V:「生きづらさ」について
世界との付き合い方
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3.「正義」という名の物語

  •  人は、自分の願望を織り込んだ物語を人と共有したがります。しかも、自分に似せて人のことを理解しようとしますから、人とはかなりやっかいな存在です。
  •  時には、この願望は他の人にとっては「おせっかい」でしかないこともあります。ましてやこの物語が「正義」の名のもとに強要されるにいたっては、それはほとんど権力に等しいことになります。今度は、そのへんの事情について考えてみます。
  • ※「世界は物語でできている」と内容が一部重複しています。

    「正義」は権力から生まれる

    二人の関係では多数決は成りたちません。しかし、三人以上では「二対一」の状態がありますから、多数決に負けた一人は他の二人の意見に従わなければなりません。それが権力です。二人の願望であった物語が、三人の「共通意志」となり、他の一人にとっては強制力をもつのです。それを「正義」(法)と私たちは呼んでいます。

    人はなぜ他の人の物語を強制されなければならないのでしょう。人はどんな物語を「正義」として受けいれられるのでしょうか。「正義」のいくつかのパターンを分析してみます。

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    平等でないから「平等」を主張する

    権力関係では、人と人は「支配する-支配される」関係にあります。この支配の関係が生じる以前では、人と人は平等だったのでしょうか。

    「平等ではありません」と明解にしたいのですが、それには前置き必要ですから、ここでは「人は同じではない」と言っておきます。

    人は体格、体力、容姿、知能などさまざまな点において同じではありません。生まれた場所、両親の社会的地位や経済力など違いをあげればきりがありません。それなのに、なぜ「平等」などと言うのでしょう。

    人は平等ということにもっとも敏感な動物です。小さなころより、例えばお菓子の大きさについて平等を武器にして争います。「お兄ちゃんの方が多い」といった具合です。

    平等でないのになぜ平等を武器にするのでしょう。それは平等でないからです。

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    「平等」ではなく、「対等」

    「平等」に似た言葉に対等」という言葉があります。「対等」という場合、さまざまな点において異なる二人が「対等」であるのはその力関係においてです。

    この場合の力関係は腕力や財力の問題ではありません。心理的には拮抗していてどちらも優越的でない状態です。この状態は、二人のうちの一方から他方へ一方的にプレゼントがなされたときに崩れます。

    プレゼントを受けた方は相手に対して借りができ、対等な関係が崩れます。この状態から元に戻るにはプレゼントを受けた側から返礼するしかありません。「Giveand Take」の関係です。この対等な関係こそ心の世界では人間関係の基本です。

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    愛は一方的な贈与である

    私たちは太陽から一方的な恵みを受けて地球上に生

    存しています。人はそれを神の愛にたとえて太陽に祈りました。また、未熟なまま生まれる人間は、乳幼児期に自分を育ててくれた親の慈愛に生涯にわたって敬意を感じ続けます。親が子どもに与える慈愛は返礼することができないほど大きな贈与です。太陽にしても親にしてもその贈与は一方的なかたちをとります。

    これらの一方的な贈与のかたちをとる「愛」に似たものに、共同体による庇護があります。時代によってそれは共同体と言われたり国家と言われたりしましたが、私たちの安全を保障する集団の仕組みであることに違いはありません。

    この集団の力は、ときには生きるのに必要な財をもたらし、時には敵の攻撃から守ってくれました。このような大きな力から私たちは一方的な贈与を受けることになります。これが共同体が権力をもつ根拠です。

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    共同体がつくった「平等の物語」(正義1)

    人は平等には生まれてきません。共同体によって平等にされるのです。共同体に守られていることにおいて、そのメンバーは平等です。共同体はそのメンバーを平等に守ることを自らの使命にしています。人は共同体の庇護を受けることによって平等とされ、共同体の権力のもとに生きるようになります。平等とは共同体がつくった物語なのです。

