V:「生きづらさ」について
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7.「科学信仰」(共同視線の客観化)

「科学的」と言っても、  「客観的」と言ってもほとんど意味は同じという場面がよくあります。  「客観的」 とは反対の意味の「主観的」はほぼ「非科学的」な意味合いを思っています。

この 「客観的」 という考え方について考えてみます。

「客観性」の根拠

「科学的に証明されたことは真実」だ、と私たちは信じています。そうでなければ信じるに値するものなどこの世に存在しないとすら思っています。科学は人の錯覚や思い込みなどの主観的な見方を取り除いた結果、最後に残った普遍的な事実なのだから、真実だと信じられています。

誰が何度やっても同じ結論になるという事実に基づいて導かれた法則だからこそ、事前に結果を予測できるという確信。だから、私たちは飛行機にも乗るし、得体の知れない薬品を躊躇なく呑みこむこともできます。科学技術を疑う余地などどこにも見いだせそうにありません。

確かに、近代になって科学技術は目覚ましい進歩をとげました。しかしそれは、人間から切り離された一定の範囲の自然現象だけに妥当する「物の見方」であり、しかも、所定の前提によってのみ成りたっている「真実」であることは、これまでみてきたとおりです。

実際、人間や社会に関する分野では、科学技術があげたような成功例を私たちは残念ながら知り得ていません。

しかし、この単純な事実が、科学技術の目覚ましい成果を前に、かき消されてしまうのはなぜでしょうか。

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科学は生活実感にもとづく取り決め

私たちは、何かを理解したり、それが正しいか証明しようとするとき、すでに知っていることや、証明されている「既知」に頼ります。「未知」を「既知」によって証明します。例えば、これは何かに似ているとか、ここが違うとか、そのようにして「未知」を「既知」に変え、「知」を増やしてきたはずです。

それでは、最初の「既知」はどのようにして「知」になったのでしょうか。多くの人が慣れ親しんで疑いようのない事実や体験を「既知」とするしかありません。

つまり、私たちが「真実」として信頼している科学は、生活体験にもとづく実感と、それを吟味して「取り決め」た「前提」の上に築かれているのです。そうするしかないのです。この方法によってはじめて、私たちは「真実」として信頼できる「世界像」を共有できているのです。

たとえば数学は、証明できないことは「公理」とし、それにもとづきさまざまなことを証明する学問でした。物理学では、長さと重さ(質量)と時間という日常生活にかかわる基本的な量を単位として取り決め、これらの三つの単位の組み合わせによって自然現象を説明する方法をとっていました。

つまり、 「科学的真実」は、私たちの生活体験にもとづいて描かれた「世界」の共通の見取り図なのです。ただ、自然科学においては、それがあたかも人間からは独立して存在する「客観的世界像」かのようにみなしてもよい、という前提が成りたっているだけなのです。これは、あくまでも「前提」なのです。このことについて、もう少し考えてみます。

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「科学イ コール科学技術」

見知らぬ人が遠くからやって来て、驚くべきことをやって見せた、というシーン想像してみてください。例えば、5キロも離れた川から水を毎日歩いて運んでいる村に、国際支援組織がやってきて、井戸を掘り、ポンプを取り付けて水道を引いたというような場面です。村人たちには、この支援組織の人びとや彼らのやったことがどのように映るでしょうか。

西欧の文明に初めて触れた日本人も、鉄砲の威力に驚き、オランダ医学に目を見開かされました。彼らはそれを手に入れようとします。自分でもやってみようとします。やがて鉄砲鍛冶や蘭学者が育ちます。他の文物も紹介され、西欧人にはなぜこのようなことができるのかと、西欧文明の全体像やその背後にあるものに目を向ける者もでてきますが、それはほんの一部の人でしかありませんでした。多くは「和魂洋才」とばかりに、生活上の実利さを求めてその技術面だけにしか関心を示しませんでした。

意味のない仮定ですが、もし近代の自然科学が技術へ応用されることなく、つまり「生活世界」に激変をもたらすようなことがなく、純粋に学問的な議論に留まっていたら、自然科学は哲学か神学の一流派として「客観主義派」などと呼ばれて、学者しか関心を示さなかったことでしょう。

つまり、人びとにとっては、「科学技術イコール科学」であって、その科学がどのような基盤の上に成りたっているかは、それほど重要な問題ではなかったのです。

しかし、先にもみたように、科学は日常生活の延長上に、ある「約束事」を前提にしてつくられた「共同視線」でしかありません。このことを忘れて、科学技術を科学として絶対化してしまったのです。

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生活世界と客観的世界像

科学技術は日常生活に変化をおこし、私たちの生活世界がひろげてくれます。そして科学は、一定の約束事にもとづけば、「世界」はこのように描くことができますよというような、「世界」についてのスケッチを私たちにもたらしました。

