V:「生きづらさ」について
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9.十四歳の危機

  • 高校入試の十五歳ではなく、十四歳は思春期の大きな節目になっています。なぜ、十四歳なのでしょうか。
  • 十四歳

    「十五の春は泣かせない」という言葉がかなり前にありました。高校入試をめぐる問題にかかわる言葉だったと記憶しています。

    最近は、「十四歳のための」とか「十四歳からの」とか、そんな言葉を冠した文章や書物を時々目にします。なぜ十四歳なのでしょう。(「中二病」という言葉もあります)

    身体的な変化とか、第二反抗期とか言った要素も大きく影響していますが、ここではあくまでも学校教育ということにこだわってみます。

    本が読めるようになったとか、計算が出来るようになったなど、小学校では学んだことがそのまま自分の生活力の向上となって感じられました。しかし、中学になると、親や教師の影響力が弱まってくるせいもあり、学校の勉強をうまくやり過ごしてしまう生徒も出てきます。

    その一方で、学ぶことがそのまま世界の広がりにつながり、深い感銘を覚える生徒もいます。この後者のタイプが「十四歳」問題を抱えやすいのです。

    高校受験を一年後にひかえた中学三年になると、学校は「進学」シフトに一変します。高校受験を、「友達と同じ高校」とか「制服がステキ」とか軽く受けとめられるタイプもいますが、「自分の適性とは」とか「どんな人生を送るべきか」と大きなテーマを立ち上げてしまうタイプもいます。

    とりあえず、高校受験は何とかパスできても、「どう生きるべきか」という大きなテーマは容易には解消できません。なんとか入学した高校で、彼らはどんなことになるのでしょうか。

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    中等教育の難しさ

    おそらく、「高等学校」というネーミングが原因だったと思います。それとも、「高校増設運動」が誤りだったのかもしれません。高校教育には当初からボタンの掛け違いがあったのです。どういうことなのか、考えてみます。

    戦後の教育改革で、五年制の「旧制中学」が現在の中学校と高校に分割され、前期中等教育機関として中学校三年間、後期中等教育機関として高等三年間とされました。不足する一年は、旧制高校から移行されました。

    こうしてできた新制高等学校は、旧制で言えば中学なのか高等学校なのか、とちらの性格を引きついでいるのでしょうか。年齢的にも内容的にも旧制中学のはずです。旧制高等学校は、大学へ進学してエリートになるための準備コースでしたから、戦前は今の大学以上の格付けでした。

    しかし、新制の高等学校の名称は、「中学校」ではなく、「高等学校」とされたのです。そのためか、旧制の高等学校のような性格を中途半端に引き継ぐことになり、その教科書を執筆した大学の学者たちによって、新制の高等学校は「学問的」な性格が強い内容になってしまいました。

    それに加え、「高校増設運動」の波に押されて増え続けた高校に、ほとんど 100%に近い中学卒業生が入学するようになったため、新制高校は、旧制の中学以下のレヴェルになりました。

    それはそれで、悪いことではなかったのですが、内容的には旧制の高等学校の性格を引きずっていたため、新制の高校の実態は中途半端なものにならざる得ませんでした。そのため、大半の生徒が関心のもてない授業に耐えて、三年間を過ごすことになりました。このことについてもう少し考えてみます。

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    読めることと書けることとは違う

    唐突ですが、コンピューターのプログラムを例に、学習のスタンスということについて考えてみます。

    コンピューターのソフトはプログラム言語という特殊な言語で書かれています。この言語を学ぶことはそれほど難しいことではありません。簡単なプログラムなら、少し頑張って文法さえ学べば、多くの人がその内容をすぐに理解できるようになります。

    しかし、プログラムを自分で正しく書くとなると、話は別です。ピリオドとカンマを一カ所取り違えるだけでプログラムはうまく動きません。論理的な矛盾でコンピューターが止まらなくなってしまうこともあります。何千行というプログラムから、たった一つのミスを探し出すにはとんでもない集中力が必要です。つまり、読めることと書けることとはまったくレヴェルの違う能力なのです。

    高校の授業についても同じことが言えます。一般教養としてなら、読んで内容を理解できる程度の学習で十分なのです。しかし、先に述べたように、高校の授業は大学での学問を前提に構成されています。これを受験科目に選んで厳しい競争に勝ち抜くには、読んで理解できる程度では不十分です。しかも、競争ですから、そのレヴェルには限界というものがありません。よい成績を取ろうとすれば、勢い高校生には過重な学習が求められてしまうことになります。

    若者たちは、それにどのように耐えるのでしょうか。

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    高校教育の実態

    高校での学習内容は、とにかく量が多すぎます。教科書を終わらせることができないでいる授業も少なくありません。歴史などは、古代からはじめて近代にたどり着くのがやっとです。

