歴史の教科書などでは、まだ社会組織がシンプルだった古代文明にのころから、神官、天文学者、占い師、書記官などいろいろな専門家がすでに登場しています。天体の運行から暦を作成したり、農民たちに季節のめぐりを教えたり、天変地異や国の行く末を占い、人びとの不安を鎮めたり、古代においても専門家たちは重要な公共の使命をおびていました。
どのような手段でそのような知識や能力を彼らが得たのかは、はっきりしませんが、人びとに納得させられるような能力を発揮していたことは疑えません。その証拠に彼らには特権的な地位が与えられていました。
しかし、それは、専門家に課せられた使命ゆえの条件付き特権でしかなく、その使命が果たせなくなれば、彼らは容赦なくスポイルされてしまう存在でもありました。
つまり、家族や生まれ故郷から切り離され、最高権力
者に使える彼らは、特権的な「奴隷」でしかなかったのです。それは選ばれて「期待された物語」を背負うことになった者たちの宿命でもありました。
近代になって工業化が進むと、社会的な生産は企業中心に行われるようになり、企業間の競争も激しくなりました。それにともない、専門家の種類も人口も格段に増え、それと同時に、文字を読める人の層も厚くなります。
企業間の競争に勝つには、企業組織を大きくし、組織内での分業を進め効率化を図らなければなりません。細分化された部門では、いっそう専門化が進み、組織内では緊密な連携が必要になっていきます。
巨大化した組織は、大きな機械装置のように動いていくことになります。一部門で支障がでれば、それは全体へと直ちに影響し、巨大装置はその機能を停止してしまいます。そうならないためにも、細かい規則が必要となり、強い緊張の下に働かなければならなくなります。
このように、文書化された規則によって運営される組織を、広い意味で「官僚制」と言いますが、近代社会は「官僚制」社会だとも言えます。
(ここで言う官僚は、公務員に限らず大企業などの大組織で働く人びとを指しています。言わばエリートです。)
組織が大きくなれば、組織全体を見わたすことは難しくなり、内部の人びとは自分の仕事にどのような意味があるのか分からないまま働くことになります。やがて、規則を守って働くことと、組織に属し続けることだけにしか、働く意味を見出せなくなります。これも、手段が目的化する現象です。
組織に属することだけが自己目的化してしまうと、組織を離れて生きることは考えられず、組織の存続がすべてに優先するようになってきます。つまり、巨大組織ほど、人びとは組織に依存し、内部志向になりやすいのです。
組織の全体が見えなければ、自分の位置づけも見えなくなります。組織はブラックボックスのように感じられます。プロセスが隠された、入り口と出口だけの巨大な闇空間です。そして、そこで働く人自身もただの記号のような存在になっていきます。
ここにも、手段が目的になってしまう様子が確認できます。
また、その内部が闇につつまれた強大な存在は、外部から見ればそれはほとんどブラックホールと言うしかありません。あらゆる物を吸い込んでいく巨大な闇です。
一般の人には近寄りがたい、専門的な知識と技術によって武装された排他的な組織。たとえば原子力発電所やそれを運営する電力会社を連想してみてください。危険性を感じながらも、大きくそれに頼ってしまっている私たちは、そこから要請される莫大な費用を、その検証もできずに負担し続けています。
そのことは、「事故」によって私たちは初めて意識するようになっただけで、いたるところに同様の仕組みが存在することは、想像すらできないでいます。これは、神官や占い師を崇拝した古代人とそれほど違わない姿です。
いえ、古代人以上の信心深さです。なぜなら、古代人は森羅万象の背後に神の存在を感じていたでしょうし、それ故の畏怖心ももっていたはずですが、私たちは科学技術の名のもとに、そうした謙虚さすらかなぐり捨ててしまって、盲信するしかなくなっているからです。