平等の原理を侵してまで実行された「共同体の危機管理」に失敗した場合、人はどのように責任をとったらよいのでしょう。責任をとるとはどんなことなのでしょう。
責任をとって企業の代表者や政治家が辞職することがあります。そんな謝罪の記者会見を見ながら、「辞めることが責任をとることなのかな」と疑問に思うことがあります。かといってほかに責任をとる方法は思いつきません。人はどうやったら責任をとることができるのでしょう。
責任をとるってどんなことなのでしょう。あることに失敗した。約束したことが守れなかった。期待に応えることができなかった。いろいろなケースが考えられますが、そこには望ましくないことが現実になってしまった状態があることだけは確かです。
そのよう場合、その課題に対処できる立場にあった人はどうすればいいのでしょう。「現実を元にもどす。」これは普通できません。できたらそうしています。「損害賠償をする。」できるような額ならそうするでしょう。また、損害賠償が前提になってしまったら、その危険を冒してまで人の期待に応えようとする人は少なくなってしまうでしょう。誰も挑戦することをしない沈滞したムードが社会を支配してしまいます。これも現実的ではありません。
辞めないでもう一度挑戦するチャンスがえられる場合もあるかもしれません。しかし、多くの場合職を辞す道が選択されます。辞めることで何が実現されるのか、考えてみる価値はありそうです。
職を辞すことには自分の誤りを認める意味が含まれています。本人がそれを認めていなくてもそう考えることが社会的には共有されます。再び同じ道は歩まないことが確認されます。何かがここで終わります。終わるのは物語です。人びとによってその人物に期待された物語が終わるのです。
さまざまな役職や社会的な立場には「この立場はこうあるべきだ」というイメージが付随しています。その立場に立った人にはそれは無言の強制力として働きます。父親は父親らしく、横綱は横綱らしく、先生は先生らしく、これらは長い間にその社会できづかれててきた物語と考えられます。これに背くことは正義に反することとして社会的な批判を覚悟しなければなりません。批判にさらされた人は職を辞してその役割から解放されます。そして新しい役者がふたたびその物語を演ずることになるのです。このとき責任がとられたことになります。
この期待された物語は誰が書いたかわからないことが普通です。ひとつの社会が共同してつくりあげた集団の物語です。それだけに役者には強力なプレーシャーが加えられます。その物語がどのような目的で作られ、どのような根拠で強制力を持つか説明は易しくはありません。それだけにそれに逆らうことは困難になります。
「平等」、「共同体の危機管理」、そしてさらに「期待された物語」がここに三つ目の正義として加わります。これらには優先順位はありません。時々の状況に応じてどれかがその力を発揮します。ちょっとしたことでこれらの優先順位が変わります。正義という問題はコントロールが難しい情緒的な側面と一度動き出したら止められない猛々しい側面とがあります。