V:「生きづらさ」について
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U :手段が目的になってしまう

それでは、無条件で正しいと言えるようなことはあるのでしょうか。あるとすれば、それが基準となるべきもののはずです。

私たちは、物語をとおしてしか世界を理解できません。もし、大多数の人びとの思い過ごしで、検証されていない物語が、社会全体を覆われてしまうようなことがあれば、そのことに気づくことはほとんど不可能に思われます。

たとえば、手段であったはずのことが、いつの間にか目的になってしまい、それによって人びとが、思いもよらない方へと走り出してしまったり、ただの物語に過ぎないことを真実かのように考え、私たちの判断「基準」になってしまっていることが実際あるかもしれません。このことについて考えてみます。

4.お金の仕組みの不思議な力

  • 「基準」と言えば、お金です。あらゆる物の価値を計る 「基準」 となり、何とでも交換できるという 「前提」のもとに、お金は人びとをつなぐ手段となっています。
  • しかし、ただの紙切れがどうしてそのような力を持つのでしょう。
  • ※「世界は物語でできている」と内容が一部重複しています。

    物々交換とお金の仕組み

    お金(貨幣)の詳しい仕組みは、簡単ではありませんが、その原理を研究したマルクスは貨幣のはたらきを次のように説明しています。(少し、理屈っぽいんですが、原理は単純な算数です)

    次のような交換が、複数の人たちの間でバラバラに行われたとします。

    アメ1個、ジュース1本、DVD1枚とゲームソフト1個とフィギア体とスニーカー1足を5人の人がそれぞれの判断でバラバラに交換し合ったとします。

    自分の判断で交換したとはいえ、他の人の話を聞くと、自分の交換は本当に妥当だったのか自信が持てなくなったとします。そんなとき、他の人の交換内容を聞き、一覧表にし、たとえば、それぞれの品物をアメ1個に換算すれば、自分が損をしたのか得をしたのかわかります。アメが貨幣の役割をして、それぞれの品物の価値を計るのです。

    (アメ)100個=DVD1枚

    DVD2枚=ゲームソフト1個

    ゲームソフト1個=フィギア2体

    上のような交換が行われていたとすれば、ゲームソフト1個はアメ200個分

    フィギア1体はアメ100個分ということになります。

    アメが基準になることで、すべての品物の交換比率を表すことができるのです。これで、自分の判断基準が全体の中でどのように位置づくかがみえてきます。

    アニメ本やDVDは分割することができませんが、アメは値段が小さいので、他の品物の値段を表すには都合がいいわけです。

    この例は、アメを分割しなくてもいいように、あらかじめ数を設定してありますが、実際には分割しやすく、貴重で、腐ったり、摩滅したり、消費されてしまったりしない物として「金」が選ばれました。(金がなぜ貴重かは、諸説あります)

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    化け始めるお金(貨幣)

    貨幣の役割をするようになった金は、ただの金属ではありません。貴金属など欲しくなくても、持っていれば他のものと交換できますから、無駄にはなりません。使わない、つまり必要ないのに、必要な存在。それ自体はあまり役に立たないのに、だから基準として役に立つという矛盾した性質を持つのがお金(貨幣)なのです。

    交換するための手段としてのお金なら、まだ利用価値

    がありますが、そのうちお金自身に価値があるかのような気持になって、お金をため、使い切れないほどのお金を前にして満足するようなことにもなってきます。手段であったはずのお金自身が目的になってしまうのです。

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    化けるのはお金だけではない

    ただの金属でしかなかった金(きん)がお金の役割をするようになると、お金と交換される他の品物には値段が付きます。つまり、商品になるわけです。ただの品物がお金と交換されることによって、それを必要としない人にも価値がある存在となるわけです。ですから、その品物を必要としなくても、大量に買い占めて値段をつり上げてから売るなど、お金儲けの手段 (資本) にもなるのです。

    人びとは、お金儲けのために知恵をしぼります。なかには、人を雇って、物を作らせ、それを売るような人も出てきます。少しでも安く買って高く売れば、その差額は利益です。人びとはこの利益を求めて力を尽くし、互いに競争し合うようになります。

    売る人も買う人も入り混じって競争し、その結果売買された値段がその商品の適正な価格ということになります。

    イギリスから始まったこの市場経済の仕組みは、またたく間に世界に広がっていきました。

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    すべてが商人の契約社会

    市場経済がひろがれば、売る商品もそれを仕入れる資金もなければ、自分の労働力を売るしかありません。こ

    うして、労働者も含めてすべての人が 「商人」 と見なされ、人びとは契約によって結びつく「契約社会」が出現したのです。

    しかし、ここに一つの前提が隠されています。契約においては、人びとは自由で対等なはずですが、労働者は自分の労働力を売らなければ生きていけないのですから、契約は自由ではありません。

    また、生まれたときから人には格差があります。家族、家庭環境、教育、人間関係など平等と言うには余りにも大きな格差を背負って人は生まれてきます。自由に競争などできるわけがありません。

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    貨幣が支配する世界

    はじめは金貨であった貨幣は、やがて紙幣に姿を変えます。今では紙幣を銀行へもっていっても金 (きん) とは交換してくれません。もはや、お金は抽象的な存在となり、カード一枚どころか、ネット上の数字を操作するだけでなんでも済ませる時代となりました。

    変わったのは貨幣だけではありません。工場やオフィスでは機械化が進み、誰でもできる仕事が増えるにしたがって、人間はいつでも交換可能な部品や使ての消耗品のように扱われるようになりました。誰を雇っても同じなのです。

    さらに、最近では、金融取引がコンピューターによって自動化され、人間の判断が取引に介在することなく、瞬時に巨額の利益をあげられるようになりました。そのような世界では、金融資産の所有権を移動させることだけが、ビジネスの実態になっています。工夫や労苦、ス

    リルや感動のない、銀行口座の残高が変動するだけの世界。誰もいないオフィスで、パソコン画面の数字だけが動き続けているのです。

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    見えなくなった 「私」

    ただの金属にすぎなかったのに、まず交換手段にとして使われ、やがてすべての品物の値段(価値)を表す力をもちました。そして、さらに金そのものが価値のあるものとして、人びとの欲望の対象となり、人びとの心を支配してしまうことになりました。

    変化したのは経済活動の仕方だけではありません。私たち自身も変わってしまいました。私たちの活動や欲望さえ売買の対象になり、給料や財産などの名目で数字で表されるようになりました。

    しかも、誰とでも交換可能な労働力となった私たちは、市場においては姿の見えない抽象的な存在となり、「私は誰だ?」 と常に自問自答しなければならなくなっています。

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