その結果、この「世界」についてのスケッチ、すなわち世界像は、人間から独立した「世界」の客観的な描写のように受けとられてしまいました。

ニュートンやガリレオの時代の西欧人にとっては、科学の目的は、「世界」を創造した神の意志を解き明かすことでしたから、「客観的」とは神の視線という意味合いを含んでいました。

一方、「世界」を神の創造物だとは感じない人たちの目には、科学者が描いた「世界像」は、人間の存在とは無縁の、独立して存在する「客観的世界像」と映ってしまいます。

このようにして、真実は私たちからは独立して存在するという「物の見方」が一般的な考え方にまでなってしまったのです。

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「客観的世界」 は共同視線

次の質問に答えてみてください。

●宇宙の果てはあるのか。あるとすれば、その外側はどうなっているのか。

●世界には始まりや終わりがあるか。もしあるとすれば、始まる前や終わった後の世界とは何なのか。

●人間が存在しなかったら、世界は存在するのだろうか。その答えがいづれだったとしても、どうやってそれを確認できるのだろうか。

世界を、人間から独立して存在する「客観的」事実としてしまうと、このような解くことのできない矛盾に陥ってしまいます。共同視線を消し去り、共同視線によって描かれた「世界像」を「客観的世界」と見なしてしまうことは、蜃気楼を追いかけるようなことでしかありません。

世界の外側に立って世界を見ることはできません。それなのに、私たちは、どうしてこのような「客観的世界」を想定してしまったのでしょう。そこにはどのような意味があったのでしょうか。

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「客観的世界」という物語

現実は雑多で無秩序に見えます。多様なファクターが互いに影響し合って、次の瞬間には何がおきるのか推測は不可能です。

科学は、この複雑な自然現象の一部を切り取り、できるだけ単純なファクターだけで説明しようとします。そのような条件下で実験し、その結果から誤差を除き、意味のあるデーターだけを取り出す作業をくり返します。このようにして、はじめて有意味な法則が発見できるわけです。

こうして、「客観的」という概念がつくりあげられることになりますが、それは単純化できた範囲だけでのことであって、世界のすべてについて説明できているわけではありません。

しかし、やがて科学的な方法への信頼が強まっていき、いつかは世界のすべてについて説明できるはずだと確信するようになります。この確信によって、世界は「客観的」に存在するという前提が自明の事実になってしまうのです。

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「学問」 という価値観

科学的な方法を否定するつもりではありません。手段が目的になって人を支配するようになった他の例のように、科学がひとり歩きをしてしまうことに目を向けたいのです。

共同視線を創りあげる有力な方法の一つとして、科学は育ってきました。しかし、科学が想定した「客観的世界」は一方で新しい価値観をもたらしました。

「個人の感情や欲望など主観的な要素を排し、科学的な方法と理性的な思考によって確立された客観的世界。それを研究する学問的な態度にこそ普遍的価値がある」。

このような価値観は、おもに学校教育や学問の世界をとおして広がっていきました。そして、多くの専門家を輩出し、同じ価値観を共有する専門家たちは大きな組織をつく りあげ、社会的にも大きな力をもつことになりました。

彼らにとって、その知の基盤となっているはずの「生活世界」は、学問的価値のない、雑多な「俗世界」に映ってしまいます。それは次のように対比すると分かりやすいでしょう。

<学問><生活>
客観的世界生活世界
科学俗信・習慣
普遍特殊
理性感情
言語活動身体活動

このような価値観は、近代になって顕著になり、市場原理と国民国家によって組織された私たちは、自分たちが生きる「生活世界」の外側に追いだされたような意識で生きることになったわけです。

まとめ

私たちは、自分の置かれている状況を把握し、どのように対処すべきかを判断します。場合によっては、その状況を誰かと共有しあって、自己の安全をより確かなものにしようとします。そのために、人は「物語」を語るのです。ですから、「物語」を誰かと共有しようとする欲求は 「自己承認の欲求」 でもあるわけです。

しかし、そのような「物語」が大きな仕掛けを生みだし、人びとを支配するようになりました。「お金の仕組み」・「国益という物語」・「官僚制の魔力」・「科学信仰」などです。

これらの「物語」には、目的実現のための手段が、いつの間にか目的になり、人びとを操る力がありました。なぜなら、これらの「物語」は人びとには「客観的真実」と受けとめられてしまうからです。

その結果、自分は何かに否定されているという感情が生まれます。特に、近代社会になってこの傾向は顕著になり、人びとの心を蝕みはじめているのです。そのへんの事情についてもう少し考えてみたいと思います。

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