平行線はどこまでいっても交わらないという時を超えた「人類のまなざし」を確かめるのが図形の証明(幾何学)だとしたら、数の計算(代数学)ではどうなるのでしょう。明かなことのたとえとして「1+1=2」という等式がよく引き合いにされます。1+1=2は本当に真実なのでしょうか。
1から5ぐらいまでは数えられるが、それ以上はまるめて「たくさん」と表す民族がいると聞いたことがあります。おそらく食糧を蓄えることも奪い合うこともない幸せな社会の話だと思います。多くの数を数える必要がなかったのでしょう。私たちもせいぜい億や兆ぐらいまででそれ以上はめったに口にしません。この話は数について考える貴重な手がかりを私たちに与えてくれます。
極論ですが数は3までで十分だと思います。基本となる1とそれに1を加えた数とさらにそれに1を加えた数の三つです。これを無限にくり返していけば限りなく数ができることがわかります。あとはそれに名称を付けるか付けないかだけの話です。私たちは日本人は1(イチ)、1+1=2(ニ)、1+1+1=3(サン)と命名しました。命名の方法は文化によってさまざまです。その書き方も様々です。なかでもアラブ人が開発したアラビア数字がもっとも合理的のようです。ゼロという概念をインド人から学んだ彼らは0〜9の10文字でどれだけでも大きな数を表すことができるようにしたのです。無限に1を足し続けられるという自然数の特徴にぴったりの表現方法です。
この数の表し方についてもう少し考えてみます。●、(●)+●、(●+●)+●と単位になるものをひとつずつ順番に加えたものをそれぞれひとつの集まりとしてとらえ、それに名前をつけたものが数でした。ミカン一つをのせた皿、それにもう一つミカンをのせた皿、さらにミカンを一つのせた皿、これを無限に繰り返す作業をイメージしてください。ここには単位になるものの集まりをひとつの数(皿)と考える集合の発想があります。さらに単位となるもの(ミカン)をひとつひとつ加える作業を順番に行う序列という発想があります。この集合と序列という二つの発想を統一したものが数の本質だと考えられます。
1+1=2は計算でしょうか。実はこれは定義にすぎません。1+1=2は1+1=(1+1)=2を意味しています。はじめの1+1は単位となるもの(ミカン)をひとつ加えることを意味します。次の(1+1)は1+1をひとまりの集合(皿)と見なしています。最後にそれ(皿)に2という名前をつけます。その結果私たちは2(=皿)という数字を見て(1+1)(=ミカン)を連想します。つまり1+1を2とすることに決めただけなのです。
単位となる同一のものの集まりとして数を扱えれば、足し算の原理は簡単に説明できます。1+2=3は(1)+(1+1)=(1+1+1)と考えられます。足し算が定義されれば引き算は足し算の逆をすれば答えが出ます。同じ数をくり返して加える場合は繰り返す回数を掛けることよって、足すという繰り返しを合理化できます。これがかけ算の原理です。割り算はかけ算の逆の操作です。こうして計算の体系ができました。すべては1+1が基本になっています。
しかし、ここにいろいろな問題が出てきました。
小さい数から大きい数を引くことができません。割り算も割り切れないで余りがでてしまうこともあります。3×3は9、9は3を二度掛け合わせたものです。それでは7は何を二度掛けたものか、そんな疑問も出てきました。そのたびに人びとは新しい記号を考えて、数の世界を広げてきました。1、2、3の自然数にマイナス記号を付けて、負の数をつくり整数の世界が生まれました。ある数はどんな数を掛け合わせてできるかを表すためにルート記号で無理数を表し、実数の世界ができました。方程式を解くために自乗するとマイナスになる数が必要になり、「i」という記号を付けて虚数をつくり、数の世界は複素数にまで広がりました。それらは人がつけた名称にすぎません。根底にあるのは1+1は無限に繰り返すことができるという確信だけです。