『ガクらん』   <PRE  NEXT>



 8・修行が足りない。



 その試合いは、新入生の入部者たちが見守る中、顧問、岩崎和海の立合いの元で行われた。
 互いに手にする獲物は、粗造の木剣。
 試合う。しかしそれは、「剣の」試し合いではない。
 剣術。その技術は、戦いにおける理合を追求するためのもの。ゆえに剣術は、剣のためだけに存在していない。
 剣に頼ることなく剣を制するは、体術によって繰り出される剣の技。それらを突き詰めれば、すなわち、合気の理(ことわり)に至る。
 今、この場で試合うのは、そういう類の武であった。
 じり。
 わずかに間合いが詰まる。
 眼前にて剣を構えるのは、そのような剣に心得があるという、今日入ったばかりの新入生。
 対峙を行ってから、すでに数分。
 動くことなく、相手の繰る力の流れにだけ、神経を傾ける。
「えあっ」
 ――殺すときは、音も発さず殺すべし。
 幾度となく聞いた師の言葉。
 後の先。振りが動くより先に、相手の声を声と認識するよりも先に、続く動きを制するために、その「音」に反応する。
 かっ。
 木剣と木剣とが叩き付けられた。
 相手の力が動へと移るまさにその一瞬、瞬時にその懐へ入り込み、打ち込みの動きの寸前に打を与えることで、相手の力を「抜」いたのだ。
 みしり。
 鍔迫りで、ずい、と相手を押しやる。
 力が抜けた相手の体を、己の体そのものを乗せた剣で、床へと押し潰す。
 逃れようともがく相手の動きを、さらに力づくで押し込め、封じようとしたところ――相手の足が、悪さをした。
 足絡み――!
 足の踏ん張りが奪われ、力と体が横に反れた。床に、顔面から叩き付けられそうになる。
 倒れるまでの、僅かな時間。
 こちらと共に倒れこみ、上をとって押さえ込もうと手を伸ばしてきた相手の袖口を、逆につかみとり、ぐいと寄せて引っ張った。
 こちらと同じく、極めて不安定な状態のままで、うかつにも手を出してきた相手の力を利用することで、くるりと、互いの位置を逆転させたのだ。
 ずだん。
 二人分の体重とともに、相手は背中から床に打ち付けられた。そこにすかさずのしかかり、その喉元に木剣の刀身を押しつけた。
 相手が、ぐう、と声にならない悲鳴をあげたところで、岩崎先生の「それまで」という声が響き渡った。



 先ほどの試合いが行われてから、何十分かが経っていた。
「大丈夫? 頭痛とか、ひどく痛むところとか、ないかな」
 剣術部副部長・松瀬早乃は、自らの手で打ち倒した相手――新入生の女の子の顔を覗き込んだ。
「……ええ。もう、大丈夫です」
 あの時、背中からしこたま強く叩き付けられ、しばらくは、呼吸するのも苦しそうだった。
 道場の壁に背を預けて座り込み、休んでいた彼女だったが、早乃の呼びかけには、普通に返事をすることができた。どうやら、大きな怪我などは負っていないようだ。
 道場の中にはもう、他の部員たちや、先生の姿は見えない。あの試合いを最後に、今日の部活は終了したのだが、この子には大事をとらせ、こうして少し休ませていた。早乃はそれに付き添っていたのだ。
 部活初日。早乃たち上級生は、日常どおりの稽古を行うとともに、新一年生の入部者たちの指導にも着手した。
 レクリエーションの続きや、剣術の精神に関する心得などを説明し、具体的な鍛錬法を教示するとともに、実際にそれを行わせてみるといった内容だった。
 そして最後に、ただの打ち稽古だけでは、剣術とはどういったものか伝わらぬだろうということで、上級生同士による試合いをして見せた。
 何組かの試合いが行われた後、最後に部長と副部長による試合いを行おうとしたところ、新入生の一人――この子が、どうか自分と手合わせをしてはくださいませんか、と申し出てきたのだ。
 彼女の名前は、津島夕子。先日のレクリエーションの際の自己紹介で、津島道場の一人娘だと名乗っていた。
 津島道場の名前は知っていた。早乃の道場にも、しばしばその強さは、噂として伝わってきた。そしてそのことは、実際に試合いをしてみてよくわかった。
「うん。よかった」
 早乃は彼女に、屈託なく笑いかけた。
