前という人間の思考が、きっと未来永劫わからないだろう、ということだけだ」
「むう。困った健四郎だな」
大きく腕を組んで、困ったように目をつぶる真人。どんな辛辣なツッコミも、この男には通じない。絶対的な自我の持ち主であるがゆえの倣岸さだった。
「新入生を勧誘する――そのような行為は、言ってみれば、春という季節がもたらした大地の恵みを摘み取るという行為にもどこか似ているではないか。すなわち、あの若々しい活力に満ちた新一年生を欲している貴様は、いわば春の狩人。おお、詩的(ポエティック)」
「違うとまでは言わないが、そこまで春にこだわる理由はなんだ」
「何を言うか。春だぞ、春。平成の世に芽吹いた瑞々しき若芽が、まさに少女の衣を脱ぎ捨て、大人という名の若木に転ずるまでの脱皮の時間を過す、高校生という美しい存在概念。ましてそれに、新一年生などという肩書きまでつこうものなら、もはやあらゆる議論を余地を失わせるほどの力(パワー)を持つとは思わんのか? それもまさに春のおかげだ。男子であれば誰もがそう思うだろう。俺も思う。よって貴様もそう思え」
「思う前にとりあえずお前は自分の脳をどうにかしろ」
「ハ、ハ! とんだ恥ずかしがり屋さんだ、健四郎は」
「……まあ、何を言っても、基本的に一切聞かない奴だってことは十分知ってるけどよ」
健四郎はかなり大きな溜息をついた。
春とは、こう言うと身も蓋もないが、変な人の現われやすい季節である。真人の言葉は、ある意味それを具体的に表しているとも言えた。もっとも、真人のそれは、春夏秋冬あらゆる季節において発揮されるのだが。
「ふん。しかし、これほど新入生、すなわち春の良さを語ってやって、それを解さないということは……まさか貴様、女子高生より女子中学生の方が好きだから、などと言い出すつもりか」
真人の目が恐怖に見開かれた。
「それは許されんぞ健四郎。『ロリ』――それは人として、男として、最も背負ってはならぬ、汚濁にまみれた負の勲章。そのようなものを背負った日には、その一生涯を他人に後ろ指を指される日々として送ることになるであろう。男ならロリはよせ。男ならな」
「たった二年前まで中学生の身だったくせにそんなこと言ってんじゃねえ。それに、なんかだいぶ昔、お前にさんざんロリ呼ばわりされたような気がするんだけれどその辺どうなんだコラ」
「フハハ――君子は豹変する! すなわち、君子たるこの俺も豹変する。それに従い俺の記憶の方も、比較的フレキシブルにその内容が変化するのだ。メメントもびっくりだ」
「手帳でも持ち歩け――あ、いや、やっぱやめろ」
世にも恐ろしい内容の魔書ができあがることになる。
「いや、なにぶん昔のことなのでな。いや、そうか、貴様にとって『ロリ』呼ばわりされた記憶は、特別に覚えておくだけの価値があったということだな。では、そのこだわりを評価し、貴様に栄誉あるロリ王の称号を授けよう」
「いるか!」
「なにやら響きがリア王っぽくて素敵だと思うのだが」
ちょっぴり残念そうな顔をしていた。
「リア王の末路を知ってて素敵とかぬかしてるだろお前」
「本当にいらないのか?」
「くどい!」
「汚名挽回のチャンスではないか!」
「汚名を挽回してどうするっていうかそもそも得てないし!」
「うむ、この場合は正しい用法であるがゆえな」
「正しくねえよ!」
健四郎は絶叫した。
「疲れる……本当に疲れる……」
「ふん。要するに俺は、女子高生を得るというのはとても素晴らしい行為なので、全力でそれを称えつつ心から応援してやろうと言っているのだ。それを貴様は、言葉の細やかな部分にばかりこだわって、そこにこめられた友愛の情を理解しようともせん。まったく、友達がいのない男ではある」
「いや、その表現にも、かなり突っ込むべきところはあるんだが……」
おおむね、本来の話に戻ったので、細かいことは気にしないことにした。
「まあそうだよ。新一年生。できれば女子がいい。あまり細かいことは言わないけど、みんなから信頼されるような生徒。そういう子を見つけなきゃいけない」
