V:「生きづらさ」について
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10.元「優等生」の青春

元「優等生」たちはどうなっていくのでしょうか。

「何のために生き るのか」

「人は何のために生きるのか」。実は、古くからあるこの問いには、答えがないのです。よく考えれば、それは明かです。なぜなら、この問いでは、「生きる」ということが「何か」 のための手段になってしまっているのです。

「生きる」糧のために人は働き、仕事に就きます。そう考えるのが素直な順序ですが、それを手段にして、「生きる」意味を求めてしまっているのです。「生きて」しまっているのに、なぜその意味を求めなければならないのでしょうか。

それは、「職業選択」という実は単純なテーマが、「人生上の大問題」になってしまう仕掛けにその原因があります。「職業」が「自己実現」の手段と考えられているからなのです。

「自己実現」。それを、ここでは「アイデンティティー」とか「自分らしさ」と言い替えていいでしょう。「何のために生きるのか」 という問いは、多くの場合「自分らしく生きるには」という問いとほぼ重なっています。

それでは「自分らしい」とはどういうことでしょうか。疑問ばかり果てしなく続くようですが、問題を少しずつ絞り込んでみます。もう少し付き合ってください。

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「自分らしさ」とは

これまで、「自己」とは何かについて考えてきました。

「自己」 とは初めは、母親 (第一養育者) との間に生じる共生感のような感覚でした。それが、自立の過程で、その対象を広げていき、それを「統合」しようとします。「自己」とはこの一連の過程で体感する体験そのものであり、その働きでした。

したがって、それがうまく働いている状態では、「自分らしく」などと気にすることもありません。「自分らしく」生きることを意識してしまうのは、それがうまく働いていないからです。何が原因でしょうか。

人間関係がひろがり、それを統合するはたらきが妨げられてしまうのは、外からそのような力が加わっているからです。物理的に力が加わっているわけではありません。あたかもそうした力が加わっていると感じさせてしまう「物語」だけでも、人は自分を抑圧してしまう存在なのです。

そういう「物語」とは何でしょうか。それは、「人はこうあるべきだ」という先入観です。疑うことができないほど自明だと信じられている「物語」という意味では、価値観と言ってもいいでしょう。私たちの生き方を左右してしまう「物語」という意味で、ここでは「近代的人生観」としておきます。近代人特有の「人生像」と言った意味です。

(「近代的人間観」でもいいのですが、意味がひろがりすぎますから、「近代的人生観」としておきます。)

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近代的恋愛観と 「赤い糸」

幸せな人生と言えば、多くの場合、結婚と就職がそれを決める要素として考えられています。まず、結婚から考えます。

今では結婚する男女の出会いのきっかけは、多くの場合が恋愛です。知人の紹介というかたちであっても、最終的には両者の合意によりますから、ほぼ恋愛というニュアンスもあり得ます。

かつては見合い結婚が一般的でした。面識のない男女が、結婚相手の候補として紹介され、短い交際をとおして結婚にいたる形式です。その当時でも恋愛結婚は憧れの対象でしたが、紹介という、リスクを避けた見合い結婚が多くの場合選択されていました。

しかし、今では恋愛結婚が主流になっていますが、明治の頃には恋愛は新しい時代の生き方の象徴で、文学の主要なテーマになっていました。初期の近代日本文学、例えば島崎藤村、北村透谷そして与謝野晶子などの文学作品では、「自由恋愛」がさかんに描かれています。古い社会の常識に反して、新しい生き方を自由に追求する男女の姿に、西欧から入ってきた近代的な個人主義考え方が象徴的に表現されていました。

「赤い糸」で結ばれた運命の相手にめぐり会い、永遠の愛を誓う二人の姿は、「家」に縛られた女性たちにとっても、強い憧れの対象でした。近代的な恋愛観はこのようにして普及していきました。