 こうして心配こそしているが、早乃はさっきの試合いを、やりすぎたとか、悪いことをしたとは思っていない。この剣術部は、このくらいのことを日常的に行っている――部活初日の今日は、そのことを新入生たちに、よく見せ付けてあげなくてはならないのだ。実際に、さっきの試合いのようなものは、ごく日常的な部活内容である。
 まして彼女は、ここで行っている剣術と、ほぼ同じものを日々修めているとまで言った。そして、先ほどの試合いの内容を思い出すに、手心などを加えるのは不用だったということは、全く間違いではなかった。
 なにしろ、あの足絡みは、なかなかにえげつない――。
「……先輩」
 津島さんが、なにか聞こうとしていた。
「ん、なあに?」
「あの、試合いの最中……足を」
「――ああ」
 あの時。鍔迫り合いを行って、もう少しで押し込まれるというところで、彼女は早乃に、足を絡めてきたのだった。
 鍔迫り合いの最中、相手に足を絡めることは、危険な行為である。警察剣道を除く一般的な剣道競技では反則となるし、古流剣術においても、型を重んじる流派などでは、無作法な行為と見なされることがある。
 つまり彼女は、ああいったことが、失礼に当たったのではないかと危惧しているのだ。
「ううん。ウチでやってるのは、そういうのだから」
 気にしないでいいよ――と続ける代わりに、早乃は、嬉しそうな表情をしてみせた。
 足絡みや、そのあと早乃が行ったような組み打ちといった、競技としては危険な行為も、この部においては積極的に行われている。
 だからもちろん、あの足絡みは、失礼でもなんでもないことなのだが、しかし、そういう所をきちんと気にかけることができる津島さんの細やかさを、早乃はむしろ気に入った。決して、弱気でそう言っているわけではなく、純粋な意味で、礼を気にしているという感じだった。
「負けるものか、と思いまして」
「うん」
 思ったとおり。彼女は、武道を修めるうえで、一番大切な気持ちを強く持っている。しかも、それを歪んだ形で発揮させないだけの、精神の強さも持ち合わせているようだ。
「それは、すごく大事なこと。そう思ってくれたのなら、先輩として嬉しいな」
 強くなる。それは単に、勝負に勝つということではない。また、たとえば実戦の場で有効に技が使えるとか、そういったことだけを意味するのではない。
 強さとは結局、意思そのものなのだ。勝つことではなく、勝ちたいと思い、それを成し遂げるまでのことを総じて、初めて強さと呼べるのではないか。それが、早乃の今のところの強さに対する認識であり、そしてそれは、道場やこの部における修業の方向と、およそ一致しているように思えた。
 そして、この津島さんも、そういう強さを身につけている。技術だけの強さではない。強さを身につけるための強さ。きっと彼女は、この部でもっと強くなるだろう。
「もうちょっと、お話しさせてもらって、いいかな?」
 早くも早乃は、彼女のことが気に入っていた。その性格も、先ほど見せた強さもだ。
 強いて言うならば、あの掛け声は、少々いただけなかった。といっても、掛け声が必ずしも悪いわけではない。先ほどのように先を読まれることがあるので、剣術は基本的に無声で行われるのだが、これも一部の流派では、むしろ重んじられている。
 要は、どんな動作であれ声であれ、実際に有効に働かせられる研鑚があるかどうかということだろう。津島流で掛け声が重んじられているというのであれば、彼女はそれを弱点とならないように磨けばよいだけのことで、あえて矯正させようという気は早乃にはなかった。もちろん、彼女が不用と思うようになったのならば、それは捨てればいい。
 ちなみに、掛け声を出す剣術の流派というと、それはおよそ、一の太刀に重きをおく類のものである。津島流も、恐らくはそういう流れを組む流派なのだろう。だから、先ほどの試合いでまずかったのは、掛け声そのものではなく、それとともに振るわれるはずの、瞬速にして必殺であるべき太刀の鋭さが、声の鋭さに及んでいなかったということだ。
 そういったことを、半ばアドバイスのような、半ば雑談のような感じで話した。
 あまり上手い話し方ができたとは思えなかったが、津島さんはそれでも、真剣なところは真剣に、少しおちゃらけたところには遠慮がちながらも笑いつつ、しっかりと早乃の話を聞いてくれた。