    共同体がそのメンバーを平等に扱えなくなったとき、その共同体は大きな危機にさらされます。共同体のメンバーを平等に守ることが共同体の使命ですからそれは当然です。共同体はこの平等という正義の第一原則を維

    持するためにさらに第二、第三の正義を必要とするようになります。正義が正義を生むわけです。このことについて考えていきましょう。

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    「共同体の危機管理」という正義(正義2)

    世の中には平等の原則があからさまに侵されることがあります。「平等の原則に優る正義」が出現するときです。平等の原則に優越する正義とはどんな物語なのでしょう。

    大企業や大銀行が経営危機に陥り、政府が税金を投入して救済することがときどきあります。そんな時には「大企業だけがなぜ救済されるのだ」と決まって不満が出ます。

    しかし、最後には大企業は救済されることになります。倒産による失業、関連企業の連鎖倒産、さらにその影響のひろがりなどが予測され、そのような事態による損害とその対策コストを考えると、あらかじめ最悪の事態を避けた方が合理的だとする判断です。

    つまり、予測される「共同体の危機管理」を優先するか、「平等の原則」を固守するのか、このふたつが比較され、「共同体の危機管理」の方が優先されたのです。

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    望ましくない現実

    平等の原理を侵してまで実行された「共同体の危機管理」に失敗した場合、その責任はどうなるのでしょう。責任をとるとはどんなことなのでしょう。

    責任をとって企業の代表者や政治家が辞職することがあります。そんな謝罪の記者会見を見ながら、辞めることが責任をとることなのかな」と疑問に思うことがあります。かといってほかに責任をとる方法は思いつきません。人はどうやったら責任をとることができるのでしょう。

    責任をとるってどんなことなのでしょう。あることに失敗した。約束したことが守れなかった。期待に応えることができなかった。いろいろなケースが考えられますが、そこには望ましくないことが現実になってしまった状態があることだけは確かです。

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    どうやったら責任はとれるのか

    そのよう場合、その課題に対処できる立場にあった人はどうすればいいのでしょう。「現実を元にもどす」。これは普通できません。できたらそうしています。「損害賠償をする」。できるような額ならそうするでしょう。また、損害賠償が前提になってしまったら、危険を冒してまで人の期待に応えようとする人は出なくなるでしょう。誰も挑戦することをしない沈滞したムードが社会を支配してしまいます。

    辞めないでもう一度挑戦するチャンスがえられる場合もあるかもしれません。しかし、多くは職を辞す道が選択されます。辞めることで何が実現されるのか、考えてみる価値はありそうです。

    職を辞すことには自分の誤りを認める意味が含まれています。本人がそれを認めていなくても、それは社会的には共有されます。再び同じ道は歩まないことが確認されます。何かがここで終わります。終わるのは物語です。人びとによってその人物に「期待された物語」が終わるのです。

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    「期待された物語」という正義(正義3)

    さまざまな役職や社会的な立場には「この立場はこうあるべきだ」というイメージが付随しています。その立場に立った人にはそれは無言の強制力として働きます。

    父親は父親らしく、横綱は横綱らしく、先生は先生らしく。これらは長い間にその社会できづかれててきた物語と考えられます。これに背くには社会的な批判を覚悟しなければなりません。批判にさらされた人は職を辞してその役割から解放されます。そして新しい役者がふたたびその物語を演ずることになるのです。このとき責任がとられたことになります。

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    もう一つの正義

    たとえ話です。遊泳が禁じられている嵐の海で注意に耳をかさないサーファーがいました。そして、彼らは遭難します。土地の漁師たちは怒りながらも、無謀なサーファーたちを助けるために危険な海へとこぎ出していきます。どうしてそのようなサーファーを助けるのでしょう。ここにも、これまでとはちがった別の正義の問題が隠されているような気がします。