自分自身がそう大した人間ではないので、あまり大きなものを要求することも躊躇われた。人から信頼されるという点は、自分がどうという点を無視してでも、抑えなければならない最低ラインである。
「――ホ! 女子と限定してきたか」
その単語に、ものすごく嬉しそうに反応した。
「いや、別に変な意味じゃないぞ」
「否々! みなまで言わなくてもよいぞ健四郎。この無位真人を、そのあたりの機微も心得ぬ木石だと思ったか」
「一応訊くけど、どんな機微だ」
「男子より女子! 雌雄の概念を持った生命体にとっては当たり前にして至上の判断であろう。恥かしがることは何もない」
「だから、そういうのじゃねえ」
「なんだとこの偽善者め!」
「頼むから俺に話をさせろ!」
わめく真人を手で制する。
「大変なんだよ。男子の立場で、生徒会でやっていくのって」
苦々しい表情で健四郎は言った。
「ふん。実体験からの判断か」
真人は吐き捨てるように言った。
「悪いか」
「悪くはないが、狭い了見に過ぎる」
それを言う真人は、おかしいのか不機嫌なのかよくわからない表情をしていた。
「まあ、わからんでもないが。しかしそう言ってしまうと、貴様の存在そのものをも否定するようではないか」
痛いところをつかれた。
「貴様が自己嫌悪にひたるのは勝手だが、それを引きずりすぎるのはどうかと思うぞ。何より、貴様を野から見出した、北館先輩に対して失礼であろう」
それは、健四郎が常に考えていることでもあった。
自分みたいな弱々しい男が、よりにもよって、あの生徒会にいるということ。
辛いといえば辛い。実際の仕事でどうのこうの、という辛さではない。自分の立場に期待されていることに、ちゃんと答えられているかどうか。それに自信が持てないのだ。
だがしかし。そんな自分の弱さを乗り越えることこそが、健四郎の目標なのだ。そしてこの真人は、そのあたりをよく知ってくれていた。
「真人もたまにはいいことを言うな」
苦笑しつつ、健四郎は答えていた。
「たまに、という部分は即刻取り下げるべし。俺の発言、すなわち金言と心得よ」
「そういういらんことばかり言うから、たまに、なんだよ」
「ハ――素直ではないな。俺の言葉に感涙したのなら、いつでも両の眼から青春汁を迸らせてもよいというのに。そのようなシチュエーションが俺は嫌いではない」
「俺は嫌いなので却下」
「俺は好きなので却下不可」
「お前の好悪が宇宙の真理かよ」
「Yes,I do.(訳:はい。私はそうします)」
「全てにおいて間違いっていうかもう訳わからんわ!」
しかし、こういう愚にもつかないやりとりを、健四郎は嫌いではなかった。
「まあ、あまりこだわりすぎないことだ。無理にとは言わんが、貴様がこれはと思う者ならば、男かどうかなど気にすることはないだろう。去年、北館先輩がそうされたようにな」
「お前はことあるごとに北館先輩を持ち上げるな」
「うむ。俺は、自分自身以上に、あの人のことを尊敬している」
真人がどういう人間なのかを考えれば、それは恐らく、とてもすごいことなのだろう。
「あの人は素晴らしいお方だ。よって貴様も敬え」
「いや、言われるまでもなく、十分尊敬しているし、感謝してもいるけれど」
しかし、この真人のような、崇拝にすら近いそれを抱けというのは、さすがに無理だった。
この男の、北館先輩に対する畏敬の念。二人をよく知る健四郎も、どうして真人がここまで北館先輩を敬うのか、その理由はわからなかった。
もっとも――彼らの日頃の言動を見てみれば、単に自分と同じ類の人間ということで結びついているのかも知れない。そういう点からすれば、この学園に限らず、この無位真人という強烈なキャラクターに勝てるのは、ある意味北館先輩ただ一人という気がした。
とにかく、真人はとことん北館先輩に心酔している。
だが。少なくとも、感謝という念においては、健四郎も真人に負けるつもりはない。