 結論。うん、やっぱり、すごく素直でいい子だ。
「その、恐縮です」
 ただ、もう少しくらい、態度を崩してくれてもいいと思う。会話の中に、それを許すようなサインも、できるだけ含めようとはしているのだが。
 しかし、そういう頑なそうなところも、かえって魅力的に見えるのだった。
「……ええとね」
 そういう津島さんの輝かしいところを、真っ向から否定することのないように、早乃はやや少し言葉を選んだ。
「ウチの部、ちょっと見ていてもわかるかも知れないけど、あんまりそういう、上下関係とか、気にしないから。とりあえず先輩として見てくれていれば、もっと気楽にしてくれたって大丈夫だよ?」
 剣術部は、稽古の内容こそ、学校の部活の基準で見れば容赦がないほうだが、体育会系の運動部によくあるような、上下関係の厳しさはほとんどなかった。先輩後輩の間であっても、実にフレンドリーに交流している。もちろん、年長者に対する最低限の敬意はきちんと守られているのだが、そういうけじめさえちゃんとつけられる範囲においては、うるさいことは言われない。
 実際には、そのあたりをきちんとわきまえられる生徒だけが、部に残っているというのが正しいかも知れない。かえって、いかにも体育会系なそれよりも、おのおのの自主性を強く要求する分、実質的には厳しいとも言える。
 ただ、少なくとも、この津島さんに関して言えば、全く心配することはないだろう。むしろ、礼儀正しすぎる。それはとても立派なことで、困るようなこともないだろうが、やはりもう少し、柔らかい部分も持てたほうが、なんというか……楽しいに違いないのだ。
「もっとリラックスリラックス。これからずっと、お互いにお世話になっていくんだから。遠慮することなんてないんだからね?」
「は、はあ」
「そうだ、マッサージとかしてあげようか」
「え、えええっ?」
「稽古の後って、足とか突っ張ったりするでしょ。それに、痛めているところとかないか、確かめたいし」
「そ、そんな。別に大丈夫です」
「えー」
 こういうスキンシップで、体だけでなく、緊張もいっしょにほぐしてあげようという意図から申し出たのだが、ずいぶんと恥かしがられてしまった。嫌がっているのを、無理に行う気はないのだが、ちょっぴり残念ではある。
「まあ、今日はいいけど。でも、もし足がつったりしたら、いつでも言ってね。こう見えても、マッサージは大得意なんだから」
 言いつつ、目の前で両手をわきわきすると、津島さんは「あ、あはは……」と、堅い笑顔を見せてくれた。やはりうぶである。だがそれがまたいい。
 その後、二人で道場を出て、部活棟の更衣室へと向かった。
 着替えの最中、早乃はじっと、津島さんの体に注目していた。体にひどいアザでも出来ていないか心配だったからだ。
 この部では、どうしても擦り傷やアザといったものはつきものになるが、それでも女の子の体に、そういうものが残ってしまうのは好ましくない。アザができてしまったなら、それをケアするくらいの体への配慮は必要だと早乃は思う。
「ええと……わ、私の体に……何か?」
 ところが、津島さんはそんな早乃の視線から、手で体を隠すようなそぶりを見せていた。
「……あ。ううん、なんでもないよ。うん、きれいな体だな、って思って。あはは」
 変に緊張させてしまったので、とっさに思ったところを言ってごまかしたのだが、しかし彼女は、余計に体を堅くしたように見えた。
 ……なにやら、変な誤解を与えてしまったかも知れない。
 もちろん、早乃にそんな「ケ」はないのだが。でも、本当にきれいな体だとは思ったのだ。だから別に、後ろめたいことは何もない。肌は透き通るように白いし、出るべきところもちゃんと出ている。そのくせ、お尻はきゅっと引き締まっている。女性としてはなかなかに理想的な体だと思った。
「背も高いよねー。いいなあ。ちょっと羨ましい」
「そ、それは……」
 背のことに触れると、津島さんは、ちょっと複雑そうな顔をした。
「打ち込みのときにも有利だし。それになにより、スタイルがかっこよく見えるもの」
「それは、そうかも知れませんけど」
