世の中には平等の原則があからさまに侵されることがあります。「平等の原則に優る正義」が出現するときです。平等の原則に優越する正義とはどんな物語なのでしょう。
米国最大の自動車会社ゼネラル・モータースが経営危機に陥り、政府が税金を投入して救済する話がありました。日本でも同様なことがありましたが、そのおりにも「大企業だけがなぜ救済されるのだ」と不満が出ました。平等の問題はもっともナイーブな政治問題だけにことの成りゆきが注目されました。
ゼネラル・モータースの例で言えば、巨大企業の倒産による影響の大きさが問題のポイントです。倒産による失業、関連企業の連鎖倒産、さらにその影響のひろがりなどが予測されます。そのような事態による損害とその対策コストを考えると、あらかじめ最悪の事態を避けるように行動することは合理的な判断です。
このような場合、反対の声が必ずあがります。「なぜ、大企業だけが救済されるのだ」という平等の原則の主張です。予測される共同体の危機管理を優先するか、平等の原則を固守するのか、このふたつが対立します。 あらかじめ決められた原則のとおりに物事が進めば簡単ですが、その都度判断が必要になることが普通です。判断するのは政治の役割です。
専門家による事態の説明が浸透し、救済の条件など具体的なことが見えてくると、政府による救済案が国民からも認められるようになります。米国でも日本でも事態はそのように進みました。その結果、平等の原理より共同体の危機管理が優先されることになりました。
この結論は合理的だと考えられます。救済が成功し企業が立ちなおれば、政府が救済のために投じた資金は戻ってきます。勿論、失敗すれば国民がその損失を負担することになります。国民は政府を支持してそのリスクを引き受けたわけです。
ゼネラル・モータースの例では共同体の危機管理が平等の原則に優先したように見えます。しかし、これは状況によっていくらでも変化しうる事柄です。平等の原則をあくまでも主張する原理主義的な勢力が優勢になることもありえます。正義は複数であり、そこには系統的な優先順位は確定していません。状況によっていくらでも変わりうることです。その意味でも正義とは一種の物語にすぎません。
この話は原理主義と現実主義の対立のようにも見えます。ひとむかし前なら「理想か現実か」と言ったところでしょう。この対立は普遍的な対立のようです。なぜなら言葉には常にその意味を純化させようとする力がはたらきますが、現実は人の期待を裏切ってどんどん変化していきます。人はそのような現実のただ中にあって、さまざまな願望を抱きながら新しい言葉を編み出して現実の変化に追いつこうとします。そして新しい物語を生みだしていきます。原理主義は物語に棲む言葉の魔力にとらわれたひからびた精神です。新しい生きてた現実との会話を閉ざした言葉は石に化してきます。
しかし、現実主義による選択が常に正しいという保障はどこにもありません。一歩先は闇であり、深い谷底です。まさに現実との緊張のなかでしか私たちは生きられません。