死が怖いのは他の人たちと共有した世界から自分だけがいなくなることが受けいれられないからだ、と前に書きました。一方、自分の死を前提とした物語は最強の物語のようにも感じられます。死と物語には深い関係がありそうです。ここでは物語と死について考えてみます。
突然の事故や病気で自分の物語を断念しなければならないことは十分ありうることです。そのようなとき、人は現実を受けいれるまで時間がかかります。しかし、時間がたつうちに物語は少しずつ朽ちていき、やがて消え去ります。
このとき、新しい物語が生まれれば、彼は立ちなおります。新しい物語を共有する人を見つけられれば、新しい人生が始まります。しかし、新しい物語を作ることができなくなったとき絶望が訪れます。物語をもつ意欲さえ失われます。
新しい物語をつくって誰かと共有したいという意欲が失われたとき自殺という道を選ぶ人がいます。樹海の迷路に踏みいったり、火口に身を投ずるように人知れず自殺する人は完全に世界から自分を消し去ろうとしています。これは他の人を想定しない完全な自殺です。しかし、おおかたの自殺には他の人の存在が前提になっています。
遺書とはなんでしょう。遺書を書く人はどんな想いで書くのでしょう。遺書を読むとき人は少なからず緊張します。なぜならそこには死者の物語が書かれているからです。死者はそこに一方的に自分の物語を展開し、遺書を読む人のコメントを拒否しています。もし、否定したい物語がそこに含まれていれば遺書を読む人にとってはそれは衝撃です。
遺書を残す人は誰かと自分の死をめぐる物語を共有しようとしています。ただ、それは自分の死を想定してしか成りたたない最後の物語で、共有されるときは自分は存在しないという共有の仕方です。そこでは他の人の応答が拒絶されています。
自爆テロという戦い方があります。日本にも太平洋戦争の末期に神風特攻隊という自爆攻撃がありました。そこにはそれぞれさまざまな事情があるのでしょうが、
死後の世界を想定した強い確信が共通しています。それは物語です。彼がどれだけ強い信念を持っていたとしてもそれも物語のひとつでしかありません。
物語は人が生きる結果生みだされる排泄物のようなものです。それは結果であって、目的ではありません。
したがって、自分の死を前提とした世界を誰かと共有しようとする人は物語に支配された存在です。なぜなら、彼はもう誰かと新しい物語を共有したり、新しい物語を語ることがないからです。彼は物語にひそむ言葉の魔力の犠牲者です。
物語は人が生きているあかしでもあります。それは何度でも書き換えられるものです。自分の死を前提とした物語は最後の物語です。
反論する余地も与えられずに示された物語は物語の死です。なぜなら物語それ自体に価値があるのではなく、物語をつくり誰かとそれを共有することに生きる歓びがあるからです。
しかし、物語にとり憑かれた人は自分の存在より物語が重くなります。冬山で遭難した人が強い睡魔に抗しきれずに死んでいくように、物語に潜む言葉の魔力は私たちからいのちのリアリテイーを奪います。
「人は二度死ぬ。一度目は体の死。二度目の死はその人のことを知っている最後の人死んだとき。」こんな言葉を聞いたことがあります。単純な事実ですがこれには深い意味が込められているような気がします。
物語からこの言葉を考えると、二度目の死はその人と物語を共有した人たちがこの世からいなくなったときのことです。それは物語が消滅するときです。物語を聴くことは共に生きることだったのです。