 少し恥かしそうにして、言葉を続けた。
「確かに、剣のためにはいいですけれど。でも、あまり背が高いのは、その」
 なるほど。早乃にも、なんとなく言わんとしているところは察せられた。
「別に全然変じゃないよー? 津島さんって、とっても女の子らしいし」
「わ、私がですか?」
「うんうん。私も見習いたいくらい」
 たぶん本人は、背の高さとか、その口調のせいで、変なコンプレックスを抱いているのだろうが、早乃からすると、津島さんのような子は、むしろ理想的な大和撫子のように思えた。その内面は、実に奥ゆかしい。
 稽古をして、話もしてみて、とりあえずわかったことは、この子はもうちょっと、自信を持つべきだということだ。そして、そのことを示してあげるのも、先輩のつとめだと思うのだ。
「そんなことないです。それに、松瀬先輩の方が、ずっと」
「え? うーん。そうかなあ」
 かく言う早乃はというと、ごくごく平均的な女子高生だと自分では思っている。多少剣は遣うが、まあそれは、ちょっと変わった特技という程度で、あとはそこそこ人当たりが良いというだけの、どこにでもいる女の子である。
「どう? 部活だけじゃなく、ふだんの学校の方は」
 どうにも妙な方向の話になったので、別の、なにげない日常の話題に切り替えた。
「あ、はい。それはもう」
 すると津島さんは、活き活きとした表情になった。どうやら順調に学校生活を楽しめているようだ。
「中学から仲のいい友達が二人、一緒のクラスなんですよ」
「わ、それっていいね。私なんて、中学のときの友達は一人も――」
 そう。中学校時代の友達は、誰も通っていないが――。
「どうしました?」
「あ、あはは。な、なんでもない」
 ――あまり思い出したくないシーンを思い出してしまい、早乃は慌ててごまかした。
「津島さんは、この町から通ってるんだったよね」
 ちょっと話の矛先を変えてみた。
「はい」
「そっかあ。私なんて、隣の隣の町からだから、けっこう通うの大変なんだよー」
 自転車に電車にバスに乗り継ぎで、と説明する。
「でもね。実は、ちっちゃいころ、この町に住んでたこともあるんだ」
「そうだったんですか」
 言ってから早乃は、うわっ、我ながら余計なことを、と内心思ったが、それは表に出さなかった。出せるはずもない。
「それじゃあ、こちらに古いお知り合いなどは」
「えーと、うん。それはまあ、いる……かな」
 案の定、それを訊かれてしまった。
 古い知り合い。いることにはいる。
 それどころか、自分がここに帰ってくることを決めたのは――。
「そういうのって、いいですよね。ずっと前にクラスが一緒だった友達と、偶然また縁が結ばれたりするのって」
「う、うんうん。そうだねえ」
 ――うわあ、モロに来られた。
 頷きつつも、やや顔がひきつっているのが自分でもわかる。
「……先輩?」
「ご、ごめん。気にしないでいいよ」
 別に、変なことを言われたわけではないのだ。津島さんに、気を使わせるわけにはいかない。
 小さい頃に仲が良かったお友達と、新しい環境で、思いがけず再会する。
 それは確かに、とてもステキなことだと思う。なにしろ、早乃自身、そういう思いを抱いて、この昭葉へと進学してきたのだ。大いに同意したいところではある。
 あるのだが――。
「――先輩は、生徒会のお仕事もされているんですよね?」
「あ……うん」
 少しの間沈黙が流れてから、津島さんが尋ねてきた。
 ひょっとしたら、早乃の様子を察して、話を変えてくれたのかも知れない。やはり、気の利いた子だった。
 ただ実のところ、それでは全然、話題が反れていないのだが……しかしいつまでも、彼女にとって謎なことを引きずるわけにはいかなかった。
「お忙しい中、部活動もちゃんとこなされるんですよね。すごいと思います」
「あ――いやいや、それほどでも」
 津島さんの言葉に、おどけてみせる。さっきまでの戸惑いを、何事もなかったかのようにごまかすように。
 生徒会と剣術部の、二足わらじの学園生活。
 確かに忙しいが、その分、充実しているとも言える。
 生徒会での仕事はどれも、とてもいい経験になる。そして、あれだけ個性的で――部分部分でどうかと思うところは山ほどあるが――尊敬できる先輩たちと間近で触れ合えるのだから、願ってもないことだ。