「今度のことも、北館先輩が去年どうされたのかを、大いに参考にするべきだ。というか、貴様が自身で経験したことではないか」
「あれを参考にしろってのか」
「しないでどうする」
「ありていに言って無理だ」
健四郎はきっぱりと言い放った。
「あんな風に、いきなり一年生の教室に入り込んで、初対面の生徒に対してどうこうできるもんか」
思い出す。去年のあの日。先輩が教室にやってきて、自分を指し示してくれたときのこと。その後の、嵐のような日々。
あんなことができるのも、北館先輩が、それを行って許されるような、すごいキャラクターだからだ。それは、人間力という表現をしてもいいだろう。人間が持つ、その人格そのものの力。うまく言葉で表現できるものではない。だが、そういう力は確実にある。
「ふん。せっかく身近に、ご立派な先輩がおられるというのに。少しは何か学ぼうという気になれんものか」
「んなこと言うけどよ。あの先輩の日頃の素行を、真正面から参考にできるのは、ある意味お前くらいのものだと思うんだよ。少なくとも、常人であるところの俺には無理だ」
「別に、何から何まで同じにしろと言ってるのではないぞ。全ては無理でも、参考にできるところが必ずあると言っているのだ。お前は北館先輩ではないのだから、お前なりに活かせる部分を学び取ればよい」
「簡単に言ってくれるがな」
「言うは易しだ。易い、すなわち安いので、遠慮する必要もなかろう」
「うまいこと言ったつもりだろうが。それにしたって、お前は少し遠慮すべきだ」
「ク、ク――」
真人は笑った。せせら笑いのようでもあり、苦笑のようでもある。
「あまり説教臭いことは言いたくないが。さしあたっては、あの積極性など見習ってはどうか」
「……ああ。わかってる」
積極性。すなわち、自分に対する自信。
健四郎が自覚する、自分に欠けているものの一つだった。
「わかっているだけでは何にもならん。実際には全くこれっぽっちも使うあてもないくせに、万一のために自分の財布に避妊具を後生大事に持ち入れてるのと同じくらい何にもならんぞ」
「う、うるせー馬鹿」
健四郎はうろたえた。
「ゆえにきちんと理解したまえ、使うあてもないコンドームを肌身離さず持ち歩く武田健四郎十六歳」
「んなもん持ち歩いてねえよ」
「……え?」
心底意外そうな顔をした。
「……どうしてそこで、そんなに不思議そうな顔をするんだよ」
「持ち歩いてないのか?」
「そうだと言ってんだろうが!」
「な、何故」
「何故もクソもあるか!」
「いささか吃驚仰天」
「仰天できる要素が一体どこにある!」
「いや、貴様のようなオナニスティックな男であれば、そういう可愛らしい行動も十分ありえると推測していたのだが」
「推測すんな!」
「ではこの際だから、本当に持ち歩け」
「なんでだよ」
「あるいは役に立つぞ?」
「どんなときだ」
「はっきり言うと、役には立たない」
「どっちだ!」
「心構えの問題だ。性行為も含め、自分がいざ、どのようなことに巻き込まれたとしても、身を処する術を用意しておくというのは、立派なことだ。それに何よりも、俺がそのことをネタにしてからかえる」
「虚しい建前もいいところなうえに、なんだその後半は。お前のために持ち歩けってのか」
「うむ。避妊は大切であるぞ」
やや気まずい沈黙が流れた。
「……なんつーか」
それに我慢できず、言葉を発した健四郎。
「……何か言って欲しいのか?」
「うるせえよ!」
色々と突っ込みたい部分はあるのだが、いずれも墓穴を掘るだけのような気がしたので、やめた。
「ク、ハ、ハ――! うぶな男め」
そして恐らくは、そういう誘導を楽しんでいたのであろう真人は、さも可笑しかったかのように笑い声をあげた。
とにかく、人のことをからかうことが大好きな男なのだ。
ふと、そこに。
「武田くん」
突然声をかけられた。
健四郎が慌てて振り向くと、そこには、生徒会の仲間であり同級生の、松瀬早乃の姿があった。
「あ、ああ、松瀬。おはよう」
「おはよ」
少しどもった健四郎に、松瀬は少し笑いかけた。