    しかし、公平を期すために定期試験の問題は学年共通で行われることが多いので、担当の教師は授業の進度が他のクラスより遅れていないか、いつも気にしています。必然的に、授業のスピードは生徒の実態を無視した速さにならざる得ません。

    その結果、生徒の多くは授業の内容を十分理解できないまま、教室で座っていることになります。高校生たちはおおよそ三つのスタイルでそれに対応します。

    まず、「高校生活エンジョイ派」。早々と勉強は諦め、部活動や友人との交流を楽しみ、とりあえず高校は卒業できればそれでいい、という高校生です。ひどい成績の自分たちを互いに笑い合い、高校三年間をやり過ごすことのできるタイプです。

    次は、 「受験シフト派」 です。やりたいことは大学に行ってやればいい。今はすべてを封印して大学入試合格をめざし頑張ろう、というタイプです。勉強は入試合格のための手段ですから、授業で納得できないことがあっても、まずは暗記してしまえばいいのです。他の生徒より高い成績がとれていれば、つまずきを感じることもありません。その意味で、このタイプも、高校教育をやり過ごしていることになります。

    最後のタイプは、「高校生活エンジョイ派」にも「受験シフト派」にも成りきれなかった生徒たちです。これについては、項を改めて考えてみます。

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    かつての「秀才」たち

    受験にシフトした授業では、立ち止まって考えていたりする余裕はありません。しかも、定期試験の出題は、平均点がだいたい六十点前後になるように、そのレヴェルが調節されていますから、生徒等が学習すればするほど、試験は難しくなります。つまり、どれだけ頑張っても、成績はあがらず、なかなか達成感が味わえないのです。

    身の入らない授業に耐え、試験のたびに×ばかりの答案を返され、成績はほとんどが「2」。高校では、落第につながる「1」は極力つけないようにしていますから、学年だけは進級していき、卒業の時期は迫ってきます。

    勉強には口を出せない保護者も、成績を見せられて、我が子の将来に不安を抱くようになりますが、本人は何の方針も打ち出せず、かといって自分の現状を巧く説明することもできません。

    生徒本人と保護者と担任教師の三者面談では、厳しい現実を突きつけられ、親子は交わす言葉もなく帰路につくしかありません。中学までは「秀才」と目された我が子の現実をうまく受けとめられない保護者は、途方にくれます。

    誰にも助けを求められないことは、本人がいちばん分かっているのですが、何をどうしたらいいのか、考える手がかりもないまま、漠然とした不安と自信喪失の渦に巻き込まれていきます。どうしたらいいのでしょうか。

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    どしたらいいのか

    彼は、なぜ「エンジョイ派」にも「受験シフト派」にもなれなかったのでしょうか。何がしたかったのでしょうか。

    いろいろなケーズがあると考えられますが、共通するのは孤立感です。その背景を考えてみます。

    まず、「優等生」だった中学までの経過からして、「受験シフト派」になることが自然でした。保護者もそれを望んだことでしょう。

    しかし、取っつきにくい授業であっても、最初はそれなりに努力しますが、目に見える成果とならず、それに耐えて頑張るほどの目標も見いだせなかったのでしょう。おそらく、心のどこかで、「一流大学に入って、一流会社に」という親の願望に反発する気持もあったのでしょう。しかし、それに代わる道を見いだすこともできない自分に焦燥感すら感じていたのだと思います。

    そんな自信を失った気持では、友人と過ごす時間も楽しいはずがありません。また、そうした相手も少なかったのではないでしょ うか。そこには、強い自己否定の感情が感じられます。

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    自 己否定の理由

    すべては、「中二」から始まりました。高校受験を前にして、進路選択という課題が現実のことになってからです。それまで「優等生」だった彼・彼女は真面目に考えます。

    自分は何になったらいいのか。どんな職業に就き、どんな人生をおくれば自分らしく生きられるのか、自分はどんな人間なのか。そもそも人は何のために生きるのか。疑問は尽きません。

    どれも答えが簡単に見つかるような疑問ではありません。「一流企業に就職するため」と簡単に割り切れば、何の苦労もなかったのですが、元「優等生」の悲しさか、真剣に考えてしまうのです。

    「理想・誠実・努力・禁欲」。学校教育的価値観とも言うべきこれらの「徳目」が、しっかりと身に付いてしまっている元「優等生」には、答えを誤魔化して前に進むことができません。自問自答の日々が続いてしまいます。しかし、志望校を決める期限は、着々と迫ってきます。

    悩まなければ、何も問題はないのです。「偏差値」という数字が、ほぼ百%の確率で合格できる受験先をみつけてくれます。「優等生」だったのですから、自ずとすべては問題なく進んでいってしまいますが、彼・彼女が立ち上げた問題は何も解決していません。

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