 そこには、恭佳という、無二の親友もいる。
 そして――。
「うん。とりあえず、生徒会でも頑張ってるよ。楽しいしね」
 なんだかんだと言っても、それが一番大きいところだ。
 ……そういえば。
 学年も上がり、早乃も二年生となった。生徒会の二年は、新一年生の中から、新規の役員を探さなければならない。
 早乃は、剣術部の副部長という立場もあって、今こうしているように、一年生の子と触れ合う機会は多い。
 だが、早乃には、この立場を利用して、誰かを生徒会に引き入れるという形は、できれば取りたくなかった。何故かというと、生徒会の仕事を任せたいと思うような「できた」子であれば、自分が頼めば、それだけの理由で引き受けてくれそうな気がするからだ。
 それが、必ずしも悪いこととは思わないが、しかしできることならば、自分が指名する新しい生徒会役員は、自分から生徒会の仕事につきたいという意欲を持った子であって欲しいのだ。
 そう思うのは何故か。
 それは、早乃自身が、不純とさえ言えるような動機で――。
 ともかく早乃は、今、こうして親しく話しているからといって、津島さんに「生徒会の仕事、やってみない?」と言うつもりはない。他の新入部員にもだ。
 狭い人間関係の中だけでものを見て、たとえば他に、生徒会へ入る意欲を持ったほかの一年生が、いないとは限らないのだ。
 自分のケースで、こだわりすぎているのかも知れないが――それでも早乃は、そう簡単に、身近な子を勧誘しようという気はなかった。
 ……もっとも、この津島さんが、生徒会に入ってみたいと思うのであれば、それは是非もないことだとは思うのだが。



 着替え終わってから、二人で学校を後にした。
 今日は生徒会で集まるということだったのだが、軽い連絡や仕事の確認程度のことだというので、早乃は休むと伝えておいた。本当は少し様子を見に行きたかったが、さすがにこの時間までは残っていないだろう。
「それじゃあ、また明日ね」
「今日はどうも、ありがとうございました」
 ぺこりとお辞儀して、バスに乗り込む津島さん。
 二人とも同じくバス通学なのだが、早乃とは路線が違うようだ。津島さんを乗せたバスに、ばいばーい、と手を振って見送った。
 すでに薄暗くなった空の下、バス亭で早乃は一人、次のバスを待った。
 今日の部活は結局、ほとんど津島さんにつきっきりになってしまった。あまり一人の子にだけ目をかけるわけにはいかないので、明日からはなるべく、他の子たちを構ってあげなければならないだろう。
 確かに津島さんは、先輩としてこの上なく可愛い子ではあるが、他の子たちも、同様に可愛いのだった。いや、みんなそれぞれに可愛さを持っている、というべきか。
 ライトを点けた車が何台も、目の前の車道を横切っていく。
 早乃はふと、今日津島さんと話したことを思い返していた。
 この町に、帰ってきたこと。
 そして、生徒会のこと。
 ……あまり深くつっこまれないで、良かったと思った。
 去年の自分。ちょうど今の津島さんのように、この昭葉に入ったばかりの頃。
 ――あれは、幻滅といって良かったのだろうか。
 幼き日に、憧れた少年がいた。
 早乃にとって、彼の思い出は、神聖なものだった。
 それはあたかも、偶像のようで、今の自分は、その偶像を信仰することで、ここまでやってきたとさえ言ってよい。
 この学園で見つけた、彼と同じ名の、同級生。
 その彼が、自分が長年勝手に崇め奉っていた美しい偶像とは、ほど遠い姿であったとしても、いったい誰が責められるだろう。
 彼の人格や、今日まで培ってきた人生などを、まるで無視して。
 責められる者が入るとしたら、それは、勝手な思い込みで、一個人を偶像に仕立て上げた、早乃自身に他ならない。
 だから、あのとき。


   「うるせえ! プチ殺すぞ若草破廉恥野郎!」
   「ハッハー! この高貴な俺の命を、そんなミニマムに奪えるものか!」


 (こんなのじゃない)
 (あの、健四郎くんが)
 (優しい健四郎くんが、こんな、乱暴なこと言ったりしない――)
 (こんな人、健四郎くんじゃない――!)