「クク――おはよう。松瀬早乃」
いつもの尊大な態度を崩さないまま、真人が挨拶した。
「――無位、真人」
コイツがいたのか、とばかりの反応を見せると、松瀬ははっきりとした敵意を込めて、真人のことを睨みつけた。
「おはよう」
「朝からずいぶんと機嫌が悪そうではないか」
「……別に」
「――ク、ク」
露骨に嫌悪感を込めた挨拶を返して、すぐに真人から視線をそらす松瀬。そんな様子を見て、真人はなにやら、嬉しそうな表情を浮かべた。
「お話中、だったかな」
「あー、いや、別に」
真人を無視して、松瀬は健四郎に尋ねてきた。
そこに真人は、無理矢理割り込んでくる。
「なになに、大した話ではない。俺と健四郎とは、ちょうど今、男子高校生たるもの、避妊具を常に持ち歩くべきか否かということを熱く議論していただけだ。気にすることはないぞ」
「――な」
避妊具、という言葉を聞いた瞬間、松瀬の顔はわかりやすいほど赤くなった。
「きょうび、高校生といえど、持ち歩くべきだと俺は主張したのだが。この男ときたら――」
松瀬の反応を知ってか知らずか、真人はいつもの調子で高説を続ける。
そんな話を聞くものかとばかりに、斜め下を凝視して黙っていた松瀬だったが、その内容がエスカレートするうちに堪えきれなくなったのか、
「……不潔」
と、忌々しそうにつぶやいた。
それは聞き逃せぬとばかりに、真人が反論を開始する。
「待て待て、不潔とはなにごとか。むしろあれは衛生器具の名が示すとおり、人体を守るもので」
「真人」
健四郎は、静かに、だがはっきりと、真人の言葉を遮った。
「そのへんにしとけ」
「合点承知」
あっさりと引き下がった真人をよそに、健四郎は松瀬に尋ねていた。
「悪い、松瀬。で、どうしたんだ?」
「え――? ……あ、ああ、うん」
その言葉に、一瞬呆けたようになった松瀬が、慌てたように言葉を紡いだ。
昨日の生徒会のことを尋ねられた。
「ああ、昨日は別に、特別なことは何も」
「――そっか」
どこか態度が上の空だった松瀬が、そう言いつつ、自分を取り戻したかのような表情を見せた。
「うん。ありがと、武田くん。それじゃあ、また後でね」
笑顔で健四郎にそう言い、自分のクラスに帰っていった。教室から出る前に、きっと真人を睨みつけた。当の真人は、涼しい顔で泰然とその視線を受けた。
「お前は――」
「いや、すまん」
健四郎が、さっきのことを非難しようとすると、先に真人は謝ってきた。
傲岸不遜極まるこの男だが、実は、こうして人に対して謝ったりすることは、そう珍しいことではない。自分がそう認めたならば、非は非として素直に受け入れるところはあった。そして、自分に甘いところもない。
「いかんな。俺はどうも、ああいう可愛い反応を見ると、悪さの虫がうずいて止められんのだ」
いやはや、あれではまるで小学生だ――とつぶやきつつ、頭に手をあてて、反省の色を見せる。
「いやしかし、面白いな。あの松瀬早乃は」
「面白がるなよ」
「いや、面目ない。しかし、面白いのだから仕方ないではないか」
身を乗り出して、真人は話しはじめた。
「考えてもみろ。いくら俺が挑発的に言ったとはいえ、避妊具など単なる実用品にすぎん。フランスの女子高生など、たとえ使うあてがなくとも、自衛のために避妊具を持ち歩くことを常識的にしている。本質的には、下世話な話でもなんでもない」
そのあたりのことは、松瀬早乃とて、わかっているだろう――と続ける真人。
「あれは、ものの道理というものをよく知っている女だ。伊達に剣などを修めているわけではないな。しかし、そんな松瀬早乃が、ああも他愛もないことで自らを乱す。それが見られると思うと、ついぞ自分を押さえられなくなる」
「お前が挑発するからだろ」
「その通り。だが、それだけというわけでもないぞ」
「他にどういう理由があるってんだ」
「ク、ク――それをわざわざ訊いてしまうのが、貴様のうかつなところだ。覚えておけ」
「なんだそりゃ」
