多くの利害が複雑に絡み合う調整ごと。かたくなな意見の果てしない対立。そんなとき「数学のように証明したり計算したりできればどんなにすっきりするだろう。」そんな誘惑にかられた経験はだれでも一度はあると思います。なかにはそれを実際に試してみようとした人もいるかもしれません。しかし、そんなことは可能でしょうか。そもそも、数学で証明できればなぜ真実になるのでしょう。数学で証明されることって一体何なんでしょう。
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中学で学ぶ図形の証明を例にして数学について考えてみます。
「平行四辺形の相対する辺の長さが等しいことを証明しなさい。」そんな問題があったとします。これは平行四辺形に対角線を一本ひいてできる二つの三角形が合同であることを証明すれば解ける問題です。その証明には平行線を横切る線によってできる対頂角・錯角・同位角が等しいことを利用します。これにより一辺とその両端の角が等しいことがわかり、二つの三角形が合同であることが証明できます。これで平行四辺形の相対する辺の長さが等しいことが証明されます。
上の平行線の証明では平行線にできる同位角が等しいことや三角形の合同条件が既知として利用されていました。三角形の合同条件は背理法という方法で証明できます。しかし、最初の武器(既知となる出発点)を探す旅はすぐに行き止まりに突きあたってしまいます。
三角形の内角の和が180度であることを証明しようとすると、平行線の同位角が等しいことを使うことになり、同位角が等しいことを証明しようとすると平行線が交わらないことや三角形の内角の和が180度であることが前提となってくるのです。つまり堂々めぐりです。出発点となるべき既知がみつからないのです。
実はこのことは古くから指摘されており、図形の証明(ユークリッド幾何学)では平行線が交わらないことが前提となって全体の論理が組み立てられているのです。平行線はいくら延長しても交わらないというような証明できない前提を数学では公理と呼んでいます。ユークリット幾何学は平行線はどれだけ延長しても交わらないことを公理として組み立てられました。
しかし、月から地球を見れば地球が球であることが分かります。球面では平行線は交わります。人の大きさに対して地球があまりに大きいから、球面である地表も平面に見えるだけです。19世紀に球体の表面では平行線が交わることを前提とした非ユークリッド幾何学がつくられました。こちらの方が理にかなっています。
既知で未知を説明することを証明とするなら、出発点となるべきこと(平行線は交わらない)が証明されていない図形の証明(ユークリッド幾何学)では何も証明されていないことになります。つまり図形の証明では「平行線は交わらないことは証明できなけれど、そう考えても別に問題はなさそうだ」ということをただ確かめ続けているだけということになります。
最初に平行線は交わらないと言ったのは誰でしょう。わかっていません。おそらく、みんなそう感じたのでしょう。時代を超えた人類の共同視線です。そして本当にそれが正しいのか、そう前提することで何か矛盾が生じないか、確かめ続けているのが幾何学の本当の姿ではないでしょうか。
このことは幾何学以外ではどうなっているのでしょう。