 ――そんな、極めて自分勝手な思い込みを、本人に押し付けるような感想を抱いた。
 そして。
 早乃はむしろ、そんな自分の思い込みこそが、真に醜いのだと思った。
 声をかけることなど、できなかった。
 もし、顔を合わせてしまっていたとしたら、きっと、「ごめんなさい」と謝ってしまっていただろう。
 彼には、ほんの少しだって悪いところなどない。ただ、悲しかった。自分の弱さが、自分の拠り所としてきたものの弱さが、たまらなかった。
 そのあと、きっぱりと終れれば、あるいはまだ良かったのかも知れない。
 自分の少女時代の空想を、空想でしたと割り切ることができれば、まだ良かったかも知れない。
 早乃は、高校生となった彼の姿に、少なからずショックを受けた。
 しかし早乃とて、いくら神聖視していたイメージとギャップがあったとはいえ、単に乱暴な言葉を口走っただけで、それが崩壊してしまったりはしない。
 ショックだったのは、自分の抱えていた偶像が、とても脆いものだと知ったことだ。
 要するに、自分は、思っていたよりも遥かに子供だったのだ。剣術などをやっていい気になっていながら、子供の頃に抱いた勝手な憧れをいつまでも心の拠り所にしていた、自分の幼さこそが、早乃に衝撃を与えた。
 そして、呆れたことに、そのことに気付いておきながら、自分はまだ、それを克服できていないのだ。
 ――早乃がなぜ今、生徒会などで仕事をしているか。
 不純な動機というのは、まさにこのことだ。
 本当なら、ぱっと吹っ切るべきだったのだ。あれは初恋。しょせんは実らないもの。そんな自覚、できていたつもりだったのに。
 それなのに自分は、潔く、自分の過去と決別することもせず。
 本人の前に姿を表すこともなく、なんとなく彼のことを、遠くから見守る日々を過ごし。
 そして彼が、ひょんなことから、生徒会に入ることになったことを知って。
 まるで、それを追いかけるように――。
 一体、何を追いかけているのか。自分はまだ、彼を偶像としたままなのか。
 そんな気持ちにけりをつけられないまま、早乃は、昭葉生徒会に迎え入れられた。
 彼の前にも、ちゃんと姿を見せた。
 彼も、早乃のことを、ちゃんと覚えていた。
 実は、それだけのことでも、とてつもなく嬉しかったのだが――やはり彼は、あの日の少年ではなかった。
 優しさが違っていた。顔が違っていた。喋る言葉が違っていた。
 だから、あの頃の彼と別れてから、早乃がどんな風に想って今日まで過してきたかは、伝えなかった。
 あの日の彼と、今の彼は、違うのである。
 私は今まで、こんなにも貴方の事を想っていました――そんな重荷を、押し付けるわけにはいかなかった。
 あの日の彼を、小さいころの早乃は「健四郎くん」と呼んでいた。
 今は「武田くん」と呼ぶ。
 そう呼ぶべきなのだ。
 あれから、もうじき一年になろうとしている。
 そんな自分と、「武田くん」との間は、やはりどこかぎこちなかったが、それでもなんとか、一年間ともに生徒会で仕事をしてきて、仲間という確かな繋がりを持つことはできた。
 その繋がりこそが、現在の、自分と武田くんとの関係なのだ。
 その関係だけで見てみれば、「武田くん」という存在は、決して捨てたものではない。むしろ、武田くんは武田くんとして、好印象ですらある。
 その友達に一人だけ、縁を切ったほうがいいんじゃないかと思う者はいるが(その男だけは大嫌いである。心から)、しょせんただの仲間でしかない自分が、そこまで言えるわけがない。
 もし早乃が、「武田くん」に、程度はどうあれ、好意を抱いているというならば、過去の思い込みとは早く決別すべきである。
 だが、それでもなお。
 自分は未だ、今日の彼――武田くんに、かつての「健四郎くん」の姿を、どこかで求めてしまっているのだ。武田くんに、失礼だと思いながら。
 そんな早乃を、「彼」は、どんな風に見ているのだろう――。
「修行が足りない、な」
 ぽつりと、つぶやいていた。
 うんざりするほど、そう思う。
 しばらくして、ようやく早乃が乗るバスがやってきた。
 一つだけ座席が空いていたが、次のバス停で、お年寄りが乗ってくるかも知れないと思い、早乃はそこに座らなかった。



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