ある人の物語と別の人の物語が対立したとき、どちらの物語が優先されるべきか、それを判断する基準はないのでしょうか。たとえば正義のような基準です。
無実の人が有罪の判決を受けて刑に服する冤罪事件が絶えません。有罪が明白でない場合は被告人が有利になるように判断され、唯一の証拠が被告の自白である場合は有罪とされないと憲法には書かれています。それなのになぜ誤った判決が行われるのでしょうか。
警察官や検事の強引な取り調べという問題も指摘されていますが、ここにはもっと大きな問題が隠されているような気がします。
実は検察官や裁判官にとって被告が無実かどうかは二次的なことなのです。彼らにとって大切なのは決められた手続きで裁判が行われ、罪が裁かれたという事実をつくることなのです。
判決が行われ、刑が執行されることにより「罪が裁かれたことになる」ことが何よりも大切なのです。社会がそれを求めています。
決められた手続きどおり裁判が進められれば、「正義は行われた」ことになり、社会の秩序が保たれるのです。それが彼らの仕事なのです。
結果としてそれが後に冤罪だと判ったとしても手続きが正しければ彼らの責任にはなりません。彼らにとってはそれは「仕方ない」ことなのです。
「正義という物語」を完結させるために無実の罪で裁かれた人は「裁判という儀式」の「生け贄」にされたようなものです。遠い国・遠い昔の話のようですがそれが現実です。
被告が主張する潔白も、被告を有罪とする検察官の起訴状も、取り調べや裁判での審理も、有罪とくだした判決も一度すべてを物語と見なしてしまいます。すべての意見の優劣を取り払い平等に並べてしまいます。
そうすると、逮捕から判決までの過程は異なる立場にたった人びとの物語の戦いとなります。それぞれの人はそれぞれの立場の主張が受けいれられることを最優先してくるはずですから、相手に善意や公正さを期待していてはつけ込まれます。これは立場の戦いです。
戦いに勝利した側の物語は正義になります。それは人びとに強制力をもち権力となっていきます。
負けた側は勝者の物語のなかの役割を演じなければなりません。たとえば、殺人の罪に服する受刑者としての役割であったりします。世の中は物語の戦いの場だと言えます。
戦いに勝利した側の物語が正義だということになれば、正義には基準がないことになります。それならばどのような物語が勝利するのでしょう。
多くの人びとに支持される物語とはどんな条件を兼ね備えていなければならないのでしょうか。これが新たな問題です。
人は願望を現実にかえる力をもっています。空を飛ぶ夢は20世紀のアメリカの若い兄弟によって実現しました。一方、同じ時代を生きたドイツの若者の物語は多くに人びとを動員して何百万という人びとを殺戮する力をもちました。
正義とは何か。正義という物語はどのようにコントロールしたらよいのか、考えておく価値のあるテーマです。