人は他の人と物語を本当に共有できるのでしょうか。他の人の物語と自分の物語が対立した場合はどうしたらいいのでしょう。ここでは物語の客観性について考えてみます。
イソップ物語のなかにある「王様の耳はロバの耳」というお話を覚えていますか。お城に呼ばれた床屋は王様の散髪を命ぜられ、そこで王様の耳がロバの耳のように変形していることを知ってしまいます。
その秘密を口外することを禁じられた床屋は苦しみます。誰かに言いたくてしょうがないのです。そこで床屋は井戸の中に向かって「王様の耳はロバの耳」と叫んだそうです。
最近、この床屋のことが気になって仕方ありません。床屋はどうして秘密を誰かに言わないではいられなかったのでしょう。
UFOを見たという人がいることは広く知られています。注目されたいとかそういった動機ではなく、本当にUFOの存在を知って欲しいと彼らは訴えているようです。
彼らはイソップ物語の床屋と似ています。彼らは、自分だけが見た、自分だけが知っているという状態に耐えられないのでしょう。自分の発見を自分以外の人と共有することにより、自分が発見したものを確認したいのです。そうしなければ気持ちが定まらないのでしょう。
殺人犯は自分が罪を犯したことを隠したいという欲求とそれを人に話したいという欲求の間で苦しみます。
ドストエフスキーの小説「罪と罰」の主人公ラスコリーニコフもそうでした。犯行の秘密を人にもらせば逮捕されるかもしれないのに、なぜラスコリーニコフはそれを人に話したがったのでしょう。
犯人にとって殺人は彼を世界と結びつけている最大ので出来事です。殺人によって世界とつながってしまった犯人はその物語を人と共有する道を失ってしまうのです。犯人は誰とも共有されない世界に一人で生きなければならないのです。
そこには人としての真の孤独があります。
物語は自分の願望を織り込んだ世界の姿です。ですからそれは思いこみです。思いこみでない物語はありません。ただ、それを他の人と共有したいという気持ちの強さが、物語が単に思いこみで終わらない理由です。
自分の願望を織り込んだ物語は共有された願望へと成長していきます。
人は自分は他の人と同じものを見ているのだという実感を求めています。これを共同視線と呼ぶことにします。人はこれをとおして「自分は他の人と世界を共有しているのだ」、「みんなと同じ世界に生きているのだ」という安心をえようとします。
共同視線によって世界を共有したいという欲求こそ、人が物語を求める根源的な理由です。物語とは世界を共有する形式なのです。
人は物語をもつことで、自分がよって立つ拠り所を知りたいという欲求と自分が住みたい世界への願望を語っているのです。自分の物語を他の人と共有することでそんな自分を自分で認めているのです。
みんなと共有して生きてきた世界から自分だけが去っていく。これは寂しいことです。去ってどこへ行くのかわからなければ、それは恐怖ですらあります。死が怖いのはこうした心理がはたらいているからです。
人は言葉を持ち、世界を同世代の人たちと共有し、さまざまなことを願って生きています。最後はひとりだけでそこから去っていきます。こうした現実がさらに私たちを物語に引きつけているのです。
死を超えた世界、永遠不滅な物語。それは宗教や科学というかたちで育っていきました。
あえて言いましょう。宗教も科学もまた物語なのです。それはどういうことでしょうか。つぎは「科学は宗教ではない。永遠不滅の真理だ。」という私たちの確信について考えてみましょう。