遊泳が禁じられている嵐の海で注意に耳をかさずサーフィンを楽しむサーファーがいました。そして、彼らは遭難します。土地の漁師たちは怒りながらも、無謀なサーファーたちを助けるために危険な海へとこぎ出していきます。どうしてそのようなサーファーを助けるのでしょう。ここにも、これまでとはちがった別の正義の問題が隠されているような気がします。
危険をかえりみず嵐の海に出ていったサーファーはどんな気持ちで出かけたのでしょう。「大丈夫だよ」と甘く考えたのかもしれません。また、「俺の命は俺のもの。好きにして何が悪いんだ」と考えていたのでしょうか。なかには「たとえ遭難しても助けないでください」とわざわざ書き置きしていく者もいるかもしれません。実際にはそうしなくても、そんな考えで海に出ていった者もいるでしょう。
自信過剰か経験不足で誤った判断をしたサーファーはきっと後悔するでしょう。「しまった」と。そんな経験は私たちは一度ならずしています。そして、心の心底から「助けて」と叫ぶでしょう。助けてもらったら、心から感謝し、反省することでしょう。このような場合が人命救助の典型的な状況です。
このケーズも実際に遭難し死の恐怖を体験すれば、上のタイプと同じ状況に陥るのが普通だと思います。自分に素直でない分だけ扱いにくいことは確かですが。自然は私たちの想像を超えて私たちに大きなことを教えこむことがあります。
このタイプの救助は難しいと思います。自殺と考えれば簡単ですが、自分の意志で死のうとはしていないのですから、明らかに自殺とは異なります。しかし、救助隊はやはり彼を救助するため荒れ狂う海に出かけて行くでしょう。なぜでしょうか。
答えは簡単です。助けたいからです。そこには理屈はありません。漁師たちがそう望むからです。できることを何もしないでいる自分たちや、その結果打ち上げられる遺体を眺める自分たちの姿を拒否しているからではないでしょうか。それが彼らの物語なのです。
救助隊の人たちの物語の奥底には人の弱さへの自覚があります。欲望や過信やおごりの心に簡単に負けてしまう人の弱さを自覚し、それがゆえの配慮がそこには感じられるのです。救助隊の人びと自身が己の心の中の弱さを知っているからだと思います。
時には「おせっかい」になってしまうかもしれないこの弱さへの配慮という物語は実は私たちの社会のさまざまな場面で接する第四の正義です。規制が不十分で薬物の乱用が社会に蔓延したり、感染症が全国に伝染したりする局面では、共同体の危機管理上の問題に発展します。また、弱者が放置されることがあたりまえになってしまったら、平等の原理が崩れることにもなりかねません。 弱さへの配慮は共同体が崩壊するような事態を事前に予防する意味でやはり正義と考えられます。