「言わぬが吉、という言葉があるだろう。その類だ」
「いちいち含みを持たせやがって。言ってみろよ」
「フハハ――思ったことを全部口にしてしまうのは、愚かしいことだぞ? その基準でいえば、まあこの俺とて、愚かとも言えるのだが」
まあ、そんなことはどうでもいい――と言い放った。
「しかしまあ、今日の貴様はなかなか格好良かったではないか。俺内部における好感度上昇とそれに伴う熱いまなざしをくれてやろう」
「ぬけぬけとお前がそう言うか」
「いつもの貴様はもう少しぎこちないのだが。あの松瀬を前にしていると、な。その逆もしかりだ」
さすがにこの真人は、よく見ていた。
「もう少し積極的になるがいいさ。何事につけても」
「余計なお世話だ」
むず痒い思いをごまかすように、健四郎はつっけんどんに言葉を返した。
そうしているうちに、チャイムが鳴り、担任が教室へ入ってきた。
健四郎も真人も、自分の席に戻る。
春の暖かな風が窓からそよぎつつ、ホームルームは進行してゆく。
風は、心地よかった。
――松瀬、早乃。
真人は、彼女を前にした自分が、どこかぎこちないと言った。
それはそうだ。
昔のことを、思い出す。
彼女は、とても強くなっていた。あの日、別れたときより、遥かに。途方もないほどに。
幼き日々に、自分を守ってくれた少女と、高校で再会する。思ってもみないことだった。
「……武田、健四郎……くん?」
そう声をかけられた、あの時。どんな顔をしたらよいかさえ、分からなかった。
早乃ちゃん――うっかり、そう口にしてしまいそうだった。昔の、大昔の呼び方である。
かろうじて、松瀬、と呼ぶことができた。
春がもたらした、再会だった。
だが、はたしてそれは、幸せなものだったか。
嬉しさはあった。こんなことがあるのだ、という高揚感もあった。
しかし。
今こうして、せっかく再会をはたした相手にも、自分に自信がないというせいで、どこかぎこちない関係になってしまっている。
普通に接しようとは努力している。第三者からすれば、ごく自然な友達関係のようにも見えることだろう。むしろ、彼女の男友達の中では、自分が一番気がおけない関係を持っているとも思える。自分に対しては、わりと遠慮のないこともしばしば口にされる。
しかし、こうして普段それなりに親しくしていたとしても、かつての彼女と、どれほど親しかったかを思い返すと、この関係を見て、どこか違うと思う気持ちが拭えないのだった。
なぜなら。健四郎と彼女との間で、昔の思い出が語られることは、不自然なほどに少ないのだった。どこかで忌避している――そんな感じだった。
忌避しているのは、自分か、それとも彼女のほうか。
時の流れを経て、新しい春に再会が叶っても、それがどこか悲しい。
――春は残酷な季節――
さっきの真人の言葉が思い返され、そしてそれが、妙に頭に残った。
本当に、春は残酷な季節なのか。
彼女との再会だけではない。春は訪れるたび、新たな出会いをもたらしてくる。
北館先輩に見出され、生徒会に入ることになったのも、その一つだ。
これも、ひょっとすると、残酷な出会いだったのかも知れない。
生徒会に入ったことが、自分にとって、どれだけ重荷になっているか。
だが自分は、苦労すると知っていて、それを受け入れた。期待に答えるため。感謝の気持ちを表すため。そして、自分のために。そうすることで、強くなろうとする自分のため。
不毛の大地に生まれてきたことを呪う草花。その構図は、春が残酷であることの理由である。
しかし、それは決して不毛などではない。
自分が生えたという時点で、すでに不毛の大地ではないのだ。
もし不毛だというのであれば、それは、自分自身という草は、草のうちに入っていないということである。
健四郎は、自分のことを、草だと思いたかった。
そして願わくば、自分がこれから見つけようとしている、新しい草花の種にも、そう思って欲しかった。
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