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近代的職業観と 「天職」

次は職業です。西欧には二つの対立する人生観があります。南部に多いカトリックの人びとは、内面的な問題は神父さんにあずけ、人間社会の現実を受け入れて、人生を謳歌する楽観的でおおらかな生き方を選択するようです。

それに対して、北部のプロテスタントの人びとは、信者一人一人が神と向き合い、自己の信仰の在り方を探求する態度を重んじます。その結果、禁欲的な生活と、絶え間なく努力する生き方が、尊重されます。

この違いは、太陽の明るさも影響しているかもしれませんが、ドイツの社会学者M・ウェーバーは、資本主義の経済が早くから発達した地域には、プロテスタントの信者が多いことに注目して、彼らの職業観について述べています。

それによれば、プロテスタントでは、職業は神から授けられた神聖なもので、一生懸命働いて得られた成果(利益)は、神の偉大さを示している、と考えられ、それが利潤を追求してやまない資本主義の在り方と合致していると、ウェーバーは指摘しました。

この考え方は、漢字の「天職」という言葉とほぼ一致します。そして、この考え方は学校教育をとおして、普及していきました。

一人一人の人間が持って生まれた「個性」を大切に育て、その「適性」に応じた「職業」に就き、その人らしい人生をおくるために、一生懸命努力する。まさに、学校教育はこのことを使命としているとも言えます。

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「赤い糸」と「天職」の個人主義

「赤い糸」と「天職」という、その人固有の価値を探求し、その人らしい人生をおくるという近代的人生観を、今流に言えば、「自己実現」、「自分らさしさ」ということになります。人はみんなそのようなものを「生

まれながら」に持っている、という考え方をひと言で「個人主義」と言っていいでしょう。

「個性」、「個人の幸福を追求する自由」。このような考え方は、近代社会の根幹を支える人間観と して定着しています。これに疑問を呈すれば、「全体主義」の批判を受けかねません。近代文明を支える科学技術の「客観的世界」を想定して成果をあげたことと対をなしています。

しかし、そのような「個人」、つまり「生まれながら」に存在する「自己」など、どこを探したら見つかるのでしょうか。そのようなものが存在する根拠をどのように説明できるのでしょうか。

「自己」とは、すべてを依存しなければならなかった母親(第一養育者)との間に育つというのが、これまで考えてきたことでした。この考え方からすると、「個人主義」とはほとんど「物語」でしかありません。

学校教育は、この「物語」をその活動の中核において進められてきました。この教えに誠実にしたがえば、答えのない「自分探しゲーム」に独りぼっちで放置されることになってしまいます。なぜなら、「自分らしさ」とは誰にも尋ねることのできないテーマだからです。

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「思春期」 という病

高校時代をうまくやり過ごしたりできず、あるいはそこでの学びを将来のために手段としてしまったりもせず、つまり高校教育を「無化」 してしまう道を選ばず、まともにそれと向き合ってしまったら、自分を見失ってしまった。そんな若者には、どのような道が残されているのでしょう。

そんな状態でいるとき、もし「一緒に修行しよう」と温かく誘ってくれる人たちがいたとしたら、あるいはもし、そんな孤独な自分を受け入れてくれる異性と出会ってしまったら、又はまったく新しい考え方の強烈な指導者に出会ってしまったら、新しい自分になれるとセミナーへの参加を勧誘されたら、元「優等生」の彼・彼女たちには、未来が拓けたと映ってしまうかもしれません。

そんな出会いがなければ、あるいは、自分だけの妄想の世界へと入っていってしまったり、暗い部屋に閉じこもり自分と閉ざしてしまうかもしれません。

一見普通の若者風であっても、実は、しかたなく選択するしかなかった道に「不本意な生き方」をしていると迷い続けていたり、夜も休日も仕事に没頭して他に楽しみを見いだせない生活が身についてしまったり、そんな生き方をしている人は意外と多いかもしれません。

どのような若者が、このような青年時代をおくることになるのでしょう。なぜ、このような「思春期」という病に罹ってしまうのでしょうか。

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