    危険をかえりみず嵐の海に出ていったサーファーはどんな気持ちで出かけたのでしょう。「大丈夫だよ」と甘く考えたのかもしれません。また、「俺の命は俺のもの。好きにして何が悪いんだ」と考えていたのでしょうか。なかには「たとえ遭難しても助けないでください」とわざわざ書き置きしていく者もいるかもしれません。

    実際にはそうしなくても、そんな考えで「関係ないよ」と言って海に出ていく者もいるでしょう。

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    三つのタイプ

    ○タイプ1「大丈夫だよ」:自信過剰か経験不足で誤った判断をしたサーファーはきっと後悔するでしょう。「しまった」と。そして、心の心底から「助けて」と叫ぶでしょう。助けてもらったら、心から感謝し、反省することでしょう。人命救助の典型的です。

    ○タイプ2「俺の命は俺のもの、好きにして何が悪いんだ」:このケーズも実際に遭難し死の恐怖を体験すれば、上のタイプと同じ状況に陥るのが普通だと思います。自分に素直でない分だけ扱いにくいことは確かですが。

    ○タイプ3「たとえ遭難しても助けないでください」:自分の意志で死のうとはしていないのですから、明らかに自殺とは異なります。しかし、救助隊はやはり彼を救助するため荒れ狂う海に出かけて行くでしょう。なぜでしょうか。

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    「弱者への配慮」という正義 (正義4)

    答えは簡単です。助けたいからです。理屈ではありません。漁師たちがそう望むからです。何もしないでいる自分たちや、その結果打ち上げられる遺体を眺める自分たちの姿を拒否しているからではないでしょうか。それが彼らの物語なのです。

    そこには人の弱さへの自覚があります。欲望や過信やおごりの心に簡単に負けてしまう人の弱さを自覚し、それがゆえの配慮がそこには感じられるのです。救助隊の

    人びと自身が己の心の中の弱さを知っているからだと思います。

    時には「おせっかい」になってしまうかもしれないこの「弱さへの配慮」という物語は実は私たちの社会のさまざまな場面で接する第四の正義です。

    緩い規制で薬物の乱用が社会に蔓延したり、感染症が全国に伝染したりする局面では、事態は共同体の危機管理上の問題に発展します。また、弱者が放置されることがあたりまえになってしまったら、平等の原理が崩れることにもなりかねません。「弱さへの配慮」は共同体が崩壊するような事態を事前に予防する意味でやはり正義と考えられます。

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    まとめ

    「平等の原理」・「共同体の危機管理」・「期待された物語」・「弱さへの配慮」。これらは人間社会が自然に培ってきた「正義」です。これらの物語が強制力をもつことがしばしばありました。しかし、その強制力は人為的につくられたものではありません。

    また、いずれかが優先的な強制力をもっているわけでもありません。強制力がはたらいたり、はたらかなかったりもします。正義とはそうしたものかもしれません。

    ところで、「正義」は上に挙げた四つだけなのでしょうか。答えは「NO」です。この四つはたまたま思いついたものに過ぎません。「正義」は無数にあり得ます。しかし、人びとを納得させられる「正義」は希です。

    なぜなら、「正義」は元々は物語に過ぎないからです。そして、困ったことに多くの物語が「正義」を自称して

    語られます。私たちは、その一つ一つを慎重に吟味しなければなりません。それをおこたれば、どのような悲劇につながってしまうかは、20世紀の歴史がくり返しそれを示してきました。

    「科学」についても同じです。どんな「科学」も仮説(=物語)として登場します。そして、様々な試練をへて「科学」の地位を獲得していくのですが、それは常に検証の対象であり、検証作業は、最後は無数の人びとの日々の暮らしのなかで行われていくのです。

    このように、無数の人びとの、日常生活をとおして検証され、とりあえずは問題なさそうだと受け入れられた物語が「真実」です。したがって、「真実」ほかでもなく、「生活世界」にそこ見出されるものなのです。

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